銀 河 鉄 道
――人は死ぬとどこへ行くのでせう
安い白熱灯の光で客車の中を淡い黄色に染めあげて、列車は、果ての見えない一筋の路を、カタン、カタン、と怠惰に進んでいた。
振動にカタカタと鳴く窓ガラスの向こうは、真っ黒な地に砂銀をばら撒いたかのような夜空で、それ以外はなにもなかった。
一切の静寂という、そんなものに包まれて、ちらほらとまばらに座る乗客たちも、誰もが皆一様に、深い眠りに身を委ねていた。客車の中は、ただただ静かで、ひょっとすると、吐息の音さえ響いてしまいそうなほどだった。
けれどもそれは、別段意外なことでもない。
だって外はこんなにも暗いのだから。
和音の目は不思議と冴えていて、眠る気などおきなかったけれど、手元に暇を潰せる本があるわけでもなく、車窓の景色にも変化はない。夜空以外は何も見えない、吸い込まれてしまいそうなその風景は、確かに幻想的ではあるが、見飽きてしまうと感動も少なかった。
そっと嘆息した拍子に、窓のガラスが束の間白く曇る。それがじわじわ消えてしまう頃、冷えた窓ガラスの中に老紳士の像が現れた。
「お向かいの席によろしいでしょうか」
少し驚いて振り返ると、人の良さそうな笑みを浮かべたお爺さんが、フェルト帽を胸にあてて、とても上品に佇んでいた。
「老い耄れには一人旅も侘しいもので。しかし一見したところ、起きていらっしゃるのが貴方だけのようでしたから」
ぽかん、としてしまっていた和音に、情けない話ですがとお爺さんは笑う。そこまできてやっと彼の脳は再稼動し、慌ててコクリと頷いた。
「では失礼して」
声音までもが上品なお爺さんは、ゆったりと向かいの椅子に腰掛ける。
車内の灯りが安い白熱灯であるように、向かい合う二人がけの長いすだって決して質のいいものではない。青い天鵞絨はくすんで色が落ちているし、木枠も欠けた部位さえ油でツヤを出しているような様だ。上品な出で立ちとは不釣合いなはずの景色の中に、しかしその老爺は違和感なくすっぽりと納まってしまった。
「貴方くらいの年頃ならば、一人旅もなかなかに愉しいでしょう。旅の間は誰にも縛られず、伸び伸びと自由を満喫できる」
「え……あ、まぁ……」
愉しそうにこちらを見る老紳士を目を瞬かせながら幾秒か見つめ返した後、なんだか居心地が悪くなって和音は窓の外に視線を逃がした。
もっと会話が弾むような、気の利いた答えを返すことができたらいいと思うのに、口下手な性分がそれを許さない。誰に何を言われても「え」とか「あ」とか単音ばかり返してしまう。和音は友達が少ないことを悔やんだ事はないけれど、初対面の人とでも、気さくに話せる人のことは、素直に羨ましいと思っていた。
老紳士は少しの間黙って(もしかすると和音の返答を待っていたのかもしれないが)、笑顔のままに吐息をもらし、唐突に言った。
「とある少年の話を思い出したのですが、聞いていただけますかな?」
え? と呆けた顔で振り返った和音に、老爺は笑みを深める。
「老い耄れというのはたくさん語りたい話を持っていますが、語る相手がなかなか見つかってくれないのですよ」
和音は瞬きをして微笑む老紳士を見つめる。そうして笑顔で頷いた。
「ぜひお願いします」
会話は全く得意ではないが、人の話というものは、とても面白いものだと和音は思うのだ。
***
内気な性格だったので、少年にはあまり友達がなかった。彼はそれを嘆きはしなかったが、少し口惜しく思うことはあった。
幼い頃から、よく口のまわる姉が少年の思うところをほとんど代弁してしまっていたので、少年はまさしく口下手に、無口に育った。加えて、少年が殊更に本の魅力に捕り憑かれていたのもあって、他人と会話をする機会はますます減っていった。
そんな彼にも、時には饒舌になって話をする人が幾許か居た。その内の一人は彼の学校で国語を教える東雲という教員で、もう一人がチェシャといった。チェシャは勿論本名ではなくて、彼がいつも連れている猫が、有名な童話に登場する猫の挿絵によく似ていたことと、彼がおどけて笑う口元が、これまたその挿絵によく似ていたので皆からそう呼ばれるようになったのだ。チェシャは国語の学級係りで、休み時間に東雲と一緒に図書室を開けるのが仕事だった。
山の中にある小さな学校は、全校児童の数も少なく、休み時間に図書室を利用するような児童はもっと少ない。はっきり言うと、少年とあと二、三人居るか居ないか程度だ。それでも東雲は毎日きっちり図書室を開けたし、チェシャもサボった他学級の係りの分までしっかり図書室に来た。
「休み時間なのに大変だね」
少年がそう労うと、チェシャはお得意の三日月笑いをして「それはおあいこ様じゃないのかい」と言った。
「どうして?」
「じゃあ違うのかな」
「意味が分からないよ」
チェシャとの会話がちぐはぐになるのは別に珍しいことでも何でもない。チェシャは肝心なことを云わなかったり、頓珍漢な返答をしたり、急に何の脈絡もないところへ話題を跳ばしたりすることが多かった。
あまりにも成立しない会話に少年が眉根を寄せて考え込むと、チェシャは決まって愉快そうに笑った。
「コイツは月翅虫の翅が大好物なんだ」
いつもの様に猫を引き連れたチェシャがある日そんな事を云って、少年に月翅虫の翅なるものを差し出した。それはどう見てもただの薄い鼈甲飴だったが、少年はチェシャの表現が気に入ってそれを受け取った。
本来、図書室は食べ物も猫も持ち込んではならないのだが、東雲自らも骸炭ストーヴの火でギモーヴを炙って食べたりしていたのだから始末におえない。
「本に触る前には手を拭くんだぞ。あと、食べながら読むのは禁止だ」
それが先生の唯一の小言だ。
蜻蛉の翅によく似た形をした鼈甲飴を口に入れると、途端にふわっと溶けて甘い香りが口中に広がる。その中に一瞬だけカリンか金柑に似た爽やかな匂いが鼻を抜けて、少年は目を見開いた。
「おいしいね」
「そうだろう。でも満月の時分のが格別なんだ。これより断然美味い」
「そうなの」
「あぁ。コイツしか虫の居場所を知らないけれど、気まぐれな猫だから満月の日に運良く虫捕りに行ってくれないと食べられないんだ」
冗談じみた口調で言うチェシャに、少年も笑った。
「じゃあ後を追いかけてみたらいいじゃないか」
「そんなことをしてみろよ、顔中引っかかれるぞ」
そんな冗談で誤魔化されてしまったが、今度はこの飴の作り方を訊き出してみよう。
チェシャはよく現実には存在しないもの表現に使った。比喩的にというよりは、何の変哲も無いものを特別なものに置き換える感じに近い。
例えば、少しだけ黄味がかった石を拾って「月の石だよ」と云ったりする。チェシャの使う言葉は想像力を掻き立てるから、少年はチェシャとの会話が好きだったが、学友の中にはチェシャのことを嘘つきだというものもいた。
だからといってチェシャが嫌われているのかというとそうでもなくて、不思議なことに彼は誰とでも仲良くなったし、他者との関係に摩擦が生じているところなんてものは見たことが無かった。
少年もクラスに溶け込めていなかったなどということはなかったが、親しく話す級友がチェシャぐらいだということに、少し劣等感のようなものを感じていたかもしれない。
月翅虫の話をしてから少したって、少年はチェシャの猫が独りきりで図書室に居るのに出くわした。
ちょうど昼寝が終わったところなのか、暢気な欠伸をこぼしちょっとだけ視線をこちらに向ける。実に興味がなさげなその仕草に少年が苦笑すると、チェシャの猫が一瞬だけ三日月型の笑顔を浮かべたように見えた。
彼は驚いて瞬きをする。
と、猫が身を翻し、誘うように尻尾を振る。
彼はわくわくした。きっとこれからあの猫は月翅虫を捕まえに行くに違いない。チェシャの後ばかり付いてまわって、なかなか他人には懐かない猫が自分に合図をしてくれたということも嬉しかった。
チェシャは追いかけるなと云っていたが、猫から誘ってきたのだから、顔中を引っかかれるなんてことはあるまい。
この小さな冒険が昼休みの間中に終わる保障はなかったが、そんなことは重要ではなかった。窓から華麗に地面に着地した猫に続いて、少年も意気揚々と窓枠を乗り越えた。
彼はその冒険に足を踏み出したことを後悔していないし、誰を恨んでもいない。猫に悪意があったわけがないし、月翅虫の翅だってチェシャの家の人やらが作ったのだろうお菓子であることは理解している。
ただ猫の尻尾を追っていく冒険なんて現実離れした行動が、抗いがたい程に愉快で魅力的に思えただけのことだ。その道中で、ちょっとした拍子に足を踏み外してしまっただけのこと……
「あ……」
老紳士の穏やかな語りがゆるやかに途切れたのとほぼ同時に、和音は小さく声を発した。
そう、そうだ。
「……思い出しましたかな」
少しだけ悪戯っ子の気配が混じりこんだ、けれども一見上品な笑顔を浮かべて老紳士はゆったり頷く。
「貴方がこの列車に乗るには、まだ少々早かったようだ。貴方にはまだ引き返す道がある――戻るべき場所が」
老紳士の言葉に、わけもなく周囲を、ボックスの座席でまばらに眠る人々を見渡す。そうして和音はなんとなく理解した。
「……銀河は、天球の繋ぎ目でしたね」
「ほお、お若いのによくご存知ですな。そう、銀河は天球の繋ぎ目。そして彼の岸に渡る路でもあるのですよ」
「じゃあ、この列車は、」
「迷い路に入り込んでしまった者たちを導いているのです。――貴方はそこに迷い込んでしまったようですが」
深みのある声で軽く笑いながら、老紳士は和音に片手のひらを差し出す。白い手袋の上には、月翅虫の翅が一つ乗っていた。
「満月の日に捕まえた月翅虫です。特別に差し上げましょう」
「おじいさん、貴方は……」
虫の翅に手を伸ばしながら訪ねたが、云い終わる前に和音の手は翅に触れてしまった。途端、ぽうっと視界がベッコウ色に輝く。
「答えは急かずともいずれ得られますよ――」
老紳士の穏やかな言葉を最期に、枕木を踏む音も遠ざかった。
目を覚ますと、チェシャがものすごく怒った顔でこっちを見ていた。どうやら学校の保健室らしい部屋のベッドの脇に立つチェシャの足元には、いつものように猫がへばり付いていて、チェシャのすぐ後ろには東雲と医務の先生の姿も見える。
落っこちたのは裏山の小さな崖だったはずなのに、と意表を突かれて瞬きすると、ごん、とチェシャの拳が振り下ろされた。
「いて」
「何やってんだよ、バカズネっ!」
ちょっとだけ泣きそうな声でそう言ってもう一度拳を振り上げたチェシャに向かって、医務の先生が慌てて走り寄って来る。
不謹慎だとは充分承知していたけれど、和音はおかしくなって、堪えきれずにちょっと笑った。




