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あの夜の記憶

 楽しいお盆休みはあっという間に過ぎ去り、涼介は再び、講師の声の響く教室にいた。表向きは帰省していたことになっていて、敦司ですら本当のことを知らず、その秘密が心地良く感じられる。綺麗なお姉さんとはさほど親しくなれなかったものの、奥村との距離が縮まったことを実感できるだけで、何だか充実した時間を過ごした気分だった。

 浜辺でのバーベキューのあと、一旦寮に戻って着替えをバッグに詰めた涼介は、再び奥村の部屋に上がり込んだ。シャワーを借りて汗を流し、少し昼寝をするつもりで横になったはずが、疲れていたのか、目覚めたら夕方になっていた。普段寮にいたら絶対に許されない自由気ままな大人の生活を、今だけは味わえる。そう思うだけで楽しかった。

『今から、ドライブに行こう。渋滞を避けて、ナビ任せに走るんだ。けっこう、面白いよ』

 昨日のメンバーの中から都合の合う者が集まって、一台のワンボックスにまとまった。

『あれ、月子さんは?』

『ああ、……今日はちょっと、用事があるって』

 その場に一瞬流れたおかしな空気に、気付かなかったわけではなかった。触れないほうが良いと悟って、いつになく不自然な笑顔に、誤摩化されておいた。

「涼介? どうしたんだよ?」

 ハッと我に返ると、敦司が側に立っていた。いつの間にか午前の授業は終わっていて、皆ゾロゾロと教室を出て行く。涼介も慌てて教科書を仕舞い、席を立った。

「ボーッとしちゃって。また恋の病か」

「地元で、同窓会とかあったんだろ。初恋の人に会って、盛り上がったパターン、」

 勝手な想像で喋る友人たち。涼介は首を横に振った。

「そんないいこと一つもなかったよ」

 あまりに楽しかったことが顔に出てしまいそうで、涼介はそれ以上の追求を逃れるため、早々と昼食に手を伸ばした。そして、矛先を変える。

「敦司はどうだったんだよ? 彼女とは続きそう?」

「うん。いまのところはね。向こうも受験生だからさ、余計なこと考える暇、ないんだろ」

 相変わらず冷静だ。この男が彼女とどんな時間を過ごしているのか、時々見てみたくなる。

 受験生にとって、折り返し地点の夏休み。ここからもっと集中して成績を上げて行かなくてはならない。本当に、余計なことを考えている暇はないのだ。大人たちと過ごした四日間の休みで、受験生の気持ちをすっかりリセットされていた涼介は、これまでの自分を取り戻そうと、必死で休み前のノートを眺めた。


『全然、彼女と喋んなかったじゃん。喧嘩でもしたの?』

『……、そんなんじゃ、ないよ』

 政治経済の講義をBGMに、突然あの夜の記憶が甦ってきた。理系の涼介にとって文系の科目は、センター試験で必要だと解っていても、どうしても興味が持てない。講師の声はいつしか遠くを流れる雲と化し、涼介の意識から消えていった。

『あ、もしかして、付き合ってること、内緒とか』

 口の前に、人差し指を立てて、懇願するような顔になる。どうやら図星のようだが、こんなにも打ち解けた仲間内で、それを秘密にする必要性も、その心理も、解らなかった。

『もうちょっと、飲もうよ。ビール、まだ残ってるし』

 話題を振り切るかのように立ち上がり、涼介にビールを勧めた。涼介には、その逃げるような態度が気に入らないが、黙ってそれを受け取る。

『でも、ホントに涼介は筋がいいよ。音感もしっかりしてるし、ピアノに限らず、音楽が向いてるんじゃないかな』

 そんなことを言われたのは、始めてだった。小学校から高校まで、音楽の授業はあったが、それほど良い成績をとったことは一度もなくて、適性があるかどうかなんて、考えたこともなかったのに。話を逸らされたことに気付いていたけれど、追求されたくないであろうことをそれ以上つつくほど、涼介は子供ではなかった。

『葉月だって、才能あるんだろ? さっき、リコのお父さんが言ってたよ。天才肌だって』

『そんなわけないよ。今日は特別に、褒めてくださったんだよ。優しい先生だから』

『謙遜しちゃって、』

 寮に入ってほぼ毎日、彼のピアノを聴いてきた自分に、音楽の才能があるかどうかは解らないが、彼のピアノが素晴らしいことだけは確かだ。楽器からではなくて、心の中から音が出ているような、そんな情熱が伝わってくるから。

『毎日、どうやって曲を選んでるの』

『その日の気分』

『ふぅん。じゃあ、悲しい気分には、ならないんだね』

『……どうして?』

『そんな曲が聞こえてきたこと、なかったから』

 穏やかな夜の海や、月光を連想させるものはあったけれど、悲しみを表現したような重々しいメロディは、一度もなかった。それどころか、甘くて、情熱的で、今思えばそれらは全て、側で聞いている月子のため。奥村の、彼女への愛情がどれほどのものか、思い知らされる。

『そうだね。悲しいとは、思いたくないね』

 それは悲しいと言っているのと、同じだよ。その涼介の言葉に、奥村は一瞬だけ、真剣な表情を見せたが、すぐに笑い出した。

『社会に出れば、いろいろあるんだよ。涼介にも、そのうちわかるよ』

 話の中身がすり替わったことに気付かないほど、涼介は幼くも、酔ってもいなかった。さっきからずっと、話の中核から逃げるような態度の奥村に、だんだん苛立ってくる。涼介は、開けたばかりの缶ビールを、一気に飲み干した。

『大人ってさ、そうやってうまいこと、誤摩化すんだよね』

『……』

『悲しいなら悲しいって、言えばいいじゃん。好きなら好きって、言えばいいじゃん。何で隠すの? 何のため?』

 いつも思ったことをストレートに口にするところが好きだった。裏表がなくて、憎らしいほど潔い。そんな奥村が、なぜ彼女との関係を隠すのか。涼介にはそれが、腹立たしかった。何より、彼女に失礼な気がして。

 もう何年も味わったことのない痛みが、頬に残った。涼介を叩いた左手を握りしめ、痛いほどに見つめる奥村の瞳から、涙が零れた。そして、彼の腕が涼介の体を、抱きしめた。

『叩いといて、何で泣くんだよ?』

 彼は何も言わず、ただ涼介に抱きついて泣いていた。まるで、子供のように。


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