目醒めの勇者
真っ白な視界の中に、一筋の温かな光が差し込んでいた。
どこまでも深く、冷たい闇の底から浮上するように、少年――アレンはゆっくりと意識を取り戻していく。
鼻腔をくすぐるのは、古びた羊皮紙と、微かに甘い乳香の香りだ。ごつごつとした石造りの冷たい床の感触が、法衣越しの背中を通して伝わってくる。
重い鉛のようなまぶたをゆっくりと押し上げると、まず目に飛び込んできたのは、目が眩むほどの極彩色の光だった。高く聳える大聖堂の丸天井、そこに嵌め込まれた巨大なステンドグラスが、朝の陽光を透過して無数の色彩を石畳の上に落としている。
「……う、ん……」
ひび割れた声が喉から漏れた。指先が微かに動く。
「あ……。よかった! 目覚めたのね、アレン!」
視界の端から、鈴を転がすような澄んだ声が降ってきた。
眩しさに目を細めながら焦点を合わせると、そこには透き通るような金糸の髪と、深い海を思わせる青い瞳を持つ少女がいた。純白の法衣に身を包んだ彼女は、祈るように胸元で組んでいた手を解き、アレンの頬にそっと触れた。その手はひどく温かく、安堵からか、わずかに震えていた。
「ここは……? 君は、誰……?」
「私はリア。この教会の聖女よ」
リアはふっと息を吐き出し、慈愛に満ちた、絵画のように完璧な微笑みを浮かべた。
「あなたは覚えていないかもしれないけれど、あなたは古の予言に示された、世界を救う『聖剣の勇者』なの」
「僕が……勇者?」
アレンは痛む体を起こし、自分の両手を見つめた。
一度も陽の光を浴びたことがないような、陶器のように真っ白で、傷一つない少年の手だ。
しかし、右手の甲には、古代の迷宮を上空から見下ろしたような、異様に整然とした直角と直線の幾何学模様が、黄金の紋章として深く刻み込まれていた。
自分がどこから来たのか、名前以外の記憶は深い霧に包まれている。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、胸の奥底で何かが熱く脈打つような感覚がある。
その時だった。
(――ザッ、ザザー)
鼓膜の奥で、無機質で、ひどく乾いた電子音のようなノイズが鳴った。
直後。アレンの脳裏に、凄まじい情報量の「映像」がフラッシュバックした。
今見ている美しい大聖堂ではない。
薄暗く、鉄錆とひどく生臭い血の匂いが充満する冷たい石室。
首から上がなく、不自然な角度にへし折れた四肢から大量の赤黒い血を流して、まるで壊れた人形のように打ち捨てられている『自分自身の死体』。
「……ッ!!??」
「どうしたの、アレン!? どこか痛むの!?」
激しい吐き気と眩暈に襲われ、アレンは床に手をついた。内臓を素手で鷲掴みにされ、かき回されるような生々しい「死」の感触。
首の断面の生々しい冷たさと激痛の幻覚。この傷一つない、真新しい肉体には存在しないはずの、悍ましい死の記憶。全身の毛穴から一気に冷や汗が噴き出し、心臓が早鐘のように鳴り響く。
「はぁっ、はぁっ…! 今の、は……」
「アレン? 大丈夫? 顔色が真っ青よ……」
リアが顔を覗き込み、背中を優しくさすってくれる。その温もりと、フローラルな香りに触れた瞬間、先ほどの悍ましい光景と血の匂いは、電源を切ったテレビのようにフッと途切れ、嘘のように霧散した。
顔を上げれば、そこには神聖な光に満ちた教会と、心配そうなリアの顔がある。
(……夢、か? 記憶を失ったショックが見せた、ただの悪夢?)
あまりにも現実離れした光景だった。アレンは首を激しく振り、自分の首がちゃんと繋がっていることを無意識に手で確かめながら、喉まで出かかった残る吐き気を無理やり飲み込んだ。
「……いや。なんでもない。ちょっと変な夢を見たみたいだ」
「無理はしないで。あなたは世界を救う、唯一の希望なんだから。王様があなたをお待ちになっているわ」
リアに手を取られ、アレンはふらつきながらも立ち上がった。
ふと、祭壇の奥へと続く、仄暗い地下階段に目を向けたその時だった。
リアがスッと、不自然なほど滑らかな動きで、アレンの視界を遮るように立ち塞がった。
「そちらには何もないわ、アレン。あなたの行くべき道は、光射す王宮よ。……絶対に、近づかないでね」
慈愛に満ちた笑顔のままだったが、その声のトーンだけが、どこかひどく平坦で冷たく響いた。
(……気のせい、か?)
アレンが瞬きをして見直すと、そこには優しく微笑む心配そうな聖女の姿があった。
教会の重厚な木製の扉が、ギシギシと音を立てて開かれる。
途端に、目も眩むような強烈な光と、耳をつんざくような大歓声が押し寄せてきた。
「おおおおお!! 勇者様だ! 勇者様がお目覚めになられたぞ!!」
「万歳! 勇者アレン様、万歳!!」
白亜の石造りの家々が立ち並ぶ、美しい城下町。大通りを埋め尽くすほどの群衆が、教会の前に押し寄せていた。彼らはアレンの姿を認めるなり、涙を流して拝み、色とりどりの花びらを空に向かって撒き散らした。
歓声は波のように押し寄せ、アレンの鼓膜を震わせる。
だが、ふと奇妙な感覚がアレンの脳裏を掠めた。
(なんだろう……なにか引っ掛かるというか、違和感がある気がする)
「お兄ちゃん、がんばってね!」
人混みの中から小さな女の子が飛び出してきて、アレンに一輪の白い花を手渡した。
アレンがしゃがみ込んでその花を受け取ると、群衆からさらに大きな、割れんばかりの歓声が上がり、先ほどの違和感はあっという間に歓喜の渦にかき消されてしまった。
(気のせいだ。こんなにも、たくさんの人たちが僕を待っていたんだ)
記憶はない。あの不気味な悪夢の感触だけが、まだ真っ白な首筋にこびりついている。だが、この熱狂と、人々の純粋な希望の眼差しを前にして、アレンの胸の奥底で、小さな、しかし確かな使命感の火が灯り始めていた。
王宮の謁見の間は、目が痛くなるほどの金銀の装飾と、赤い豪奢な絨毯で彩られていた。
一段高い玉座に座る国王は、白い髭を蓄えた威厳ある老人だった。彼は立ち上がり、重々しい足取りでアレンの元へと歩み寄る。
「よくぞ参った、アレン。その右手の紋章、間違いあるまい。そなたこそが、千年続く闇を払う唯一の希望じゃ」
王は傍らに控えていた近衛騎士から、絢爛な装飾が施された一振りの剣を受け取った。鞘に収まっている状態でも、ビリビリとした神聖な波動が伝わってくる。
「魔王グラディウスの軍勢が、今まさにこの世界を飲み込もうとしておる。人々は絶望し、悲しみに暮れている。どうか、この伝説の聖剣を手にし、世界に光を取り戻してくれ!」
差し出された聖剣。
アレンはおずおずと手を伸ばし、その柄を強く握りしめた。
その瞬間、剣から凄まじい黄金のエネルギーが溢れ出し、アレンの全身を包み込んだ。身体の奥底から無限の力が湧き上がってくるような、圧倒的な全能感。
「おお! 剣が選ばれし主に応えておる!」
「素晴らしい!これこそ真の勇者の輝きだ!」
王宮に居並ぶ家臣たちが一斉に膝をつき、まるで寸分違わず台本をなぞるかのように完璧なタイミングで感嘆の声を上げる。
アレンは聖剣を高く掲げ、ステンドグラスの窓の外を見た。果てしなく続く青い空と、豊かな緑の大地。そして、自分を信じてくれるリアや民衆たち。
(僕は、勇者だ。この世界を守るために、魔王を倒すんだ)
決意は固まった。もはや迷いはなかった。
「さあ、行きましょう。アレン。世界を救うために」
「ああ。行こう、リア」
リアの微笑みに導かれ、アレンは王宮を後にする。
城門が開き、外の世界へと続く果てしない草原が目の前に広がっていた。柔らかな風が吹き抜け、青草を揺らす。アレンは腰の聖剣に手を当て、力強く一歩を踏み出した。
それは、誰もが思い描く「完璧な英雄譚」の、非の打ち所のない美しい幕開けだった。
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