HUM
この作品はフィクションです。実在の事件・事象・人物・研究とは一切関係ありません。
スマホの画面から目を離して電光掲示板を見る。あと一分か。
お、聞いたことない曲。スマホの画面に目を戻して上から下にスワイプする。なるほど、新曲か。
雷鳴の振動が身体を震わせた。
『まもなく電車が参ります――』
そういえば、今ゲリラ豪雨だっけ。まあいいや。
無意識に動いた指がSNSをタップする。ろくでもない政治のポスト、猫の動画……お、コンビニ限定アイスの新製品が出てるじゃん。今日、妙に暑いから仕事帰りに買っていこうかな。
――ヴゥウン。
聞きなれないノイズが聞こえたかと思うと、目の前が回った。
スマホの画面がぐにゃりと歪み、思わず目を逸らすと対面のホームがひっくり返る。
耳も頭も痛え。なんかジンジンする。
――うわ、なんだこれ。
屈もうとすると、足元がおぼつかない。
つか、力が入らねえ。
『Please behind yellow――』
ダメだ、立っていられない。
つま先に衝撃を感じ、前につんのめる。
ふわっという感覚を感じたとき、驚いた顔の運転手と目が合った。
タバコの煙を顔に浴びながら、怒声を上げる偏屈な編集長の顔を観察する。
「てめえ、なめてんじゃねーぞ」
「うす」
目の端に現れる三本の皺。確か喫煙者特有の皺で、カラスの足とかそんな名前だったな。
「『反ワクチンは孤独の現れ』だぁ? こんなん、うちの読者が読むわけねーだろうが。『影の世界』ってクソ雑誌はな、陰謀論を煽って馬鹿から金をせしめる雑誌なんだよ」
「はい」
ニキビが増えたな。思春期以降のニキビはストレスの現れ。どうせ、奥さんと上手くいってない……いや、上手くいくわけねえからお気に入りのソープ嬢かキャバ嬢が辞めたかのどっちかだろ。
「あのなぁ、『反ワク』とか『反ジェネリック』とかはうまいネタなんだよ。もっと煽るんだよ」
「ですね」
若干アセトアルデヒドの匂いがするな。やけ酒でもしたかな。面白れぇな、こういう分かりやすいやつは。
「『ワクチンは政府が国民を統率するための施策』とか『ジェネリックを選ぶような低能を選別し、エリートを残すための施策』とか、そういう記事を書けって言ってんの。馬鹿は天才って言われるのが一番うれしいんだ」
「なるほど」
体感で1時間くらいってことは説教開始から10分くらいかな。さすがアインシュタイン様だぜ。……ってことは、この天才様に怒鳴られてるのと熱いストーブに1分手を付けるのは大体似たようなもんってことか? いや、過剰な一般化か。論理的に破綻してるな。
「てめえみたいなグズを雇ってるだけ偉いと思えよ? てめえなんか、普通の会社じゃやってられねえんだからな」
「わかってます」
これだけはあんまり否定できねえんだよなあ……実際、これだけの売り手市場でこんな斜陽の会社に雇われてんだもん。ここが斜陽で済むなら、太宰治の『斜陽』は真昼間だ。
「ほんとにわかってんのかよ。まあいい」編集長が机から一枚の紙を取り出す。「これ、次のネタだから」
A4のコピー用紙を受け取ると、最近SNSでたまに語られる『騒動』のネタだった。
「記事にするまで給料払わねえから。覚悟しとけよ」
「ええ」
東京、大阪、札幌、福岡……都会の駅や道端で起きる事故。被害者が電車の目の前に飛び出したり、道路の中央に寝転んでいて轢かれたりして死亡するのが常だった。たいていの場合、事件性がないから警察もそこまではっきり公表しないが、SNS上では被害者の『友人』が色々なことをポストする。
例えば、借金を抱えていたとかブラック企業勤めだったとか、昔から死にそうだったとか。
そういう妄言じみたポストは別として、春先から日に日にそんな死亡事故が増えていた。
ちょっと気になっていた事故だ。もっとも、会社の名義を借りたところで経費は下りねえんだけど。
「さっさと行ってこい!」
怒号と共に肩を殴られる。
畜生、いつか絶対パワハラで訴えてやる。
デスクに戻ると、耳に大きなイヤホンをはめている隣の席の田中と目が合った。
「またへんしゅーちょーに怒られたんすか」
「そうそう、へんしゅーちょーにな……」自分の耳を指さす。「なんかいかついイヤホンしてんな」
「ああこれですか?」田中が耳を指さす。「いいでしょう。ヴァーティゴ・オトコニアHUM-75、最新ノイズキャンセリングイヤホンですよ。昨日親が買ってくれたんすよ」
「ボンボンめ」
まあ、ボンボンにしては性格がめちゃくちゃいいやつなんだけど。本人曰く、社会勉強でこんな所にいるらしいが。
「この会社の給料じゃ、こんなの買えませんからね」
「ところで、ノイキャン付いてるのに普通に会話できんのか?」
「それが凄いところなんです。イヤホンが赤外線センサーで人間を認識したら人間の声を強調してくれるっていう。ある種の補聴器みたいなもんすね」
「人間の会話って大体50 Hzから300 Hzくらいだから、その帯域を限定して強調するのか」だとしたらボーカル付きの曲も変なイコライザが掛かるな。どうなってんだ?「おもしれえな、ボーナス出たら買おうかな」
「出たことあります?」
「ない」
そろそろ編集長の視線が痛くなってきた俺たちは、いそいそと仕事に戻る。
「おい、田中。原稿持ってくなら今のうちだぞ。あの阿呆、俺にぶちぎれてスタミナ切れになってるから」
「え、いいんすか。なんか先輩盾にした気分なんすけど」
「いいんだよ。こんなことでもなきゃ、先輩面できねえんだから」
「まじありがたいっす。今度、焼き肉おごりますね」
「食べ放題で頼むぜ」
「先輩、高級焼肉とか嫌いそうですもんね」
馬鹿野郎。食えるなら食ってみたいさ。でも後輩の顔を立てて奢られるときなら、遠慮がなさすぎるだろ。
「ほら、いいからとっとと行け」
原稿を持っていく後輩の背中を見ながらスマホで、近くのネカフェを予約する。会社のパソコン、ネットに繋がってねえし……ほぼワープロだろこれ。
チェーンのカフェで、俺は頬杖をつきながら碌な情報が書いていないメモ帳をボールペンの先でポンポンと叩いた。
この手の取材あるあるだ。たいてい来るのは取材を受けたがる目立ちたがり屋の嘘つきで、100人に会って1人に当たるかどうかといういつもの流れ。相手の足代とコーヒー代ばかりが飛んでいく。
こっちは報道内容を把握してから来てんだ。ちょっとやそっとじゃ騙せねえぞ。
とはいえ、こういう取材方法以外できないんだが。もう少し色々なところにコネが欲しいぜ。
と、スマートフォンが震える。
”近くにつきました。いらっしゃいますか?”
確かこの人は連絡をくれたときから丁寧な人だったな。DMで聞いた限り、自分の旦那が電車に轢かれて死んだとか。
「はい、13番のテーブルですよ……っと」
ほどなくして、ベージュ色のスモックと黒いパンツを身に着けた小柄な40代くらいの女性が入ってきた。肩ほどまである髪はぼさぼさで、顔も皺だらけで辛気臭い。もしかしたら、老けて見えるだけで30代くらいかもな。
多分、旦那が死んでから色々あったんだろう。俺も親父が死んだとき、すっげえ面倒くさかったし。
女性がテーブルに着いてから、俺は会釈した。
「初めまして。『影の世界』という雑誌で記者をしています、音田と申します」
擦れた声で女性が話し始める。
「初めまして。斉藤です……メッセージでも教えていただきましたが、聞いたことのない雑誌ですね」
だろうな。
「ちょっとニッチな雑誌でして。何か飲まれますか?」
「じゃあ、コーヒーを」
注文したコーヒーが来るまで取材費の話をしてから、本題に入る。
「6月23日、旦那様が東京の中武上井駅でホームから落ちて亡くなられたと。お悔やみ申し上げます」
斉藤さんの目に涙が浮かぶ。
「周りには『保険金目当てで殺した』とか『妻が不出来だから』と言われました……。でも、夫とは仲が良かったですし、そんなことする気なんてありませんでした」
逆立ちしても、そういうことをする人には見えない。
「それはお辛いですね。その日、なにか変わったことはありませんでしたか?」
斉藤さんがテーブル上のナプキンで涙を拭った。
「いえ……でも――」何かを思い出すように俯いて、ぼそぼそと呟き始める。「――そういえば前日が彼の誕生日で。その時にプレゼントしたイヤホンをつけていたかな。いつもは数年前に買ったワイヤレスイヤホンだったけど、せっかくプレゼントしてもらったからって。耳にやさしいのは私も分かっていましたから」
イヤホンか。関係あるだろうか。
彼女が顔を上げて俺の方を見た。
「耳には多くの神経が走っています。それに何かの影響を与えられるなら、平衡感覚を失わせることができるかもしれません」
あれか、音響兵器とか内耳性難聴とか音響外傷とかそういう話か。
「お詳しいですね」
「ええ、前は耳鼻科に勤めていましたので……」彼女が目を伏せ、自分の身体を抱きしめてガタガタ震えだす。「ということは、私があの人を殺したってこと……? 彼のためにあのイヤホンを選んだのに……?」
おっと、まずい流れだ。
「落ち着いてください、まだそうと決まったわけではないですから。落ち着いて」
彼女が長いため息を吐き出すと、身体の震えがおさまった。
「旦那さんのイヤホンについて、型番を教えてくれませんか」
「ヴァーティゴ・オトコニアの……すみません型番までは。でもあそこの製品だったのは覚えています。元々補聴器メーカーでしたから、取引もありましたし」
まあ、俺も今使ってるスマホの型番なんか覚えてないしな。とはいえ、ヴァーティゴ・オトコニアか。そういや、田中も同じ会社のを使ってたな。
「……音田さん、お願いです。何とか真相を探り当ててください」
腕を組んで椅子に身体を預ける。
目の前に被害者がいるというのに不謹慎なのは百も承知だが、この事件に知的好奇心がくすぐられ始めているのを感じた。
多分、この事件には何か裏がある。そんな直感が胸の中で飛び回っていた。
「わかりました。出来る限り調べてみます」
数日後、俺は埼玉県の僻地にポツンとある一軒家の前に立っていた。周りを畑に囲まれた、築数十年くらいは経っていそうな白い外壁をした古い鉄筋コンクリート造の家。見える窓の多くが屋内から貼られた灰色のスポンジで埋められているが、ここの住人のことを考えればおかしくはない。
「さて、と」
玄関のインターフォンを鳴らす。
「もしもし」
間髪入れずにインターフォンから声が出力された。
『その声は、我友虎徹ではないか?』
「如何にも、自分は音田虎徹である」
ほどなくして玄関のドアが開くと、全身真っ黒のスウェットに身を包んだぼさぼさ頭の渋いイケメンが現れた。
「やあ、虎徹」そいつは黒いふわふわのスリッパのまま俺に近づいてきて、抱き着いてきた。「虎に成れたか?」
俺は抱きしめ返す。
「残念だが、野良猫以下だよ」
「虎徹は傲慢になり切れないもんな。でも元気そうで何よりだ」
「音色、最近はどうだ?」
「サウンドエンジニアって意外と忙しいんだな。自然音を愛でる時間がないよ」
「お前は優秀だもんな」
「よせよ。私は苦しみを何とか金に換えているだけだ」
遠くから飛行機のエンジン音が聞こえる。すると、音色の体が震えた。
「ああ、嫌な音だよな。家に入ろうか」
落ち着いた様子の音色が黒いマグカップに入ったアイスコーヒー両手に柔らかそうな白いソファに座る。俺は向かい合うようにして置かれた白いスツールに腰掛けた。
いつ遊びに来ても殺風景な部屋だ。床には黒い防音マット、壁紙は白い吸音素材、窓は灰色の遮音・遮光カーテンでふさがれている。そんな質素な部屋にあるのは音色の座るソファと、白いプラスチックのテーブル、そして俺の座るスツールだけ。
「温かいコーヒーがいいなら、自分で入れてくれ。水の沸く音も最近辛いんだ」
音色からマグカップを一つ受け取り、両手で包むようにして持つ。
「聴覚過敏ってのも辛いもんだな」
「電気ケトルと違って、虎徹の声と心音は良い……いつ聞いても、落ち着いている」
俺と音色の距離は控えめに見ても2 mある。その距離で聞こえる俺の心音はマイナスデシベルという、通常の人間には聞こえない音圧のはず。
でも、その特異性があいつを音色たらしめている。
「未だに近くにいる人間の心音すら聞き取れるというのが理解できねえよ」
「理解されるつもりもないよ。でも、虎徹は合わせてくれるからね」
「合わせてる気はないんだがね」
「ところで、私の元に尋ねてきたってことは何か知りたいんだろう?」
俺はズボンのポケットから、ヴァーティゴ・オトコニア製カナル型イヤホンの一番安いモデル、HUM-02を取り出した。
「ニュースは見るか?」
「あんまり」
「最近、駅のホームから落ちたり車道に転び出たりして死ぬ人が多くてな。その原因の一端として、どうもオトコニア社のイヤホンが関わっているんじゃないかと思ってるんだ」
「その心は?」
「勘だ。ただ一つ言えるなら、調べた限りだが被害者は全員ここのイヤホンをつけていた」
「オトコニアには?」
「メールを送ったが、一切返信なしだ。日本語で送ったのが悪かったかな」
「ふむ……」音色が俺の手からイヤホンを取る。俺の手に触れるということは、音色の好奇心に火が付いたんだろう。「なら、私の出番かもしれないね」
「ところで、オトコニア社のオーディオ機器ってどうなんだ?」
「最高と言える。本来、工業製品ではあり得ないほどの高密度な設計と他の追随を許さない音質と再現性。まるでスイスの時計職人がハードウェアを設計しドイツ人がソフトウェアを作成したかのようだ。ただ、やはりデジタルだね。音の再現を電子回路で行っているから仕方の無い事なんだけど、音と音が離散的だね。最近『量子的プロセッサ』というものを各モデルに採用しているという話で、そのおかげかだいぶ誤魔化されているけど……録音環境にもヴァーティゴ・オトコニアの製品を使わない限りはそちらに影響されてしまうからね。そういうわけで私の好みではないかな、離散的な音よりも連続的な音のほうが好みだから原音が一番だよ。あと特徴的なのは量子的プロセッサの余剰能力を使ったV-ANC機能かな。オトコニア社が特許を持っているアクティブノイキャン。どんな環境でもカクテルパーティ効果を再現しつつもノイズキャンセリングできるのがV-ANCだね。レベルがあるけど確か全モデルに搭載されているんじゃなかったかな」
確かにそれなら、ボーカル入りの曲でも影響されないか。特定周波数の音を強調するんじゃなくて、音源分離して強調するんだから。
「なるほど。リアルタイムブラインド音源分離か。こんな小型機器で実現してたんだな。スマートフォンじゃ10年くらい前に実現してたが」
「特許には詳しいことが書いてなかったけどね。低演算量・低消費電力・低遅延・低情報損失・超小型化を実現したのがV-ANCらしい」
「それをイヤホンサイズに収めた……『量子的プロセッサ』か、どこの量子プロセッサなんだろうな。まだ実用化されてなかったような記憶があるが」
「さあね。量子プロセッサと古典プロセッサのハイブリッドかも。そのスイッチングについても詳しく知りたいところだけど」
「それか量子プロセッサってのは嘘か。案外、高性能なニューラルネットワーク演算装置か古典プロセッサのことかもな。AIを使って計算資源を削減するのはよくある手法だろ」
音色が特徴的なクククという笑い声をあげた。
「やっぱり虎徹じゃないとこういう話はできないね。芸大退学になったのが本当にもったいない」
このいじりを許すのは山月音色、お前だけさ。
「教授とそりが合わなかっただけだ」
「ちなみに虎徹を放校にしたその教授、死んだよ。豪雨の中、赤の横断歩道をふらふらと歩いていたところにトラックがつっこんできたんだってさ」
「もしかして――」
「――オトコニア社のイヤホンをはめていたらしいよ。私は葬式に呼ばれたからね、その時に聞いたんだ」
音色が興味深そうに俺を見た。
「こんなところでも繋がりがあるんだね?」
俺は肩をすくめる。
やれやれ、世間は広いようで狭いぜ。
ゲリラ豪雨の中をかいくぐり音色の所から編集部に帰り、濡れた手で電気をつける。
「うげぇ、びちゃびちゃになっちまった……」
編集部にいたのはただ一人。そういえば、あいつも休出していたっけ。
「田中?」
反応がない。いつもなら、こっちを見てくれるんだが。
待てよ、なんか様子がおかしいな。
クッションのへたった安い黒の事務用チェアに珍しく猫背で座っている。目の前にある事務用机の上にはスリープモードになったノートパソコン。耳にはあのイヤホンだ。
それに俺が来るまでこの真っ暗い部屋で仕事してたのか?
「おい、田中。まだ仕事してるのか?」
声をかけて近づいてみても、微動だにしない。
「大丈夫か」
肩に手をかけると、ようやくびくりと動いた。おお、生きている。
「おいおい、まさか寝てたなんて――」
こいつが首をぎこちなく動かして俺の方を『見た』。
「えんはい……あすけて……」
目が痙攣して一点に定まらず瞳孔が開いてる。それに口の端から涎が止まらない。口臭に酸っぱい臭いも混じってる。
なんだこの症状。
出来の悪いホラーか?
「おい、何があったんだ」
なんだこれ?
ともかく病院だ。
どこに行けばいいんだ?
とりあえず救急病院だ。
「きこえない……ぐるぐるする……」
まずはイヤホン外してやらねえと。
「イヤホン外すからな」
耳に触ると、こいつは背筋をゾッとさせるような金切り声をあげて手を振り回して暴れだした。
「びりびりするぅぅ!」
振り回した手が頬をかすめて、鋭い痛みが走った。
「わかったわかった、触らないから触らないから」
手を前に突き出し、なんとかなだめようと試みる。
「痛い痛い痛い!」
くそっ、落ち着かねえか。
いや、見えてない可能性あるな?
「落ち着け落ち着け」
両肩に手を置いて、優しく肩を撫でる。
数回撫でると、震えは止まらないものの落ち着いてきたみたいだった。
「立てるか? 病院行くぞ」
手を引っ張って起こそうとすると、まるで足がコンニャクになったかのように床に崩れ落ちた。
こりゃ立てねえな。救急車呼ぶか。
スマホで119に電話をかけるが、つながらない。
くそが、適正利用しろってんだ。
車なら一応社用車がある。免許もあるし、乗せて運ぶことはできるはずだ。
いや待て。救急病院なんて知らねえ。それに俺は10年来のペーパーだぞ。
……タクシーだ。
タクシーなら、病院にだって詳しいはずだ。
俺が覚えている唯一のタクシー会社にスマホで電話をかけると、すぐに受付のおばさんが出てくれた。
『はい、こちら統合タクシーです』
「すいません、急病人を乗せたいのですが」
『急病人ですか。救急車は?』
こんな時はおばさんの冷静さに救われるぜ。
「電話しても繋がらなくて」
『わかりました。住所を教えてください』
編集部の住所を伝えると、すぐに『そこなら20分で着くタクシーがあります。搬送先は都立救急病院でいいですね』
「お願いします」
少しだけ間が開いた後、おばさんが戻ってくる。
『できればエントランスまで降りてきていただけると。もし無理なら、運転手が介助しますのでそこでお待ちください』
「いえ、何とか降ろします」
『わかりました。お気をつけて。できる限り急いで向かいますから』
電話が切れる。
頼りになるぜ、タクシーのおばさん。
自分の肩に田中の腕を回し、支えながら立ち上がる。とはいえ、体格はこいつのほうがでかいし重い。何とか歩くのが精一杯だ。
「ちくしょう……」
このおんぼろビル、エレベータついてないんだよな。
この不安定な姿勢で4階から1階まで階段降りろってことか。
「ともかく、行くしかねえ……」
全身がびくびくと震えはじめたこいつを引っ張るようにして歩き始める。くそっ、もう少し運動しておけばよかった。もう足の裏が痛ぇよ。
蝸牛に負けそうな速度でのろのろと編集部を出て、階段を慎重に降りる。
かかとも親指の付け根も痛ぇ。一歩一歩が痛いを通り越して苦しくなってきた。
「そうだ、一段、一段……うまいぞ田中」
「えんはい、おこすか……」
「怒ってねえよ」
……いや、今のは『どこすか』か。
「ほら、ここにいるからよ」
「えんはい、みえないっす」
コンクリ製の階段を、二人分の重さを支えながら踏みしめる。
もう脛が限界だよ。ダイレクトに衝撃が来るじゃねえか。
ちくしょう。汗が目に入った。
見えねえ。何とか、もう片目で……。
「あっ」
距離感を見誤り、階段を一段踏み外す。
支えている田中の体重がもろに身体に掛かり、背中が悲鳴を上げた。
肺の空気が押し出されて出てくる、カエルが潰れたような声。
灰色のコンクリートと窓から差し込む街灯の白、非常灯の緑色がぐるぐると視界の中で混じり合う。
そうして最後は、黒になった。
鎮痛剤で抑えつけられた脈を打つ痛みに耐えながら、インターフォンを押す。
ギプスをはめた腕も、折れた肋骨も、体中の筋肉がちぎれた痛みも田中が感じた苦痛に比べりゃ耐えられるさ。だって、あいつは――。
『……どなたですか』
若い女性の声。でも、感情を押し殺しているのがスピーカー越しでも分かる。
「音田虎徹と申します。田中さんの同僚のものです」
『ああ、音田さん……少しお待ちください』
ほどなくしてドアが開くと、疲れのにじんだ顔をした40代くらいの女性が現れた。あいつのお姉さんだろう、それなら29つってたな。
ははっ。
……笑えねえよ。あいつのお姉さんをこんな顔にしたのは俺なんだからよ。
「音田さんですね。どうぞ、お上がりください」
「失礼します」
俺が通されたのは、紫色の座布団の敷かれた仏間だった。真新しい仏壇には田中のにこやかに笑う遺影だけが飾ってあった。
「どうぞお座りください」
促されて座布団に座ると、お姉さんが向かい合うように座って申し訳なさそうに目を伏せた。
「すいません、両親はちょっと……今日は無理そうなので」彼女が俺の方を見た。「音田さんのお話は弟からよく聞いてました。とても賢くて、いつも助けてくれるすごい先輩だって。もし、なれるならこんな人になりたいって」
彼女が近くに置いてあったティッシュ箱から数枚ティッシュを引き抜いて涙をぬぐう。
買い被るなよ。俺は大学中退だぞ。
……本当によ。
「それで、今日はどんなご用件で?」
「いえ。入院していて、田中さんの葬儀に出られなかったので。せめて、線香くらいはと思いまして」
「ああ、弟をかばってくれた時の……」
「……かばい、きれませんでしたけどね」
結局、あの時俺にできることと言えばあいつの下敷きになって何とか頭とか腹とかを守ることだけだった。
で、俺は数週間ベッドの上さ。
腕の骨折はともかく。肋骨が折れて肺に刺さるわ、背中の皮膚はどうしようもないほどずる剥けるわ、背中はもちろん足やら肩やらの筋肉が肉離れするわ。
ひでえもんだ。
でも、あいつを助けられなかった。
ぐちゃぐちゃになった俺とあいつを見つけてくれたのは、エントランスまで降りてこなかった俺らを疑問に思ったタクシーのおじさんだ。あの人がいなけりゃ、俺はきっとあのビルで死んでた。
でも胸を搔っ捌かれて麻酔で眠ってる間に、あいつは死んじまった。
詳しいことは聞いてねえ。でも、死んだってのは間違いない。意識が戻ってから事情聴取を受けた時に警察の人が言っていた。
「弟は、もし音田さんが病院に運んでくれたとしても助からなかったそうです。脳出血を起こしていたとか」
「……そうですか」
彼女の顔がくしゃりと歪み、感謝と苦痛の入り混じった複雑な表情に変わる。
「でも、弟を助けてくれようとしたのは間違いないですから。父も母も今は少し落ち着かなくて……でも、音田さんには感謝しています」彼女が土下座するように手を床につけて頭を下げた。「ありがとうございました」
本当によ。
本当に……許せねえよ。
なんでこんなに家族から愛されてるあいつが死んだ? なんで俺みたいに家族から勘当されたボケが……。
いや、こんなボケでも音色を置いていけねえよ。あいつが死んだら俺がようやく死ねるんだからよ。
だからよ、神様。俺と田中、二人ともどうして生かしておいてくれなかったんだ。
なんでだよ。
「頭を上げてください。俺はなんにもできませんでしたから。本当にごめんなさい」
俺も床に手をついて頭を下げる。
こうすれば、彼女のことを見なくて済む。ふっと脳裏をよぎったそんな考えに嫌悪感を抱いた。
これだけの事があっても、涙一つ出てこない自分にも。
「そんなことはないです。もし音田さんがいなければ、弟に何があったか分からなかったですから。でも……なにがきっかけで死んだのか。もし分かるなら知りたいです」
あたりはついている。
あのイヤホンだ。
でも、それを伝えるわけにはいかない。あいつが言ってただろ、あれがご家族からのプレゼントだって。すでに苦しんでるこの人たちにこれ以上、余計な情報を与えることはねえ。
俺は顔を上げた。
「わかりました。出来る限り調べてみます」
ポケットのスマホが震える。彼女に断りを入れて画面を見ると、音色からだった。
“虎徹、分かったよ”
その一文は、俺を立ち上がらせるのに十分だった。
音色の部屋に入った途端、酷い雨音を立て始めた豪雨を聴きながら、俺は音色に勧められるようにしてスツールに座る。
いつも通り俺と向かい合うようにソファに座った音色は、猫背になって疲れをにじませた顔で深い溜息を吐いた。
「ごめんよ、大怪我して入院したのは知っていたけど」
「構わん。イヤホンの件ずっと調べてくれたんだろ」
「ああ。おかげで分かったことがある。少し長くなるけど、飲み物は?」
「いや、いい」
音色が深い息を吸って、吐いた。
「『Hum』は分かる?」
「スピーカーとかの電子機器から聞こえる、50 Hzまたは60 Hzくらいの低音だろ。電源が発する電磁波が内部の回路に干渉して電気的ノイズになるっていう。だから電源周波数と同じくらいになるんだよな」
「そう。ただ、それがもし地球でも起きているなら?」
音色がプリントアウトした論文を俺に手渡す。ざっくり読むと、地球は常時2 mHzから20 mHzの低周波音を出していて、それは海の波やサイクロンのようなものが要因になっているという話だった。
「……これなら、可聴域外だろ。最大でも可聴域の1000分の1じゃないか」
人間の可聴域は20 Hzから20 kHzだ。可聴域外の音が精神や身体に影響を及ぼすことがないわけではないが……長期間の暴露や体質、音圧が揃わないと。
「最近、地球温暖化が問題になっているじゃないか」
「ああまあ……」
あれか、気温が上がったから周波数が変化したとかそういうことか?
それなら、確かに周波数は音速を波長で除したものだから、温度が上がったらちょっとは変わるだろう。
それとも気候か? 詳しくないが、気候変動で海流が変わったかなんかで『Hum』の特性が変わったとか?
「そうやって考えてくれるのは虎徹だけだよ。恐らく、虎徹の考えていることも要因として含まれているんだ。けど、すべてじゃない」
音色が感情の分かりにくい目を俺に向けた途端、近くに雷が落ちたのか家が震えた。
「国際宇宙ステーションに限らないけど、宇宙ミッションに使うための電子回路に必須の特性がある」
「なんだ?」
「ハードディスクドライブは壊れにくいが、ソリッドステートドライブは壊れやすい」
こういう問いかけの仕方をするのが音色の悪い癖だ。
HDDは磁気で記録するが、SSDは半導体で記録を――。
「――放射線耐性か。半導体は、宇宙線でソフトエラーが起きるはずだ。本来、それを是正するなり通さないための機構が必要になる」
思い出せ。
音色がこういうことをするのは、すべてが繋がっているときだ。音色にとって数か月どころか数年前の話題も関係はねえ。全部繋がっていて、音色の中ではつい5秒前のことのように思い出せるし繋がってるんだ。
放射線耐性。
ソフトエラー。
地球温暖化。
地球の『Hum』。
ここまでは今日話したことだ。
その前。
量子的プロセッサ。
最新の古典プロセッサ。
リアルタイムBSS。
V-ANC。
ヴァーティゴ・オトコニア社。
イヤホンをはめた人間の平衡感覚消失。
「……すまない。途中経過を聞いてくれ」
音色がつかみどころのない笑みを浮かべる。
「いいよ」
「ヴァーティゴ・オトコニア社のイヤホンに搭載されたV-ANCはリアルタイムBSSを実現するために、高性能なプロセッサを搭載した。だが、それは放射線耐性が低く、ソフトエラーを起こしやすいものだった。そしてソフトエラーを起こすと、地球温暖化により周波数が……いや、温暖化に起因する何らかの理由で『Hum』を人間の平衡感覚を奪う周波数に変換して音を再生する。それが何人もの人間を殺した犯人だ」俺は自分の言っていることが信じられなくて、頭を少し掻いた。「これが、音色の中のシナリオなんだな?」
「流石だよ。虎徹に足りなかった情報をあげよう」
音色が取り出した別の論文を手に取る。
「……雷雲からのガンマ線発生?」
そういえば、プレスリリースで軽く読んだ記憶がある。飛行機でアメリカに行くよりも低い、人体に影響はないレベルだってことだったはずだが。
待てよ。
ガンマ線。
落雷。
ゲリラ豪雨。
ヒートアイランド現象。
都市部での集中。
思わず顔をしかめた。
こんなことがあり得るのか?
「虎徹、分かったみたいだね」
なんでオトコニア社はこれに対応しなかったんだ。
「もらったイヤホンを分解して調べたけど、量子的プロセッサっていうのは量子プロセッサじゃなくて非常に高性能な古典プロセッサだった。ただ、ある研究者がエラー検出訂正機能の低さに言及していた曰く付きだ。地球のバックグラウンド放射に多いアルファ線とベータ線には耐えるけど、ガンマ線には耐えられない可能性が高いという意見のあるものだよ」
本当にこんなことが起きるのか?
「じゃあ、ゲリラ豪雨が起こす雷雲から出てくるガンマ線がきっかけなのか? この事件の?」
「地球の声を偶然ではあるが電子的に変換し、人間……哺乳類の平衡感覚を奪う事ができるのがV-ANC。もしかしたら、この事件はガイア説を支持するのかもね」
いや、いくら音色が天才だからといえ、この結論に至るにはとてつもない飛躍がある。
音色の誘導があったから俺はこの結論に至れたが、ゼロから組み上げるのは無茶だ。
まさか。
「……実験したのか?」
「マウスでね。もっとも、発見できたのは偶然に偶然が重なったからだけど」音色の顔がつかみどころのない真顔から引き締まった真剣な面持ちになる。「虎徹がイヤホンをくれたときから、V-ANCが原因だろうと当たりをつけていた。だから、イヤホンからホワイトノイズを流し続けて、その音を防音した飼育室に入れたマウスに聞かせてみたんだ。ただ、一週間たっても影響は見られない……それでもと続けていたら、今日みたいなゲリラ豪雨に襲われてね」
写真を撮られたかのような閃光。木を引き裂く音。揺れる家。
「その途端、マウスの様子がおかしくなった。落ち着きが無くなり、床材のおが屑を掘るような動きを繰り返したり壁にぶつかったり、しばらくすると脱力と失禁が見られた……明らかな異常だよ」
雨音がさらに激しさを増し、油が跳ねるような音を立て始めた。
田中が死ぬ前の様子を思い出し、心臓が早鐘を打つ。
あいつも暴れていたし、脱力状態で立ち上がれなかった。
「結局、マウスは鼻から血を流して死んだよ。でも、その間ずっと広域スペクトルレシーバーを動かしていたのが功を奏した。調べたら10 Hzから20 Hzの帯域で200 dBを超えるとてつもない騒音が発生していたんだ」
じっとりと額に汗が浮かび、頬に汗が伝うのを感じた。
200 dB、それを耳元で? 騒音なんてもんじゃねえ、鼓膜が破裂するような音圧だぞ。
「飼育室の外にも置いておいたレシーバーと照合したさ。すると、『Hum』が捉えられたときとほぼ同時にその騒音は始まっていた……『Hum』が鳴り止んだ後もずっとね。オトコニア社のイヤホン、いやV-ANCは地球の音を僕らに聞かせるための機構になっていたんだよ。それも殺人的な音圧に変換して、ね」
「……マウスだけの話じゃないか。マウスは確かにその音で死んだかもしれねえ、でも人間にも同じ効果があるかはわかんねえだろ」
そうであってほしいという願いが込められた言葉を口にする。
だが音色は悲しい顔をして、首を横に振った。
「何を言っているんだい。すでに人体実験は始まっているじゃないか」
遠くから、車のブレーキ音と激しい衝突音が聞こえた。
「そしてその結果を知っているだろう?」




