7.5、すべてあの夕日の所為
【7.5、すべてあの夕陽の所為】
事件から3週間が経った、ある日。
シマは病室に1人きりで、窓の外を眺めていた。足と腕と肋骨の骨折、および高熱が続いたため、入院生活を強いられているのだ。熱は引き、骨折も大方良くなって、退院はもうすぐである。
グレーと薄茶の町並みが遠く続いている。ずっと向こうにある小さな山は、灰色の空の下で緑色の薄い衣を纏っていて、ひどく寒々しい。もっと濃い色だったらいいのに、と思う。そうであれば、もう少しマシな眺めだっただろう。これでは何の慰めにもならない―――シマは、機嫌を損ねた子供がそうするように、ふいと顔を背けた。
ベッドの脇に置かれた白い置き時計を睨む。怯えたように震える秒針は12の頭上を通り過ぎ、長針は11と12との間で立ち往生している。悠然とした構えの短針は、もうすぐ2の元に辿り着こうとしていた。
いつもならこの時間に、こんなに暇を持て余してなどいない―――アイツが、リンが来ているから。
本来ここは、軍事関係者か肉親にしか入室を許されない病棟なのだが、いったいどうやったのか、リンは堂々と正面から入ってきていた。それも毎日。聞けば、トキタ大将のご厚意で、午後のみという条件の下、面会の許可をもらったらしい。それで、彼はシマが入院したその日から、毎日欠かさず1時半に現れ、面会時間の終了と共に去っていくのだった。聞いた話では、シマが熱に侵され寝ている間も、ずっと傍にいたらしい。
それが、今日はどうしたことだろう。一向に来る気配がない。窓際に置き去りにされたままの空の丸椅子が、所在無さげに影を落とす。
落ち着かない。非常に、落ち着かない。
(・・・今朝届いたこれの所為だな。うん、そうに違いない。)
シマはサイドテーブルの上の1通の書状を見た。今朝早く、トキタ大将の従兵が届けに来たのだ。真面目そうな男性で、『はじめまして。ウミノ、と申します。』と微笑んだ。童顔だったが、シマよりだいぶ年上であることはその端正な立ち居振る舞いから察せられた。
『本来ならば、トキタ大将からお渡しすべきなのですが・・・申し訳ありません。堅苦しい話は勘弁! などと仰って、何処ぞへ行ってしまわれて・・・。本当、振り回されるこっちの身にもなれと―――っと、失礼いたしました。』
そう言いつつ手渡された、辞令の紙。その場で開くと、まったく想定内のことが書かれていた。
(どうやら、知らないうちに動揺していたらしい。・・・私もまだまだ、若いな。)
ふ、と苦笑をこぼす。
(・・・そういえば。)
シマが礼を言ったあと、ウミノは躊躇いがちに『僭越ながら―――』と切り出したのだ。言われたことは覚えているが、意味を理解することはできなかった。もう一度想起して、やはり分からなくて、首を捻る。気持ち悪いが、保留とするほかなさそうだ。シマは理解するのを諦めた。
時計を見る。短針と長針は依然としてその場所に居座ったまま、秒針だけが必死に歩を進めていた。その歩みがやけに愚鈍に映って、シマは目を細める。
沈黙が骨の髄にまで染み込んでくる。
おかしい――と、シマは思った――沈黙など、アイツがいる時でもよくあることだ。なのにどうして・・・どうしてこんなに、時が遅い。
いくらリンといえども、毎日数時間一緒に居れば、話題も尽きる。それでもリンは、ずっとシマの傍にいて、早く帰るという選択肢を選ぶことはなかった。黙ったまま、じっとシマを見詰めているのだ。睫毛の本数を数えるようにじっくりと。延々と眺め続ける。それがなんだか恥ずかしいような、こそばゆいような気がして、何か話しかけようと思う反面、その沈黙がなんだか心地良くも思えて、結局シマはいつも、黙ったまま横顔で視線を受け止めるのだ。
昨日もそうだったな、とシマは何の気なしに思い出した。昨日――空にうっすらと朱色が混ざり始め、1日の別れを気にし始めるころ、散々見詰められ続けたシマは、ついに聞いたのだった。
「・・・何が面白いんだ。」
「んー?」
「その・・・ずっと、見ている、ようだが。」
リンは、暗い夕暮れに溶け込むように笑った。
「うん。だってさ、俺らって、いつ死ぬか分かんねぇじゃん。」
さらっと告げられた事実に、シマは思わず奥歯を噛んだのだった。
「死ぬ、って時になって、あぁもっとシマと一緒に居れば良かったなぁって思うの嫌だし。さいごのさいごまで、シマのこと思い出しながらいきたいし。まぁ、どんだけ見たって、心残りは無くせそうにねぇけど。それにさ、シマが退院したら、こんな毎日、顔合わせることってできねぇじゃん――」とリンは窓外に視線を投じ、小さな声で「――・・・お互い、辞めない限り。」
はにかむように笑ったリンの顔が、夜を越えた今でも脳裏に焼き付いていた。
何を、とは聞くまでも無かった。軍人とレジスタンス。本来この2組織は、平行線を保つ存在であり、たとえ交わったとしてもそれは敵対心によるものだ。友好な関係を築くことは即ち、お互いの居場所を奪うことに繋がりかねない。それだけ、確執が深いということなのだ。
かく言うシマも、レジスタンスは嫌いだ。別に、真っ向から批判しようとか、大っぴらに喧嘩しようとは思わないが、常に無視を決め込もうとするくらいには嫌いだ。軍を辞めることになっても――なったが――レジスタンスにだけは決して入らないと断言できる。―――なのにどうして、私は今、彼を待っているのだろうか。
シマは再度、時計を見た。短針がようやく2時に着いたところだった。几帳面にもベッドの上で半身を起こしている自分が、いつまでも来ない恋人を待っているように思えて、意図せず顰め面になる。
シマは重々しい溜め息をこぼした。馬鹿馬鹿しい。きっと何か用事があって、たまたま来ないだけだ。別に、毎日来ると明言していたわけでもない。そもそも、だいたいどうして、私がアイツを待つ必要がある。
傍らの本に左手を伸ばす。この左腕は、少し前までは全く動かなかったのだが、最近ではどうにか動かせるようになっていた。引き攣れた傷痕は、昔の火傷痕に加えて、さらに痛々しく醜いものになっていた。医師の話では、もう二度と完全な状態には戻らないらしい。見た目も、動きも。けれど、もう困らないだろう。軍籍からは外れるのだから、困ることなど何も無い―――たぶん。
再び、嘆息。1人きりの病室で空気だけが揺れる。丸椅子は相変わらず、どことなく心許無げに使用者を待っていた―――否、それは自分の方だ。シマは開いた本を閉じ、また開いて、ページをぱらぱらと指からこぼしては、意味もなく目に付いた単語をのみ拾い上げていった。
(――と、言いますと? ――アリバイがあるんだ。――本当に? ――死んでいるみたいだわ――・・・。)
その時、扉が開いた。許しを乞う幼児のような、恐る恐るといった開け方だった。シマが目線を上げると、茶色のふわふわがしょげた顔で立っていた。シマはパタンと本を閉じて、素早く脇に置いた。
「・・・遅れてごめん、シマ。」
別に、約束していたわけではないのだから―――そう言おうとして、シマは口を閉じた。何か、違和感のようなものを感じたからだ。
黙り込むシマに勘違いをして、リンがさらに縮こまる。
「シマ・・・怒っ、てる?」
その問いが見当違いのものに思えて、シマは瞬いた。
「・・・いや、怒ってなどいないが。」
「本当に?」
「あぁ。どうして怒る必要がある。」
「いや、まぁ、その・・・ま、怒ってないならいいや。」
リンは安心したような笑みを見せ、いつもの通り、窓際、シマから見て左側の丸椅子に座った。使用者を得て、ようやく丸椅子が落ち着きを見せる。いつもならそこで窓を開けるリンが、今日はそれをしなかった。
「体調はどう?」
「変わりない。」
「左腕はどんな感じ? あ、少し動くようになったんだっけ。」
「あぁ、少しだけな。」
「そっか、それは良かった。っと、退院っていつだっけ。」
雑談をしながら、シマはずっと彼を見ていた。頭の先から、ゆっくりとなぞるように視線を下へ。リンはどこか落ち着きがなく、会話が切れるのを避けているようだった。
「来週だ。」
「来週のいつ?」
「水曜日。」
「へぇ、じゃあ、結構すぐなんだなー。えっと、軍って、すぐ復帰すんの?」
「いや・・・―――」
そこで目は彼の足元まで落ち、ようやく気付いた。
「―――・・・左足。」
「っ。」
「見せろ。」
「・・・っとー・・・。」
シマの命令を逸らす言葉を探して、リンの目が宙を漂う。
シマは容赦なく、冷淡な声音で、
「見せろ。」
と繰り返した。
逃げられないと察したリンは、気まずそうに座り直した。ゆっくりと体側をシマの方に向けて、申し訳程度に左足を差し出す。シマは横柄に、ズボンの裾をめくるよう指で指示をした。渋々、リンがふくらはぎを晒すと、そこには汚い包帯――正確に言うと包帯代わりのぼろきれ――が巻かれていた。怪我。新しいものらしく、血がまだ止まりきっていないようで、鮮やかな赤色が滲み出ていた。
リンは言い訳じみた言葉を並べ立てた。
「や、そのー・・・なんかさ、リスみてぇなちっちゃいのがいてさ、ソイツ、よく見えなかったんだけど、なんか、すげぇ牙みたいの持ってて・・・よっしゃ戦闘終わったー! って思ったら、足に噛みついててさ。それが結構深々とやられちまってて・・・―――シマ?」
突然リンは言葉を切って、シマの顔を覗き込んだ。しかしシマは、自分が今どんな表情をしているのか分からなかった。ただ、リンの心配そうな目付きに、歯痒い思いを感じた。
「・・・遅れたのは、アイツらが出たからか。」
「あぁ、うん、まぁ・・・そうなんだけど。来る途中に匂ったから、つい、な。そんな多くなかったから、すぐ片付いたんだけど、それでがっつり服汚れちゃったから、一旦着替えに戻って・・・それから来たから、余計に。」
「・・・。」
自分の知らないところでリンは戦って、怪我をした。そんな当然のことが、少し前までなら日常茶飯事で何とも思わなかったことが、今はどうしようもなく癇に障った。どうして自分は戦っていないのだろう。どうして彼だけ戦っているのだろう。どうして彼だけが傷付いて、自分はこんなところで暢気にしていたのだろう。
じれったい。もどかしい。やきもきする。隔靴掻痒。すべて同義語だ。―――ならば、自分はどうしたいんだ? どうなって欲しいんだ?
その時、ふと、まるで脈絡も無く感覚的に、ウミノの言葉が脳に浸透して意味を持った。
『僭越ながら・・・ヤヅキ中佐は、かなり無欲であるように見受けられます。無欲であって困ることなどそうそう無いでしょう。――ですが、時には我が儘になることも必要ですよ。こんなご時世です。大切なものなどあっという間に、消えていってしまいます。近くにあることを当たり前だと思ってはいけません。それは、奇跡に等しい僥倖だということを、自覚するべきです。そして、しっかりと掴んで、離さずにおくべきですよ。・・・あなたが、それを望むのでしたら。―――差し出がましいことを申しました。では、私はこれで、失礼いたします。』
「・・・シマ?」
「・・・なぁ、リン。」シマは静かな声で話し出した。「私は、軍を辞める。正確に言うと、懲戒免職処分になった。1ヶ月後には、軍籍を剥奪される。」
「え、なんで? なんでシマがそうなんの?」
「上官の命令に背いた挙句、その上官を脅して軟禁した上に指揮権を奪い、最終的にその指揮権すら放棄して単独行動をしたからだ。」
こうして冷静に並べてみると、なかなか非道な行いだった。無我夢中だったとはいえ、よく出来たものである。
シマが逆らった『待機』という命令は、本当は正しいものなのだ。軍人といえども人間である。そして未知の怪物を相手にするのだから、無闇に動けばいたずらに命を散らす羽目になる。1人の軍人の死は、その軍人に救われるかもしれなかった民間人の死でもある。なおかつ、往々にして正規軍は人手不足だ。無駄死にはできるだけ避けたいのである。
それに、怪物どもというのは、嗅覚も視覚も並程度だが、人間の生体エネルギーを追うように移動する傾向が見られていた。人が四散すれば化け物も四散し、人が一カ所に集まればそこが標的になる。兵力が充分でない状態では、下手な手を打つことは自殺行為であったのだ。
シマはそれらの事情を理解した上で、逆らった。今回、シマが被害を最小限に押しとどめられたのはひとえに、部下たちの優秀さと、幸運だったが故のことである。
「・・・私は、軍人として最低のことをしたんだ。」
シマは弱々しく呟きながら、戸惑っていた。
(こんなことを言ってどうするのだろう。私は何を望んでいるんだ? リンなら、絶対に―――)
「でも、そのおかげでみんな助かったんだよな。みんな言ってたぜ。あの軍人さんは良い奴みたいだ、って。」
―――ほら、やっぱり慰めてくれた。
嬉しい、のだろうか。シマは自分の感情を持て余して、出来の悪い犬みたいに、弱音を繰り返した。
「ただ、運が良かっただけだ。もしかしたら、軍隊ごと全滅していたかもしれない。私は、人の命を預かる者としての選択を間違えたんだ。公私混同して暴走して、こんな怪我まで負って・・・無様なことだ。」
「そんなことねぇよ! シマはめっちゃカッコいいよ! それに・・・」と、リンは何故かそわそわした様子で「公私混同、ってことはさ、俺のこと・・・民間人としてじゃなくって、ってことだよな。っくー、うわー、ごめん、俺すっげぇ嬉しい。シマは悩んでんのにな。ほんと、ごめん。」
改めて言われると気恥ずかしくて、シマは「・・・別に、悩んでなどいない。」と調子外れのことを言った。
「それにほら、終わり良ければすべて良し、って言うだろ。結果オーライだって。軍人としては間違ってたとしても、俺はシマが正解だったって思うぜ。」
そう言って、リンは笑う。何のわだかまりも無い、純真無垢な笑顔。その顔を見ていたら、緊張と安堵と幸福と畏怖と、いろいろなものがない交ぜになった感情が胸の内で暴れ回って、それに触発されたように脳みそが繰り返す。奇跡に等しい僥倖だ、掴んで離すな、と。
シマはついに口火を切った。それはまさに、口火を切るという行為であって、爆弾に点火する時の心持ちだった。
「・・・軍を辞めたら、私には行く場所がない。レジスタンスにはどうしても入れないし、実家にも帰れない。他に仕事を探そうとしても、私はずっと軍にいたから、社会の常識がどんなものなのかまったく分からない。・・・情けないことだが、私1人では、生きていけないんだ。だから、その・・・―――ひとつ、頼んでもいいだろうか。」
「うん、いいよ。」
あっさり返ってきた承諾に、ほっと一息をつく。しかし本題はここからだ。シマは唾を飲み込んで喉を湿らすと、
「―――・・・私と、共に、生きてくれないだろうか。」
と、告げた。
「リン以外に、頼れる人間を知らないんだ・・・いや、もし他にいたとしても、私は・・・お前と、一緒に居たいと思う・・・――」
――死ぬ時まで。
最後の方の声は掠れてしまって、唇が音の形をなぞるだけだった。
なぜか、羞恥と一緒に恐怖があって、シマは彼の怪我の辺りを見詰めてばかりいた。
さっきのように答えが返ってこないことに唇を噛む。言わなければ良かった、という後悔の念がよぎる。沈黙が全身に突き刺さって、痛みに耐えかねたシマは血を吐くように続けた。
「・・・無理強いをするつもりはない。お前が嫌なら―――」
「嫌なわけがねぇじゃんっ!」
「っ?」
いつも温かい手がシマの頬を包んで、ぐいと引き上げた。爛々と輝く金色の瞳が間近に迫る。
「え、俺、おれ、一生シマの傍に居ていいの? 本当に? 居てもいいのなら勿論、喜んで、一瞬も離れないよ! むしろ俺の方から頼み込みたいぐらいだよ! だいたいさぁ、シマのこと好きになったの俺の方だぜ? 大好きな人から頼られて、嬉しくねぇわけがねぇじゃん! 断るはずがねぇじゃん! あぁもう、シマ大好き! 本っっっっっ当に好きだ! 愛してる!」
そう言ってリンは、シマに短いキスをして、雲の向こうにあるはずの夕日のごとく輝かしく笑ったのだった。
(・・・頬が熱いのは斜陽の所為だ。窓が西向きだからな。)
シマはそう思うことにした。




