第1話
俺は、紅葉した森の中を歩いている。オレンジ色や茶色、黄色に染まった落ち葉を踏んで進んでいく。他にもここを歩く人がいるのだろう。標識などの人工物は一切見当たらないが、道のようなものがあり、そこを進んでいく。周囲に人の気配はない。右も左も木しかない。
「さすが自殺の名所だ」
独り言が癖になったのはいつからだろう。だが今は、気にする必要もない。周りには誰もいないのだし、これから俺が他人と関わることはないのだから。
森を抜けた。目の前には小さい湖が見える。周囲は完全に山に囲まれ、すり鉢のそこに水が溜まっているようだ。湖の端から端まで、はっきりと見渡せる。直径は一キロくらいだろう。水面には、波ひとつ浮かんでおらず、周囲の紅葉した山々と曇った空を鏡のように映し出している。俺は、右へ十メートルほど行ったところに木製の桟橋があるのに気がついた。岸からT字型に突き出ている。そこの端に腰を下ろし、もう二度と吸うことはないであろうタバコに火をつけた。
「ふぅ」
なんてうまいんだろう。この世にタバコがなければ俺はもっと早くここに来ていたはずだ。
ふと、足元の水面を見た。髪はボサボサ、髭は伸ばし放題、落ち窪んだ目の男が、くわえタバコで見返している。
はずだった。
そこには栗色の髪を持つ若い女の顔がある。
しかし、俺は驚かなかった。もう一度ゆっくりまばたきをする。そこには見慣れた俺の顔があった。
「さすが自殺の名所だ」
今見えたのは幽霊だろうか。それとも幻覚だろうか。どっちも可能性は十分にある。
もう一度タバコの煙をゆっくりと吸い込み、肺に充満させ、ゆっくり吐いた。
幽霊の方がありがたいな。今見た女はなかなか美人だったかもしれない。知り合いになれる可能性もあるってわけだ。
置いてきた妹を思い出す。今頃俺の遺書を見つけて、パニックになっているだろう。すまないことをした。でもあいつは大丈夫だ。自分でいい男を見つけてきた。きっと幸せになるだろう。ただ、最後の会話が喧嘩だったのは残念だ。
「何でそんなこと言うの!」
「もう死にたいからさ」
「辛いことがあるなら聞くよ?」
「辛いことはない」
「じゃあ何で?」
「ただ死にたいだけさ」
「意味がわからないよ!」
「そうか」
「明日、カウンセラーの先生のところへ行こう。きっと不安になってるだけだよ」
「不安じゃない、俺は」
俺はどうなんだろう。なぜ死ににきたのかと聞かれても、はっきり答えられないにちがいない。この世が苦しい、生きるのに疲れた、辛いことがあった。どれも、俺には当てはまらない。ただなんとなくだ。ただなんとなくもう死んでもいい気がする。
俺は生に執着しない。来世に生きたい訳でもない。ここから逃げ出したい訳でもない。ただどうでもいいのだ。勉強も、成績も、恋愛も、結婚も、就職も、売上も、人付き合いも、世間話も、ニュースも、殺人事件も、俺にとっては何の意味もない。
俺は本能に従って生きる。その本能が死にたいと言っている。だから死ぬ。理由はない。
ほとんど灰になったタバコを捨てた。
緑色の湖に飛び込んだ。水が服と体の隙間に入り込む。かなり冷たい。指先が震えるのを感じた。口から吐く息が白い。水深は腰まで、沖に向かって一歩ずつ歩き出す。水底は泥に覆われているようだ。すぐに胸まで水が来た。急に底が深くなり、頭まで水に浸かった。けれど俺は目をつぶって歩き続けた。
もうすぐだ。すぐに死ねるさ。苦しみも長くは続かない。
やがて肺の中の空気が減り、息がつまるのを感じたが、もう苦しくなかった。苦しみが他人事のように感じる。自分が苦しむのを、自分の外側からから見ているように思えた。そして眠りにつくように意識を失った。
体が揺さぶられている。右に左に。顔に水が当たる。目は閉じたままだったが、誰かが俺を起こそうとしているのがわかった。
「だい・・・・で・か」
声が耳に入るが、音が遠い。頭に信号が届くまですごく時間がかかる気がする。なにを言っているのか。
「だいじょ・・ですか!」
声が大きくなった。俺を揺さぶる力が一層強くなる。
「大丈夫ですか!?」
少しだけ目を開けると、目の前にぼやけた肌色の塊があった。
まばたきをすると、女の顔になった。
水面に見た女だ。
「私の声が聞こえますか!?」
死ねなかった。
ふと視界が歪み、俺は気を失った。