第3話
エマがくんすんだ赤い扉を三回ノックすると、中から返事があり、エマを先頭にして入った。古い布と老人特有の匂いが一緒に鼻を刺激する。部屋は薄暗く、家具や装飾には、見た人に歴史を感じさせる雰囲気がある。エマは目の前に突っ立ったままだ。
いきなり電気がついた。部屋の奥から老婆はゆっくりと歩いてくる。交互にエマと俺を見つめながら、皺の多い頬を引きつらせて笑顔を見せた。そして十分に近づいてからエマが俺のことについて話し始めた。自分の家の前の湖畔に打ち上げられていたこと、自分が服を着せ変え看病したこと、ここがどこだが知らない様子であること。記憶喪失かもしれないので、しばらくの間ここに滞在してもいいだろうかという願い出。そして俺の名前を言おうとして、言葉に詰まらせた。
「吉原和幸と申します」
軽く頭を下げて名を名乗る。
「ヨシハラカズユキ・・・」
エマがかすかに聞こえる声で復唱した。
エマを静かに見つめていた老婆は、俺の方へ向き、歳に似合わないはっきりとした口調で言った。
「私は、この一帯の代表を務める者です。あなたは困っておられるようです。我々としても、あなたを粗末に扱う気はありません。なので、湖に打ち上げられる前の経緯について話してはくれませんか」
言葉の上ではお願いだが、実際は命令に近かった。長として不審人物をここに置いておくわけにはいかないだろう。
俺は全てを包み隠さず伝えた。何となく死にたくなったこと、自殺するためにこことは別の湖に入水したこと、しばらく湖底を歩いていたら意識を失い、ここに流れ着いていたこと。名前、住所、経緯も全て覚えており、特に思い出せないことはないので、記憶喪失ではないと考えていること。
顔色一つ変えずにかすかな笑顔で話を聞いていた老婆は、俺が話し終わると立ち上がった。無言のまま窓のそばへ行き、太陽の光をまだわずかに反射している雲を見つめていた。ガラスに映ったその顔はもう笑顔ではなかった。外が完全に暗闇となった時、また話し始めた。
「今から何百年も昔、あなたと同じように湖へ流れ着いた男がいたという。その男は、当時世界を恐怖に落としいれた病気に対する耐性を持ち、崩壊していた社会を一人で立て直した。結果、半分の民は救われたましたが、半分の民はさらにひどい状況に陥いってしまいました。救われた民は、彼を神と称え、苦しめられた民は、彼を悪魔と蔑んだのです」
ここまで言って、長は自分の腕についている赤い布切れを指して言った。
「なぜ、私たちがこれを腕に巻きつけているか知っていますか」
「・・・いいえ」
「エマ、お前が彼を着替えさせたんだね」
「はい」
「何か右腕に変わったものを見なかったかな」
エマは少し考えていたが、首を振り、
「いいえ。何もありませんでした」
と言った。
長は改めて俺たちの顔を、正面から見据え、静かな声で言った。
「エマ、あなたは外で待っていなさい」
エマは尋常ではない雰囲気を察して、速やかに出て行った。
「今からあなたにあるものを見せます」
そう言うと、右の袖を肩まで繰り上げた。エマと同じように、二の腕あたりに赤い布が巻いてあった。おもむろにそれを解き始める。それは驚くほど長く、長の身長と同じくらいの長さだったがやがて床に落ち、長は右腕を俺に見せつけた。
そこには光る数字があった。腕に沿って並んでいる。
754
「・・・」
液晶をつけているわけでもなく、彫り込まれているわけでもない。皮膚の下にディスプレイが埋め込まれているようだ。
「これは寿命です。私は七五四日後に死にます」
それが冗談ではないと、俺が納得できるだけの時間沈黙した後で、老婆はまた笑顔に戻り、話し始めた。
「この存在を知っているのは、ここには私を含めわずかなものたちしかいません。民には、生まれた時から赤い布きれを厄除けと称して身につけさせます。数字の存在を知らぬまま死んでいく民がほとんどですし、エマも例外ではありません。そして、先ほどお話しした世界を戦慄させる病気、いや現象といったほうがいいかもしれません。それがこれなのです」
長は自分に向かって話しているように見えた。
「なぜこのような現象を私たちの体がもつようになったのか。どうすれば消すことができるのか。それは全く解明されていません。しかし、先ほども言ったようにある一人の湖に上がった男は、耐性を持っていたのです」
ここで長は俺に話しかけた。
「右腕を見せてください」
今度こそ本物の命令だった。エマが巻いた赤い布を解いていく、布が落ちた時、俺の右腕には、何もなかった。
長は数秒かけてしっかり確認したのち、また椅子に戻った。目をつぶって何か考えている様子だ。部屋は静粛に支配されていた。この部屋には時計がない。
「ここでは全ての人間が寿命を右腕に表示しているのですか」
「寿命を表示していない人間は地球上に一人も存在しません。あなたと『悪魔』は除きますが・・・」
「・・・」
「私はある可能性を危惧しています」
「俺も『悪魔』だと」
「少なくとも、あなたはこの世界の人間ではない」
「・・・一つだけお聞きしてもいいですか」
一つ一つ言葉を選んで、ゆっくり言った。
「『効率民』について教えて下さい」
「・・・彼らは、ここから西の彼方に住んでいると聞きます。『悪魔』の考え方を継承し、栄えているそうです」
「昔は彼らと仲間だったのですね」
「ええ。昔も私たちは西に住んでいたと聞きます。『悪魔』、彼らは『神』と呼んでいますが、の考え方に賛同したものは、そこに残り、反対したものは去らざるをえなかったのです」
長は、話を切り上げた。
「今夜はもう遅いので、休んでください」
そして、異論を一切挟ませぬ語気の強さで命令した。
「明日の朝、朝日が昇る前に、この村を出て行きなさい。それ以降に見かけた場合は、警告なしで攻撃します」
俺は扉を開けた。すぐそばにエマはいた。月明かりのない暗闇の中を、俺たちは家に向かった。