第7話 怖いまま戦え
俺たちが村に辿り着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
西の空が茜色に染まり、遠くの山々が黒い影となって浮かび上がっている。いつもなら美しいと思える景色も、今は不吉な予兆にしか見えなかった。
リアを背負い、エリナを連れて村の入口に立つと、見張りの男が驚いて駆け寄ってきた。
「ユージさん! ご無事で……って、その人は」
男の視線がリアに向けられる。痩せ細った身体、ぼろぼろの服。誰が見ても、ただ事ではないと分かる状態だった。
「手当てが必要だ。村長を呼んでくれ」
俺の声に、男は一瞬躊躇したが、すぐに頷いて走り去った。
村の中心へ向かう道すがら、家々の窓から人々が顔を覗かせる。好奇の目、不安の目、恐怖の目。様々な感情が混ざり合った視線が、俺たちに突き刺さる。ある老婆は窓を閉ざし、別の家では子供が泣き出した。
「先生」
エリナが小さな声で呼びかけてきた。
「何だ」
「村の人たち、怖がってます」
「……そうだな」
当然だろう。城から追い出され、騎士団長を殺し、国王の所有物を奪って戻ってきた男だ。この村に災厄をもたらす存在でしかない。
だが、俺には選択肢がなかった。
マルクとの約束がある。この村を守ると誓った。それに——
背中のリアの重さを感じながら、俺は歩き続けた。
村長の家に着くと、すでに十人近い村人が集まっていた。中には、マルクの葬儀で顔を合わせた者もいる。彼らの表情は一様に硬い。奥の方では誰かが小声で囁き合っている。不安が空気を重くしていた。
「ユージ殿」
村長が一歩前に出た。白髪混じりの髭を撫でながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「城で何があったのか、聞かせていただけますか」
俺はリアを床に降ろし、毛布を掛けてから立ち上がった。
「騎士団長を殺した」
短く言い放つと、村人たちの間にどよめきが広がった。誰かが息を呑む音が聞こえた。
「それと、この女を城から連れ出した。国王の怒りを買っている」
「なんてことを……」
誰かが呻くように呟いた。
「フェリクスは必ず報復に来る。おそらく、今夜か明日の朝には。逃げたところで、森で追いつかれて殺されるだけだ」
「そんな……」
若い男が声を荒げた。顔が青ざめている。
「マルクが……マルクがあんなに必死に守ってくれた村なのに、また戦場になるって言うのか! あんたが来たせいで!」
「やめろ!」
村長が男を制した。だが、男の目は怒りと恐怖で潤んでいる。
「そうだ」
俺は否定しなかった。視線を逸らさず、男を見た。
「俺が火種を持ってきた。俺のせいで、お前たちの平和は終わる」
「守るって、どうやって!」
別の男が叫んだ。拳を震わせている。
「相手は国王の軍隊だぞ! 飛竜だって持ってる。俺たちは農民だ。戦い方なんて知らない!」
村人たちがざわめく。誰もが恐怖に支配されかけていた。
「いいか」
俺は静かに、だが全員に聞こえる声で言った。
「俺が前線に立つ。飛竜は俺が落とす。お前たちは、俺が撃ち漏らした雑魚だけを相手にすればいい」
村人たちの目が俺に集中した。
「お前たちが戦うのは、地上に降りた兵士だけだ。槍を持て。背中を守り合え。そうすれば生き延びられる」
「本当に……」
中年の男が震える声で言った。
「本当に、勝てるんですか。相手は飛竜ですよ」
「俺は、かつてこの国の最強と呼ばれた男だ」
俺はハッタリではなく、事実として告げた。
「騎士団長も、一人で殺した。飛竜だろうが、俺が落とす。お前たちに死んでほしいわけじゃない。生き残るために戦えと言っているんだ」
村人たちの目が揺れた。恐怖と、わずかな希望の狭間で。
「マルクはこの村を守ろうとして死んだ。俺は彼に約束した。『この村は俺が守る』と。だから、ここで終わらせる」
沈黙が降りた。
誰も言葉を発しない。風が窓を揺らす音だけが聞こえる。
やがて、村長が深く息を吐いた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。その目に、迷いはなかった。
「分かりました」
老いた声には、諦念ではなく、静かな決意が宿っていた。
「この村はマルクの村だ。彼が命を懸けて守ろうとした場所だ。彼が信じた師匠がそう言うのなら、我々も信じましょう」
「村長!」
「いいや、決めたことだ」
村長は手を上げて制した。
「逃げたい者は逃げろ。責めはしない。だが、俺は残る。マルクに顔向けできない生き方はしたくない。それが俺の覚悟だ」
静寂の後、一人、また一人と頷く者が現れた。
「俺も残ります」
「家族は逃がすが、俺は戦う」
「マルクの仇を取らせてくれ」
次々と声が上がる。全員ではない。泣きながら謝って家を飛び出していく者もいた。それを責める声はなかった。生きることを選ぶのも勇気だ。
「エリナ」
俺は傍らの少女を見た。
「お前も逃げるか?」
エリナは首を横に振った。目に涙を浮かべながらも、唇を噛み締めている。
「先生が戦うなら、私も戦います」
「……分かった」
俺はエリナの頭に手を置いた。
「だが、無理はするな。死ぬな」
「はい」
リアが微かに目を開けた。焦点の定まらない瞳が、俺を捉えようとしている。
「師匠……」
「喋るな。休んでいろ」
「いえ……私も」
リアは毛布から腕を伸ばそうとした。だが、力が入らず、また床に落ちる。
「私も……戦います」
「馬鹿を言うな」
俺は毛布を掛け直した。
「お前はまだ動ける状態じゃない」
「でも……」
「治療師を呼んでくれ」
俺は村長に頼んだ。
「この女を頼む」
「分かりました」
村長は若い女性に合図を送り、彼女がリアの傍に膝をついた。俺は外へ向かった。
村の広場に松明が並べられた。
夜が更けても、誰も眠ろうとしなかった。明日には戦いが始まるかもしれない。それでも、今やれることをやるしかない。
俺は二十人ほどの男たちに、槍の持ち方を教えていた。
「構えは低く。重心を落とせ」
農具を握る手つきとは違う。武器を扱うということは、命を奪うということだ。それを理解させなければならない。
「いいか、相手が降りてきたら、怯むな。目を逸らすな。喉を狙え。目を狙え」
「怖くないですか」
中年の男が震える声で言った。
「怖い」
俺は正直に答えた。
「だが、怖がっていても死ぬ。ならば、怖いまま戦え」
「怖いまま……」
「恐怖を感じるのは当たり前だ。だが、それに支配されるな。動け。考えろ。生き延びろ」
男たちは黙って頷いた。汗を拭う者、祈るように目を閉じる者。それぞれの形で覚悟を固めていく。
離れた場所では、エリナが女たちに弓の扱いを教えていた。村には狩りをする者が少なく、弓を使える人間は限られている。それでも、数は力だ。
訓練を見回りながら、俺は村の地形を確認していた。広場を中心に家屋が円形に並んでいる。北側は森、南側は街道、東西は畑。飛竜が降りてくるとすれば、広場か畑だろう。
「煙を焚け」
俺は村長に指示した。
「家屋の周りに藁を積み上げろ。火をつければ煙幕になる。飛竜の目を眩ませる」
「なるほど……」
村長は納得したように頷いた。
「それから、井戸の周りに柵を作れ。水は命綱だ。守らなければならない」
村人たちが動き始める。松明の明かりの中、黙々と作業を続ける姿があった。子供のために戦う父親、夫のために祈る妻。それぞれの想いが、この村を守る力になる。
深夜になっても、村は眠らなかった。
俺は村の外れで、一人地面に座っていた。肩の傷が疼く。騎士団長の剣は深く食い込んでいた。治療師に縫ってもらったが、完全に治るには時間がかかる。
明日、全力で戦えるかどうか。
ふと、背後に気配を感じた。
「師匠」
リアだった。
毛布を肩に掛け、よろよろとした足取りで近づいてくる。
「寝ていろと言っただろう」
「眠れません」
リアは俺の隣に座った。か細い身体が、風に揺れそうなほど頼りない。月明かりの下で、その横顔は陶器のように白かった。
「ねえ、師匠」
リアは夜空を見上げた。
「フェリクスは……どうして、あんなふうになってしまったんでしょう」
「……さあな」
「昔は、優しかったんです」
リアの声が遠くを見るように響いた。
「私が修行で傷を負ったとき、泣きながら手当てしてくれました。『リア姉さんが死んだら、僕はどうすればいいんだ』って」
「……」
「彼も、きっと泣いているんです。今も」
リアは俯いた。
「誰にも見せない場所で。ずっと、ずっと」
「お前は優しいな」
俺は静かに言った。
「あいつに二十年も地下牢に閉じ込められていたのに」
「でも……」
リアは俺の手に自分の手を重ねた。骨と皮だけの、冷たい手。
「師匠が助けてくれた。だから、もう恨めません」
「リア」
「ありがとうございます」
リアは微笑んだ。二十年ぶりの、本物の笑顔。
俺は何も言えなかった。ただ、リアの手を握り返すことしかできなかった。
「師匠」
「何だ」
「明日、私も戦わせてください」
「駄目だ」
即座に答えた。
「お前はまだ——」
「でも、このままじゃ嫌です」
リアは強い目で俺を見た。
「私、何もできないまま終わりたくない。師匠の役に立ちたいんです」
俺は長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……分かった。だが、無理はするな」
「はい」
リアは安心したように微笑んだ。
夜明け前、村人たちが広場に集まった。
女子供は既に森へ避難している。残ったのは、戦う覚悟を決めた者たちだけ。三十人足らず。
俺は全員の前に立った。
言葉はいらなかった。彼らの目は、もう覚悟が決まっていた。
「死ぬなよ」
それだけを告げ、俺は前を向いた。
朝日が昇り始めた。
東の空が白み、鳥たちが鳴き始める。
だが、すぐにその鳴き声が止んだ。
静寂。
不自然な静寂が、村を包んだ。
そして——
遠くから、不気味な羽ばたきの音が聞こえてきた。
「来るぞ」
俺は剣の柄に手を掛けた。
空が暗くなった。
雲ではない。無数の影が太陽を遮っている。
羽ばたきの音が、もはや轟音となって鼓膜を圧迫する。腐った肉のような臭気が風に乗って漂ってきた。獣の、いや、それ以上に原始的な何かの匂い。本能が警告を発している。
飛竜だ。
十、二十、それ以上。空を埋め尽くす黒い染みのように、絶望そのものが降ってくる。
村人たちが震えている。誰かが嘔吐した。別の者は膝をついた。
「構えろ!」
俺の声に、彼らが武器を手に取った。
弓を引く者、槍を構える者、石を握り締める者。
エリナが俺の隣に立った。震えている。それでも、前を向いている。
「先生」
「何だ」
「勝てますよね」
俺は答えなかった。
ただ、剣を抜いた。
鞘から刃が滑り出る。金属が擦れる音が、静寂を切り裂く。
その瞬間、空気が変わった。
村人たちの目が、俺の剣に釘付けになる。恐怖が、ほんの少しだけ和らいだ。
飛竜の群れが近づいてくる。
先頭の一頭が口を開き、炎を吐いた。
家屋が燃える。悲鳴が上がる。
「藁に火をつけろ!」
村長の号令で、用意していた藁の山に松明が投げ込まれた。黒煙が立ち上る。風が煙を広場へ運んだ。
飛竜たちが怯む。視界を失い、混乱する。
「射て!」
俺の号令と共に、矢が放たれた。
煙の中を矢が飛ぶ。今度は、当たった。翼を射抜かれた飛竜が墜落する。地響きを立てて地面に叩きつけられた。
だが、それだけだ。
一頭倒したところで、まだ何十頭もいる。
一頭の飛竜が煙を突き抜けて降りてきた。地響きを立てて広場に着地する。巨大な身
体。鋭い牙。血走った目。
村人たちが怯む。
飛竜が咆哮を上げた。空気が震える。
俺は駆けた。
地面を蹴る。身体が宙を舞う。
飛竜が鉤爪を振り上げる。
遅い。止まって見える。
俺は踏み込んだ。地面が爆ぜる。
剣を一閃。
銀の軌跡が空中に残り、次の瞬間、飛竜の前足が自らの重みでずり落ちた。
獣が悲鳴を上げる暇もなく、俺は空中で回転し、喉を貫いた。
温かい血が顔に飛び散る。
飛竜が倒れる。大地が揺れた。
「恐れるな! 倒せる!」
俺の言葉に鼓舞され、若い男が飛び出した。手には錆びた槍。
「うおおおおっ!」
彼は着地した飛竜に向かって突進した。無謀だ。だが、その一撃は確かに飛竜の鼻先
を掠めた。
飛竜が煩わしげに尻尾を振るう。
鈍い音。男の身体が木の葉のように吹き飛び、壁に叩きつけられた。
「……っ!」
即死だろう。首が有り得ない方向に曲がっている。
だが、彼の死は無駄ではなかった。その隙に、別の男たちが飛竜の翼に火のついた松明を投げつけたのだ。
獣が悲鳴を上げる。
誰かが叫んだ。「あいつの仇だ! 怯むな!」
恐怖よりも怒りが勝る。彼らはもう、ただの農民ではなかった。
俺は走った。
剣を振るった。
一頭が炎を吐く——剣を振り、剣圧で炎を切り裂いた。衝撃波が飛竜の頭部を直撃し、首の骨が砕ける音がした。
空中の飛竜が急降下してくる——地面を蹴り、跳躍。空中で剣を振るう。刃が翼の付け根を切断し、飛竜が墜落していく。
次々と降り立ち、家を壊し、人を襲う。
だが、限界がある。
一頭の飛竜が、逃げ遅れた老婆に狙いを定めた。
間に合わない。俺の距離からは遠すぎる。
「くそっ!」
その時、風を切る音がした。
ヒュンッ!
一本の矢が、正確に飛竜の右目を射抜いた。
「ギャアアアアッ!」
飛竜がのたうち回る。
視線をやると、屋根の上にエリナが立っていた。弓を構えたまま、足が震えている。顔面は蒼白だ。それでも、彼女は次の一矢をつがえた。
「逃げてください!」
彼女の叫びで老婆が我に返り、走り出す。
エリナ。お前も、戦っているのか。
その震える手で、誰かを守るために。
肩の傷が開き、血が流れる。シャツが赤く染まっていく。
息が上がる。
視界が揺らぐ。
その時——
「師匠!」
リアの声だった。
彼女が両手を掲げている。その細い指先から、血が滲んでいるように見えた。
淡い光が広がった。
展開された結界は、ガラス細工のように繊細で、しかし悲しいほどに美しい光を放っていた。
それは彼女の命そのものだった。
結界が飛竜たちの動きを鈍らせた。空中で停滞し、翼が重くなる。
「今だ! 撃て!」
矢が飛ぶ。
今度は、次々と命中した。
飛竜が落ちていく。
村人たちの歓声が上がった。
だが——
空が再び暗くなった。
今度は違う。
巨大な影が一つ。
黒い飛竜。他の個体の倍はある巨体。その背に、人影。
金色の髪、赤いマント。
フェリクスだ。
彼が地上を見下ろしている。
そして、俺と目が合った。
フェリクスの顔が歪む。
怒り、憎しみ、そして——何か別の感情。悲哀とも、狂気とも取れる表情。
飛竜が降下してくる。
村人たちが後退する。威圧感が段違いだった。
俺は剣を構えた。
これで、終わらせる。
フェリクスが地面に降り立った。
彼の手には、黄金の剣。見覚えがある。俺が昔、彼に与えた剣だ。
「師匠」
フェリクスの声は、静かだった。王の威厳などかなぐり捨てた、子供のような声だった。
「ようやく、会えましたね」
俺は答えなかった。
ただ、剣を構えたまま、彼を見据えた。
「リアを返してください」
フェリクスの声には、懇願が混ざっていた。
「あれは……俺の、唯一の。……俺だけの、時間なんです」
「唯一の、何だ」
俺は低く問うた。
「返せ!!」
フェリクスが叫んだ。
その目は、俺を見ていなかった。俺の後ろにいる、リアだけを見ていた。
まるで、壊れた玩具を取り戻そうとする子供のように。
会話が成立しない。彼の目は、何かに取り憑かれたように虚ろだった。
沈黙が流れる。
風が、二人の間を吹き抜けた。
「お前は」
俺は口を開いた。
「何を守りたかったんだ、フェリクス」
その問いに、フェリクスの目が揺れた。
彼の唇が震える。
そして——
「俺は……」
言葉が途切れた。
フェリクスは剣を構えた。黄金の剣身が、黒いオーラを帯びて唸りを上げる。
その圧力だけで、周囲の空気が歪んだ。
これが、今のあいつの強さか。
俺が教えたものとは違う。もっと禍々しく、そして悲しい力。
「邪魔をするなら、師匠でも殺します」
フェリクスの瞳から、光が消えた。
「リアを取り戻す。それだけが、俺の全てだ」
俺も、剣を構えた。
覚悟は決めた。
言葉はもう届かない。ならば、剣で語るしかない。
かつて愛した弟子を、この手で止めるために。
「来い、フェリクス」
戦いが、始まる。




