感情の欠片④ ー短編集ならぬ断片集ー
淡い膜に包まれていたかった。少し温かい水で満たされたそれに、ゆったりと浸かっていたかった。たとえそれが私の寿命を縮めるとしても。
それなのに投げ出されたところは、暗く冷たいものが犇めき合うところだった。気を抜けば足元をさらう何かが、足首を掴んで引き摺り込もうとする。
掴むことのできない、自分を引き摺り込もうとする何かに怯えている。
1秒だけ呼吸を止めて、それを掴もうとしたことが何度あっただろうか。その姿をまだ見たことすらないのに。
寝れずに頭を抱えたまま、また夜が明けて朝日が昇る。鮮烈な光に体が消え去ってしまいそうだった。
少しボサボサになった髪が視界に入り込む。硬くて冷たい床から起き上がることもしない。ただその突き放した感触だけを頼りに、まだ生きていることを知る。
水と同じ色をした、竦んだ私を絡め取ろうとする何かに怯えている。
それに形を、名前を与えようとしたことが何度あっただろうか。そしてその度に恐ろしくなって逃げ出した。それが何かも分からないのに。
泣きたくて泣きたくなくて、何で泣いているのかも分からないままに泣いていた。枯れてよれた目元と、翌朝、鏡を挟んで向かい合う。…ああ、なんて惨めなんだ。
同級生の世間話に聞いてないフリをして聞き耳を立てて、伏せた顔と机で睨めっこして過ごした休み時間。
もう何もしたくないと願ったら、全身を保っていた糸が切り離された。それが無いと私は、もう動くとすらままならないのに。
また床に倒れ込んでいる。投げ出された手の指の隙間から漏れ出る何かが異様な虚しさを誘う。
元から持っていなかった物なのに、いざこの手から抜け落ちると…何故だろう。どうしてか、悲しい。
私に触れないで。誰も私に触れないで。
手を伸ばしては擦り抜けていく形のない何かを見て、無償に焦って焦って、手放したくなくて。髪を振り乱して走った先に何もなかったとしたら?
あなたに私がわかるものか。私でさえ分からないのに。
叫んで叫んでこの声が枯れたその後に訪れる空っぽな時間。その瞬間だけが、私に優しく問いかける。
その問いすらも怖くなって逃げ出してまた、足を滑らせる。
私に触れないで、誰も私に触れないで。触れたら脆く、崩れてしまう気がするから。ここまで保ってきた首を絞める縄が、泡になって消えていってしまうから。
それでいいこれでいいなんて、初めに誰が言ったかも分からない言葉をお守りのように抱きしめて縋って。許せない自分を押し込めるように喉を締めた。
帰り道に新しく花が咲くたびに、私の心は風に吹かれたように不安定になる。振り向けばすぐそこに名前のない何かがいて、目と目が合った瞬間に私が崩れ去ってしまう気がした。
自分にすら触れられない私が、誰かに触れてもらおうなんざ夢のまた夢だったんだ。
ずっと前から気づいていたことなのに。
あの時確かに掠ったあの人の手のひらの温度が、私はまだ、忘れられない。
私はまだ、諦めきれない。またあの感触を味わいたいと、心が勝手に望んでしまう。
…掴もうとして、この手からすり抜けたものなのに。
焼かれて呑まれて。そんな毎日をいくら乗り越えても、また明日は同じことの繰り返しなのに。わかりきったことなのに。
私を見つけて。誰か私を見つけて。
もう大丈夫だよって、笑いかけてくれる誰かが、私を拾い上げてくれる誰かが、いつか現れてほしくて。こんな世界に今も留まり続けてると言ったら?
あなたにこの気持ちが分かるものか。こんなに惨めでたまらないのに。
季節が着々移り行くにつれ、伸びていく髪の毛を恨めしげに切り落とした。もうあの頃になんて戻りたくない。
暑い夏に焦がされて冷たい冬に凍らされて。何度も何度も繰り返して劣化した私にこれ以上、何をしろと言うのだろうか。
輝かしい全てのものに気圧されて、どんどん自分自身がくすむ。
私のことを比べないでよ。もう何回も何回も他のもの比べて比べて、比べすぎて、擦り切れてしまったから。
…もう放っておいてくれ。
私を見つけて。誰も私を見つけないで。見られたらもう死んでしまうから。
こんなに醜い私を見てくれる人なんているわけないと分かっているのに。なんでまだ願っているの?
もうたくさんだ、もうたくさんだ。
私は今日もこときれた人形のようにぐったりと椅子に座り込んだまま、声にならない声をあげようとする。
…誰か、気づいて。
ー・ー・ー
「信じられない…」
口から溢れ落ちた言葉は、じわじわと足元からアスファルトに染み込んでいく。まるで私の体さえも、黒く塗り潰していくかのように。
言葉が地面に浸透していくにつれ、足元が大きく歪んだように感じた。そしてゆっくりゆっくりと、私は足元から地面に沈み込んでいった。
足はもう上がらなかった。上がる訳もなかったし、上げる気もしなかった。
元から地面とひと繋ぎだったかのようにこびりついて、絡めとるように私を地面の底へ底へへと連れて行こうとする。
…ただ、酷く疲れていた。
夏の茹だるような暑さも、それに煽られたような蝉の鳴き声もどこか遠く。口に含んだアイスは半分、溶けかけていた。
それになぜだか全て、遠い世界の知らない国の出来事みたいだった。何より一番、あの告白現場が。
目を閉じれば今もまざまざと瞼の裏に見えてくる。校舎裏、校庭の横、二人の学生が幸せそうに見つめあっている。…そして二人は、惹かれ合うようにして流れるような自然な動きで、そのままキスをした。
ぱたっと、溶けたアイスが地面に落ちた音がして、私は現実に引き戻される。ついさっき見たあの光景が忘れられないまま。私の親友と、
私の好きな人が…両思いだったなんて。
“両思い”と言う単語が、これ程までに不自然に心に鳴り渡ったことはなかった。少なくとも、これまで十数年生きてきた中では、一度も。
「…全部、嘘だったの?」
私を好きだと言って笑ったあの顔も、優しく頭を撫でてくれたあの手のひらも、帰り道に半分こしたあの肉まんも。
…全部が全部、嘘だったのだろうか?
そう思った瞬間、体の奥底の臓腑から泥々とした何かが溢れ出した。腑の汁を全て煮込んで煮込んで煮詰まらせた何かが、喉元まで込み上げる。それは、黒いのに茶色で、一つのものなのにまだらで。なんとも言えない生ぬるい気持ち悪さを孕んでいた。
ずりっ、べちゃっ。…残っていたアイスが棒から滑り落ちて、完全に地面へと落ちた。アイスはそこから少し広がるようにまた、ゆるゆると溶け始めている。
この怒りも、このやるせなさも、この悲しみも、この気持ち悪さも、全部が全部、あいつらのせいだった。
私の幸せを奪っておいて、自分たちだけが幸せになろうなんて、何と言う傲慢不遜な考えの持ち主なのだろうか。
私はアイスの棒を握りしめる。掴む力が強すぎたのか、ほんの少しだけ小さな音でアイスの棒がみしっと鳴いた。
でも、そんなことどうでも良かった。…今の私の前では。
「絶対に、許さない」
ー・ー・ー
私はシャンデリアみたいなサンキャッチャーを思いっきり手ではたいた。
サンキャッチャーはぐるると大きく回って、色とりどりのガラスもつられるようにして勢いよく回りだした。
赤、青、緑、黄…と、目まぐるしく光の色が変わっていく。時折目に入る太陽の反射した光がとても眩しい。けれどそれら全てに刺すような鋭さは一切無く、どこか戯れるような軽やかさを持っていた。
そして、ガラスとガラスがぶつかる度にりろりろともきゃらきゃらともとれる美しい音色を響かせていた。
言うなれば、太陽の光と音のダンス。お互いに手を取り合って、時たまペアを変えて、二つはぐるぐるぐるぐると踊っていた。
それらが回り続けている間、私はぼうっと東屋のベンチに腰掛けて、目まぐるしくきらきらと瞬く光と音を浴びていた。
日光浴を可視化したみたいなことをしているのだと思ってほしい。
この東屋で混ざりけのない音と光を感じていられる時間しか、もう私は心の底からほっと息を吐けないのだ。無論、自分の部屋も安心なんてできない。
私は息を吐き出した。誰かに急かされた訳でもなく、自分の心がそうしたいと流れるままに。
目を、ゆっくりと閉じた。時間の流れまでもが私を気遣って、ゆっくりと流れてくれていることを願った。その時私は、確かに自由を噛み締めていたから。
触れられないけれど確かにそこにあって、体に染み渡るのに見えないもの。
…きっと、“自由”を見えたり聞こえたりするものにしたらこんな光と音の雨になる。
理由も分からないまま、そう思った。じんわりと心が暖かくなっていくのを感じていたから。
そしてそれに答えるように、サンキャッチャーが、しゃらんと鳴った。
まるで、『そうだよ』と、言っているみたいだなと、思った。




