残念領主と町娘の話
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「こんばんは、ベラ。今日も美しいね」
「いらっしゃいませ、領主様」
「私もいつも以上に美しいだろう?君に会う時はケアを欠かせないからね」
「ええ、今日もお美しいです。お好きな席へどうぞ」
変人と名高い領主様は、その噂に違わず変人だった。
どうやら彼は自分の容姿に余程自信があるらしく、口を開けばすぐに自身を称賛する言葉を紡ぐ。
その容姿は確かに優れている。
しなやかで、しかし男性らしい筋肉のついている長身の体。
眼尻の下がった優し気なアメシストの瞳は、細められると思わず目を奪われてしまうほどの色気が漂う。
プラチナブロンドの髪はよく手入れされており、シルクのようになめらかだ。
つまり本当に整っているため、周りの人間はこれを冗談として笑い飛ばすことすらできないのだ。
自身を讃える言動さえなければ、と嘆く女性が後を絶たないのだという。
そんな領主様がある日から突然、私が働く大衆的な酒場に訪れるようになった。
そのきっかけは数か月前。
街で店の買い出しをしていた時、いきなり領主様に腕をつかまれたのだ。
「えっあの」
「…美しい」
「は?」
「こんな、私より美しい人は初めてだ…。君は…君の名前を伺っても?」
「…は?」
「ああ、唐突にすまない。こんな気持ちは初めてで…」
あの時の領主様は何かに焦っていて、正常な判断ができていなかったんだろう。
私の手を握りしめ、ありえない言葉を吐いたのだ。
「私はニール・ユークリッドと申します。美しい方、どうか私と結婚していただけませんか」
「え、ごめんなさい無理です」
たとえ整っている容姿とはいえ初対面の人から求婚されれば、思わず断ってしまうのは仕方のないことだと思う。
当時の領主様は悲愴な面持ちでその場を去ったが、いつの間にか家を突き止められこの酒場へと通うようになった。
領主様はとても気さくな人だ。
こんな店に通っても良いのかと一度訪ねてみたが、領主なんて名前ばかりのものなのだと笑っていた。
確かにこの街は他の街よりも自治体制がしっかりしているので、領主様自身が自治にかかわることはほとんどない。
しかしその体制を作り上げたのも現在の領主様とその父親である先代なのだと聞いている。
この街に住む人は、皆口を揃えて、彼を優秀だと褒め慕っている。
そしてその後には必ず「あの言動がなければ」とおまけがつくのだが。
酒場を営む父と母は恐縮しながら、それでもお金を沢山落としてくれる上客に喜んでいるようだった。
お客さんとして来ているし二人が喜ぶのであれば私に拒否する理由はない。
「いつものを頼むよ」
「はい、わかりました」
カウンター席に座るか座らないかの時点で領主様はそう注文をする。
領主様が来るときはいつも同じ注文なので、すぐに準備に取り掛かる。
まずはワインを用意。
これは父の知り合いの酒造から仕入れたものだ。
決して高い酒ではないが、この酒造は良い酒を作るのだと固定のファンがいる程には人気がある。
次にポトフだ。
彼はメニューの中でも唯一私が作るポトフを気に入ってくれているらしい。
それが私への感情のせいなのか、味によるものなのかはわからないが、手料理を気に入られて嫌な気持ちになる人なんていないだろう。
足取り軽く鍋へと向かい、昨晩のうちに仕込んでいたポトフを器に盛る。
それをワインと合わせて領主様へと出した。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
お礼もそこそこにいそいそとグラスに口をつけて、ポトフを口に入れる。
「うん、美味しい」
そう言って嬉しそうに笑った。
当然自信があるからお客さんに出しているのだが、改めて感想を口に出されると照れくさい。
「ありがとうございます」
ただ、もちろんそれが嬉しいことには違いなかった。
「君のポトフを毎日食べたい」
「では毎日のご来店をお待ちしてます」
…流れるような求婚はやめてほしいけれど。
それから何人かお客さんが訪れ、対応した。
うちをお気に入りにしている常連さんたちのお陰で、本日の売り上げ目標は問題なく達成できそうである。
そこでふと領主様のことを思い出す。
つい放っておいてしまった。
別に相手をする義務はないが、自分に会いに来てくれていると思うとなんとなく申し訳ない。
そちらへ目を向けると、領主様はただ窓の外をじっと見つめていた。
何かあるのだろうかと近づいてみる。
「ああ…私は今日も美しい」
彼はうっとりと呟いた。
…窓の外に何かがあるのではなく、窓に反射している自分を見ているようだった。
残念な人だなあ。
これさえなければきっと引く手数多だったに違いない。
「おかわりはいかがですか?」
見ればグラスも器も空だったので声をかける。
すると領主様はハッとしたように振り返って、蕩けるような笑顔を浮かべた。
「お願いしようかな」
その顔は思わず見惚れてしまう程に本当に美しい。
その整った顔立ちをじっと見ていると、もしかして実は変人の演技でもしているんじゃないか?という錯覚にすら陥る。
「見てくれ、この窓に反射して夜に浮かぶ私はまるで絵画のようだと思わないかい?」
「…そうですね、素敵ですね」
「私と結婚してくれれば、この幻想的な姿を毎夜見せてあげられるよ」
「遠慮させていただきます」
良かった。いつも通り残念だった。
「やあ、ベラ。今日も可憐だね」
「いらっしゃいませ、領主様」
「今日も私は…」
そう言いかけ、入り口で立ち止まった領主様を押し退けるように後続の3名が入ってくる。
「早く入れよユークリッド邪魔」
「こんばんはベラちゃん」
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃいませ皆様。お好きな席へどうぞ」
今日は4名でご来店のようだ。
「とりあえずヴルストとビール人数分」
「はい」
領主様は名残惜しそうな視線を私に向けながら、3人に引っ張られていった。
余裕のある席を選んでいたから、もしかして後から一人来るのかもしれない。
念のためヴルストは多目に茹でておいて、と父へ伝える。
そして私は彼らの机に水を運んだ。
「なあユークリッド、さっきの店の袋見せろよ…あー、やっぱり」
「どうしたんだ?」
「いや、店番が若い娘さんだったからさ…もしかしてと思ったけど俺らのより明らかに多く入ってる」
「あー…」
「チッ、またかよ」
「舌打ちは行儀悪いよ」
領主様がこの酒場に連れてくるお友達は、思ったより普通の人で構成されている。
出で立ちからして平民よりは稼いでいるのだろうが、言動や振る舞いはお高くとまっていない。
領主様の特殊な言動を受け入れ、それでも友人として笑いあっている。
そんな気のおけない友人がいるだなんてとても羨ましいと思う。
「いやあ、領主様はモテますなあ」
「こんな奴のどこがいいんだか」
「はは、顔に決まっているだろう?私は美しいのだから。君達と差があるのは当然の権利とも言うべきかな」
「この野郎…」
「皆顔に騙されてるよなぁ。性格はこんなんなのに」
本当に残念だと思う。
「ベラちゃん、おかわり2杯ちょうだい~」
「はい、ただいま」
「こっちもおかわり!」
「はい」
日もとっぷりと暮れ、酒場は盛況だ。
明日は街を挙げての大きな祭りがあり、その前夜祭という理由付けでいつもよりもかなり混んでいる。
席に座れず立っている人までいる程だ。
そんな状態を親子3人で回しているため、目が回るほど忙しい。
「お待たせしました」
「おっありがとよ」
「はい、こちらもお待たせしました」
「待ってましたー!」
それでも、運んだ料理と飲み物を楽しむお客さんを見ると嬉しくなる。
父の美味しい料理は私の自慢でもあり、誇りなのだ。
「ベラ、こりゃ無理だわ。隙見てアルノーに手伝い頼んできて」
「わかった」
アルノーは3件隣の果物屋の息子だ。
家族ぐるみでの交流があり、所謂幼馴染みだ。
果物屋も明日の準備があるようだが、人手が足りないようなら手伝うと申し出てくれていた。
あらかた注文を取り終わり、父が料理を作っている間に行ってしまおうと母に声をかけた。
「今ちょっといってくるね」
「お願い」
エプロンを外して店を出る。
するとすぐに腕を捕まれた。
「私も行こう」
領主様だった。
柔らかく笑うその顔は酔っているのか赤い。
漂う色気を感じて、本当に顔はきれいだなあとまじまじと見つめてしまう。
「こんな時間だ。近くても君のような美しい女性が一人で出歩くなんて危ないだろう?」
そう言って私の手をそっと取った。
お酒のせいか、寒さのせいか、その手は少し震えている。
「ありがとうございます」
その心遣いは嬉しかったし、問答している時間が惜しいので申し出を受け入れた。
とられた手をギュッと握りしめる。
失礼かもしれないが、エスコートだなんて悠長にしている暇などないのだ。
そうして歩き出そうとするが領主様は動かない。
振り返って軽く睨み付ける。
「領主様、私急いでるんです」
「あ…ああ」
領主様はなぜか呆然としている。
一瞬置いていってしまおうかとも考えたが、声をかければ返事が返ってきたので思いとどまる。
ぐいと一度強く引っ張れば、ようやく動いてくれて歩き出せた。
領主様は私をしきりに美しいと言うが、私の顔立ちはそこまで目を引くものではない。
茶色い髪に緑の目。どこにでもいるいたって普通の女だ。
酒場の娘にしては愛想が悪いとも言われたことすらある。
母は何歳になっても若く可愛らしいが、それを受け継いでいる筈の私は残念ながら彼が絶賛する程の造作ではない。
幼馴染みであるアルノーに実際聞いてみれば、
『不細工ではないが絶世の美少女というわけでもない。中の上くらいにはなるんじゃないか』
との言葉を頂いた。
なのでたまたま領主様の好みに合致しただけなのだろう。
…それを衆目に晒されている中、大袈裟に褒め称えられると恥ずかしいことこの上ないのだが。
領主様の見た目が異常に整っているから余計に。
チラリと見た領主様の顔は先程より赤い。
その視線は握っている手に注がれていた。
…まさか、手を繋いだだけで照れているのだろうか。
可愛らしいところもあるんだな、と気づかれないように少し笑った。
普段ならとっくに閉まっている筈の果物屋はまだ開いていた。
そんな中人手を減らすようなマネをして申し訳ないと思いつつ声をかける。
「ネイトさん、すみません。アルノーお借りできますか」
「ああ、お疲れベラ」
店主は私に気付くと笑顔で労ってくれる。
後ろにいる領主様を少し訝しげに見たが、すぐに納得したような顔をされた。
一体何を納得されてしまったのか。
領主様はにこやかに会釈をした。
「アルノー!ベラが来てるぞ!行ってこい!」
ネイトさんが店の奥へと声をはる。
すかさず、おー、という声が返って来た。
「こっちも忙しいのに、すみません」
「いい、いい。お互い様だよ」
ネイトさんと話している間にアルノーが出てくる。
奥で在庫のチェックでもしていたのだろう。
「お待たせベラ。急ごうか」
「うん。すみませんネイトさん、アルノーお借りしますね」
「おう、明日はお互い頑張ろうな」
「はい」
そうしてアルノーを連れて店を出る。
彼も店だけではなく自分自身の準備があっただろうに、と非常に申し訳ない。
「ごめんね」
「構わんよ」
頼りになる幼馴染はなんともないという風に笑った。
そして私の横に立つ領主様へと視線を移す。
「そちらの方は?」
「領主様だよ」
「こんばんは。ニール・ユークリッドだ」
「えっ!?領主様!?ええと、あ、アルノー、です…ファミリーネームはありません…」
恐縮しながら領主様へと挨拶したアルノーは、どういうことだよ、という目で私を見た。
当然の反応だ。
「うちの常連様なんだよ」
そう言って説明は終わりだと歩き出す。
まさか求婚されてるだなんて自分からはとても言えない。
そんなのまるで良い女気取りじゃないか。
「君はベラと同じ年なのかな」
「は、はい、そうです」
「そうなんだ。二人とも若いのにしっかりしているように見えるね。やはりご実家がお店をしているからかな」
「そ、そうですかね…ははは」
領主様は気さくに話しかけているが、アルノーは非常に気まずそうだ。
時折こちらへ助けを求めるような視線を感じるが、気づかないふりをした。
すぐそこまでの道のりだが、彼にとってはきっととても長く感じているに違いない。
「こういった手伝いはよくあるのかい?」
「は、はあ…まあ…あの酒場とうちは昔からの付き合いですからね」
「幼馴染みなんだね」
「え、ええ…兄弟みたいなものです」
「羨ましいな」
何がだ。
一般人に比べたら領主様の方がよっぽど羨ましい。
思わずじとりとした目を向けてしまう。
それに対して領主様は困ったように笑った。
「もちろん、今の私は恵まれていると思うよ。ただ、ベラの幼馴染みという立場はとても羨ましい」
恥ずかしいことを言わないでほしい。
「あっ…なるほど…?なるほど!?マジか…!」
アルノーは勝手に納得しないでほしい。
それから、アルノーのお陰でピークをなんとか乗り切ることができた。
皆明日を控えているということもあり、存外あっさりと退散していった。
…酔い潰れた領主様を残して。
「領主様、起きてください。もう閉店の時間です」
「……」
揺すっても起きる様子がない。
酔っぱらいを見捨てていくなんてなんて素敵なご友人だろう。
「ベラ、俺戻るな」
領主様の対処に悩んでいると、アルノーに声をかけられた。
「あ、うん。今日はありがとう」
「いや、こっちも色々と貰っちゃったし」
そう言ったアルノーの荷物は、料理と酒が詰め込まれた袋の山だった。
父と母があれもこれもと持たせたせいで、随分と大量になっている。
おかげでほとんど身一つで来た筈の彼の帰り支度は全てこれに費やされた。
「重そう。大丈夫?」
「まあ、すぐそこだから。筋肉痛にはなるかもしれないけど」
はは、と笑った彼は急に真面目な顔になる。
「なあ、ベラ。お前…」
「うん?」
声を潜めるものだから思わず近づいた。
内緒話をするように、体を寄せあう。
「領主様に口説かれてんのか」
「あー…ええと…そうだね…」
先程飲み込んだであろう言葉をここで投げられるとは思わなかった。
思わず言葉を濁す。
「噂よりはいい人そうだけど…無理強いされてないよな?」
眉を寄せて私を見つめる幼馴染みに、心配してくれているんだなと心が暖かくなる。
自然と頬が緩んだ。
「大丈夫。少し変だけど、いい人だよ。無理強いもされてない」
「そうか…ならいいんだ。悪い。余計なお世話だったな」
「ううん。心配してくれてありがとう」
アルノーはホッとしたように笑った。
彼はいつも私を心配してくれるが、自分のことももう少し大事にしてほしい。
明日、意中の彼女と初デートで祭りを回るのだと聞いている。
本当なら準備だってあっただろうに。
「…私も明日のデート、心配してるからね」
「っ!う…が、がんばります」
途端に頬を染めて口ごもる彼に、思わず吹き出してしまう。
それに更に真っ赤になったアルノーは、大量の荷物を抱えて逃げるように去っていった。
「領主様、失礼しますね」
「…ん…」
彼の腕を肩にまわし、無理やり立たせる。
ほぼ意識はないようなのでほとんど引きずる形になってしまうが。
一応、この酒場には酔い潰れた客を寝かせておくための部屋がある。
領主様をもてなすには随分と質素だが、ここに寝かせておくわけにもいかない。
そうして担いだ彼は予想以上に重く、父に頼めば良かったと直ぐに後悔した。
目的地に着いた途端に力尽き、領主様ごとマットレスの上に倒れこむ。
「うっ」
首もとから苦しげな声が漏れた。申し訳ない。
毛布を用意しなければ、と領主様の腕から抜け出そうとすると、明らかに意識的に腕へ力が入った。
そちらへ向けばアメシストの瞳とバチリと目があう。
驚いて、思わず肩を揺らしてしまった。
「…すみません、起こしてしまいましたか」
先程倒れ込んだせいだろう。
そりゃ起きるか、と一人納得した。
「…ベラ」
掠れた声が名前を呼ぶ。
髪が乱れ、顔を赤く上気させた領主様は殺人的な色気が漂っている。
悩まし気な表情は庇護欲を掻き立てた。
なんて顔をするんだこの人は。
「どうしましたか?」
「…ごめんね」
「このくらい構いませんよ」
「そうじゃない…そうじゃ、ないんだ」
「ええ?」
領主様の言いたいことがわからない。
怪訝な顔で見つめ返した。
すると領主様は悩まし気を通り越して泣きそうな顔になってしまった。
「君が、嫌がってくれないから。優しいから…甘えてしまっている。こんなに、付きまとって…噂にもなって」
「え」
唐突な懺悔より、自分が噂になっているという初耳の情報に動揺した。
しかし考えてみれば当たり前なのだ。
たとえ領主様が変人だったとしても、大衆酒場に入り浸り、親し気に年頃の娘に話しかけていれば噂にもなる。
逆にどうして今まで考え付かなかったのだろうか。
「夢を…見たんだ。君が、私を置いて、誰かとどこかに行ってしまう夢だった。君は、嬉しそうに、デートだと…笑うんだ」
「それは…」
それは確かに先程アルノーに対して口にした単語だ。
私自身には縁遠いものなのだけれど。
もしかして夢うつつの中でも聞こえていたのだろうか。
「君が誰かを好きだなんて、考えたこともなかった…。いや、それでもきっと離れられなかったかな」
領主様の目からとうとう涙が零れる。
どきりと胸が高鳴った。
彼はいつも自分を美しいと言う。
それによって自信に満ち溢れていて、優雅に微笑むのだ。
だから彼のこんな姿は見たことがなかった。
なにか見てはいけないようなものを見たような、そんな気分になる。
しかも、私が原因なのだ。
「君が好きだ。会うたびに好きになる。ごめんね、もう、君が誰を好きだとしても、諦めてあげられないんだ」
ぐっと領主様の顔が近づいた。
その顔の近さに息を飲んだ瞬間、唇を塞がれる。
「…んっ!?」
混乱して体を引こうとしたが、頭を押さえられてびくともしなかった。
息が苦しい。
と同時に胸も苦しかった。
短い、触れるだけのキス。
それなのに何倍も長く感じた。
名残惜しそうにそっと離れる。
頭を押さえていた手を放してそのまま優しく髪を撫でた。
「ベラ…」
熱い息が顔にかかる。
いつの間にか閉じていた目を開ければ、目の前には…顔面を蒼白にした領主様がいた。
「気持ち、悪い…」
「ちょ、ちょっと待ってください!桶…!」
慌てて部屋の端に用意していた桶を持ってくる。
それを領主様へと渡し、水と布を用意する為に部屋を出て、そこでようやくふう、と一人で息をつく。
…ああ、領主様は本当に、本当に残念だ。
「お水です」
「ありがとう…」
粗方吐き終わった後に口を濯がせ、汚物の処理をさっと済ませた。
飲み水を持って戻れば、吐いて少しは気分が楽になったのだろう領主様は先程よりは幾分マシな顔色で差し出した水を受け取った。
覗き込むと気まずそうに目を反らされる。
「その、ごめんね…」
「いえ、慣れてますので」
「そうじゃなくて…そうだけど…なんかもう全部…」
ごにょごにょと呟いて項垂れる領主様。
酔いが完全に覚めたのだろう。自分の行動を思い出して落ち込んでいるように見えた。
「…ふふ」
思わず笑ってしまう。
あの領主様が、いつもお綺麗な領主様が、今日は色々な顔を見せてくれる。
それがとても楽しいと思った。
「…」
「あ、すみません。失礼でしたね」
言葉を失っている彼へ咄嗟に謝る。
いくら彼が優しい人だとはいえ失態を笑われたらいい気はしないだろう。
しかし私のその言葉に、領主様は思い切り手と首を横に振った。
「いや、いや!その、君の笑った顔は…初めて見たから」
「そうでしたか?」
確かに愛想が悪いと言われているが、そんなに笑っていないつもりもないのだけど。
領主様はぽつりと呟く。
「君は、私を許してくれるのかい?」
「え?何をですか?」
その言葉の意味が全く分からず聞き返した。
今失礼なことをしたのは私のはずなのにと首を傾げる。
「……君の同意も得ずに、無理やり口づけた」
「……ああ!」
そのことかと合点がいく。
思わぬハプニングで飛んでいたが、酔った勢いでキスをされたのだった。
「その…君にキスをしたいという気持ちに嘘はないんだが…好きでもない男になんて、嫌だっただろう。すまなかった」
そう言って領主様は深々と頭を下げた。
その姿に思わず顔をしかめる。
「ええと、先ほども思ったのですが、領主様は何か色々と勘違いをされているようです」
肩に手を当てて顔を上げるように促せば、領主様は恐る恐るといった様子で顔を上げた。
その瞳は潤み、また泣き出しそうになっている。
もしかして意外と泣き虫なのだろうか。
それは可愛いかもしれないと自分でも口角が上がるのが分かった。
「私、領主様のこと好きですよ?」
「……え?」
アメシストの目が見開かれる。
きょとんとした表情は幼く見えるんだな、なんて思えばこの年上の男性がますます可愛く見えてきた。
「それは、その、どういう意味で…?」
「領主様にならキスされても良いと言う意味ですかね」
「…えっ?えっ!?」
領主様の白かった顔が朱に染まる。
先程の泥酔状態よりも赤いのではないだろうか。
「し、しかし…そんな素振りは…いや、確かに親しくなれているとは思っていたけれど…」
もごもごと口の中で何事かを呟いている。
面白いので暫くその様子を眺めていると、何故か段々と眉が下がり、やがて悲痛そうな表情を浮かべた。
「それならば何故、今まで言ってくれなかったんだい?私の気持ちは知っていただろう?」
「いいえ」
きっぱりと言い放つ。
領主様はまた驚いた顔で私を見上げた。
「求婚と、美しいとか、可憐だとか、そう言った言葉は聞きました。けれど領主様、私は先程まで貴方のお気持ちを聞いたことがありませんでした」
初対面での求婚からずっと、私が聞きたい言葉だけは、一度だって口にしてはくれなかった。
「私は貴族のように言葉の裏を読むようなことはできません。言いたいことは言って下さらなければわかりません」
両手でそっと領主様の呆けた顔を包み込む。
一回り近く年上の男性がされるがままというのは少し楽しい。
「だから、先ほどの言葉はとても嬉しかったです。ニール・ユークリッド様、どうか私と結婚してくださいませんか?」
そのまま顔を近づけ、領主様に口づけた。
自分からするその行為は思ったよりも恥ずかしく、数秒ですぐに離れた。
「…これでおあいこですね」
そう照れ隠しに笑えば背中に腕を回され力強く引き寄せられ、今度は深く唇を奪われた。
「っふ…!」
領主様の息が、舌が熱い。
熱い。熱い。
空気すら入らないように合わされたそれに酸素が足りず、頭がどんどんぼんやりとしてくる。
苦しいのに、領主様の気持ちが伝わってくるようで嬉しい。
解放された途端きつく抱きしめられる。
「…愛している。愛している、ベラ。どうか私と一緒になってほしい」
領主様の涙で私の肩が濡れていく。
鼻をすすりながらそう言ったが、きっとご自慢の綺麗な顔はきっとぐちゃぐちゃなんだろう。
なんて残念な領主様。
「はい、喜んで」
ああ、そんな領主様が愛しくて仕方がない。
「私と君の子どもなら天使が生まれるに違いない」
三次元にいると許されないやつ。