風の吹く丘と約束の村
王都の巨大な白亜の城門が、重々しい地響きを立てて開かれた。
抜けるような青空の下、どこまでも続く緑の草原が僕の目の前に広がっている。吹き抜ける風が青草を波立たせ、遠くの山々からは雪解け水の清らかな匂いが運ばれてきた。
「アレン。……行きましょう」
視界の端から、リアの鈴を転がすような澄んだ声が降ってきた。
彼女は僕の隣に立ち、慈愛に満ちた、絵画のように完璧な微笑みを浮かべた。
僕は腰に帯びた聖剣の重みを確かめるように一度強く握りしめると、リアに向かって力強く頷いた。
「ああ。僕が、この世界を救うために」
独り言のように呟いたその言葉は、僕自身の心に決意を刻み込むためのものだったが、リアはその言葉をすべて肯定するように、音もなく深く頷いた。
王都の人々の万雷の歓声に見送られながら、僕は支給された古い羊皮紙の地図を広げた。
最初の目的地は、王都から街道沿いに徒歩で半日ほどの距離にある「リナスの村」。そこには、かつて先代勇者と共に魔王軍と戦った老賢者が隠居しており、新たな勇者に冒険の指針を授けてくれる手はずになっていた。
道中は、穏やかな春の陽気に包まれていた。
リアは僕の数歩後ろを、付かず離れずとついて歩く。彼女の純白の法衣は、砂埃の舞う街道を歩いているにも関わらず、傷一つ、汚れ一つつくことはなかった。
時折、街道の脇の茂みが揺れ、スライムや角の生えたウサギといった低級の魔物が姿を現す。
だが、彼らが僕に襲いかかろうとした瞬間、腰の聖剣が微かに黄金の光を放った。魔物たちはその清浄な波動に気圧されたように、悲鳴を上げて森の奥へと逃げ帰っていく。
(……剣を抜かずとも、魔物が退いていく。これが『勇者』に与えられた力なのか)
僕は、自分の中に眠る強大な力に、恐怖と高揚が入り混じった奇妙な感覚を覚えていた。
記憶を持たない自分にとって、この右手の紋章と聖剣だけが、自らの存在を証明する唯一の証だった。
「その聖剣……。予言通り、選ばれし主に完全に応えていますね」
リアが横から、いつもの穏やかな声で称賛の言葉を述べた。
僕が彼女の方を振り返ると、リアは真っ直ぐに僕を見つめ、白い指先で前方の街道を指し示した。
「さあ、アレン。立ち止まらず、先へ進みましょう。あなたの『運命』が待つ場所へ」
昼下がり。街道を外れ、緩やかな丘の頂上に辿り着いた僕の目に、牧歌的な農村の風景が見えてきた。風車がゆっくりと回り、麦畑が黄金色に輝いている。
しかし、その美しい景色には、不自然な黒い煙が立ち上っていた。
「……火事か!?」
風に乗って、微かに人々の悲鳴と、下卑た笑い声が聞こえてくる。
僕は弾かれたように駆け出した。
坂を転がるようにして村へ飛び込むと、そこには緑色の醜悪な肌を持つ十数体のゴブリンたちが、村の広場で暴れ回っている光景があった。
彼らはたいまつを振り回して民家の屋根に火を放ち、逃げ惑う村人たちから食料や金品を強奪している。
「やめて! お願い、おじいちゃんをぶたないで!」
広場の中央で、一人のうら若き少女が、地に倒れた老人を庇うようにして泣き叫んでいた。その頭上高く、ゴブリンが棘のついた棍棒を無慈悲に振り上げる。
「やめろォォォッ!!」
僕は気合と共に、無我夢中で聖剣を抜き放った。黄金の光が周囲を照らす。
僕がゴブリン目掛けて踏み込もうとした、その瞬間だった。
僕の脳裏に、凄まじい死の映像が一瞬だけフラッシュバックした。
今、目の前にある光景ではない。
ゴブリンの棍棒が少女ではなく、僕自身の頭部目掛けて振り下ろされるビジョン。
次の瞬間、僕の視界は真っ赤に染まり、「自分の頭部がトマトのように砕け、脳漿が石畳に飛び散る感触」が、生々しい激痛と吐き気と共に僕の全身を駆け巡った――。
「……ッ!!?? うぐっ……!」
強烈な眩暈と嘔吐感に襲われ、僕の身体がその場に崩れ落ちそうになる。
だが、その死の恐怖から逃れるように、僕の身体は反射的に動き、無意識のうちに棍棒の軌道から外れていた。
「ギ、ギィ……!?」
驚愕に目を見張るゴブリン。棍棒は虚空を切っていた。
僕はフラフラになりながらも、本能的に聖剣を振るった。剣はまるで使用者の疲弊など知らぬげに、意志を持って僕の腕を動かし、流れるような身のこなしでゴブリンを一閃した。
――ふわり、と。
肉を断つ手応えや骨を砕く感触が一切ない。ただ黄金の光が撫でたかのような軽すぎる一撃。だが、刃が触れた瞬間、ゴブリンは派手に血を吹き出し、大きな悲鳴を上げて地に伏した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! 今の、は……」
冷や汗が全身から噴き出し、心臓が早鐘のように鳴り響く。
手にした剣の異常な切れ味に驚く余裕など、僕にはなかった。先ほどの『自分の頭部が砕け散る』という生々しい死の感触が、まだ首筋にこびりついているのだから。
自分でも気づかぬうちに、僕の剣技は一切の無駄がない、舞いのような完璧な動きになっていた。
(手応えすら感じさせない……これが、聖剣の力なのか)
僕の圧倒的な戦闘力の前に、ものの数分でゴブリンたちは全滅し、残った数体が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
僕が肩で息をしながら剣を収めるのを待って、リアは静かに歩み寄った。
「見事な戦いでした、アレン。……これで村の人々は救われましたね」
その声には確かな賞賛が込められていたが、彼女の純白の法衣は、激しい乱戦の後とは思えないほどに一点の汚れもなく輝いていた。
「……ああ。なんとか、ね……」
僕は喉まで出かかった吐き気を無理やり飲み込み、聖剣を鞘に収めた。
「……勇者、様? もしかして、勇者様なのですか!?」
助けられた少女が、涙を浮かべて僕の右手の紋章を見上げる。その瞳には、救世主に対する絶対的な信頼と崇拝が宿っていた。
「ああ。大丈夫、もう怖くないよ。怪我はない?」
僕は優しく微笑み、手を差し伸べると、村の物陰から一人、また一人と人々が姿を現した。彼らは皆、僕を囲み、跪き、涙を流して感謝の言葉を口にした。
「おお、予言は真実であった!」
「リナスの村は救われた! 勇者アレン様、万歳!!」
人々の歓声は波のように押し寄せ、僕の鼓膜を震わせる。
(記憶はない。あの不気味な悪夢の感触だけが、まだ首筋にこびりついている。だが……こんなにも、たくさんの人たちが僕を待っていたんだ)
この熱狂と、人々の純粋な希望の眼差しを前にして、僕の胸の奥底で、小さな、しかし確かな使命感の火が灯り始めていた。
その夜、リナスの村ではささやかな、しかし心温まる宴が開かれた。
村人たちは乏しい備蓄の中から、最高の麦酒と肉を振る舞い、僕たちを歓待した。
僕は村の長老――少女が庇っていた老人であり、かつて賢者と呼ばれた男と、暖炉の前で対峙していた。
老賢者は僕の右手の紋章をじっと見つめ、静かに、しかし力強い声で語り始めた。
「勇者アレンよ。そなたの旅は、決して平坦なものではなかろう。魔王グラディウスは、人々の絶望と恐怖を糧に、日増しにその力を増しておる」
「絶望……」
「そうだ。だが、忘れるな。そなたが今日、この村で救った命。そして村人たちの笑顔。それこそが、闇を払う唯一の武器になるのだ。人々の希望を背負うこと、それが勇者の真の強さなのだよ」
長老は、古びた、しかし手入れの行き届いた一通の手紙を僕に託した。
「これは、次の街に住むある腕利きの戦士への紹介状じゃ。魔王を討つには、そなた一人では限界がある。仲間を募り、固い絆を結ぶのじゃ」
宴が終わり、村に静寂が戻った頃。
僕は村の外れにある丘に登り、満天の星空を仰ぎ見た。
王都での華やかな任命式。そして、今日この村で見た涙と、溢れるほどの笑顔。
僕の心の中で、「勇者」という役割は、単なる『与えられた義務』から『自らの意志』へと確かな変貌を遂げていた。
(僕は、この人たちの明日を守りたい。そのためなら、どんな苦難だって乗り越えてみせる)
翌朝。村人全員に見送られながら、僕は再び街道を歩き出した。
朝日を背に受ける僕の背中は、昨日よりもずっと頼もしく、まさに物語に描かれる理想の英雄そのものだった。
「行きましょう、アレン。魔王を討ち、この世界を救うために」
リアが横に並び、どこまでも澄み切った、完璧な笑顔で前を指し示した。
風はどこまでも澄み渡り、僕の門出を祝うように、その背中を優しく押していた。
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