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夜6時。橘君が塾に現れた。
「橘君、ミニバス終わってから来たの?」
「おぅ。塾の自習室の方が家でやるよりはかどるしさ。夏期講習のプリント欲しいから」
「あー、はかどるって分かる。私も」
「ニカ、テニス、勝ってるって?」
「一応。最後だから気合入れてる」
「がんばれっ」
「うん。橘君は?」
「昨日、負けた。最後の試合」
橘君のまぶたは赤くて、泣いたんだなって思わせた。
「そっか。お疲れさま」
「はは。もう引継ぎしてきた」
「引き継ぎ……」
神センの話だと、引き継ぎは8月の合宿でする予定だったはず。まだ7月。
「負けたら引退って、自分の中で決めてたから。
昨日さ、オレ、試合ぜんぜんダメだった。どんどん点が開いてきてさ。『負けるんだなー』って。試合に集中しなきゃいけねーのに『これでバスケから解放される』って思ってさ。1点でも点差をつめること考えなきゃいけねーのに」
「そんだけ今まで一生懸命だったんだよ」
「だったのかなぁ。でも試合中に他のこと考えるのはダメだよな。最後の試合だったのに」
「最後だったからかも」
気丈に見える橘君の鼻がひくひく動いて赤くなる。下唇を噛みしめて。悔しそうに歪んだ目には涙が溜まってくる。
「はー。勝って終わりたかったなー」
言いながら、橘君は目をしっかり開いて顔を天井に向けた。きっと涙が零れないように。
「『負けたら引退』って決めてたのに?」
「はは。だよなー。『次は勝とう』ってチームが思ったときにオレがいなくなるのが、いいと思ってさ。チーム、強くなるんじゃねーかって」
「そっか。チームのこと考えたんだ」
なんだか泣き出しそうでいたたまれない。
「ジュースでも飲みに行く?」
「悪い。大丈夫。ニカ、テニスがんばれ」
「うん」
私は自習室に行ったけれど、橘君は自習室に来なかった。花園君が座っていた席が空になっていたから、花園君と一緒にどこかにいるんだと思う。
きっと橘君は泣いてる。
小学校が一緒でのミニバスをやってる男子がいたから聞いてみた。
「山田君、橘君のチームってバスケ強いの?」
「なに、ニカ、橘狙いかよ? 分かる分かる」
どーして頭の中、そっちにしか結び付けないわけ?
「ちがーう。塾でクラス一緒だから聞いてみただけ」
「そこそこ強い。キャプテンが橘で、すっげーチームがまとまってて仲良いーぞ。近いからオレら、よく練習試合した。羨ましいくらいだった」
「ふーん」
「橘が中学受験するって知ってても、チームのみんなが橘にキャプテンやってほしいって頼んでさー。で、橘ってあーゆーやつじゃん?」
「あーゆー?」
「がんばる、的な?」
「あー。だね」
「途中までって約束でキャプテンやって。橘のチームだなーって感じだった」
「へー」
「練習してたって試合してたってさー、すっげーがんばってるヤツいたら引きずり込まれるじゃん? ついてくじゃん?」
「それ分かる」
一生懸命な姿って、「しっかりやれ」って言葉よりも心を掴まれる。
「オレも橘、超好き。プレイしてるときめちゃくちゃカッコいい。漢。惚れる。橘だったら許す」
「なに言ってんのー」
男同士で。許すって何を?
情報収集終わり。ふーん。
橘君と花園君が自習室に戻って来たのは7時ごろだった。
橘君は、いつもはピンと背筋を伸ばして颯爽と歩くのに、ちょっと猫背になってうつむき加減。泣いた後の顔を隠すためかも。
私はテニス以外の時間は、なるべく塾で過ごすようになった。自習室には紙をめくる音、紙の上をシャープペンが走る音が聞こえる。その小さな音の集合がみんなでがんばっているという一体感を作り出していた。




