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それぞれの誤解

「ヤバい」

 月に一度の模試の結果を受け取った涼介は、思わずそう呟いていた。クラスの中だけでなく、全国にある同じ系列の予備校全体の順位が記載されているのだが、前回を大きく下回っているのだ。しかも、得意とするところの理系科目が、思うように伸びていないことも明らかだ。同じ書類が、実家の両親の元へも送られているため、小言の電話が怖い。

「他が頑張りすぎたんじゃないの?」

 敦司は気楽なものだ。特に努力しているとは思えないのに、前回とさほど変わらない成績だったらしい。それに末っ子で、両親の過剰な期待もない。

 涼介は、薄々、解っていた。息抜きのはずのピアノレッスンに、重点を置きすぎている。年上の女性と知り合いたいという下心から始めたことだったが、確実に上達しているのを肌で感じることは、想像以上の快感だった。それに、奥村は最初の憎らしい印象とは違い、レッスン中は熱心に教えてくれるし、上手く弾けた時はまるで子供に接するように褒めてくれる。この歳になって手を叩いて褒められることなど、たとえ物理で百点を取ったとしてもありえなくて、それが日頃受験勉強で疲れた心を癒してくれる。金曜の夜などは、翌日が楽しみで、勉強が手につかないのだ。

「これじゃダメだ。ピアノは、ほどほどにしよう」

 自分に言い聞かせるように、涼介は呟いた。今までは何の関わりもなかったものを、再び生活の外へ追いやるだけ。それだけのことができないという現実に、自分はもしかしたら、とんでもない間違いを犯してしまったのではないかと思えてくる。

「そんなにハマるもんかね」

 特に趣味もない、という敦司が、不思議そうに言った。

「まあ、勉強以外に興味がないっていうヤツよりは健全でいいと思うよ」

 確かにそうだが、急激に成績が落ちたのも事実だ。敦司に慰められながら、夕飯のために食堂に移動し、他の友人たちの成績を聞いて引き続き落胆しているところへ、物理講師の村上がやってくる。

「村上先生、綺麗な女の人とは、知り合いになれたの?」

 秀子が声をかけた。

「それがさ……。なかなか会えないんだよ。こないだは、あと一歩だったんだ。マンションの玄関に、香水の匂いが残ってたから」

 思い詰めた様子で、溜め息をつく。それで涼介はようやく、笑顔になることができた。

「まだ気付いてないんだ。あいつ」

「あとをつけて、告白するところ、録画したいよな」

 想像するだけで可笑しい。男と解って呆然とする姿を、ぜひ眺めたいものだ。

「先生。そんなに綺麗な人なんですか?」

 敦司がわざとらしく尋ねると、村上はよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに大きく頷く。

「もう、今まで見たことないくらいの美人なんだ。スラッとしてて、綺麗な髪で……。今どきあり得ないくらいの薄化粧なのもいいよな。カレシ、いるんだろうな……」

 そう言って、頭を抱える。笑いを堪えきれないと思った涼介は、自分の手の甲を抓った。

 部屋に戻った二人は、ようやく、爆笑する。他人の不幸は蜜の味、と言うが、本当にそうだ。涼介も自分の成績のことなどすっかり忘れて、笑い転げた。

「カレシじゃなくて、彼女がいるんだよ、バーカ」

「男が化粧なんてするかよ」

 村上はもう一ヶ月以上も、片思いで苦しんでいるのだ。涼介自身も、初めてすれ違ったときは女性だと信じて疑わなかったし、何とかして連絡を取ろうと奔走したから、気持ちは解る。それに奥村は色白で睫毛が長く、涼介でもたまに、化粧をしているように見えることがあった。しかし。笑いが止まらなかった。


 予想通り、母親からの小言の電話に仏頂面をしていた涼介のもとへ、妹が遊びに来た。家族には当然、ピアノのレッスンを始めたことなど報告していないから、土曜日に来るのも、仕方がない。涼介は悩んだ挙げ句、体調が悪いからレッスンを休む、と奥村にメールを送った。

「ねえ、ねえ、買い物に行きたいの。連れてって」

 妹の真央まおは三つ下の高校一年生。最近化粧を覚えたらしく、まず、異様な量の睫毛に驚かされた。

「おまえ、そんな化粧して学校行ってんの?」

「そうだよ? みんなしてるよ」

 まあ、そうなのだろう。しかし、男が意外と薄化粧を好きなことは、伏せておいた。そういうことは、自分で悟るべきことだと思ったからだ。

 買い物と言っても、自分がそう買い物に出掛けるわけでもなく、勝手が解らなかった涼介は、デパートやファッションビルが密集する辺りへ真央を連れて行った。田舎では見たことのない景色に、それだけで満足そうにしている。化粧品や雑貨を見つけるとすぐに駆け寄って行き、しきりにかわいい、かわいい、と声を上げた。

「あー。疲れた」

 勝手にはしゃいで、勝手に疲れている。母親が、真央と買い物に行くと疲れる、とよく言っていたが、そのわけがようやく解った。本能のままに動くため、無駄な動きが多すぎるのだ。小さい頃はさぞかし大変だっただろう。ちょっと目を離した隙にいなくなって、しょっちゅうはぐれて泣いていたことを思い出す。

 さすがに涼介も疲れてきて、休憩しようと提案すると、真央は涼介の腕を引っ張ってドーナツショップへと入った。甘い香りに、それだけで満腹中枢が刺激される気がしていると、携帯が震えた。奥村からの返事だ。

『大丈夫? 勉強、頑張りすぎてない? レッスンは、気が向いた時だけでもいいよ。ゆっくり休んで治してね』

 ビックリするほど、優しい内容だった。他の女子のレッスン生と間違えているのではないかとさえ思えた。そのせいで、何だか嘘をついてサボったことが、罪に思えてくる。奥村は、普段から傍若無人というか、思ったことを素直に口にする性格で、時々カチンとくるようなこともあったが、本来は優しい人間なのかも知れない。もしかしたら、涼介の緊張をほぐすためにわざとやっていることのようにも思えた。

「誰から? カノジョ?」

 言いながら、携帯を覗き込もうとしてくる。涼介は慌てて画面を閉じた。

「カノジョなんて、いないよ。クラスに女子が十人しかいないんだぜ?」

 すると真央は途端に羨ましそうに、

「いいなー! 私もそういうクラスに入りたい。女子って、いろいろ面倒なんだもん」

 早くも何かを悟ったようなことを言う。

「絶対、男子とつるんでたほうが楽だよ」

 そんな妹の言葉に、敦司の姿を重ねながら、涼介は甘いと解っているドーナツに手を伸ばした。


 散々引っ張り回されたあと、帰る妹を駅で見送った涼介は、夕飯に間に合うように寮へ戻った。すると、同じクラスの友人が、待ち構えていたというように手招きしてくる。何があったのかと訝しんでいると、

「外から来た女子と出掛けてった、ってホント?」

「……まあ、ホントだけど」

「真子ちゃんが、泣いてたぞ。カノジョいるなんて知らなかった、って」

「……」

 留守の間に、相当面倒なことになっていた。敦司がいれば、代わりに妹だと説明してくれただろうが、今日は遠距離恋愛中の彼女とデートのため、涼介より早く出掛けていて、留守。別に、彼女がいるとかいないとか、真子に聞かれたことはなかったし、当然それを隠していたつもりもなかった涼介は、途方に暮れる。悪いことは何もしていないのに、悪者にされている雰囲気が、耐えられなかった。

「なんだ、妹だったのか」

 女子の噂を、鵜呑みにするとこだったよ。夕飯を食べながら、友人たちは半ばガッカリしたように言った。

「最近、涼介が土曜の午後にどこかへ出掛けてくのも、女じゃないかって勘ぐってたぞ。ピアノだってことは、黙っといたほうがいいんだよな?」

 それには大きく頷いた。女子の耳に入ったら、一瞬で予備校中に広がってしまう。それだけは避けたかった。

「まあ、真子ちゃんの件は、敦司から説明してもらうなりしろよ。付き合う気がないなら、放っときゃ良いことだけどさ」

 友人たちにはそう言われたが、涼介は自分で何とかすることだと判断し、夕食後、意を決して真子の部屋を訪ねた。どうやら泣いていたというのは本当のようで、目が赤くなっている。涼介の姿に驚いたような顔をした。今まで真子のことは、敦司たちが自分をからかうネタにしているのだと思っていたが、突如、信憑性を帯びてきて、何だか複雑な気持ちになる。

「ちょっとだけ、いい? 何か誤解があったみたいだから、訂正しようと思って」

 何だか入試の問題文のようだと思いながら、涼介はそう言った。

「さっきまで一緒にいたのは、妹だよ。実家からわざわざ遊びに来たって言うから、相手してたんだ」

 真子の表情が、にわかに明るくなった。続けて言おうとしている言葉を飲み込むべきかどうか一瞬迷い、

「それと、俺さ、……彼女とかいないし。大学受かるまで、作るつもりもない。色んなこと、いっぺんにできない性格だから、そのほうがいいと思うんだ。だから、」

 わかった、と、真子が先を遮った。それなら我慢できる、とも言った。誰かに盗られてしまう心配がなくなったから、と。明らかに告白と取れる言葉に、ドキンと胸が鳴る。その痛みにも似た鼓動を堪えながら涼介は、ありがとう、とだけ言ってその場を去った。

 部屋に戻ってからも、溜め息が止まらなかった。また成績下がりそう。そんなろくでもないことを考えながら、穏やかに響くピアノの演奏に、耳を傾けていた。


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