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清かなる月夜に。

作者: 都月 敬

「こんばんは。いい月だね」


 その男は、いつの間にか目の前にいた。



 唐突な男は、まるで夜の散歩を楽しんでいるかのような口調で、


「飛び降り自殺には、月影の清かな夜と、星も見えない闇夜と、どちらが合うと思う?」


 と、唐突に聞いてきた。



「────あんた、それ。とんでもなく場違いな質問だと思わない?」


 言葉を返すことすらバカバカしく、追っ払うような口調で訊き返す。



 くるりと視線を回した男は、初めてこの状況を把握したような顔で。


「なるほど。そういう考え方もあるね」


 ────把握してなかった。




 ここは八階建ての雑居ビルの屋上。


 四階には何度か入った中古の楽器屋があって、その時にビルの管理がずさんなのには気づいていた。たぶん階段を使えば、屋上にも上がれるんじゃないかって。


 上がってみた屋上は、明らかに人が上がってくることを想定していない造りで、フェンスすらありはしない。夜の風が吹きっさらしで、へりに立って下を覗くと、さすがに少し寒いと感じた。




「こんな時間、こんな場所、こんな季節に一人で立っている。ということは、飛び降り自殺だろう?」


 決めつけられた。季節とか関係あるのか。


「どうだい? もしも悩みなどあるのならば、私が聞いてあげるけれど」


 ウザい。


「悩みなんかない」


 突き放すように答える。

 ウザいけれど、別に嘘を吐いたわけではなく。私には、本当に悩みなんてない。


「そうかい? 君だって、十年以上も生きているんだ、何かしらあるだろう?」


 それはまるで、悩みを持たない人間をバカにしたような言い方で、心底吐き気がした。



「ほら、例えば、人間関係。両親がウザいとか」


 ウザいのはお前だ。


 うちの母親は、少し過保護だとは思うけど、それほど干渉はしてこないし、部屋にも勝手に入ったりしない。みんな持ってる、と言えば、だいたいのものは買ってもらえるし、勉強しろ、とかうるさく言ってくることもない。父親に至っては放任だ。しばらく会話をした記憶もない。



「じゃなきゃ、兄弟? 君は、一人っ子?」


 弟がいたが、口に出しては答えなかった。


 幼い頃はうるさかった弟も、サッカーを始めてからはのめり込んで、最近ではほとんど会話もない。



「なら、友だちか。ひょっとして、いじめられてる、とか」


 答えてもいないのに、男の質問は続いていた。本当にウザい。


 いじめたことはあっても、いじめられたことはない。それにしたって、誰もがやっている程度だ。終わった後はちゃんと謝ったし、今でも同じクラスで普通に学校生活を過ごしている。問題になってもいない。



「そっか、お年頃だもんねぇ。恋愛関係か。好きな人にフラれたとか、恋人と別れたとか」


 フラれたことなんてない。告白したこともないけど。そもそもしたいと思った相手がいない。


 確かに彼氏とは別れたけど、それも向こうから言ってきたくせに浮気してたからで、ぶん殴って別れてやった。それだってもう半年も前の話だ。当然、未練なんてこれっぽっちもない。



「それとも、勉強のことか。テストの成績が下がってる、とか、このままじゃ志望校に受からない、とか」


 もちろん勉強は好きではないけど、駄々をこねるほど嫌いでもない。成績だって普通だ。

 塾は行ってないけど、友だちのやってる通信を真似してやっている。最近はサボりがちだけど。


 大学なんて行けさえすればどこでもいい。難しい大学に行きたいと思うほどガリ勉じゃないし、推薦を狙うほど要領も良くない。やりたい学問も、なりたい仕事も特にない。



「夢、とか、趣味、とか?」


 夢なんてない。趣味だって、特にはない。楽器は好きだけど、弾けるようになるまで練習したことはないし、そもそも買うお金がない。だからと言って、バイトをしてまで欲しいとも思わない。




「ふ〜ん。当たらないねぇ」


 いつの間にか、私はこの男のクイズの問題になっていたようだ。


「っていうことは、本当にないのかな?」


 だから、そう言ってる。


「じゃあ、どうして、こんなところへ来たんだろうね?」


 ────どうして?


「家族関係に不満はない。友人関係にも問題はない。恋愛関係にだって未練はないし、勉強関係にも志望はなく、夢や趣味にも強い関心はない」


 待て。どうして、私の心の中の答えを知っている?


 私は男を睨みつけた。

 黒いコート、黒いシャツ、黒いパンツに、靴まで黒い。黒髪の下、覗く肌だけが抜けるように白くて。


「それなのに、どうして、君は、飛び降り自殺なんてするのだろうか────?」


 ────なんで、この男は、私の目の前に、立っている?




 男の両腕が、ふわりと舞って、下へと向いた。


 つられて見下ろすと、ビルの八階分プラス私の身長分の高さが目の中に。


 そうだ。何の悩みもない私がこんなところから飛ぶはずなんてない。今日だって、ちょっとした興味本位で覗いてみただけ。でも私は、何もなく、空っぽで。見上げた空には。



 ────ああ、こんなにも、月が円い。




 少女の身体が、ふらり、と落ちた。


 それより速い不可視の翼が、その少女に追いついて。


 ────ぐしゃり、と。



「ああ、やっぱり飛び降り自殺に清かな月夜は合わないね。どうにも、酸鼻に過ぎる」


 男はそれまでと全く変わらない口調で呟くと、静かに高度を降ろしていく。



「どうだい、自らの死に様を間近に見た感想は?」


 ────もちろん、最悪だ。


 それでも視線は直下に固定されたまま。そこにはさっきまで私だった肉塊が広がっていて。


「ご主人。こいつ、使えるんすか?」


 左足首を掴んだ小さな女には、ずいぶんと失礼な口を聞かれた。


「この無駄飯喰らいよりは期待しているよ」


 男は通りすがりに小さな女を指で弾いて、また私と目線が揃う位置まで降りてきた。



「私はね、何もない魂が欲しかったんだ」


 ────何も、ない。


「怨みや愛情を抱えた人間は、死後に面倒だ。その点、君には何もない」


 そうだ。私は何もない。この男に指折り数えられなくたって、私が一番よく知っている。


「もちろん、何もないんだから、成仏することも簡単だ。しかしね」


 男は、歓迎するように両手を広げて。


「たまには、誰かに求められるのもいいのではないかな?」


 ウザかった。一つ一つの動作やら、言い回しやら、存在感すら、何もかもが、心の底からウザかった。


 それでも。

 私は、逆さに吊り下げられたまま、男の方へと腕を伸ばす。



「死後の世界へ、ようこそ────」





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