第10話
翌朝、私は工場長にお礼を言いに行った。今まで、カオスの修理に部屋を使わせてくれたことや、かくまってくれたこと。カオスにはもう戦闘機能はないということも。ケンの話を出すと、ケンの身に危険が迫るかもしれない。だから、爆発のショックで壊れたのだと言っておいた。
工場長は、無精ひげを生やした、いかにも怖そうなおじさんだった。けれど、私がお礼を言って頭を下げるなり、彼は優しい声で、どういたしまして、と言ってくれた。そして、まだこの事務所にいてもかまわないとまで言ってくれた。しかし、私はもうここを出るつもりだった。行き先もないけれど、私ともう一体、ロボットが入るくらいのスペースを持ったアパートくらい、探すつもりだった。学校は、工場が壊されてから、きっぱりと辞めてしまった。もともと成績も危うかったから、何かきっかけさえあれば辞めてしまう度胸くらいできていた。
コンバットの製造会社は、ケンの言ったとおりつぶれていた。ケンがカオスを見に来たその日。何世紀も形を変えずに残っている新聞の夕刊に、大きく見出しが出ていた。ケンは、『明日か明後日』と言っていたが、その日のうちに載るとは思わなかった。もちろん、その中心となった人は、警察のもとにいる。責任者を失った会社は、もうやっていけないことになったのだ。
私はカオスの眠る修理部屋へ行った。カオスの充電は、もうあと数分で完了する。次に目覚めるころには、彼の頭の中には、『カオス』という名前も、『リン』という名前もない。また一から出直しということになるのだろう。
部屋中に高らかにブザーの音が響いた。充電が完了した合図だ。私は息を呑んで、横たわるロボットの顔を見つめた。
ロボットはぴくりと動いた。かすかにまぶたが開く。
しばらく薄く目を開き、天井を見つめていた。そして、今度は大きく目を開いた。一つ、深く呼吸をする。
ゆっくりと上半身を起こした。目の前の壁を見つめる。そして、隣でじっと自分を見つめる人間に気付く。その人間の目をじっと見つめ返す。顔はずっと固まったままだ。
私は、その一連の動きを、微動だにせず眺めていた。生まれたてのロボットで、感情の機能を備えているロボットは、みなこのような行動をする。過去に万次さんと直したロボットにも、このような行動をとるものはたくさんいた。だから、とくに何も不思議に思わなかった。しかし、ただ一つ、どうしても理解できないことがあった。
彼の目は、やはりセピア色をしていた。
オリーブグリーンの鮮やかな瞳ではなかった。彼は今、セピアの街の住人なのだ。あの日見た夢と同じだった。身体は確かに人間の街にいる。それなのに、彼の心はセピアの街、つまり、ロボットの街にいるのだ。私は言葉を発することができずにいた。カオスが目覚めたら、話してやりたいことが山ほどあった。たとえ彼の記憶がなくなっていたとしても、はじめましてのあいさつくらいはするつもりでいた。しかし、そのために用意していたせりふは、すべて吹き飛んでしまっていた。
「だれ」
ロボットは私に問いかける。首をかしげ、私の目を見つめる。セピア色の目は、疑問に満ちた様子で私と向き合っている。
「だれ」
私は名前を言うことができなかった。パリンと、胸の中で何かが砕けた気がした。気付けば涙を流していた。前までのロボットだったら、――カオスとしての記憶の残るロボットだったら――私はきっと迷わず彼の胸に飛び込んで泣いただろうに。けれど、今はもうそれができずにいた。彼は、私にとってまったく知らないロボットだ。そして、彼にとっても、私はただの見知らぬ人間なのだ。そのことを考え出したら、もう感情を抑えられなかった。私は修理部屋を飛び出した。長い廊下を駆け抜け、スクラップ場へ走った。命の抜けたロボットの身体が、あちこちに横たわっていた。
足元を見ると、そこに小さな犬のロボットが落ちていた。前足が一本なくなっている。瞳が両方とも抜け落ちている。あまりに無残な姿だった。それを拾い上げると、私はそっと抱きしめた。
――リンは強い子だ
万次さんの声が聞こえた気がした。でも、私はもう、自分が強い子だという自信が持てずにいた。カオスが私のことを忘れてしまったことだけで、もうこんなに悲しくて、泣くのを我慢できずにいる。こんな私は、きっと世界で一番弱い存在なんじゃないかと思った。
私は数時間、そこでロボットの抜け殻を眺めていた。途中、何台か作業用のロボットが通り過ぎた。彼らは無言で、自分の仕事だけをこなしにいってしまった。感情はない。ただ、人間の命令に従い、あくまで自分の与えられた仕事だけをこなすために存在している。
カオスは、人間の命令に従い、人を殺すためだけに作られた。しかし、ケンによって自在に考える力を与えられ、人を大切にすることも知った。今、カオスの頭の中身は、またその名の通り、混沌としていて何の秩序もない。何の決まりもないから、彼に何を言おうときっとすべて無駄にきまっている。私はじっと考えた。これから、彼とどう過ごしていけばいいのか。
私はゆっくりと目を閉じた。
夢――を見ているのだろうか。混沌とした時の流れの塊に、私は独り、ぽかんと浮かんでいた。その流れは、速くなったかと思うと、急にものすごく遅くなったりして、まったく何の秩序もない。
足元に地面はなかった。空もなかった。辺りは真っ暗だった。
私は、思い切り走り回りたい衝動にかられた。手足をじたばたさせた。しかし、地面がない。私は、この足が踏みつける何かを求めて、必死にもがいた。だんだんと息ができなくなってくる。一度吸い込んだはずの空気が、うまく肺の奥まで行き渡っていない。私は気を失った。
気がついたとき夢か現実か定かではない世界の中で、私はどこぞやに横たわっていた。そこには、きちんとした地面があった。見覚えのある景色……。瞬時に私は思い出した。地面も、空も、自分自身も、すべてがセピア色に染まった世界だった。ロボットたちの、セピアの街だった。ゆっくりと起き上がり、私はあたりを見回した。空の果てまで伸びる地平線の奥から、誰かがこちらへ歩いてくる。私は、その姿を確かめる間もなく、すぐにそれが誰か分かった。
「カオス」
夢中でその『誰か』に走っていった。その『誰か』は、近寄ってくる私の姿に一瞬おびえたようだった。それは確かにカオスだった。セピア色の瞳をした、ロボットの街の住人であるカオスだった。
「カオスでしょう?」
息をはずませて私は尋ねた。セピア色の瞳のカオスはうなずくことさえしなかった。私は、ゆっくりと彼の手を取ると、自分の胸にその手のひらを押し当てた。
「私のここには、あなたとの思い出が全部詰まってるの。あなたは知らないかもしれないけど」
カオスはセピアの瞳で私を見下ろしている。私は繰り返し、繰り返し、彼に言った。
「私の名前は、リン。あなたの名前、教えてくれる?」
何度繰り返したか分からない。けれど、私は、あきらめなかった。
「教えて。あなたの名前を」
カオスはぴくりとも動かなかった。私は、彼の手を離し、彼に抱きついた。そのがっしりした身体に、腕を回した。やはりそれでも彼は動かない。森の奥の、孤独な一つの岩のように、頑として動かなかった。それでも構わず、私は言葉を続けた。
「私ね、あなたのこと、大好きよ」
カオスの着ていたシャツからは、懐かしいオイルと鉄の香りがした。私は、また何度も何度も、それこそ彼の耳にタコができるくらい、言葉を繰り返した。
「大好きよ。あなたのこと」
どれくらいそんなことを続けただろうか。私は、何も考えずに、ただ同じ言葉をゆっくりと言い続けた。
ふと、私は、万次さんの言葉を思い出した。
――おまえのリンという名前。誰が付けたか知っているか?
そう言えば、私のこの名前は、唯一親が残したものだった。私は、小さな声で、『リン』という言葉を唱えてみた。すると、頭の上で、誰かが『リン』と発音した。
思わず見上げると、そこにはカオスの顔があった。カオスは、抱きついたままの私を見下ろし、低くよく通る声で、『リン』とつぶやいた。私はその瞳を見た。奥の方に、微かにオリーブグリーンの輝きが見えた。
「カオス?」
私が問いかけると、彼はもう一度、リン、と言った。私は、彼に尋ねた。
「私の名前は、リン。あなたの名前、教えてくれる?」
ゆっくりと、確実に、彼は答えた。
「カオス」
もう一度、彼は言った。
「名前は、カオス」
私は、また、ぎゅっと、彼の身体に抱きついた。彼は、ぎこちない手つきで、私を抱きしめた。
「カオス、私ね、あなたのことが大好きなのよ。世界で一番。大好きなのよ」
もう、彼がロボットであろうとどうでもよかった。ただ、私はカオスを愛していた。一人の人間として。
「リン」
カオスがゆっくりと言う。
「リンのこと、大好きだよ」
その言葉を聞き、私が顔を上げたとき、今度は彼の瞳は、深い鮮やかなオリーブグリーンをしていた。そして、セピアの世界は崩れ落ち、後には鮮やかな世界が残っていた。カオスの黒い短髪も、空の鮮やかな紺青も、大地の濃くどっしりとした肥沃な色も。
カオスが静かに言った。
「しばらく会えないけど、きっとまた元に戻る。俺は、リンの心の中にちゃんといる。リンは強い子だから大丈夫。だから、もう悲しい涙を流しちゃいけない。俺は、リンのこと、信じてるから」
私はもう一度彼の胸に顔をうずめ、さっきよりも強く抱きしめた。カオスは、強く、けれど優しく私を抱きしめた。
もうすべてが上手く行く。私は、そう思った。足元で、地球が音を立てて回転しているのを感じた。地軸の傾きさえ、感じられた。私は、そのとき、嬉しくて泣いた。
――目が覚めた。
足元には、さっき私が拾い上げた壊れたロボットが転がっていた。スクラップの山にうずもれたロボットが、私を見つめている。私はそのロボットたちのセピア色の瞳を見て、にこりとした。
戻ろう。ゆっくりと立ち上がって、私は工場へ足を運ばせた。
すべてがまた始まる。紺青の空が、私を見下ろしている。大きく空の青を吸い込んだ。鼻歌を歌った。万次さんがよく歌っていたものだった。耳の奥から、低い、よく通る声が私を呼んだ気がした。一度立ち止まり、大きく背伸びをして、また歩いた。工場は少しずつ近づいてくる。 戻ったら、また一から始めよう。
もう私は大丈夫。すべて上手く行く。何の根拠もなしに、そう思えた。
地球の回転が、空を通して伝わってくる。太陽の傾きが、地軸の傾きを教えてくれた気がする。