初めてのレッスン
土曜日の午後二時。約束の時間にマンションを訪れた涼介は、慣れないタッチパネルを操作して、何とかインターホンらしきものを鳴らした。田舎育ちの涼介は、実家はもちろん、地元の友人宅も殆どが一戸建てで、オートロックのマンションを訪ねることなど初めてだ。しばらくして、入り口の鍵の開く音がして、恐る恐る、中に入る。背後で扉がロックされると、何だか捕われたような気分になり、逃げ出したくなった。
それでも負けるまいと、エレベータを見つけて乗り込む。六階のボタンを押して、破裂しそうな胸を押さえた。どうしてこんな目に遭っているのだろう。自分の意地っ張りが恨めしい。これなら、部屋で微分方程式を解いていたほうがよっぽどマシだ。
そんな涼介を乗せたエレベータは、あっという間に六階に着き、ゆっくりと開いた。意を決して外に出ると、驚いたことに、そこに奥村の姿がある。ゆるいクセのある長い髪を肩のあたりで一つにまとめ、気怠そうに、コンクリートの壁に凭れているが、今まで寝ていたようなジャージ姿でも見苦しくないのが不思議だ。
「ちゃんと来たんだ。意外」
挨拶もなしに、そのセリフ。最初からやる気を削がれる。ついて来いとも言わず、廊下を先に歩いて行ってしまって、仕方なく追いかけた。彼の香水がまだ、涼介を惑わせる。本当なら、このドキドキは、女性の部屋を尋ねる時のものだったのに。無駄に、苦しい。
このマンションは、想像していたより構造が複雑で、六階と言っても、そのフロアが更に二層に分かれている。エレベータを降りてから、また階段を上って、ようやく目的地にたどり着いた。東の角部屋だった。
「だから、むかえにきてくれたんだ」
鍵を開けている奥村の後ろで、涼介は呟いた。一人では、辿り着けなかったに違いない。奥村は何も言わず、玄関のドアを開け、涼介を中へ入れた。
広い部屋。大きな窓から射し込む光が、心地良い空間を作り出している。良い香りで満たされて、絶対に男性の部屋とは思えなかった。彼はソファの上に脱ぎっ放しのスーツを見つけて、それを奥の部屋へ投げ込み、涼介をそこへ座らせた。
しかし。さっきから、一言も喋らない。不機嫌そうにも見えて、かける言葉に迷う。どうしたものかと思いながら、広いリビングを見渡すと、東に面した壁にピアノがあった。川を挟んですぐ、寮の建物がある。どうりでよく聞こえるわけだ。
「……あのさ、男に教えるのがイヤなら、言ってよ。俺、帰るから。ホントは、弾けるようにならなくたっていいんだ。聴いてるだけで、」
居たたまれなくなって、ついにそう言ってしまった。すると、奥村は初めて、困ったように笑う。
「ごめん。……低血圧なんだ。……今日は涼介が来るから、もっと早く起きようと思ってたんだけど。……それに、二日酔い」
夜遊びも楽じゃないよ、と呟く。じゃあ、やめればいいのに。とは言えず、
「じゃあ、もう少ししたらまた来るよ」
「しばらく、何か話してれば、目が覚めるから。相手して」
そんな想定外の出来事から、涼介のピアノレッスンは始まったのだった。
「散々だな。それ」
バーベキューには間に合わず、土日は食堂も早く閉めるため、仕方なくコンビニの弁当を買って食べていた涼介に、敦司が同情の言葉をかけてくれた。
「それで金とるの?」
「さすがに、今日はいいって。でも、先が思いやられるよ」
一時間近くも、低血圧の相手をさせられて、珈琲を淹れさせられて、ようやくレッスンらしきものが始まったのは、四時近かった。
「しかもさ、途中で彼女から電話かかってきて、呼び出されたからってそこで終わり。何しに行ったか、解んないよ」
あんな男にも、彼女がいるなんて、信じられない。きっとまだ本性を知らないのだろう。
「最初から、バーベキューに来れば良かったのに」
そう言われて、悔しくなってくる。しかし、突如として始まった、このおかしな習い事を、すぐにでもやめようという気はなかった。その理由は自分にもサッパリ解らなかったが、敦司が自分の部屋に戻って行ったあと、大きなトートバッグから、真新しい教本を取り出してみる。
『なんで女物のカバンなんか持ってるんだよ? 紛らわしい』
『楽譜が入る大きさって、男物じゃなかなかないんだよ。これが、丁度良いから』
ちゃんと理由があったのだ。手ぶらで行った涼介に貸してくれたのも女物のようだったが、色やデザインから、男が持ってもそれほど違和感はなかった。彼なりに、気を遣ってくれたのかも知れない。
目が覚めるまで相手をしてくれと言われて途方に暮れた涼介は、ふと思い立って、抱えていた疑問をぶつけてやった。どうして、髪が長いのか。どうして香水をつけているのか。騙すつもりなのかと尋ねると、
『じゃあ、涼介はなんで髪が短いの?』
『……長かったら、おかしいだろ? 似合わないよ』
『それと同じことだよ。僕は短い髪が、似合わないの』
素直に納得したくなかったが、確かにそうだ。
『香水は、彼女にもらったから』
完全な女物を贈るとは、相当変わり者か、それとも自分と同じ匂いじゃなきゃイヤ、というワガママなタイプかどちらかだろう。
『葉月って、本名?』
その質問に、奥村は大きく吹き出した。
『涼介って、本名?』
『なんだよ? 答えろよ』
『八月生まれだから、葉月。涼介は、秋生まれなんだね、きっと』
間違いではなかった。涼介は十一月生まれだから。自分の名前の由来など考えたこともなかったが、今ようやく解った気がした。
『どうしたの。質問はもう終わり?』
黙ってしまった涼介の顔を覗き込んで、そんなことを言う。全く、悪気はないのだ。騙すつもりも、惑わすつもりも、全くない。そこに今度は腹が立ってくる。
『思い付いたら、また聞くよ』
涼介は憮然と言って、自分で淹れた甘い珈琲を飲み干した。