言語化の範囲
自分の中のイメージを他人に過不足なく伝える。
会話であれば当然のことでも、いざ文章で伝えるとなると、ついつい忘れてしまう部分がある。それは読み手の読解力の「見積もり」である。
会話はセッションなので、意外に簡単。相手の顔色を窺いながら、適宜、情報の過多の調節も可能。「あ、こいつこの話にはあまり興味ないな」とか、「そこまで細かく説明しなくてもベーシックな部分での見解は一致してるな」なども容易に見え、「最適の用量」も測りやすい。
しかし、それが文章でとなると話が変わる。
「想定読者」が、いつも可変的となるからだ。
ひとりで文章を書いていると、だんだんとそれは無意識に「自問」へと変わる。自問であるのだから、情報は読者を置き去りに、どんどんと削られていく。油断をしていると「自分だけが理解できればいい」という日記にも近い形状へと変化していく。
想定読者をイメージする際は、やはり大体の雰囲気で決めるべきではない。特定の世代や層をターゲットとするのなら、その範囲内にいる自分の知人「そのひと」に向けて、文章を書くべきである。筆者はいつもそれを忘れる。だから、いったい誰と会話しているのか分からない文章が出来上がる。
ただ、知人を設定する場合も、近しい人間はあまり設定しない方がいいだろう。近しい人間は、かならず自身との「共通言語」を持っており、それらの部分は常に「簡略化」されてしまうからだ。
内輪ネタは最も楽しいが、内輪ネタが楽しいのは内輪だけでもある。読者を内輪にいれたいのであれば、先に共通言語を読者に仕込んでいく必要があり、そこの手抜きはいっさいしてはいけない。―― しかし、いつもそれを忘れる。だとすれば、最初から「普段会話が通じにくい相手」を想定読者とし……となると、モチベーションも上がらないので難儀である。




