1人の夜
「どうしたのよ圭、ぼーっとして」
本部から帰宅した圭と希は、夕食と入浴を済ませた後、リビングでくつろいでいた。ターゲットへの接触はなんとか成功した。
希が、圭が調査した相川の行動時間をもとに先回りをし、居合わせることのできた相川にわざと肩をぶつけ、その際に散らばった荷物を謝罪と共に返した。もちろん、ダミーの『携帯電話』と一緒に。
目的である相川の携帯電話は、今、2人の手の中だ。
「急ぎであることに変わりはないけれど、第一段階クリアじゃない。何かほかに……心配なことでもあるの?」
圭は、この『制裁』の職歴が長いこともあり、多少神経質な部分がある。それはとても良いことであるとは思うのだが、スイッチのオンとオフの切り替えがあまりできないことは、希から見える圭の唯一の欠点だ。
この日の夜も、髪も乾かさずにリビングのソファに座ったまま、何かを考え込んでいた。
最近こういう光景をよく目にするな、と希は思った。気のせいだろうか。
「圭、この携帯電話を調べるのは明日にしようって、さっき話したわよね?」
「ああ」
「じゃあ今、何を考えてたの?」
圭はしばらく沈黙し、きつく眼を閉じた。何かを頭から振り払うように首を振り、立ち上がった。
「別になんでもない」
そう言って希の手を軽く振り払い、リビングを出て行った。
「…………あんたは、いつもそうよね」
大事なことや自分の胸のうちを、どうしていつまでも、誰にも話さない?
理由はかんたんなこと。
誰かに心をのぞかれてしまうことを、誰よりも懼れているからだ。
第2章 捨てきれなかった記憶
少し時間の空いた希は、その夜、行きつけのバーへ飲みに出かけた。もちろん1人でだ。
圭は酒も煙草も飲まない。
「いらっしゃいませ」
若いマスターが希を出迎える。聞きなれた、心地よいおだやかな甘いトーンの声と、静かな音楽が、希を安心させた。
「希さん」
「今日はヒマなの? ずいぶん空いてるじゃない」
言葉を選ばない希の問いにも、バーのマスターである蓮斗は、その穏やかな表情に少しの苦笑を交えただけだった。
「ええ、今日は希さんがいらっしゃると思って、貸し切りにしておいたんですよ」
こんな切り返しも、手慣れたものだ。希がこの店《Rent》に通うようになってから長い。マスターの蓮斗ともすっかり顔なじみだ。
「マンハッタンをおねがい」
「かしこまりました」
顔なじみであっても、何があったかなどという会話はタブーだ。蓮斗もそれをよく心得ており、余計な詮索はしてこない。それが希がこの店に通い続けている理由の一つでもあるのだから。
「どうぞ。お待たせいたしました」
透き通った褐色のカクテル。ひかえめな照明と相まって、きらきらと輝きを増すその液体は、とてもうつくしい。
甘辛い、少しとろりとした口あたりが、希は好きだ。
「最近はどうなの?」
「え?」
「女よ。あんたのことだから、どーせ不自由はしてないんでしょうけど」
蓮斗はそんな不躾な質問にも、笑みをくずさない。
「それは、希さんのご想像におまかせします」
「……あっそ。あたしはさっぱりよ、あんたと違ってね」
捨てばちな希のこたえに、蓮斗は一瞬だけ動きを止め、「それは失礼いたしました」とだけ口にすると、それ以上追及することはなかった。マンハッタンを飲み干すのを確認すると、静かにグラスを下げ、同じ色のカクテルをもう一度差し出した。
「同じものなんて頼んでないわよ」
希が不機嫌な言葉を気に留めず、蓮斗は笑顔を向けた。
「チェリーブロッサムです。アルコールは少し下げておきました。深酒は体に毒ですから」
「………………」
どうにもこの笑顔には弱い。毎回ごまかされているような気もする。
酒を客に提供する立場でありながら、蓮斗のそんな発言が希にはどうにも解せなかった。怪訝な表情を崩さないまま、希はチェリーブロッサムに口をつける。
「……甘。初めて飲んだわ」
「ブランデーがベースなんですが、それはほんの少しにして、チェリーの香りを楽しめるようにお作りいたしました。気に入っていただければ良いのですが」
……タチが悪い。
希は誰にも聞こえないよう、そう毒づいた。口にしたかどうかは憶えていない。この後も思い出すことはなかった。
希がこの店に訪れるのは、そんなやさしさから、つかずはなれずの距離に居続けることができることを自分で知っているから。
本当のやさしさや恋人はいらない。
ほんの少し、こうしてささやかな甘いひとときで充分なのだと、いつも自分に、そう言い聞かせている。
蓮斗の制服の下から、気のせいかと思うような小さなネックレスが反射したことにも、希は気がついていなかった。