第9話
翌朝、工場に戻ると、お兄さんが心配そうな顔をして駆け寄ってきた。ケンのところに行っていたのは、わずか一日だけのことだったのに、どうしてかその一日は長く感じられた。
それにしても、これほどまでにことが上手く行くのはおかしいと思った。ケンのいる町に着くと、あのロボットがケンのもとへ私を連れて行ってくれて、そして、ケンはすんなりとコンバットについて教えてくれて、私にこのプログラムを与えてくれて…。何もかも上手く行き過ぎている。どこかに落とし穴がありそうで、怖かった。
一日ぶりのカオスの顔は、相変わらず綺麗だった。私はカオスにただいまを言うと、さっそく、ケンに渡されたプログラムを使い、カオスの戦闘用の機能を壊すことにした。
怪しいあの男たちに、カオスを持っていかれる前に、彼のコンバットとしての力を壊さなくてはならない。ケンもそれを望んでいた。だから、私はすぐに仕事に取り掛かった。
プログラムをコンピューターに入力しようと、機器に手を触れた瞬間に、耳の奥から声が聞こえた。頭の中身に、直接聞こえた、と言った方が適しているようだった。
――リン
聞き覚えのある声だった。聞き間違いかと、私はとくに気にもせずに仕事を続けようとした。しかし、また耳の奥から声がした。それはまた私の名前を呼んだ。
「誰?」
私が尋ねると、声は何も言わなかった。もう一度問いかけたが、返事はなかった。そこで、私は目をつぶって強く念じてみた。心の奥底で、私は声に問いかけた。
――誰?
――僕だよ
そう、その声はケンだった。昨日別れたばかりなのに、一体どうしたというのだろう。
――コンバットの戦闘機能の処理を、今すぐ行ってもらいたい
彼の声は少々上ずっていた。焦りが感じられる。
――どうしてですか?
――君のいる場所に、製造会社の人間が迫っている
製造会社の人間?カオスの居場所がばれたということだろうか。私は動揺を隠せないままに聞いた。
――じゃあ、私はどうしたら…
――今すぐ壊すんだ。戦闘機能を。
そこまででケンの声は途絶えた。彼の科学技術はどこまで進歩しているのだろう。テレパシーのようなものが扱えるなんて。私はしばらくぼーっとしていたが、すぐに正気に戻り、コンピューターに手を伸ばした。そのときだった。
修理部屋の外の廊下で、銃声が響いた。鉄の塊が落ちる音がした。私は、背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。振り返ると、鍵をかけたはずの扉が開き、開いた先には、いつか見た、武装集団の一人がいた。万次さんを撃ち殺した、あの武装集団と同じ格好をしていた。
これもおそらくはロボットに違いない。その武装兵は、持っていた銃を、静かに私に向けた。考える間もなく、万次さんを撃ち殺したときと同じ銃声が、私の耳を貫いた。
私は目をぐっとつむった。このままカオスともお別れだろうと、諦めの思いが胸を痛めつけた。銃声は数発、立て続けに聞こえた。
おかしなことに、焦げ臭い香りが鼻についたのにもかかわらず、私の身体は無傷だった。万次さんはもういない。私を守ってくれるものは何一つないはずだった。ゆっくりと目を開いたその先で、武装兵のロボットがバラバラの部品になって崩れ落ちていた。あっけにとられた私の視界に、背の高い男性の後姿があった。どこかで見た後姿。黒髪の短髪。
「カオス」
私は震える声でつぶやいた。私の声に気付き、その男性は振り返った。確かにカオスだった。カオスは修理中のはずだった。どうして動くことが出来たのだろう。
「動けるの?」
もう一度尋ねると、カオスは私の頬に手を伸ばそうとして、そのまま倒れこんでしまった。倒れこんだカオスは、ぴくりとも動こうとせずに、床にうつ伏せになっていた。
その倒れたカオスの背中を見つめていると、私は視界がぐちゃぐちゃになった。ぽたぽたと、涙が目から溢れ出た。どうしてこんなに涙が出るのか、自分でもまったく分からなかった。けれど、ただ涙がぽろぽろこぼれるから、こぼれるがままにしておいた。自分でも理由が分からないから、自分ではどうしようもなかったのだ。
ケンの声はもう聞こえなかった。壊れてばらばらの鉄くずになった武装兵は、悲しげな光を帯びて、冷たい床の上でこちらを眺めていた。私は、涙はそのままに、崩れ落ちたそのロボットの欠片を、スクラップ場へ運んだ。命の抜けたロボットたちとともに、その武装兵も、スクラップの山の一部となった。
修理部屋へ戻り、カオスを修理台の上へ戻すことにした。しかし、カオスの身体はひどく重いので、私ひとりの力では、運び上げることができなかった。適当に、部屋の前を通りかかった作業ロボットを呼び、カオスを運ぶのを手伝ってもらった。電子音を響かせながら、作業用ロボットは快く引き受けてくれた。そして、仕事を終えると、すぐにどこかへ去って行った。カオスは、相変わらずの美しい顔をして、天井の一点だけをじっと見つめていた。私は、カオスの顔をじっと見て、小さな声でありがとうを言った。彼に命を助けられたのは、これで二度目だった。
ケンからもらった小さなチップを、コンピューターに挿入すると、何本もあるコードをカオスの身体に取り付けた。あとは、スイッチを一つ押すだけで、自動的に彼のコンバットとしての機能は破壊される。これでカオスが、普通のロボットとしてやっていける。戦闘用としてのロボットよりも、きっとずっと幸せになれるはずだ。私は、カオスに問いかけた。
「戦闘用でなくなっても、後悔しない?」
カオスはじっと天井を見つめていた。電池が切れている。当たり前だ。しかし、私の目には、かすかに彼がうなずくように見えた。気のせいかもしれない。けれど、確かに彼は柔らかく微笑んだ。
私はスイッチを押した。
気がついたら朝になっていた。壁にもたれかかって、私は熟睡していた。寝ぼけた頭のまま、私はコンピューターの画面を覗いた。すると、そこには、『complete』の文字が浮かび上がっていた。コンバットとしての、戦闘用としての機能が、ついに破壊されたのだろうか。カオスは相変わらずだ。私は急に不安になった。失敗していないだろうか。本当に、私はケンの言ったとおりにできたのだろうか。
緊張の眼差しで、カオスの瞳を見つめていたとき、ケンに渡されたあの金属のプレートが頭をよぎった。ジーパンのポケットに入れたままだったはずだ。私はジーパンの後ろのポケットを探り、あのプレートを取り出した。ケンの名前と、画面に小さな番号が浮かび上がっている。あの地下室で見たときと、番号が変化している気がした。明らかに電話のそれでも、無線機のそれでもない。一体何なのだろうか。私は、昨日、ケンがテレパシーのようなものを使って私に話しかけてきたことを思い出した。このプレートと、あのテレパシーのようなものは、何か関係があるのだろうか。試しに、近くに置いてあった電話に、この番号をダイヤルしてみた。聞こえるのは、低いブザーのような音だけだった。電話じゃない。それでは、どれなのだろう。無線機はこの部屋には置いていないが、おそらくお兄さんに聞けば在り処くらい教えてくれるかもしれない。しかし、ケンのような優れた科学者が、無線機などを使うだろうか。もっと、高度な技術を駆使したものかもしれない。私は、プレートを胸に当ててじっと考え込んだ。
――ケン、どうしたら話ができるの?
もし、万次さんだったら、どうするだろう。私がそう考え始めたときだった。耳の奥で、またケンの声がした。
――リン?リンなのか?
確かに聞こえた。私は、プレートを胸に当てたまま、昨日と同じように強く念じた。
――ケン、私の声、聞こえるんですか?
――もちろんだとも。
――カオスのことで。
私は、昨日、ケンとの会話が途切れたあとのことを説明した。武装兵のこと。戦闘機能を壊したこと。ケンは声を高らかにして、安心したように答えた。
――おそらくうまくいっているはずだ。
――今、彼は充電中です。 外傷もほぼ治しましたし、あとはあの機能がうまく破壊できているかどうか。
――僕が今からそちらへ行こう。
ケンは軽い口調で言った。ケンが来る?どうやって?
――すぐに着けるから、少しだけ待っていてくれ。
それだけ早口に言って、また通信は途絶えた。いくら念じても、もう彼の声はしなかった。あれだけ離れた田舎の町から、こんな都会の真ん中のスクラップ場まで、彼はどうやって来るつもりなのだろう。それも、誰にも気付かれずに。彼はおそらく追われる身のはずだから、人に見られてはいけない。ああまでして、誰にも分からないような地下室を作るくらいなのだから。
「ねぇ、カオス? あなたを作ったご主人が、もうすぐこっちに来るんだって」
カオスは無表情のままだった。
10分ほど固まったままで、私はカオスを見つめていた。ケンはどれくらいで来るつもりなのだろう。彼の技術をもってすれば、瞬間移動のようなことも可能なのだろうか。私は少し疲れていたので、大きなあくびをした。目をこすりながら、私は後ろにあるコンピューターの方を見た。すると、驚いたことに、そこにケンがいた。
「ケン?」
思わずつぶやいた。イスに座り、彼はじっと画面に手を触れている。
「ケン、いつの間に?」
ケンは、ゆっくりとささやくように話した。
「うまくいっている。 さすが、柏木万次の教え子だ」
嬉しそうに笑った。私は、思わずケンの隣から、コンピューターの画面を覗き込んだ。
「大丈夫。 充電さえ済めば、カオスはまた動けるようになる。 おそらく数日かかるだろうけどね」
「本当ですか?」
私は思わずケンに抱きついた。ケンはよろめきながら、私の身体を受け止めた。私は抱きついたまま、ケンに聞いた。
「どうやってここまで?」
「君の持っているプレートがあるだろう」
私は、ケンから身体を一旦放すと、ポケットに入っていたプレートを取り出し、彼の手に置いた。ケンはその文字の上を指でなぞりながら言った。
「この番号は、地球表面の座標を表しているんだ」
ケンは難しいことを言った。私はよく分からなかったが、とにかくうなずいてみた。
「この番号で、君のいる位置が割り出せる。 そこへ、瞬間とまではいかないけれど、移動をした、というわけだ。 科学というよりも魔法みたいだね」
そう言って、無邪気に笑って見せた。ケンは、ゆっくりとコンピューターの画面に手を這わせている。指先には、指輪のようなものがはめられていた。
「この指輪、何ですか?」
「私は目が見えないからね。 これのおかげで点字と同じように文字が読める」
「…その指輪が、平らな文字でも点字と同じように? …してくれるってことですか?」
「そうだ。 目が見えないから、これがあるとすごく便利だ。 普通の平面の本でも読むことができる」
私は思わず溜め息をついた。彼に不可能という文字はないように思われた。目が見えないことを、ハンディキャップとしてとられていない。そんなハンディキャップは、彼の前では何でもないようだった。
ケンが画面の上を一通り読み終わったと思われたころ、私は尋ねた。
「これから、私とカオスは普通の生活ができるんですね」
ケンの顔が一瞬曇った。
「どうかしたんですか」
「残念だけどね」
ケンは静かに告げた。
「彼の記憶…つまり、メモリーシステムが、戦闘用機能を壊したときに、いっしょに壊れてしまっている」
私は耳を疑った。カオスの顔を見た。瞳の色が、少しセピアがかったように見えた。
「失敗…ということですか」
「いや、失敗ではない。 これ以上ないくらいの成功だ」
「じゃあ、どうして…」
「あのプログラムは、あまりに強すぎるんだ。 何せ、もともとの主要な機能であった戦闘機能を壊すくらいだからね。 他の機能に支障が出てもおかしくない。 人間で言う副作用のようなものだ」
私は愕然とした。何も言えなかった。
「メモリーシステムが壊れたと言っても、今までの記憶が飛んだだけだ」
ケンは私を慰めるように言ったが、私はそんなものは慰めに思えなかった。今までのカオスとの会話も、楽しかったことも、すべて消えてしまっている。つまり、今のカオスにとって、私はまったく知らない赤の他人なのだ。
「それに、コンバットの製造会社には私が手を回してある。 もう襲ってくることもない。 平穏に過ごせるはずだ。 明日、もしくは明後日の朝刊にはそのことが一面記事で載るだろう」
私はそんな言葉には耳もくれなかった。カオスとの日々が消える。そのことだけが、私の思考回路を巡っていた。ケンは、悲しそうに、小さく、すまない、と言った。私は首を振りながら、大丈夫、と言い、このプログラムを与えてくれたこと、それから、今までの助言、お世話になったことに対してお礼を言った。
「この子に会うのは本当に何年ぶりだろう。 もし私の目が見えていたなら、あの美しい瞳を見ることができただろうに」
ケンは残念そうに言って、ゆっくりとイスから立ち上がると、手探りでカオスのいる修理台のところまで行った。そして、そっと、生まれたての卵を扱うように、優しく手を這わせた。ちょうど、万次さんが初めのときにしていたように。しばらくの間、再会をじっくり味わうように、彼はカオスと無言の会話をしているように見えた。私が治した傷跡に触れながら、何度も小さくうなずいた。
ケンは一通りカオスに触れ、彼の開いたままのまぶたをそっと閉じた。そう言えば、私はあの瞳の色を忘れたくなくて、彼の瞳を開けたままにしていた。私は、カオスは眼球が乾いて仕方なかっただろうなと、少し笑った。
しかし、閉じる瞬間のカオスの瞳は、完全なオリーブグリーンではなかった。どちらかと言えば、セピア色――。
私はそれについては何も言わなかった。戦闘機能を壊してから、少しだけ、カオスの瞳の色が変化した気がしていたが、それは気のせいだと、自分自身に言い聞かせていた。ケンは、最後に私の頭を撫でると、ゆっくりと姿を霞め、消えていった。もとのあの地下室に戻ったのだろう。何となくだったけれど、彼とは二度と会えないような、そんな気がした。ケンは人間だろうかという考えが、ふっと頭をよぎった。私のような凡人では計り知れない頭脳。まるで、神様のような――。
私はカオスの顔を見つめた。彼の記憶に、もう私の名前は残っていない。おそらく、彼の名前である、『カオス』という言葉すら、忘れてしまっているだろう。充電は、あと一日もあれば済んでしまう。どうせ私のことが記憶にないのなら、このまま彼が眠ったままでもいいと思った。
部屋の壁を隔てた向こう側で、鉄の触れ合う音が聞こえる。スクラップ場では、何千体ものロボットが運ばれ、どこかの工場で溶かされ、別の鉄の部品になっていることだろう。カオスも、もしかしたらそのうちの一つに加わっていたかもしれなかった。
目がじーんとしてきて、熱い涙が頬を走った。無償に悲しくて、大声を上げて泣いた。こんな泣き方をしたのは、ロボットの猫を拾ったあの日以来だった。