第4話
沸騰したお湯から上がる湯気が、サビが浮いた鍋から上がっていた。エマの顔にヴェールのようにかかったそれは、彼女の表情を覆い隠していた。豊かな髪が時折揺れて、彼女が料理をしていることを思い出させる。
夕食ができるまで、二人とも何も喋らなかった。
「『効率民』について長に聞いてみた」
エマは、ふっと皿から顔を上げ、笑顔になった。
「聞いてくれたんですか」
「少ししかわからなかったけどな」
「ぜひ教えてください。和幸さん」
「昔は、君たちと一緒に暮らしていたそうだが、あることが起きて、意見を異にするようになった。あることっていうのは・・・」
言葉に詰まった。彼女に話すべきだろうか。
眉、目、鼻、口、どれを取っても好奇心を満たされる幸せに満ちている。
「政治的な問題があったそうだ」
「・・・そうなんですか」
期待した答えとは違ったようだ。
「でも、もう解決した可能性もありますよね」
「そうかもな」
「私、そこへ行きたいんです。『効率民』が住むところに」
「なぜ?」
「この辺りには、半年に一度行商人がやってきます」
エマは料理に話しかけていた。
「彼らから聞いたんですけど、効率民の街はここよりずっと便利で、みんな賢いんですって。私、こんなところに一生閉じ込められているなんて嫌なんです」
そう言って、ジャガイモを一つフォークの背で押しつぶした。
「ここが嫌いなのか」
「そういうわけではないですけど・・・」
それきり会話は終わってしまった。
俺もエマと同じように考えている時期があった。なんとなく今いる状況を変えたかった。そうすれば幸せになれると思っていた。何が幸せかもわからないのに。
彼女は目的地を知らずに巣穴から飛び出す渡り鳥だ。どこへ行けばいいのかわからないのに、じっとしているのだけは耐えられない。常に飛んでいたいが、その道が正しいのかはわからない。そして、いずれ帰ってくることができると、巣穴は変わらずそこにあると、信じて疑わない。
エマには何も言わなかった。
ここのどこに不足があるのか。
『効率民』のいい面しか見ていないのではないか。
無い物ねだりではないのか。
人の話を鵜呑みにするのか。
そんな説教じみた言葉が浮かんできたが全て頭から振り払った。
彼女はどう生きてきたのか。
何が信念なのか。
どんな困難に直面してきたのか。
親はどうしていないのか。
俺は何も知らない。
彼女は今、対面のベッドで安らかに眠っている。想像もできないような壮絶な過去を背負っているかもしれないその背中は、あまりにも神聖で、脆かった。
俺はベッドを抜け出す。
最後に少しだけ振り返ると、エマが身動きひとつせず横になっていた。まるで起きていることを悟られまいとしているかのように。
雲は少しだけ晴れ、月明かりがあった。方角を確かめ、俺は西へ向かって森に踏み込んだ。
日が昇り、高い梢の間から光が漏れてくる。
針葉樹の隙間をただ歩いて行った。行く先はわからなかったが、不思議と怖く無い。月のおかげで地面は見えるし、俺は命を失うことを恐れていないのだ。森の地面は平坦で、都会育ちでもてこずることはない。ふと、水音が耳に届いた。川が近い。休息をとるため、川に降りると、一人先客がいた。彼は俺に気がつくと、声をかけてきた。
「旅の途中ですかな」
「まあそうだ」
「どちらへ行かれるのかな」
「・・・西へ」
「ほう、それは奇遇な。私も同じところを目指していてな。お供をしてもよろしいか」
彼は、ずいぶん年をとっているように見えるのに、厄除けの飾りを全身につけていて、かなり派手な格好をしている。何者なのか。
「あなたが何者かわかればいいですよ」
「いやあ。これは失礼。人に会わんと礼儀を忘れるものだ」
さも可笑しそうに、彼は笑う。
「私は行商人のパクだ」
「カズユキだ」
「水はもう汲んだかね」
「水筒なんか、持っていませんよ」
「なんと。よくそれで旅に出る気になったな」
「事情がありまして」
「なるほど・・・」
パクは俺の右腕をちらと見た。赤い布切れは巻いていない。パクの右腕にも、赤い布切れがあった。
「いいだろう。何かの縁だ。水筒をひとつ譲ってやる」
「それはどうも」
水筒を放ってよこした。
「『効率民の都市』は遠いぞ」
「なぜ、私がそこへ行くとわかったのだ」
「ここから西で人が住んでいるのはそこしかない」
「さあ行くぞ」
俺たちは出発した。
パクは、顔は年寄りなのに、驚くほど体力があり、きつい坂や沼地、沢なども難なく進んでいった。しかも、おしゃべりしながら。人と会わない生活をしているせいで、話すことが山ほどあるのだろう。なぜ行商人をやっているのか、食べられる野草とそうでない野草の見分け方、疲れずに何日も歩き通せる歩き方などなど。そして『効率民』の話が出た。
「なんでまた『効率民』のところへ行く?」
「そこしか行くあてがないからだ」
「喧嘩して家を飛び出してきたんなら、謝って戻った方がいいぞ」
パクは笑っていった。
「もう戻れないんだ」
「しかし、あそこはオススメできんなあ」
「何か悪い噂でもあるのか」
「いやいや噂なんてもんじゃない。私が初めて『効率民』の街を見た時なんかはまあ壮絶だった」
「・・・」
「お主、西へ行くのなら人の右腕に何があるのかは知っておろう?」
「ああ」
「東に住む民たちは、それを隠すことによって正気を保っておるのだ。むろんわしも同じだ。今まで一度も見たことはない。死ぬことにとらわれず、今を丁寧に生きることこそ、安寧につながると理解しておる」
「・・・」
「しかしな、『効率民』は逆なのだよ」
「逆?」
「わざと、意識させるのだ」
「はあ」
パクは俺の顔に何か衝撃が走るのを期待したようだったが、俺は言葉の意味をよく理解していなかった。
「今我らは、右腕が隠れる服を着ている。『効率民』はわざと寿命が見えるように穴が開いた服を着るのだ」
「何でそんなことを?」
「常に意識するためだ。そうすることによって、『効率民』は繁栄した」
「寿命を知ると繁栄するのですか」
「自分の残り寿命を知ると、生きているうちにできないことが多すぎることがわかるのだ。そこで彼らは、人生の目標を定め、それを生きているうちになるべく多くこなすことを生き甲斐にしている」
「いい心がけに聞こえるが」
「そう思うのなら、お主にあっておるのかもしれん。だが私は願い下げだ」
「・・・」
「この考え方を最初に持ち込んだのは『神』だ。お主は『悪魔』と呼んでいるかもしれんが」
「どちらでも同じだ」
「『神』の考え方は画期的だったのだ。それゆえ、反発するものたちも多かった。今東に住んでいるのは、彼らの末裔だ。そして『効率民の都市』には、今も反発するものたちがいる。性格的に合わなかったのだろう。彼らは悲惨だぞ」
「無理に考えを変えさせるからか?」
「『効率民』がそんな手間のかかることをすると思うかね」
パクは悪い顔になって、ニヤニヤしながら言った。
「そんな連中を完全に洗脳するのには、時間も金もかかる。『効率民』は、新しい人間を一から作り直すのだよ。その方が手っ取り早い」
『効率民』に合わなかった者たちがどうなるかわかった気がした。パクはもうこの話題には触れなかったし、俺も聞こうとしなかった。
エマに『効率民』は合うのだろうか。
俺の考えることじゃないか。でしゃばりもいいとこだ。
そこからさらに西へ三日進んだとき、俺たちはどこからか人の声を聞いた。
パクは俺に黙っているよう手で指示し、目をつぶって人の声に意識を集中させていた。
顔色が変わった。
「厄介だな」
誰にも聞かせるともなく言う。
「隠れるぞ」
そう言ってあっという間に、倒木のそばの窪地に身をひそめる。俺も後に続いた。
「何かあったんですか」
そう聞くと、先の一点を見つめたまま、ぼそりと言った。
「『効率民』の失敗作だよ」
声はどんどん大きくなって、下草をかき分ける音もはっきり聞こえるようになってきた。三人ほどいるようだ。そして彼らは俺たちから七十メートルほどの左に、はっきりと姿を現した。
彼らは人間ではなかった。いや、やはり人間だ。頭、胴、足、腕、すべて俺たちと変わるところはない。しかし、一目見ただけでわかる違和感。見た目はどこまでも同じだが、中身はどこまでも違う。やがて、違和感の理由がわかってきた。
薬物だ。
中毒者特有の汗の甘い匂いがここまで漂ってくる。彼らのテンションは異様に高く、笑いとも叫びとも受け取れる奇声を寂しく森に響かせている。
「よく見ておけ」
彼らは、おぼつかない足取りで歩いてくる。そのうちの一人は一歩進むたびに木に腕を絡ませ、自分を支えている。いつ転んでもおかしくない。そして彼は、この辺りで一番太く古い木に抱きついたまま動かなくなった。
「う・・・ううっ・・・ううううううううううう」
呻きか歌か。その目玉はは眼窩の中で半回転し、白目になっている。薬が切れたのか。今度は口から泡を吹き出した。黄色く粘着質のそれは、口から溢れて顎を伝い、地面にぼたぼたと落ちた。
数歩先にいる仲間たちが、彼の元へ近寄った。背の高い方が鈍く光るナイフをさっと振り上げ、胸を一突きした。そして地面に倒れこんだ元仲間のポケットやカバンをあさって何かを取り出し、振り返ることもなく、また行進を続け、森の中に消えていった。
「あれが『効率民』の失敗作だ」
パクが言う。その目は活力を失っている。
「彼らは薬漬けでしたよね」
「ああ。寿命のストレスに負けて、手を出したか。売春宿の連中だったかもしれん」
「売春宿・・・ですか?」
「お前さんには信じられないだろうが、娼婦や男娼を薬漬けにして、意識を朦朧とさせて、客が扱いようにしているところもあるのだ。逃げ出してきたか。捨てられたか」
「それは・・・」
「『効率民』は効率を最優先するのだ。より短い時間で、できるだけ多くの民を幸せにすることが第一目標なのだ。そのためなら手段を選ばん。たとえ、一人をただの道具にしても、性欲を発散できる人間が多ければそれでよしとしている」
『効率民』の実態は想像を超えているようだ。だが、俺の知ったことではない。俺がいた世界だって、同じようなことがあったじゃないか。何をしようとも得する人間が多ければ、なかったことにして処理されるのだ。ここは、どこなのだろう。俺が自殺する前、右腕に寿命が表示されるなんてことはなかったし、そんな人の存在も聞いたことではない。もしいれば大ニュースになっている。しかし、この世界の人は皆自分の寿命を知っている。それ以外に特に変わったところはないが。ひょっとしたら、俺の知らないだけで、世界には寿命が見える人がいる地域があるかもしれない。公になっていないのは、どこかの政府が世界の混乱を防ぐため、隠蔽している結果かもしれない。
「行きましょう。『効率民』の街へ」
自分でもびっくりするほど大きい声が出た。
「若いってのはいいのう」
パクは乾いた声で笑った。
そこから、さらに二日かけて山を二つ越えた。
「もうすぐだ」
少し息を切らしながら、パクは言う。
「ここから南へ五百メートルほど行くと、街道がある。そこに出れはでかい建物が見えるだろう。そこが『効率民』の土地だ」
「あなたは行かないのですか」
「いや、私にも色々事情があってな。大手を振って街に入るわけにはいかんのだ」
悪戯っぽく笑う。
「お主との旅はなかなか楽しかったぞ。今度会った時は酒をおごってやる」
「それはありがたい」
「ここでお別れだ」
そう言うと、あっという間に街道とは反対側の藪のなかへ消えていった。秘密の抜け道でもあるのだろうか。よく考えれば、行商人でさえなかったかもしれない。
まあいい。あの人のおかげでここまでたどり着いた。
一人で歩き、街道に出た。何にも遮られない太陽が目を突き刺す。地面には久しぶりに見るコンクリートが横たわっており、左手一キロほど先に言葉通りのでかい建物があった。いやでかいだけじゃない。壁面は太陽の光に照らされ、きらきらと輝いている。
「ガラス張りか」
そういった時、低いエンジンのうなりが耳に入った。目をこらすと、街のほうから猛スピードで何かが走ってくる。あっという間に目の前まで迫ってきた。車だ。
「動くな! 動いたら撃つ!」
二人の男が車から出てきて、俺を地面に組み伏せた。そして、後頭部に強い衝撃が走り、俺は意識を失った。