非常事態
報告書を本部にメールで送ったあと、圭は睡眠をとっていた。時刻は午前9時をまわったところ。
いつものことなのだが、『制裁』の間はろくに食事や精神がとれないため、こうして休養することは、次の『制裁』に支障をきたさないためだ。
と、以前鬼のように『制裁』を入れていた本部にクレームを入れたところ、すんなりと言うことを聞いてくれたので、それはいいとする。だがこのクレームを入れたのが自分ではなく希だったら、こうもいかなかったと圭は思う。
希は感情的にものを言うことが多いから、組合もその点は冷静に対処する他ないのだ。
そのために自分がいる。本部に極力迷惑をきたさないため、まずは自分が牽制せねばならない。なんせ彼女は、組合きっての「問題児」なのだから。
だがそれは口には出さない。口に出したところでまた反論され、いつもの口論になるのは目に見えている。今の疲れた体には、それを考えるのもつらい。
はあ、とため息を吐き出し、本格的な眠りにつこうとしたところで、耳元の仕事専用の携帯が鳴った。
ピリリリリ…
「──はい、橘」
反射的に手に取った。幹部の人間の声が携帯電話の向こうから聞こえた。
『緊急を要する案件が入った。今から資料をメールにて添付する。至急確認を願いたい』
「別の誰かに殺されていたですって?」
「ああ。絶対にそんなことありえないはずなんだが」
プリントアウトした報告書を希に手渡しながら、圭が厳しい表情でコーヒーに口をつけている。
その眼光は鋭利な刃物そのものだ。
「間違いないの?」
「ちゃんとその場で確認したと。他人がいないか、ちゃんと標的が死んでいるか」
「そう……。それで異常なし、と」
「そうだ」
圭は険しい表情のまま、再び眉をしかめて考え込んだ。
今回の『制裁』の担当は、河上麗華。彼女は制裁執行組合の中で、圭の次にコンピュータの知識と腕に長けているスペシャリストだ。理由があって前線からは離れていたが、今回から久々の前線復帰となる。『制裁』上で最も重要な建物の構造とネットワークを操る立場を任されている。制裁執行本部管理室長・兼・制裁執行人。別名《白蛇─シロヘビ》。
この『制裁』は比較的期間が短いもので、時間も大してかからないものだと聞いていただけに、圭のこの表情をするのも当然だ。
「私もこの仕事は長いことやっているが、こんなケースは初めてだな」
「よねぇ…」
二人でそろって首をかしげる他ない。
今回の『制裁』の内容としては、ターゲットが組織外でも恨みが多い人間だったため、それ絡みの人間に殺されたように見せて行うことになっていた。実際そのようにターゲットのスケジュールを本人がわからないようにコンピュータ上で操作し、他の人間と会うはずである直前の時刻かつ、確実に一人になるように仕向けたところを狙い、その一分後に「犯人」となるはずの人間と接触する手はずになっていたはずなのだが。
「どう考えてもおかしいわよ。だってターゲットと、犯人に仕向けるはずの男のスケジュールを操作していたのは麗華よ? 外部の誰かに漏れるなんてことなんてありえないわ」
「確かにな。そのはずだ」
組織のネットワークは極秘裏に管理されており、外部と接触することはまず考えられない。
「河上と連絡は取れるか」
「とれるわ。だけど麗華なら、今日は徹夜明けで一回帰ってるはずよ。だからすぐには無理よ」
「………」
圭はひたいを細い指で押さえた。どうしたものか、とため息がもれる。
「ねえ圭、あたしたちもとにかく頭を整理しなくちゃ。一度本部へ行って詳しい話を聞いたほうがいいわ」
「……そうだな」
今回の事態が事態だけに、圭は早急になんとかして手を打ちたかったが、河上も同じ『制裁』をしている立場だ。圭にもそのハードさは無視できない。しかも徹夜明けともなれば尚さらだ。
「あら、おはよう。海斗」
「おはようございます。あれ、どうしたんですか? 二人そろって」
同居人の工藤海斗が、リビングに顔を見せた。
彼は訳あってこのマンションに一緒に暮らしている。普段、私用での外出は基本禁止となっている。少し色素のうすい髪に、頬にはうっすら、見えるか見えないかの傷跡があった。
「また違う仕事よ。今から出かけなくちゃいけないの」
希が辟易した口調で言った。この前の仕事だってろくに携わっていなかったくせに、と圭は言いたくなったが、今この場で口には出さなかった。
口論をしている場合ではないのだ。
「………何かあったんですか?」
「悪いが時間がないんだ。昼過ぎには帰る予定だから」
圭はそう言って立ち上がり、鍵を手に取ってリビングを出た。
「……希さん」
「海斗、ごめんね。帰って落ち着いたらちゃんと話すから」
ごめんね、と希はもう一度そう言い、圭の後に続いてリビングを出た。
二人の切迫した後ろすがたを見送ると、海斗は一度伸びをして、飲み残されたコーヒーカップに目を落とした。
飲み干す時間もないほど、事態は緊急を要しているようだ。
きっと昼に帰ってくる頃には、また疲れた顔をしているに違いない。
今日のメニューは何がいいだろう。また大変な『制裁』が舞いこんでいるようだし、ちょっと奮発もしなければなるまい。
それに何より、希から「デザートがない」とクレームを受けるに違いない。
「なーに作ろっかなぁ」
とりあえず海斗は、自分のコーヒーを淹れることにした。
窓の外で、2つのバイクが颯爽と走り去る音が聞こえた。