本幕 其ノ壱
電撃大賞長編小説部門の1次落選した小説です。
江戸時代と妖怪をイメージしたものを書いてみました。
江戸時代のことを色々と調べていたのですが、はっきりとしたことはなかなか把握できなかったので、その大部分はイメージとなっています。
今後の参考にしますので、感想をいただければとても嬉しいです。
「それで結局、何人殺されたの」
その問いに珠は肩を竦めて応える。
「六人か七人か、それとも八人か九人か」
「あのねえ、いくらなんでもそれはいい加減過ぎるでしょ」
「どうでもいいことにいちいち首を突っ込んでる暇なんてありませんから」
巫琴は眉をひそめたが、何を思ったのか口元に怪しい微笑を浮かべる。
「少しくらい緊張感を持った方がいいんじゃないの」
「どういう意味ですか」
「他人事って思ってるみたいだけど、珠ちゃんだって鎌鼬に狙われてもおかしくないんだからね。もしかしたら、もう目をつけられているかもしれないでしょ」
揶揄するような巫琴の口調に、珠は溜息をつく。
「念のため聞きますけど、口は災いの元っていう諺を知ってますか」
「当たり前でしょ」
「巫琴が災いを引き寄せるのは勝手ですけど、ぼくを巻き込まないでください」
「なにそれ。冷たい、酷い、つまんない」
「なにを言われても、ぼくにとっては迷惑な話でしかありません」
「つまんないつまんない、ちょっとくらい怖がってくれてもいいのに」
機嫌を損ねた巫琴は足をばたばたとさせたが、珠は素知らぬ顔で流す。以前はその言動や一挙手一投足に緊張感を持って注意を向けていたが、それが徒労でしかないと察してからは、適度にあしらうようになった。
ふたりは藪の中にぽつんと建っている、光伝寺という廃寺の縁側に座っていた。
本堂の床には埃が積もり、壁や柱には深い亀裂が上下に駆け抜け、くすんだ障子紙は破れていない箇所を探すのが難しい。隅で転がっている仏像は顔面が鋭利な刃物で抉られており、枯れた枝葉と雑草で荒れた境内には底が割れた賽銭箱がひっくり返っている様は、願懸けをしても何ひとつ叶いそうもない有様だ。
珠は「話は替わりますけど」と言ってそっぽを向いてしまった巫琴の気を引く。
「お願いしたいことがあります」
「なに」
「召喚には当然応じますけど、せめて一日前には伝えてください」
「いつも暇なくせに」
「ぼくにも都合くらいありますよ」
「都合ねえ」
「場合によっては、日を改めてもらわないといけなくなるかもしれませんし」
「ふーん」
巫琴はまじまじと珠の顔を覗き込んだ。
珠は思わず身を引く。
「なんですか」
「その都合ってどんなことなのかなーって」
そこに何かあると嗅ぎ取ったのか、巫琴はにんまりと笑った。
珠はあからさまに顔をしかめて見せた。しかし何をどうしたところで巫琴が遠慮などしないことは分かっている。
巫琴の召喚は常に唐突かつ一方的で、今回は半刻ほど前にあった。
屋敷の離屋で寝転がっていた珠の枕元に、突然、外から放たれた矢文が突き立てられた。文を一瞥して苦い表情をし、重い足取りでこの光伝寺へと出向いたのだ。
早く話せと急かす巫琴を見て、珠は嫌々ながら口を開く。
「凶兆が見える、と」
「なにそれ」
「昨日の夕刻に、そう占われました」
「占って手相とか星とかを見る、あれのこと」
「そうです」
「あのね、気を悪くしないでほしいんだけどね」
「なんですか」
「おかしくなっちゃったの」
率直な巫琴の言葉に、珠は苦虫を噛み潰したような表情をする、
「七日前にも同じ人に占われたんです」
「それで」
「当たりました」
「ただの偶然でしょ」
「もちろんそう思いますけど、念のため様子を見ているところです」
巫琴はふと小さい鼻を膨らませる。
「当たったことってなんなの」
「つまらない話です」
「いいから教えてよ」
珠は眉間にしわを寄せて俯く。
「追いかけられました」
「誰に」
「犬です」
「猟犬とか」
「そんなところです」
巫琴は珠の様子を窺った後に、ひっくり返って大笑いした。
珠は深々と溜息をつく。巫琴にとっては単なる笑い話でしかないのだろうが、あの時の状況を思い浮かべただけでも体が震え、冷や汗が噴き出てくる。
忘れたい嫌な体験は記憶により深く刻まれるようで、その時の情景を悪夢で見せられ、悲鳴を上げて飛び起きたのは一度や二度ではない。一般的な信憑性はどうであれ、再び凶兆と占われたのであれば、それを気にかけるのは当然ではないかと思う。
凶兆がはっきりと見えます
気高く愛らしい獣が、明日、襲ってきます
どんなに用心しても逃げられません
これは運命です
昨日の占も掴みようがない話なので、それが具体的に何を示すのかと再三再四問い質したが、そこまでは分からないとあっさり突き放されてしまった。
運命ならば仕方ないと諦められるはずがなく、その直後から巫琴に呼び出さるまでの間、珠は大人しく屋敷の離屋に籠っていたのだ。
そろそろ占われてから丸一日経つが、凶兆が差し迫って来るような気配は感じない。必ずそれが当たると決まっている訳ではないと自分に言い聞かせるも、どうしても意識してしまう。
「――あ」
唐突に湧き上がった確信に、珠は瞬きを忘れて巫琴の顔を凝視した。
どうして今まで気づかなかったのだろう。先日の一件が印象深かったため、獣という単語が犬を暗示していると思っていたが、巫琴こそがそれではないか。
巫琴は珠の心情など気にかけず、まだ笑い続けている。当事者の前でその不幸を笑う姿勢には、腹が立つのを通り越して感心してしまう。
性格の悪さは外見に反映されないようで、容姿端麗という言葉が嫌味なほどに当てはまる巫琴と道ですれ違えば、同性の女ですら目を奪われて振り返るのは珍しくない。雪のように白い肌や腰まで伸ばされている艶やかな黒髪、整っている眉、長い睫毛、そして吸い込まれそうなほど深みのある瞳は眩しいほどの魅惑を発している。おまけに羽織っている上質な絹の衣は、町人では手が届かない値の物だ。これでは目立たぬはずがない。
街道をひとりで歩いていれば子供のひとり旅と勘違いされ、人相の悪い輩が黒い思惑を胸に近づいてくるらしい。本人はそれを迷惑がっているが、稼業にとっては役に立っていると口にしていた。事実、珠も油断して散々な目に遭わされ、それが今でも尾を引いているのが実に腹立たしい。
珠は眉間に皺を寄せて咳払いをした。
「すみませんけど野暮用がありますから、そろそろ帰ってもいいですか。」
「だーめ。占の話は面白かったけど、そんな話を聞くために呼び出すほど暇じゃないってことくらい、言われなくったって分かってるでしょ」
「それなら本題に移ってください」
「久し振りに会ったのに」
「単刀直入でお願いします」
愛想のない珠の口調に、巫琴は肩を竦めて見せる。
「鎌鼬」
「それがどうしたんですか」
「あたしが知りたいのは鎌鼬のことなの」
「さっきも言いましたけど、ぼくはほとんど知らないんですよ」
やはりそれか。珠は無表情を装いながらそう思った。
昨今、町を歩けば誰もがその話題を我先にと口にしている様を目にする。
この東海道沿いに開かれた町は、旅や物流の要所として賑わっている。町が大きくなると碌でもない輩も根を下ろしてしまうようで、掏りや窃盗、そして喧嘩沙汰といった犯罪は日常茶飯事であり、町人たちはその対処に慣れていたが、辻斬りとなれば勝手が違う。
その被害者たちは、皆、夜半から早朝にかけて斬殺された。
同心や御手先たちが必死に捜査をするも、進展はなく、瓦版がそれを囃し立てるように書き立てるため、町人たちが抱く不安は増していく一方となっていた。
いつからか下手人は鎌鼬と呼ばれ、その字はすぐさま町中に広まった。
珠は深呼吸をして気を落ち着ける。
この件に絡んでの召喚だと覚悟してはいた。求められた近況報告では鎌鼬の件に触れたものの、それほど重大でないという体で話したつもりだったが、どうやら無駄な抵抗だったらしい。
「ねえ珠ちゃん、忘れちゃったの」
「なにをですか」
「なにかあったら必ずあたしに教えてねって言ってたでしょ」
「もちろん覚えてます」
「じゃあ、なんで教えてくれなかったのかなあ」
巫琴は無邪気な笑みを浮かべて問うた。
「わざわざそれを調べて報告する必要性は感じませんでした」
「どうして」
「どこぞの愚者が凶行に走っただけだと」
「碌に調べてもないのにどうしてそう思ったの」
「それは」
珠は言葉に詰まり、生唾を飲み込んだ。矛盾のない話をしなければならないと思うも、その筋道が浮かんでこない。
巫琴は勢いよく飛び起きると、人差し指を珠の唇に押し当て、その話の続きを断った。そして焦らすようにゆっくりと首を横に振る。
「悪足掻きなんか時間の無駄なんだから、もう白状しちゃってよ」
「なにを言いたいんですか」
「鎌鼬から目や耳を遠ざけて、その愚者の仕業っていうことにしておけば報告の義務に当たらないって珠ちゃんは考えた、ってあたしは思ってるんだけど」
「面白い話ですね」
珠は平静であろうと務めたが、それが成功したという自信はなかった。
これまでに五度、珠はその課せられた義務を履行した。しかしその結果、四度生死の境を彷徨わされ、その倍以上の窮地に立たされた。
冗談じゃない。そのように思った珠が苦し紛れに考えついた策は、巫琴の言葉そのままだった。もちろんそんな子供染みた屁理屈が許されるはずがなく、いずれ露見するに違いないとは思いつつも、その対策を先送りしていたのだ。
「残念だなー。本当にそう思ってるんだから」
「なんの話ですか」
珠の背筋を冷や汗が伝う。
巫琴は両手で顔を覆い、わざとらしくよよと泣き真似をする。
「あたし、珠ちゃんのこと大好きだし、とーっても信じてたのにあっさり裏切られちゃった。それが悲しくて、巫琴、泣いちゃいそう」
「そんなこ――」
ふいに珠の身の毛が弥立つ。その直後に襲ってきた槍で心臓を貫かれたような苦痛に上半身を大きく仰け反らせ、そして胸を押さえて蹲った。体を丸め、歯を食い縛って抗おうとするが、苦痛は治まる気配を感じさせず、むしろその勢いを増さんと激しく荒れ狂う。気道が塞がったかのように呼吸ができず、大きく見開かれた目から涙が溢れ、口から涎が垂れた。体は痙攣し始め、意識は混濁し、筋に力が入らないのだが、なぜか苦痛だけははっきりと感じる。
発作。その言葉が珠の内奥で瞬いた。
おかしい。今朝、確かに服薬した。それなのになぜ。
焦点の合っていない珠の瞳の中に、まだ泣き真似をしている巫琴がやけにはっきりと映った。指と指の間から見える硝子玉のような眼は冷徹を湛えており、珠の様子をじっくりと観察しているかのようだった。
転げ落ちるように珠の視界が暗転した。
死。それに包囲されていると本能が察した。
脳裏に少女の顔が浮かび上がった。能面のような表情をしていた。
ずっと見守ろうと思っていた。それが、こうもあっさりと断たれてしまう。それだけが心残りで、どうにも抗えない自分が情けなかった。
ふいに僅かではあるものの苦痛が和らいだ。気づけば口内にナニカが入れられていた。
必死に薄れていた意識を手繰り寄せ、力を振り絞ってそれを喉の奥に押し込んだ。すると炎に大量の水をぶちまけたかのように、猛り狂っていた苦痛はあっさりと消えてしまった。
発作が夢や幻でないと実感するのは、指一本すら動かせぬほどの疲労に冒されているからだ。全身が冷汗で濡れ、それを気持ち悪いと感じながらもだらしなく体を横たえる他ない有様だ。
巫琴は満面の笑みを浮かべて、珠の髪を優しく撫でた。
「次はないんだから。それをちゃーんと覚えておいてね」