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私を呼んだのは、理科講師の神村先生。通称神セン。すぐに次の授業が始まるというのに。
塾には職員室みたいな場所はなく、受付の後ろに各講師のデスクがあるだけ。生徒との話は大抵、そこか受付脇のロビーで行われる。なのに。
神センは空の自習室にすたすたと入って行く。どーしたんだろ。首をかしげながらも後に続いた。
パタン
「っ?!」
驚いて声も出ない。
後に入った私が自習室のドアを閉めた途端、室内は薄暗くなった。電気が点いていないとかそういうことじゃない。まるっきり教室の中じゃなくなってる。
ドアを閉める直前まであった机、椅子、黒板、全てなし。壁、蛍光灯、天井もなし。床は、立っているからあるのだろうけど、見えない。
ただ薄暗い空間に、神センと私が立っている。
咄嗟に逃げようとした本能が、閉めたばかりのドアノブに手を動かさせた。でも、ドア自体、もうなかった。
頭のてっぺんからつま先にかけて、冷たい感覚がすうーっと降りていった。
「仁科、手荒なことをして悪い。これから話すことを信じさせたかった」
目の前の神センは石膏像のように整った顔で左右対称に唇の両端を綺麗に上げた。
「先生、あの、あ、これ」
自分が何を言いたいのかも分かんない。
「仁科、まず腰掛けようか。顔色が悪いよ」
そして神センが英語で何か独り言を言うと、傍らに白い革製のソファセットが現れた。気づけば周りはさっきよりも明るくなっている。それでも、床も壁も天井もない。
神センがどうぞという仕草て掌を上に向けたところで、私にはソファまっで行く術が思いつかなかった。だって、床、ないんだもん。
「あははは。そっか。足を出せばそこが床になる。脳が着地点だと判断する微弱な信号を空間が察知して足場ができる。ただ歩けばいい」
言いながら、神センは3歩歩いてソファにどかりと腰を下ろした。
恐る恐る右足を出してみたのに、足はどこまでも下に下がっていく。まるで穴でも開いているみたいに。
「床があると思って。まず脳が判断しないと機能しない。普通にここまで歩けばOK」
普通って何? 普通の状態が分かんないよー。
立ち尽くす私を見るに見かねたのか、神センはソファから立ち上がって、私のところまでやって来た。そして、連行するかのように私の腕を掴んで強引に私を歩かせた。
「うわっ、先生、ちょっ」
どさっ
なんとかソファに辿り着いて、というより引きずられるようにしてソファの上に転がされた。私は三人掛けのソファにうつ伏せに寝転んでいるような状態。無様。床に落ちたら最後、どこまででも落ちるんじゃないかと思えて、ソファにしがみつく。
なにこれ、なにこれ、やばいって。
「しょうがないな。Floor」
神センの一言で真っ白な床が登場。ようやく私は、ソファに腰掛けることができたのだった。




