第8話 終わらない授業
炎の臭いが鼻を突く。焼けた藁と、飛竜の血が混ざり合った臭い。村の広場は死体と瓦礫で埋め尽くされていた。俺の足元には、さっきまで槍を握っていた若者の遺体がある。首が妙な角度に曲がっている。目は見開いたまま、空を見上げていた。
「先生」
エリナの声が背後から聞こえた。震えている。矢筒を握る手が、小刻みに揺らいでいた。
「大丈夫か」
振り向かずに訊く。振り向けば、彼女の顔を見てしまう。見てしまえば、この戦いを続ける理由が揺らぐ気がした。
「大丈夫、です」
嘘だと分かる。だが、今はそれでいい。
黒い飛竜が地面に降り立った。その巨体が地面を揺らす。背に乗っているのはフェリクス。金色の髪が夕日に照らされて、まるで後光のように見えた。赤いマントが風に靡く。その手には、あの剣がある。
俺が二十年前、彼に渡した黄金の剣。
あの時、彼は泣いて喜んだ。小さな手で剣を握りしめ、何度も「ありがとうございます」と繰り返した。その声が、今も耳に残っている。
二十年という時間が、俺たちの間に深い溝を掘った。
言葉では埋められない溝だ。血を流し込むしかない。そう悟った瞬間、肩の傷が疼いた。
「師匠」
フェリクスが口を開いた。声は穏やかで、まるで幼い子供のようだった。
「ようやく、会えましたね」
その声に、村人たちが後退する。井戸の近くにいた男が、槍を取り落とした。カラン、という音が静寂を破る。
俺は何も答えなかった。答えられなかった。肩の傷が疼く。騎士団長の剣が残した傷は、まだ塞がっていない。シャツの袖が赤く染まっている。呼吸をするたび、肋骨に痛みが走る。
「リアを返してください」
フェリクスが一歩、踏み出す。その目は俺を見ていない。俺の背後、村長の家の窓際に立っているリアを見ていた。
「お願いします。あれは……俺の、唯一の」
言葉が途切れる。唇が震えている。
「俺だけの、時間なんです」
村人の誰かが息を呑んだ。時間。彼はそう言った。リアを時間と呼んだ。
「唯一の、何だ」
俺は訊いた。訊かずにはいられなかった。
「返せ!」
フェリクスが叫ぶ。その声に、飛竜が咆哮を上げた。地面が再び揺れる。村人たちがさらに後退する。逃げ出す者もいた。責められない。
「お前は何を守りたかったんだ、フェリクス」
俺の問いに、フェリクスの目が揺れた。唇が動く。だが、言葉にならない。
「俺は……」
その瞬間、彼が地面を蹴った。
速い。
黄金の剣が一閃する。俺は横に飛び、刃を避ける。剣圧が頬を掠めた。血が飛ぶ。傷口が熱を持つ。
着地と同時に、俺は反撃する。剣を振り下ろす。フェリクスが受け止める。金属がぶつかる音が響き渡った。火花が散る。
力が拮抗する。だが、俺の肩が悲鳴を上げた。傷口が開く。シャツがさらに赤く染まる。
「なぜあの時、助けに来なかった!」
フェリクスが叫びながら剣を押し込む。その目には涙が浮かんでいた。
「マルクが、お前の命令で村を焼いていた時!」
剣が軋む。俺の足が後退する。
「俺が、前王を殺して血に塗れていた時!」
彼の声が裏返る。
「どこにいたんですか、師匠!」
俺は答えられなかった。ただ、剣を押し返すことしかできない。
「山に、いた」
ようやく、その言葉が出た。
「逃げていた」
フェリクスの目が見開かれる。
「逃げていた?」
彼が笑った。狂気を孕んだ笑いだった。
「そうか、逃げていたのか!」
剣を引き、再び振るう。俺は受け止める。また火花が散る。
「俺が強くなれって言ったからだ! 人を守れって言ったからだ!」
フェリクスの剣が、まるで嵐のように襲いかかる。一撃、二撃、三撃。俺は必死に受け流す。肩の痛みが全身を駆け巡る。
「お前の言葉通りにしたのに!」
剣が俺の脇腹を掠める。浅い傷だが、血が滲む。
「どうして認めてくれなかったんですか!」
「認めていた!」
俺が叫び返す。剣を振り上げ、フェリクスの剣を弾く。
「お前は強かった! 誰よりも!」
「嘘だ!」
フェリクスが地面を蹴り、宙を舞う。そのまま上から剣を振り下ろす。俺は横に転がる。剣が地面に突き刺さり、大地が割れた。
「本当に認めていたなら、なぜ山に籠もった!」
彼が剣を引き抜く。その顔は涙で濡れていた。
「なぜ、俺を見ていてくれなかった!」
俺は立ち上がる。膝が震える。視界が霞む。
「俺が、弱かったからだ」
その言葉に、フェリクスの動きが止まる。
「お前を見ることが、怖かった」
風が吹く。焼けた藁の灰が舞い上がる。
「リアを死なせた。自分の未熟さで、最初の弟子を殺した」
俺は剣を構え直す。
「お前たちを見れば、それを思い出す。だから、逃げた」
フェリクスの唇が震える。
「師匠……」
「すまなかった」
俺が一歩、踏み出す。
「お前が苦しんでいた時、俺は何もしなかった」
もう一歩。
「お前が道を踏み外した時、俺は手を伸ばさなかった」
さらに一歩。
「全部、俺の責任だ」
フェリクスが首を横に振る。
「違う……違うんです」
彼の声が掠れる。
「俺が、弱かったから……」
その瞬間、リアが家から出てきた。白いドレスが月光に照らされて、まるで亡霊のように見える。彼女の足取りは覚束ない。壁に手をついて、ようやく立っている。
「フェリクス」
リアの声は小さかった。だが、その声は広場に響き渡った。
フェリクスが凍りついた。剣を持つ手が止まる。その目に、何かが宿る。恐怖、懐かしさ、罪悪感——全てが混ざり合った感情。
「リア……姉さん」
彼の声が掠れた。幼い子供の声だった。
「もう、やめて」
リアが一歩、前に出る。足が震えている。だが、止まらない。
「お願い」
フェリクスの剣が落ちそうになる。だが、彼はそれを握り直した。
「戻って。俺の、側に」
「できないわ」
リアが首を横に振る。その動きがあまりにゆっくりで、まるでガラス細工が壊れる寸前のように見えた。
「もう、あなたの人形じゃない」
フェリクスの顔が歪む。痛みに耐えているような表情だった。
「違う。君は……君だけは、俺の」
「あなたの、何?」
リアが訊いた。その声には怒りがない。ただ、悲しみだけがあった。
「俺の……」
フェリクスが答えられない。彼は自分でも分かっていないのだ。何を求めていたのか。何を失ったのか。
「泣いていたあなたを、覚えているわ」
リアが言う。
「私が怪我をした時、手を震わせながら手当てしてくれた」
フェリクスの目が見開かれる。
「村が飢饉に襲われた時、自分の食事を減らして子供たちに分けてくれた」
「やめろ」
フェリクスが呟く。
「そんな、昔のことを」
「昔じゃないわ」
リアが首を横に振る。
「あなたは今も、あの優しい少年のままよ」
「違う!」
フェリクスが叫ぶ。
「俺はもう、あの頃には戻れない!」
彼が剣を振り上げる。その切っ先は、リアに向いていた。
「戻れないんだ!」
俺が駆け出す。だが、間に合わない。肩の傷が足を鈍らせる。
その瞬間、光が弾けた。
ガラス細工のような結界が、リアの前に現れる。フェリクスの剣が結界にぶつかり、止まった。
「リア!」
エリナの叫び声が聞こえた。
リアが両手を掲げている。指先から血が滲んでいる。顔は蒼白で、今にも倒れそうだった。
「やめろ!」
俺が叫ぶ。だが、リアは止まらない。
「師匠を……あなたを……傷つけさせない」
その声は弱々しかった。だが、その意志は強かった。
フェリクスが結界を睨む。その目に、苦悶が浮かぶ。
「どうして」
彼の声が震えている。
「どうして、俺を拒む」
「拒んでいるんじゃない」
リアが答える。
「守っているの。あなたを」
結界が輝きを増す。その光が、広場全体を照らす。
「俺を?」
フェリクスが笑った。自嘲的な笑いだった。
「俺を守るって、君は……」
「そうよ」
リアが微笑む。その笑みは悲しかった。
「あなたは、もう十分苦しんだわ」
フェリクスの剣が震える。その目に、涙が溢れる。
「リア姉さん……」
彼の声が幼くなる。
「俺は……俺は、何をしていたんだ」
「分かっているのね」
リアの声が優しい。
「もう、いいのよ」
「良くない!」
フェリクスが叫ぶ。
「マルクを殺した! 罪もない村を焼いた! お前を……お前を、あんな目に遭わせた!」
彼が膝をつく。剣を地面に突き立て、それに縋るように。
「俺は……許されない」
「それでも」
リアが一歩、前に出る。結界が消える。
「生きて」
フェリクスが顔を上げる。その顔は涙で濡れていた。
「生きて、償って」
「償う……?」
「そうよ」
リアが彼の前に立つ。膝をつき、目線を合わせる。
「死んで楽になろうなんて、許さない」
その言葉に、フェリクスの目が見開かれる。
「生きて、苦しんで、それでも人を守って」
リアが彼の頬に手を添える。
「それが、あなたの償いよ」
フェリクスの唇が震える。何かを言おうとするが、言葉にならない。
「でも、俺には……もう、戻れない」
彼が立ち上がる。剣を拾い上げる。
「師匠」
彼が俺を見た。その目には、何かが宿っていた。決意か、それとも絶望か。
「俺を、止めてください」
俺の背筋に悪寒が走る。
「フェリクス……」
「お願いします」
彼が剣を構える。
「俺を止められるのは、師匠だけだ」
「待て」
俺が手を伸ばす。だが、遅かった。
フェリクスが地面を蹴った。その速度は、今までで一番速い。全力だ。本気で、俺を殺すつもりだ。
いや、違う。
俺に、殺されるつもりだ。
「やめろ!」
俺が叫ぶ。剣を構える。だが、体が動かない。肩の痛みが、全身を支配している。
フェリクスの剣が迫る。避けられない。
俺は、剣を前に突き出した。
それしか、できなかった。
だが——
俺の手が、勝手に動いた。
切っ先を、わずかに逸らす。心臓を外し、肩口を貫く。
金属が肉を裂く音。
「がっ……!」
フェリクスが呻く。その目が見開かれる。
俺たちの顔は、吐息が触れるほどの距離にあった。
「なぜ……」
フェリクスが俺を見た。その目には、理解できないという色があった。
「なぜ、殺さないんですか」
血が口から垂れる。だが、致命傷ではない。
「俺はこれだけ罪を犯した! マルクを殺した! 村を焼いた! 死ぬべきだ!」
「死なせない」
俺は剣を引き抜いた。血が噴き出す。フェリクスがよろめく。
「死んで楽になろうなんて思うな」
彼の剣を弾き飛ばす。黄金の剣が地面に転がった。
「お前は生きろ。生きて、償え」
「生きる……?」
フェリクスが笑った。壊れた人形のような笑いだった。
「こんな体で、こんな罪を背負って……無理だ」
彼がよろめく。膝をつく。
「もう、抑えられない……」
「何?」
その瞬間、フェリクスの体から何かが噴き出した。
黒い霧。
いや、違う。魔力だ。それも、桁外れの。
リアの魔力を吸いすぎたのか。それとも、彼自身の絶望が引き金になったのか。
「ぐ……あああああっ!」
フェリクスが絶叫する。
黒い霧が彼を包み込む。形を変えていく。人の姿を捨て、何か禍々しいものへ。
「師匠……」
黒い霧の中から、フェリクスの声が聞こえた。掠れている。遠い。
「逃げて……俺は、もう……」
「フェリクス!」
リアが叫ぶ。
「やめて! 抗って!」
だが、黒い霧は止まらない。
衝撃波が広がった。俺は吹き飛ばされる。地面を転がる。肩の傷が悲鳴を上げた。
「先生!」
エリナが駆け寄ってくる。だが、俺は手を上げて制した。
「近づくな」
土煙が晴れていく。
そこにいたのは、もう人ではなかった。
黒い霧が渦巻いている。その中に、フェリクスの輪郭がぼんやりと見える。だが、人の形を保っていない。腕が異様に長く、指が鉤爪に変わっている。背中から何本もの触手のようなものが伸びている。
顔だけが、かろうじて人間のままだった。だが、その目は虚ろで、何も映していない。
「あ……ああ……」
フェリクスの声が漏れる。苦しそうな、悲痛な声だった。
「師匠……殺して……俺を、殺して……」
村人たちが悲鳴を上げる。逃げ出す者もいる。
リアが崩れ落ちる。エリナが彼女を支えた。
「師匠……お願い……これ以上、化け物に……なりたく、ない……」
フェリクスの声が途切れる。そして、咆哮が響いた。
人の声ではない。獣の、いや、それ以上の何かの声だった。
黒い霧が膨れ上がる。村の家屋が、その圧力で軋む。
村人たちが後退する。だが、逃げ出す者は少ない。
「あれが……国王なのか」
誰かが呟いた。
「可哀想に」
別の声が続く。
「あんなになってまで……何と戦っていたんだ」
憐れみの声だった。恐怖ではない。哀れみだ。
俺は立ち上がった。剣を杖にして。
正直に言えば、膝が震えている。
逃げ出したい。山に戻って、耳を塞いでしまいたい。リアを死なせた時と同じように、目を背けて、忘れてしまいたい。
だが、もう逃げないと決めた。
恐怖よりも、後悔のほうがずっと痛いことを、俺は知ってしまったから。
肩が痛い。呼吸が乱れる。視界が揺らぐ。
だが、立つ。
立たなければならない。
「まだだ」
俺は剣を構え直した。
「まだ、終わらせない」
フェリクスは死んでいない。あの中にいる。
人間としての彼が、まだあの中で抗っている。
「先生!」
エリナが叫ぶ。その手には、何かが握られていた。布だ。マルクの墓から持ち帰った、彼の形見の手ぬぐい。血で汚れ、ほつれているが、エリナはそれを離さない。
「無理です! 傷が!」
「構わん」
俺が一歩、前に出る。
「お前は下がっていろ」
「でも!」
エリナが手ぬぐいを強く握りしめる。その手が震えている。
「マルクさんなら、先生を止めたはずです」
その言葉に、俺は一瞬、足を止めた。
そうだ。マルクなら、俺を止めただろう。
だが、マルクはもういない。
「だから、俺が行く」
「でも!」
「これは、俺の問題だ」
黒い霧が蠢く。触手が伸びてくる。俺はそれを斬り払った。
触手が地面に落ちる。だが、すぐにまた生えてくる。
「来い、フェリクス」
俺が叫ぶ。
「授業はまだ、終わっていないぞ」
黒い霧が反応する。フェリクスの顔が、こちらを向いた。
その目に、一瞬だけ光が宿った。
認識している。俺を、師匠を、まだ覚えている。
黒い霧の奥に、何かが見えた。
小さな影。
幼い子供が、蹲って泣いている。
金色の髪。小さな体。震える肩。
あの日、俺が拾った時のフェリクスだ。
彼は、まだあそこにいる。
暗闇の中で、一人で泣いている。
「お前は俺の失敗だ」
俺が言う。
「だが、お前自身の人生は、お前のものだ」
黒い霧が揺れる。
「だから、諦めるな。抗え」
フェリクスの口が動く。何かを言おうとしている。だが、声にならない。
「もう一度、一から教え直す」
その言葉に、フェリクスの目が見開かれた。
黒い霧が激しく蠢く。咆哮が響く。
そして、彼が動いた。
俺に向かって、突進してくる。
これが、本当の戦いだ。
弟子を救うための、最後の授業だ。
俺は剣を構えた。
月が雲に隠れる。
広場が闇に包まれる。
だが、黒い霧が不気味に光っている。
フェリクスが吠える。
俺は、無言で剣先を向けた。
リアが立ち上がろうとしているのが気配で分かった。
彼女も分かっているのだ。フェリクスを救えるのは、俺の剣と、彼女の声だけだと。
風が吹く。
授業は、まだ終わらない。




