表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

ピアニストとは

 心を入れ替えた涼介は、今までになく、講義に集中した。ホワイトボードに書かれたものだけをノートに写していたのを、講師が何気なく言った言葉まで、書き留めるようにした。自主的に勉強するということが、ここまで成績を伸ばすのかと驚くほど、涼介は順位を回復し、今度は母親からカンニングをしていないかと疑われる始末だ。しかし気分が良かった涼介は、あれから隔週にしていたピアノレッスンを再び毎週に戻し、今日もこれから隣のマンションへ向かうところだ。

 いつものようにタッチパネルを操作しようとすると、中からちょうど、誰かが鍵を開けて出てきた。

「あ、」

 思わず声を上げてしまう。それは、奥村の彼女だった。向こうも涼介に気付いて、愛想良く微笑む。

「こんにちは。今からレッスンでしょ? 頑張ってね」

 奥村と同じ匂いをさせて、通り過ぎて行く。小柄だが、スタイルの良い女性だ。屈託のない笑顔を向けるところも、奥村の印象に似ている。類は友を呼ぶ、という表現はおかしいのかな、と考えながらその後ろ姿を見送っていると、せっかく開いた鍵が閉まる音が聞こえ、涼介は再びタッチパネルを開いて、インターホンを鳴らした。

 最初は心臓が口から出そうなほど緊張したものだが、随分慣れたこの部屋。奥村は涼介の顔を見るなり、

「涼介は、甘いもの嫌いなんだっけ」

 そんなことを尋ねる。涼介は頷きながらも、見慣れたはずの彼の容姿を凝視してしまった。今日はポニーテールのように髪を高い位置で縛っていて、これでは村上がいつまでも女性と思い込むのも仕方ないな、と少々呆れる。

「彼女が昨日ケーキ買ってきてさ。余ったから一緒に食べようよ」

「嫌いだって言ってんのに」

「大丈夫。ここのケーキ美味しいから」

 今から涼介がケーキを食べることは、随分前から決まっていたことなのだろう。あらかじめ出してあった珈琲カップに、わざわざドリップした珈琲を注ぐ。

「たまにはこういうのもいいでしょ」

 勝手に言って、好きなの選んでいいよ、とテーブルの上にケーキを並べた。

「中学の頃、家庭教師のお姉さんが時々ケーキを買ってきてくれて、勉強の前にそれを食べながら少しだけ、話をする時間があったんだ。あれはドキドキしたなぁ」

 奥村は懐かしそうに、そんな話をする。甘いものは嫌いだったが、その家庭教師のおかげで好きになったらしい。

「それは、お姉さんだからだろ」

 誰が男同士でケーキを食べてドキドキするんだ。涼介は心底、自分の不運を嘆いた。奥村が女性なら、そういうドキドキを毎週味わっていたかも知れないのに。確かにケーキは美味しいが、涼介は未だに不本意だった。

 不本意ながらも、奥村と話していると、時間が経つのを忘れる。彼との会話は他愛のない内容には違いないけれど、友人たちと交わすものとはまたひと味違って、新鮮だ。敦司のように社会人の姉がいれば触れることもあっただろうが、仕事を持っている者の心境は、まだ学生の涼介には想像できないものだから。それに、彼女とのことを幸せそうに語る表情は、羨ましいを通り越して、涼介にまで幸せのお裾分けをしてくれるほどだ。それほどの幸せを、早く味わってみたいとも思う。何にしても奥村は、今までは受験しか見えていなかった涼介に、もっと先の楽しみがあることを教えてくれた。

 今日も、随分時間が経ってしまった。そのことに気付いてお互いに顔を見合わせ、

「そろそろ、やる?」

「そうだね」

 レッスンを始めて、三ヶ月。それなりに、指が動くようになってきた。片手ずつなら、小学校の頃に習った童謡や、有名な歌謡曲などは弾ける。多分、三歳児でも弾けるレベルの教材だが、できるようになるという達成感は嬉しいものだ。それに、相変わらず奥村は大袈裟に褒めてくれて、いつも気分良く帰ることができた。


『本気でピアニストを目指したいなら、そう言ってね』

 奥村は帰り際、そんなことを言った。驚いていると、

『今は、涼介の息抜きになれば、と思ってやってるから』

 だから、珈琲を飲みながら他愛のない話もするし、教材も硬すぎないものを選んでいる。どうしてそんなことを言うのかと尋ねたら、意外な答えが返ってきた。

『涼介が、ちょっと本気に見えた。気のせいだったのかな』

 その言葉がずっと、頭から離れない。自分自身も、良い息抜きだと思っていた。彼の部屋に行くたびに感じる、ちょっとした緊張感。ピアノの前に座る時の、模試の前とは全然違う、高揚感。そんな気持ちは、ただ予備校に通っているだけでは味わえないものだし、その心地良さは確かに感じていた。しかし、自分がピアノを弾くこと自体を好きなのかどうか、考えたこともなかった。

『ピアニストか……』

 ピアニストとは何なのか、という涼介の問いに奥村は、ピアノを弾く人だよ、と当たり前の答えを返した。大勢の観客の前でお金をとって演奏を披露する人もピアニストだし、目の前の、たった一人の恋人のために弾くのもピアニストなのだと。だから、ピアノが好きなら、誰でもなれる。さも簡単なことのように、そう言った。

 部屋で英語の問題集を解きながら、涼介は借りっ放しのトートバッグに目をやった。本当のピアニストになるためには、もっと幼い頃からの英才教育が必要なはずで、受験生が片手間にレッスンを受けてなれるものではない。しかし、奥村が言ったように、ピアノを弾く人になら、なれる気がする。

『I want to be a pianist.』

 ノートの隅にそう書いてみた。中学の時の教科書にあったその英文は、その当時はパイロットになりたい、と言うのと同じレベルだと思っていた。しかし、考え方一つで、手の届くものになる。何でも難しく考えてしまいがちな受験生にとって、彼の言葉は目の覚めるような衝撃だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ