それぞれの生活
朝、目覚ましで起きて、顔を洗って、食堂で朝食。その十五分後には、予備校の椅子に座っている。午前の講義が終わると十二時きっかりに昼食を食べ、十三時から十七時半まで、また勉強、そして、十八時から夕食。そんな軍隊のような厳しい生活でも、友人たちに恵まれているおかげで、何とか持ちこたえていた。人間というのは、同じことの繰り返しに飽きるのも早いが、その単調な流れの中に、ほんの少しの変化を取り入れてやることで、退屈を遠ざけることができる。音楽で言うところの、転調や変拍子に当たるのだろうか。意外な出来事、突拍子もない出来事なら、なおさら効果が期待できる。
涼介は、全くそんなことを意識もせず、引き寄せられるように自ら生活の中に変化を取り入れた。当初の思惑が外れて、講師が男性というのは不本意だったが、それでも変化には違いない。慎重なほうだと思っていた自分が、どうしてあそこまで積極的になれたのか、それだけは今も不思議だったが。
「聞いてくれよ、マンションにすっごい美人が住んでてさ」
物理講師の村上の声だ。夕方の食堂で、同僚の講師に、興奮気味に語っている。
「背が高くて、スタイルも完璧。あれはモデルか何かだぜ、きっと。何とか、お近づきになりたいよ」
すっかり、夢中になっているのが見て取れる。涼介は敦司と、顔を見合わせて笑った。村上が言っているのは恐らく、奥村のことだからだ。
「ホラ見ろ、間違えるのは、俺だけじゃないって解っただろ」
涼介は小声で自慢げに言った。それをすかさず、敦司が馬鹿にする。
「威張れることかよ。世界一、見る目がない二人かも知れないだろ」
なかなか信じてもらえないのが悔しかった。涼介自身も、彼に会うまで、美しいという言葉は女性のためだけに存在するのだと信じていた。しかし彼は、涼介が知っている人間の中で、間違いなく一番美しい。
村上は、彼の放つ気品とその希有な美しさを散々同僚に喋って、そろそろ彼女が帰ってくる時間だから、と食堂を出て行った。涼介が最初に見かけたのも、門限で玄関が閉まるギリギリの時間だった。
「バカだな、あいつも。男だっていつ気付くだろう」
物理講師の退屈な日常にも、今は思いがけない波が立っていることだろう。性別が知れた時の落胆ぶりを想像して、また敦司と二人で笑った。
金曜日の夜、いつまでたってもピアノの音が聞こえないことに、涼介は苛立っていた。また、夜遊びをしているに違いないのだ。大人のくせに、酒の適量も解らないのか、と言いたくなる。しかし、社会人である奥村の、自由な生活ぶりが羨ましくもあった。誰に何を気兼ねすることなく、自分のやりたいようにやる。この受験地獄を終え、大学を卒業した暁には、そんな生活が待っているのだろうか。ふと、まだ朧げにも見えないほど先の自分の姿に目を凝らす。職業は? 何処に住んでいる?
将来が不安なのだろうか。落ち着かない気分になって、涼介は窓の外に目をやった。今までに感じたことのない、あやふやな感情が、胸の中に生まれては消える。敦司の部屋で気を紛らそうかと思った時、穏やかなメロディが流れてきた。思えば、金曜日に聞こえてくる曲は、穏やかで優しいものが多い気がする。今日はまるで涼介の不安定な気持ちを癒そうとしてくれているかのようで、思わず聴き入っていた。
弾き手が男性だと解っても、あんなに憎らしいことを平気で言う相手だと解っても、ピアノの音は優しくて、繊細で、疲れた心に染みる。ピアノを弾けるようになれば誰でもそんな演奏ができるわけではないことくらい、知識のない涼介にも何となく解っていた。奥村はもしかしたら、すごいピアニストなのかも知れない。そんな気がしてきて、窓から顔を出し、彼の部屋のあたりを見つめる。
『どうして、ピアノやろうと思ったの?』
先日、涼介はそんな質問を投げかけてみた。
『家にピアノがあって、気がついたら弾いてた』
何でもないことのように言う。
『そういうの、天才って言うんじゃないの?』
『まさか。母親が近所の子供にピアノ教えてたから、僕も一緒に習ってたんだよ』
最初はやらされてたかも知れないけど、やめようと思ったことは一度もない、と語る。『ピアノの音が好きだし、弾いてると幸せな気分になるから』
涼介はその言葉に、奥村のことを少しだけ、見直した。出会ってから良い印象は一つもなかったけれど、彼のピアノに対する愛情や熱意が、伝わってきたから。ただ投げやりに進路を決めて社会に出たのではないのだ。
聞こえるメロディが、変わった。まるで恋人のために弾いているかのように、愛に溢れているのが解る。言葉でなくても、表現する術はあるのだ。……ピアノが弾けるって、いいな。初めてそう思った。明日が楽しみだ。自分でも意外だったが、涼介はそう感じていた。
翌日、レッスンの時間ちょうどに、部屋のインターホンを鳴らした。すると、以前とは別人のように、笑顔で出迎えてくれる。服装も、ジャージよりもう少しマシな部屋着を着ていた。が、それも何だか女性もののようなデザインで、相変わらず、香水の匂いがする。また涼介の胸が、無駄にドキンと鳴った。
「ちょっとだけ、待ってて」
必死に平静を装う涼介をソファに座らせた奥村はそう言うと、この間スーツを投げ込んでいた部屋に入って行く。しばらく経って、何をしているのかと気になり出した頃、何と女性を伴って部屋から出てきた。涼介が見ているのもお構いなしで、キスをする。涼介は、慌てて目を逸らした。
「気をつけて帰ってね。また、電話する」
長過ぎるハグのあと、彼女らしき女性は帰って行った。玄関のドアが静かに閉まった。
「お待たせ。さあ、こないだの続き、やろうか」
「……」
「何? 今の人が誰か気になるの? 彼女だよ」
「見れば解るよ」
「じゃあ、何」
見ている前でキスなんかするな、と言いたかったが、我慢した。黙っていると、奥村は訳が解らない、というように肩をすくめ、ピアノの蓋を開ける。おもむろに、一つの鍵盤を鳴らし、
「これ、何の音?」
突然、尋ねた。
「D」
「正解! すごいね、涼介」
褒められて悪い気はしないが、当たって当然だという気もする。先週、Cから始まる音階を、これでもかというほど弾かされ、ピアノに背を向けて、音当てをさせられたのだ。記憶力が命の受験生の頭に、一週間も残っていなければ大問題だ。
普通のピアノレッスンというものがどういうものかは解らないが、涼介が想像するに、課題とする曲があって、それを自宅で練習してきて、翌週披露する。その出来映えに対して、講師が褒めたりダメ出しをしたりするのだ。しかし涼介の部屋には当然ピアノなどなく、それは不可能。こんなことで上達するのか、疑問だ。
「大丈夫だよ。涼介は別に、ピアノで受験しようとしてるわけじゃないんだから」
奥村は何でもなさそうに言う。
「涼介は本業の受験勉強をしっかりやって、その合間の息抜きでピアノに触れてるくらいの気持ちでいいんだよ」
ピアノに夢中になられて、受験勉強がおろそかになったって言われたら、困る。奥村はそんなことを言って笑った。
今日は、奥村に何も質問できなかった。最初から元気だったし、彼女が帰ってからは全てがスムーズで、非常にレッスンらしいレッスンだったから。涼介は、それはそれで何だか物足りなくて、もっと彼のことを知りたいと思う自分に戸惑いを隠せない。
「どうしたんだよ? また恋の病か?」
食堂で、いつものように隣に座った敦司が顔を覗き込んだ。
「違うよ、ちょっと疲れただけ」
慣れないことをしたから、と、嘘をついてみる。確かに、勉強している時とは違う脳を使っているらしく、適度な疲労感は残っていた。
「でも、良いことだと思うよ。芸術的なことをするときは右脳が働くって言うし。俺たちみたいな詰め込みの勉強は左脳ばかりを使うから、バランスが取れるんじゃない?」
相変わらず、涼介にはない知識を披露してくれる。
「で、綺麗なお姉さんは、紹介してもらえそう?」
「……まだそこまでいってない。とりあえず、彼女は可愛かった」
目の前でキスをしていた。どうしても女同士に見えてしまって、見てはいけないものを見ているような気分だった。今の涼介には、とても人前でそんなことをする勇気はない。そもそもそんな相手もいないのだったが、奥村の人目を気にしない大胆な行動や言動が、羨ましい。当たり前のことだけれど、未成年の自分とは住む世界が違うのだ。今はまだ心の何処を探しても見つからない感情や言葉も、大人になれば自然に身に付く? 自分も彼の歳になれば、あんなふうに自由気ままに振る舞うことができる? 涼介は、無性に彼と同じ目線で世間を見てみたいと思った。しかし背伸びをしても、それは叶わない。彼らがいるところに辿り着く方法は、時間というどうにもならないものを経て行くしかないのだ。今まで同級生とばかり過ごしてきた涼介にとって、そのもどかしさは初めて感じるものだった。