第2話
まぶたが重い。頭の芯がぼうっとしている。耳に高音が届く。それが鼓膜を震わせ、神経を通って脳まで届き、鳥のさえずりだと理解した。目を開けて、ゆっくり上半身を起こして周りを見渡す。正面には薄汚れた扉。そのそばには、カバーが破けてスポンジが飛び出している座席。左手には使い込まれた食器類と、レンガで作った小さい暖炉のようなもの。右手には少し曇った窓があり、そばにある割れた植木鉢に咲いた紫色の花にオレンジ色の光を通している。ベッドの枕のそばの小机に、俺の服が綺麗にたたんで置いてある。乾いているところを見ると、そうとう長く眠っていたのだろう。今は、見たことのない服を着ている。綿でできていて、地味だが着心地が良かった。それと、赤い布切れが右腕に巻かれていた。包帯代わりなのだろうか。出血していたかもしれない。どうやら今は助けられて、誰かの家の中にいるらしい。いや、家のようなものといったほうがいいか。この空間は車の外装を利用して作ったものだ。ベッドだと思っていたのは座席で、車の進行方向に対して、横向きについている。
ここはどこなのだろうか。山中の湖で入水自殺をして、気付いたら打ち上げられていた。天国だったら良いのだが。
「あっ!」
声の主を探して振り返ると、後ろの出入り口にあの女が立っていた。栗色の長髪を揺らし、勢いよく駆け込んできて俺の額に手を当てる。
「・・・熱はないようですね」
俺の額を熱心に見つめている彼女の目は髪と同じ色だ。この部屋と俺の顔を魚眼レンズのように映し出している。
彼女は視線に気づき、顔を背けた。耳が少し朱色を帯びている。
「助けてくれたのか」
髪が上下に一回だけ揺れた。
いくら俺が死にたかったとしても、命の恩人に礼儀は尽くすべきだろう。
「ありがとう」
「どうかお気になさらず」
彼女は顔を正面に戻して言った。なんの表情も読み取れなかった。
「君は・・・」
「エマと言います」
彼女は袖なしの白いワンピースの裾を少し持ち上げ、目を伏せ、名を名乗った。右腕の上部に巻いた赤い布切れが目立つ。
「エマ・・・」
外国風の名前だ。
「もし体調が良いのでしたら、私たちの長にご挨拶を願いたいのですが」
「挨拶?」
「はい、ここを訪れた者はそうする決まりになっております」
「分かった。行こう」
「こちらです」
エマについて後ろの扉を出て行くと、視界の正面に湖が飛び込んできた。しかし、それは俺が入水した湖とはまったく違う。海のようにひっきりなしに波が押し寄せ、波音が絶えない。対岸は遠く霞むほど遠く、かすかに森が見えるだけだった。そのさらに向こうに夕日がある。そして強い芝生の香りが鼻をついた。地面は芝生に覆われている。
「ちょうどここにあなたが流れ着いたんです」
そう言ってエマが左に二十メートルほど先の岸辺を指差す。
「洗い物をしていた時に、水面に私の顔じゃなくて一瞬男の人の顔が写ったんです。幻か何かだろうと思っていたんですが、少し経ってから、同じ顔のあなたが波打ち際で倒れているのに気がつきました。私、始め、あなたのことを怪物か何かだと思ってしまったの。でも、そのままにしておくのもかわい・・」
話しすぎたのに気づいたのか、エマはまた少し赤くなって口をつぐんだ。
「行きましょう。長のところへ」
ずんずん進んでいくエマを追いかけた。
数分後、俺とエマは赤と白を基調にした可愛らしい二階建ての小屋の前に立っていた。おもちゃの家をそのまま大きくしたように見える。
「ずいぶんイメージと違うな」
「どんな建物を想像されていたんですか?」
「もっと物々しい雰囲気があって、人を寄せ付けないようなところだと思っていた」
「私たちの長は優しく心の広いお方です」
そう言って、眉根を少し寄せている。ややあってから俺の目を見て尋ねた。
「『効率民』について何か知っていますか」
「効率民? 初めて聞いた」
「そうですか」
少し残念そうにした後、話し始めた。
「長が一度だけ話してくれたことがあって、彼らは、私たちがここに移住した唯一の理由だそうです」
それだけ言うと湖の方を向いてしまった。
周囲を見回すと、今は、岬の先端付近にいるらしかった。四方から波の音が聞こえてくる。幅は五十メートルもないだろう。長の小屋は、少し小高くなった岩の上にある。地面は皆芝生に覆われて、裸足の足にチクチクと痛い。小屋らしきものも他にいくつかあるが、何の小屋かはわからなかった。白樺が岸のそばに並んでいる。防風林の役目を果たしているのだろうか。そして、人の姿は全くない。動いているものは、時折風に揺られる木や芝生ぐらいだ。
「あの、確認なんだが」
俺は、ずっと気になっていた質問を口にした。
「何でしょう?」
髪と同じ栗色の瞳がまっすぐにこちらを見返してくる。少したじろいたが、思い切って口を開いた。
「ここはどこなんだ」
エマは、質問の意味を数秒そのままの表情で考えていたが、急に困ったような色を顔に匂わせて言った。
「知らないんですか」
「俺は湖に入ることは入ったが、こんな湖じゃない。もっと小さくて山の中にあったんだ」
「この辺りには他に湖はありませんよ」
「・・・そうか」
とすると、俺はあの山中の湖から支流の川か何かに飲まれて、下流の湖に流れ着いてしまったのかも知れないな。
「ここは、何県だ」
「県とは?」
真顔で聞いてくる。
「知らないのか」
「・・・すみません。わかりません」
このご時世に義務教育もまともに受けていない人がいるのだろうか。いや、さすがに学校に行っていなくても県という区分は知っているはずだ。ひょっとしたらここは、今でも山に住むと聞く民の集落なのか。何年も世間から隔離されていたとしたら、県を知らないのにも頷ける気がする。
「では、ここはなんと呼ばれているのか」
「私たちはアルヤと呼んでいます」
『アルヤ』まったく聞き覚えのない地名だ。
俺の表情に変化がないのを見て、エマが付け足した。
「ひょっとしたら、記憶喪失になったんじゃありませんか」
記憶喪失か。いや、それはないだろう、俺は湖へ歩いてきたことも覚えているし、湖畔でタバコを吸ったことも、入水したことも覚えている。
「それはないと思う」
「そうですか」
太陽が地に隠れ、一段と暗くなる。少し強い風が一気に岬を通り抜けた。少しウェーブのかかった豊かな髪が風にあおられ、つられて右腕の赤い布も風にはためいた。
「もしお嫌じゃなければ、何か思い出すまで私の家を自由に使っていただいて構いませんよ」
「・・・感謝する」
「それじゃ挨拶に参りましょうか」
エマは小屋へと続く階段を上り始めた。