人生を遊ぶことが彼女の信条
「あ、せんぱーい」
笹野美星は、くすの木の下の二人がけベンチに座って本へと視線を落としていた青年へと手を振った。こちらへ目を向けた青年に向かって息を弾ませて走っていく。くすの木に到着すると開口一番に青年へと謝った。
「はぁ、はぁ。ふぅ。あ、えっと。遅くなってごめんなさい。週直の仕事に時間がかかっちゃって・・・。だから、遅くなっちゃって・・・」
普段の待ち合わせ時間より十五分も遅れてしまった理由を説明しようとするが、まだ整わない息では当然しどろもどろな言葉になってしまう。それでも何とか伝えようとする彼女の真剣さが面白かったのか、青年はかすかに微笑みながら腕時計で現在時刻を確認。
「あ。結構時間たってたんだ。ぜんぜん気づかなかった」
彼女への気遣いの言葉か、単なる本音か、どちらとも取れるような返答。
「そうですか。よかったですぅ」
またしてもどちらとも取れない返答を返す。
これが故意かわざとか分からないからおもしろい。高島清二は再びかすかに微笑んだ。
「あ、先輩、読書ですか?」
息も整ってきた美星は、彼が右手に持っている分厚いハードカバーを指差して尋ねた。
「読書か・・・。自分は今、本を読んでいるのだろうか? ただ文字を眺めているだけではないのか? そう思うことはないかい?」
質問に質問で返す。こんな哲学的なセリフも清二が言うと格好がつく。
「うーん・・・私はあんまり本を読みません!」
まるでかみ合わない会話。だが────それでいい。
この解答の真意は・・・。清二は思考をめぐらせる。
一見したところ、『読書』『本』に反応した単純なものに見える。しかし、こんな安直なものであるはずはない。美星の場合は・・・。
「本は遊びに行くものですから!」
目をつぶりながら、何かを想像するように宣言した。右手の人差し指をピンと立てて。
「本に遊びに行く、それは比喩か何かか?」
「比喩、ひゅー。先輩そんなかっこいい言葉を使うんですか? さすがは言葉の飽和水溶液ですね!」
「・・・」
・・・思考放棄。意味がわからない。完全にお手上げだ。
今回も清二は早々と降参した。もちろんそんな宣言はせず、あくまで心の中でだが。
────これで九十七戦七十敗。またしても白星を与えてしまったか。
今日は降参が早すぎただろうか。しかし、いつにもまして今日の発言は特にわからない。
この後輩の思考は俺の理解をやすやすと超えていく。
────それが面白いのだが。
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『負ける』という経験に乏しい清二。それは『戦わないから』なんて拍子抜けな意味ではなく、文字通り『負けない』ということだ。それが運動であれ学業であれ、はたまた芸術でさえ、際立った成績を出す。
不足している才能は、努力で獲得する。何においても妥協はしない。それが高島清二の生き方だ。
そんな彼がここ数ヶ月ひたすら敗北している。相手はもちろん────笹野美星。
清二は美星の思考を読みきれない。そのため毎日負けている。
それは美星があまりに頭が悪く、ただ迷言をぶちまけているだけ、そう逃げることも、かなり無理やりだができる。
記録的には彼女の成績は学年三百人中百五十位。運動は中の下、運動神経に以上があるわけではないが、思わず笑ってしまうようなプレーを連発する。清二が、これらの情報で彼女を知った気になるような浅はかな人間であったなら、彼女を勝負の対象外にしたかもしれない。
だが彼は違った。美星のつくった嘘の成績、嘘の実力を看過し、彼女の本当を垣間見たのだ。
清二の見つけた真実によれば、彼女は十分どころか三十分と称しても過言ではない知能を持ち合わせている。もちろん運動においても。
ここで、彼女の正体を明かそう。
美星は────遊び人だ。
ここでは真の事実の断片だけを示そう。
テスト。美星のスコアはいずれも平均点付近だ。これが『普通』な彼らの見ている事実。しかし、彼女のスコアを正確に見てみると、いずれも平均点にもっとも近い素数なのだ。明らかに遊んでいる。
運動。彼女はよく転倒する。サッカーでボールをけるとき、バスケであと一歩でシュートというとき、テニスでスマッシュをうとうとするとき、ゲームの重要な局面で美星はミスを犯す。そして皆の笑いものとなる。それが『普通』の視点。しかし────彼女は怪我をしない。どんなとんでもプレーを行っても、怪我ひとつしない────確実に。確実に遊んでいる。
以上二つで十分に証明を果たしたかというと、それも否。これらから得られる情報ではいくらでも難癖がつけられる。
それならば、もうひとつだけ決定的な言質を、清二の胸の中にいまだに残っているあの台詞を。
「人生を遊んでいる? はい、そうですけど? 生きるって、そういうことじゃないんですか?」────疑いようもなく遊んでいる。
これが決定打。彼女が非凡であることの証明。清二が美星を同種と認め、人嫌いにもかかわらずたとえば今日も彼女を待っていた理由。二人が現在に至るまでにはまだまだ紆余曲折あるのだが、今日は割愛。
最後にもう一度言おう。彼女は────遊び人なのだ。
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清二は美星をじっと見る。この勝利を自覚していない勝者を。
「先輩? どうかしましたか?」
美星は怪訝そうに尋ねる。顔に何かついているのかと、両の手で口元をなでながら。
その商社に似つかわしくないしぐさに清二は苦笑する。
「俺が飽和水溶液・・・それについて二、三百質問したいところだが・・・ほれ」
彼は自分の横に置いたバックを足元へ下ろし、続けてズボンの左ポケットからハンカチを出した。それを美星へ差し出す。
暑さの盛りを過ぎたとはいえまだ九月、全力疾走をすれば必然と汗も流れる。自分を待たせないようにだろうが、息を切らして疾走してきた美星の額にもじわりと汗がにじんでいる。理解不能な発言で思考を乱してくる変人とて、汗はかくのだ。
「あ、汗だ。ありが・・・って先輩。私だって女の子ですよ、ハンカチぐらい自分で持ってるもん」
女子ならハンカチぐらい持参している。清二の行動が、自分を子供としてみているものに思った美星。若干膨れ面になりながら、その目的物をポケットから探し出す。
「いいから。汗たれるぞ」
ベンチから立ち上がって、美星の滴のたれかかっていた額へ赤色のハンカチをあてる。ハンカチを額から離してやると、その顔色へハンカチの赤が移っていた。
「わ、わわ。あ、あああありがとうございましゅ!」
「ふっ、どういたしまして」
清二はくすっと笑って再びベンチに腰を下ろす。
「もう・・・。自分の持ってたのに」
「本当に?」
「本当ですよ! ほら」
ポケットから青のハンカチを取り出し、からかう清二に見せ付けるように、びしっと広げてその眼前へ押し出す。
「ほら!」
美星が勝ち誇ったように、視界をそれで覆ってきた。その行動が子供じみていて、同時にかわいらしくも思わせる。
「本当だ。すごいな、さすが高島」
「え? そうですか? えへへ」
褒めに弱い、それが美星の特徴だ。たとえ毎日負けているからといって、相手の弱点も見つけられないほどに清二はおろかではない。すでに知り合って五ヶ月、子供っぽい後輩の手綱をうまく扱うことぐらいはできるようになっていた。
賞賛でうまくごまかされた美星は、すでに役目のなくなった青いそれを再びポケットへ戻し、ベンチの右側、心なしか真ん中の方へ腰を下ろす。
「ところで、先輩・・・」
くすの木の下、他愛もない会話が二人の間を流れている。




