何気ない日常2
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩」
思わず声が裏返った。
「先輩は個人で県大会ベスト4じゃないですか。それに比べて俺なんて、県大会二回戦止まりですよ。どう考えても勝負にならないですって」
朝一番、道場の空気はまだ冷たい。なのに、目の前に立つ先輩――この人だけが、すでに試合の温度をまとっていた。
「何を言ってるんですか」
穏やかな声。けれど、その目は一切笑っていない。
「五十嵐君は攻撃面はまだまだですけど、防御と回避に関しては県でもトップレベルですよ」
(回避と防御だけだったら、一方的にボコボコにされるってことですよね、それ)
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「いえいえ、そんなこと断じてないですよ。先輩と自分の勝負なんて、五秒も持たずに終わりますから」
必死の説得。朝イチから叩きのめされる未来だけは回避したい。
「新しいことを試したいので、少しだけでいいんです。お願いします」
こうなった先輩はしつこい。
そして俺も、ここで引くわけにはいかない。
だが、テストの点数順位は常に一位。
中の上あたりをさまよう俺が、この人を言葉でねじ伏せられるはずもなかった。
結果――稽古試合、決定。
「ちゃんと手加減してくださいよ」
最後の悪あがき。
「手加減したら練習にならないでしょう。全力で行きますから、五十嵐君も全力で耐えてくださいね」
(クソ真面目が)
心の中で毒づきながら、制服を脱ぎ、部活着に着替える。防具を身につけ、竹刀を手に取る。
先輩はすでに準備を終え、静かに俺を待っていた。
――やるからには、勝ちに行く。
ただやられるだけなんて、我慢できない。
気持ちを切り替え、呼吸を整える。
準備完了。互いに構える。
スマホから鳴る合図音が、試合開始の合図だ。
数瞬の沈黙。
――ピッ。
お互い、すぐには飛び込まない。
円を描くように足を運びながら、じりじりと間合いを詰めていく。
先輩から放たれる圧が、皮膚を刺すように伝わってくる。
間合い、タイミング、呼吸――神経を極限まで研ぎ澄ます。
先に動いたのは、先輩だった。
それまでの緩やかな動きから一転、獣のような速さで距離を詰めてくる。
その緩急に、ほんの一瞬、体が硬直した。
――胴。
直感的にそう理解した瞬間、竹刀が振り下ろされる。
間一髪。受け流す。
だが、先輩は止まらない。そのまま切り込み、俺の背後へ回り込む。
慌てて振り返った、その時にはもう――
突き。
反射的に膝の力を抜き、首を折るようにして頭を逸らす。同時に竹刀を払いのけた。
距離が開く。
互いに、もう一度構え直す。
次は、俺からだ。
最小限の動きで踏み込み、面を狙う。
腕を上げ、振りかぶる。
その一瞬、腕が視界を遮った。
――ほんの一瞬のはずだった。
「えっ……」
視界に捉えていたはずの先輩が、消えた。
次の瞬間、胴に衝撃。
「どおおおおお!」
「――っ!」
乾いた音。完璧な一撃。
先輩の一本だった。
「いやー、いい動きだったよ。五十嵐君。ありがとうね」
面越しに、穏やかな声が聞こえる。
「いや、それはいいんですけど……最後、先輩消えましたよね? あれ、何なんですか」
疑問をそのままぶつける。
「しゃがんで、前に飛んだんだよ」
「……へ?」
意味は分かる。
振りかぶる腕と視線が重なる瞬間を狙って、しゃがんだのだろう。
だが問題は、その後だ。
その状態から、一瞬で距離を詰め、胴を打ち抜く脚力。
普通なら不可能だ。
この人は、それを平然とやってのけた。
「しゃがむタイミングとか、しゃがんだ状態で接近する脚力とか……どうなってるんですか?」
「タイミングは、いつも一緒に部活してるからね。なんとなく分かるよ。脚力は……鍛えればいい。それだけさ」
この人は、何を言っているのだろう。
俺には到底、理解できなかった。
「おはようございまーす」
「おはざまーす!」
部員たちが次々と道場に入ってくる。
いつの間にか、いつもの朝練が始まり、決められたメニューをこなし、解散。
教室へ向かう廊下で、どっと疲れが押し寄せた。
朝から、重すぎる。
――本当に。




