年上のOL?
何か音が聞こえた気がして、目を開けた。蛍光灯の光が眩しくて、何度も瞬きをする。明かりをつけたまま眠ってしまったようだ。時計を見ると、深夜二時を回っている。今から風呂に入るか、明日の朝にするかを悩んでいた涼介は、ふと、携帯に目をやった。ランプが、点滅している。一気に目が覚め、心臓が倍速で打ち始めた。
『ピアノ講師の件ですが、私で良ければお任せください。ご都合をお窺いしたいので、後日改めてご連絡さし上げます』
その丁寧な文章の下に、電話番号と、フルネームが書いてあった。奥村葉月。はづき、と読むのだろうか。あのキリッとしたスーツ姿にピッタリで、ますます惹き付けられる。嬉しさと怖さが同時に浮かんで、携帯を手に、ベッドの上で足をバタバタさせた。
しかし。こんな時間まで出歩いていたのだ。敦司が言っていたように、合コンか、それとも既に恋人がいて、デートだったのかも知れない。まだ会ったこともないのに、急に嫉妬心が沸いてくる。
『会ったら、一目惚れですって言おう』
相手がいたって、構うもんか。涼介は自分でも驚くほど強気になって、布団を頭からかぶった。
土曜日の授業は、午前中だけ。午後は全国的に人気のある有名講師を招いて、有料の講習会などが行われるが、参加は自由。主に、現役の高校生で席が埋まっていると聞いた。勿論、今日の涼介は、そんなものに出ている暇も余裕もない。
「いいなぁ。なんか、羨ましくなってきた」
涼介の緊張した様子を見て、敦司が言う。
「俺もそういうの、味わってみたいよ」
「……おまえ、彼女いるからいいじゃん」
「年上っていうのが、羨ましい」
年上、と言われて、ますます緊張が高まってきた。よく考えてみれば、相当、上かも知れないから。大卒で社会人一年目だったとしても、二十二歳。自分より、四つも上だ。
「俺はもっと上だと思うな。だって、隣のマンション、家賃高いって言ってたろ? 二十万そこそこの給料じゃ、住めないって」
あのとき村上は謙遜してたけど、と付け加える。一般的な会社員の給料がどれくらいなのか、涼介には見当もつかなかったが、敦司が言うのなら間違いない気がする。そんなに歳の離れた女性と話したことは、ここ最近一度もないのに。
「やめてくれよ、これ以上緊張したら、吐いちゃうよ」
昨日に引き続いて食欲のなかった涼介は、朝食に真子からもらったヨーグルトを食べただけで、胸が一杯になってしまった。当然昼になってもそれは続いていて、今は美味しそうにトンカツ定食を食べる友人たちを眺めている。
「涼ちゃん、まだ具合悪いの? お粥でも作ってあげようか?」
厨房から秀子が声をかけた。
「だから、その呼び方やめてよ。息子じゃないんだから」
涼介が咎めると、だって可愛いんだもん、とやめる気配がない。母親にも未だに涼ちゃん、と呼ばれていたが、それを知られているような気がして、何だか恥ずかしい。
「お粥も食べれないよ、きっと。こいつのは、恋の病だから」
信じられないセリフを大声で言って、敦司が笑う。
「なんだ、それなら仕方ないね。年頃だもんね」
可愛いんだから、とニヤニヤしている。穴があったら入りたい、とは正しくこの状況のことだ。誰が好きなんだ、という友人たちの声に聞こえないフリをして、涼介は自分の部屋へ逃げ込んだ。
『連絡ありがとうございました。土曜日か日曜日の午後が都合がいいです。よろしくお願いします』
午後三時を回っても連絡がないことに焦れた涼介は、奥村に返信してみた。何より、このままでは本当に具合が悪くなってしまう。こんなにも長い間心臓がドキドキしていたら、体に悪い。すると、今度は驚くほど速く、返信があった。
『差し支えなければ、教材などの打ち合わせも兼ねてどこかでお会いしたいのですが、お住まいはどちらですか?』
『すぐ、そばです。窓からマンションが見えます』
『では、橋のところで今日の十六時に、お待ちしています。奥村』
今から? 心の準備がなくて、ますます心臓が大きな音を立てた。いても立ってもいられなくなり、取りあえず、隣の部屋に飛び込む。
「何だよ? そんなに慌てて」
「今から、会うことになったんだ。どうしよう、」
「良かったじゃん。頑張れよ」
「頑張るけどさ、……」
涼介はチラッと壁の時計に目をやった。あと、三十分。あと三十分で……。
「大丈夫だよ。おまえ可愛いから、きっとOKしてくれるよ」
そんなセリフに腹を立てる余裕もない。この顔のおかげでうまくいくなら、両親に感謝したいくらいだ。
「それに今どきのOLは、肉食系に飢えてるから。押しに弱いと思うぜ」
こうなってくると、社会人の姉がいる敦司の言葉が、神の言葉に聞こえる。絶対うまくいくから、自信持って行けよ、と散々励まされて、涼介は少し早いが、寮を出た。
休日の駅裏は、のどかなものだ。涼介は自分を落ち着けようと、辺りの景色を眺めてみた。川の遊歩道では、マンションの住人が子供を遊ばせたり、犬を連れて散歩をしていたりする。普段はスーツ姿で通勤するおじさん連中も、ジャージでウォーキングを楽しんでいた。すっかり青葉に覆われた桜の木が、涼し気な木陰を作り出し、その下のベンチで読書をする女性の姿……。
あの時の女性に、似ている。そう思って橋の上から凝視していると、彼女も顔を上げた。この距離で気付かれることはあり得ないと思ったが、彼女は腕時計を確認するような仕草をして立ち上がり、脇に置いたトートバッグに本を入れて、堤防の階段を上がってきた。
どうやら涼介に気付いたわけではなかったようで、彼女はマンション側の橋のたもとで立ち止まり、欄干を背にした。間違いなく、あの時の女性だ。休日なのに、きちんとスーツに身を包んでいる。涼介は、どう声をかけるべきか迷って、考えを巡らせた。奥村さん、と呼べば良いのか、それとも……。
迷っていても仕方ない。時計の針は、まもなく十六時を指そうとしている。涼介は思い切って彼女のほうへ、近づいて行った。
「あの、」
声をかけると、往来を眺めていた彼女が、涼介のほうを向いた。思ったより長身で、想像を遥かに上回る美貌に驚いてしまう。風に乗って、あのときの香水が香った。もう、心臓が口から出そうなほどドキドキして、言葉が出てこない。そんな涼介の前で、彼女は目をパチパチさせていたが、やがて、
「……男?」
そうか、それで驚いたのか。すっかり忘れていたが、女と思わせるために姑息な手段を使ったことを思い出す。謝るべきか考えていると、彼女は意外にも、可笑しそうに笑った。笑顔がまた、可愛い。
「なーんだ、可愛い女子高生にピアノを教えれると思って、楽しみにしてたのに」
え? 涼介は自分の耳を疑った。こんなにも美しい女性の口から聞こえる言葉ではないと信じたい。
「まあ、いいや。ちょっと行ったとこに珈琲ショップがあるから、そこで話そう」
疑問は解消されないまま、涼介は謎の人物のあとをついて行った。