第5話
何か匂う。刺激臭には違いないが、思わず胸いっぱい吸い込みたくなるような甘い香りだ。目を開けると、女が前に立っている。その背後は暗闇で、彼女が纏った地面まである白い衣装のせいで幽霊のように見えた。顔は白い布に覆われて見えない。
「久しぶりね」
ぞっとするほど冷たい声で女が言った。その言葉は、俺の脳の隅々まで響き、心拍数が跳ね上がった。
女は音もなく、そして異様なほど早く俺に近づき、節くれだった指を俺の胸に突きつけて言った。
「思い出しなさい」
何を思い出すのか。俺は尋ねようとしたが、声が出ない。それどころか、今立っている地面が、底なし沼のように俺の足を吸い込んでいく。女の方に行こうとするが、もがけばもがくほど地面は俺を早く引きずり込む。女がまた言った。
「思い出しなさい。自分は何者なのか」
女が苛立ち、黒色の短髪をかきあげると、染められていない白髪がちらりと見えた。
喉元まで地面に埋まり、腐敗臭が一気に鼻を襲う。沈む間際、女が最後に言った。
「本能に従いなさい」
突然匂いが、オイルと古びた布のものに変わった。そしてさっきまでは聞こえなかったエンジン音が車の座席を通して、骨まで響いてくる。目を開けるとそこは車の中だった。砂と手垢で汚れた窓、足元に転がされた空き缶、座席は生地がほつれて中の綿が飛び出している。
街道で拘束された俺は今、さっきの車の後部座席に乗せられているようだ。いや、転がされている。両手両足は縛って固定され、身動きは取れない。段差を越えるたびにかなり宙に浮く。かなりのスピードで走っているはずだ。そして、前の座席では、男が二人喋っている。
「今月はこれで六人か」
「ああ、上等だな」
「ノルマはクリアできそうだ、いやーよかったよかった」
「お前危ないところだったもんな」
「そうよ、あと二ヶ月ノルマ未達成で、『ゲットー』行きなんだぜ」
「なんの自慢にもならないぞ」
「・・・今日は『ミンク街』にでも行くか!」
「お前が一人で行け」
「なんだよ、つれねえな」
「わざわざ法を冒す必要はない」
「じゃあどうやってたまったもん処理してんだよ」
「俺にはパートナーがいる」
「お前だって法を冒してんじゃねえか」
「・・・」
「俺は行くね、今日は絶対行きたい気分なんだ。『ユートピア』もつけるね」
「そんなに死にたいのか」
「やんなっちゃうね真面目くんは。『ユートピア』なしで女を抱くなんてまっぴらだよ」
「寿命を縮めるような真似しやがって」
「別にいいだろ、あと四十三日なんだし」
「・・・」
「四十数日早く死ん・・・」
そこで俺の記憶は、終わっていた。
気づいた時には、汚い車の後部座席ではなく、汚い顔をした男たちの死体の前に立っていた。彼らの顔には見覚えがある。俺を連れ去った二人だ。しかし、今、首はおかしな方向に折れ曲り、ピクリとも動かないで、壊れた人形が転がっているように見える。なんとなくおかしい。後ろでシューシューと音がするので振り返ると、俺が乗っていた車が、塀に激突してぐちゃぐちゃになっているのが目に入った。煙が音を立てて漏れ出している。なんて幸運なんだ。晴れて自由の身だ。
そういえば、手と足を縛っていた縄はどこへ行ったのだろう。