尽きない悩み
センター試験まであと三ヶ月ほどとなった。数字で言われると、にわかに不安で落ち着かなくなるのは、自分の勉強不足のせい。予備校に通えば、格段に実力が上がると思い込んでいたが、現実はそれほど甘くはないようだ。
「宮間くんは、もう志望校、決まってるの?」
夏休み明けからワンランク上のクラスに移っている真子が、声をかけてきた。彼女も国立大志望という点では涼介と同じだが、偏差値が大幅に違う。
「まだ決めてないよ。国立っていうだけ」
そんな現実的な会話は、敦司たちともしたことがない。意図的に避けているというのでもなく、男子はたいてい、誰が聞いても馬鹿げた話をして休み時間を過ごしていた。一方女子は現実主義というがその通りで、夢のような話はほとんど聞こえてこない。この根本的な違いを乗り越えて恋人同士になり、結婚するのは大変なことだろうな、と考えてしまった。
「同じ大学に行けたらいいのにね」
せっかく仲良くなった寮のみんなと、離ればなれになりたくない。そう言ったが、言葉通りの意味だけではでないことくらい、涼介にも解った。気を効かせて席を立った敦司を横目で見ながら、
「俺が真子ちゃんと同じ大学に行くには、死ぬ気で勉強しなきゃ無理だよ」
このままでは、去年と同じレベルの大学を受験することになってしまいそうで、急に焦りを感じた。それに引き換え、真子はいつも自信に満ちあふれて落ち着いているように見える。それも、自分の不甲斐なさのせいだと解っているだけに、情けない。
「同じ大学に、行きたいな」
真子の真剣な眼差しが、涼介の瞳に刺さった。彼女の自分への思いを、今まで真剣に考えたことがなかったけれど、その不誠実さを咎められたような気分だった。
「別々の大学だったら、きっと私のこと忘れちゃうもん。そんなの、イヤだよ」
目に涙を浮かべて、真子は女子寮のほうへ走っていった。立ち尽くす涼介に、厨房の中から秀子が、
「モテる男は辛いね、」
からかうようにそう言った。言い返す言葉も見つからず、呆然として部屋に戻ったけれど、参考書を開く気にもなれなくてベッドに仰向けになる。しばらく天井を眺めていると、窓から流れ込む風に乗って、穏やかなメロディが聞こえてきた。この癒しのピアノを聴けるのも、ここにいる間だけか。そう思ったら、今度は何だか切なくなった。
『今度、大人のレッスン生と講師とで、食事会をすることになったんだ。涼介も来るよね?』
何をしていても落ち着かず、敦司の部屋で過ごしていた涼介に、そんなメールが届いた。奥村に何人のレッスン生がいるのか聞いたことはなかったが、小さな子供から大人まで幅広く教えているらしい。そんな中でも、自分を大人の仲間に入れてくれたことに気分を良くした涼介はすぐに、OKの返事を返した。
奥村と知り合ってから、そんな誘いが新たに増えて、涼介の行動範囲は入寮当初に想像したものより、大幅に広がっている。ピアノを習っていることは、家族にはもちろん、敦司や親しい友人以外には内緒だったが、そんな隠し事のある生活というのも、何だか楽しい。別に悪いことをしているわけではないけれど、少しの罪悪感が心地良い、そんな毎日だった。
「中華料理だけど、よかった?」
住んでいるのが隣同士で、こういった集まりのときはいつも、一緒に出掛ける。今日は皆が飲酒できるように車は出さなかったらしく、二人で歩いて駅に向かっていた。
「何でもいいよ。外食できるだけで」
秀子の作ってくれる食事に不満はない。しかし、いつも同じ面子で、同じ場所。たまには、外の空気を吸いながら食事をしたいと思うこともある。それに、大人たちの会話に混じっていると、自分まで大人になれたような気がするし、受験に対する不安や焦燥感を一時的にでも忘れられて、大いに助かっていた。
ところが、今日はそうはいかなかった。同じように誘われたリコの、隣の席を勧められたのだ。彼らからしてみれば、年が近くて話しやすいだろうという気遣いのつもりだろうが、全く迷惑だ。しかし、それを顔に出すようでは大人ではないと判断した涼介は、我慢して用意された席についた。
「あれから、どうなの?」
皆で乾杯して食事が始まると、いきなり、そんな質問を投げかけてくる。
「どうって?」
「菜月先生と。うまくいってる?」
どうしてそんなことを聞くのか、やっぱり理解できない。人当たりが良くて評判の奥村と、うまくやっていけないレッスン生がいるなら会ってみたいものだ。
「菜月先生、いつもあんたの話ばっかり。まあ、私に気を遣って同年代のあんたのこと喋ってくれてるんだろうけど、ホントにそれだけなのかな」
また、不可解なことを言い出した。リコの相手は自分では務まらない気がしてきて、奥村に助けを求めたくなる。いつものように大人数で、大きな円卓を二つ占領していたが、奥村は涼介とは別のテーブルにいた。
「今日、月子さんいないね」
今度は月子の名前を出してきた。そういえば見当たらない。そんなことよりこの場所から逃げ出したかったが、それでは自分を大人の集まりに呼んでくれた奥村に申し訳ないと思い、一生懸命、会話を繋ごうと考えを巡らせる。
「月子さんって、菜月先生の彼女なんだよね?」
ようやく思い付いて、ずっと気になっていたことを訪ねてみた。
「さあ。本人に聞いてみたら?」
「……」
知っているくせにはぐらかしている様子が、手に取るように解った。というより、明らかに解らせようとして言っているのだろう。その意地の悪い態度に腹が立ってくる。しかも、その後は涼介の存在など全く無視して、黙々と食事を始めてしまった。
『リコちゃんとうまくやってる?』
ポケットの携帯が震え、確認すると奥村からのメール。咄嗟に彼のほうを窺うと、いたはずの場所にはいなくて、助け舟だと思うことにした涼介は、彼を探して店の外へ出た。
「ここにいるってよく解ったね」
もう随分飲んだのか、気怠そうに言う。店の前のベンチに一人で座っていた。
「あのさ、俺、リコのこと何とも思ってないから。変に意識させようとするの、やめてくれない?」
涼介がそう訴えると、奥村は可笑しそうに笑って、
「会話が続かなくて困ってるみたいだったから、助けてあげようと思ったのに」
密かに観察されていたことを知り、涼介はだんだん腹が立ってくる。しかし、酔っぱらい相手に講義したところで何の意味もないことも解っていた涼介は、黙って彼の隣に腰を下ろした。
秋の夜風が心地良い。少々肌寒さを覚えたが、店内の熱気で火照った体にはちょうど良かった。大きく深呼吸して体の中まで行き渡ると、気分までスッキリして、些細な苛立ちはすぐに姿を消した。
ふと奥村のほうを窺うと、何をするでもなく、往来を見つめている。その瞳に、行き交う人々の姿が映っていないことを、涼介はすぐに悟った。何処か遠く、そこにはない何かを、見つめているのだ。
「どうしたの?」
声をかけると、奥村はすぐに、何でもないよ、と答えた。返事が早すぎて、余計に心配になる。他人の心情を敏感に感じ取れるほうではないと思っていたが、今は何故か彼の心の中が見える気がした。
「ウソばっかり。元気ないよ」
「そんなことないって。ちょっと飲み過ぎただけ」
まるで答えを準備していたかのように、また即答。
「ちょっと飲み過ぎただけ、って、よく大人が使う言い訳だよね」
そう言えば、面倒な会話から逃れることができる。母親の小言から逃れたい父親が、飲み過ぎたからもう寝る、と、よく言っていたことを思い出した。
「……心配してくれて、ありがと」
今度はやけに優しい声で、そんなことを言った。お礼を言われると何だか決まりが悪くなって、俯く。
「大人はいろいろあって大変なんだよね」
核心に触れたいくせに、自らそれを避けてしまったことに気付いて、唇を噛んだ。言いたくないのか、言いたいのに言えないだけなのか、それだけでも知りたかったのに。涼介が黙り込んでいると、不意に奥村が吹き出した。
「ここじゃ涼介が飲めないから、ウチで飲み直そっか?」
「……そうしたいけど、葉月はもうやめといたほうがいいよ。明日のレッスンに響くから」
明日は土曜日。二日酔いの奥村にも慣れてきたけれど。
「僕の仕事の心配までしてくれるなんて、ホントに涼介は優しいね」
「ち、ちがうよ。俺のレッスンの心配をしてるんだよ。またコーヒー淹れさせられたりするの、イヤだから」
可笑しそうに笑う奥村に、ホッとしている自分。いつも笑っていて欲しいなんて、今まで誰にも思ったことはなかった。それが何を意味するのかを考えるのは、また今度にしよう。怒ったフリで店内に戻りながら、涼介はとっくに解けている問題の答えを、あえて頭の中から消した。