表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/10

第6話 時を奪われた少女

城門の兵士は、俺たちを見て顔をしかめた。


夜の帳が降りかけた王都で、追い出されたはずの男が戻ってくるなど、想定外だったのだろう。兵士の一人が槍を構えかけたが、俺が腰の剣に手を添えただけで動きを止めた。


「……通れ」


兵士は吐き捨てるように言った。顔には嫌悪と、わずかな恐怖が混じっている。

エリナが俺の袖を引く。


「先生、本当に行くんですか」


「ああ」


「死ぬかもしれないんですよ」


「だから、お前は外で待っていろ」


エリナは首を横に振った。その目には、諦めの色はない。


「私も行きます。先生の背中、守るって言ったじゃないですか」


俺は答えなかった。ただ、城門をくぐった。


城内は静まり返っていた。昼間は百人を超える人々で溢れていた謁見の間も、今は誰もいない。長い廊下には松明たいまつが灯っているが、その炎は風に揺れて、壁に人影のような歪んだ影を作り出している。


エリナが小さく息を吐いた。


「……怖い場所ですね」


「怖がるな」


「怖がってませんよ」


強がりだと分かる。だが、俺は何も言わなかった。エリナの震える声が、かつての弟子たちと重なる。リアも、フェリクスも、マルクも、みな最初は怖がっていた。剣を持つ手が震えていた。


だが、俺は彼らに「強くなれ」と言った。


その結果が、今のこの城だ。


廊下の奥から、足音が聞こえてきた。複数人。鎧の音。兵士だ。


「先生」


エリナが身構える。俺は片手を上げて、彼女を制した。


「待て」


足音が近づいてくる。やがて、曲がり角から三人の兵士が現れた。松明の光に照らされた彼らの顔には、驚きと戸惑いがある。


「お、お前は……」


先頭の兵士が声を震わせた。


「陛下が、追放したはずの……」


「地下牢に行きたい」


俺は静かに言った。


「案内してくれ」


兵士たちは顔を見合わせた。一人が槍を構えたが、手が震えている。


「ふ、ふざけるな。お前に命令される筋合いは……」


俺は一歩、前に出た。


それだけで、兵士たちは後退った。


「地下牢だ」


もう一度、言った。


「案内しろ」


兵士たちは黙った。やがて、先頭の男が項垂れた。


「……ついてこい」


地下への階段は、城の北側にあった。


石造りの階段は湿っていて、苔が生えている。松明の光も届かない暗闇が、下へ下へと続いている。


兵士は階段の入口で立ち止まった。


「ここから先は、俺たちも滅多に入らない」


男の声には恐怖が滲んでいる。


「迷宮だ。一度入ったら、二度と出てこれない者もいる」


「お前たちは、ここで待っていろ」


俺は松明を一本取り、階段を降り始めた。エリナがすぐに後を追ってくる。


「先生、待ってください」


「危険だ」


「だから、一緒に行くんです」


俺は振り返った。エリナの顔は松明の光で赤く染まっている。その目には、迷いがない。


「……好きにしろ」


階段は思ったより長かった。百段を超えても、まだ下が続いている。


空気が重くなってきた。湿気と、何か腐ったような臭いが混じっている。エリナが鼻を押さえた。


「何の匂いですか、これ」


「血だ」


俺は答えた。


「古い血と、腐った肉の匂いだ」


エリナが息を止めた。だが、足は止めなかった。


やがて、階段が終わった。


目の前には、長い廊下が伸びている。壁には無数の扉がある。鉄格子の嵌った扉だ。中からは、何も聞こえない。


「囚人は?」


エリナが囁いた。


「いないんですか」


「いるかもしれない」


俺は松明を掲げた。


「だが、生きているかは分からない」


廊下を進む。扉の一つに近づいて、中を覗いた。


空っぽだった。


床には藁が敷かれているが、誰もいない。次の扉も、その次も同じだった。


「誰もいない……」


エリナが呟いた。


「騎士団長は、嘘をついたんですか」


「いや」


俺は首を振った。


「もっと奥だ」


廊下は途中で二手に分かれていた。


俺は右を選んだ。理由はない。ただ、何となくだ。


エリナが後ろを振り返った。


「先生、戻れますか。ここから」


「分からない」


「……そうですか」


エリナは黙った。だが、足を止めなかった。


廊下はさらに続いている。曲がり角を曲がるたびに、方向感覚が失われていく。上なのか下なのか、東なのか西なのか、もう分からない。


やがて、何かが聞こえてきた。


微かな、呻き声だ。


「先生」


エリナが俺の袖を掴んだ。


「誰かいます」


「ああ」


俺は松明を掲げて、声のする方へ向かった。


廊下の突き当たりに、一つだけ扉があった。他の扉よりも大きく、鉄で補強されている。中からは、確かに人の声が聞こえる。


俺は扉に近づいた。


鉄格子の隙間から、中を覗く。


部屋は狭い。三メートル四方ほどだろうか。床には藁ではなく、石が剥き出しになっている。そして、その石の上に、一人の人間が倒れていた。


女だ。


長い黒髪が床に広がっている。泥と血に塗れた牢獄の中で、その髪だけが、まるで濡れた烏の濡れ羽色のように、不気味なほどの艶を放っていた。


服はボロボロで、所々に血が滲んでいる。手足には鎖が嵌められ、壁に繋がれている。


だが、それだけではない。


女の背中から、無数の管が伸びている。血管のように細く、半透明な管が、彼女の白い肌に食い込んでいた。壁に埋め込まれた奇妙な装置に繋がっていて、ドクン、ドクンと青白い光を放っている。魔力供給装置だ。


異様だった。


その肌は、地下牢の闇の中でも透けるように白く、傷だらけなのに、どこか陶器の人形めいた作り物のような美しさを保っていた。


まるで、硝子ケースの中に飾られた標本のように。


腐敗することすら許されず、永遠にその姿を留める呪いをかけられているかのように。


顔は見えない。俯いているからだ。


だが、その背中に、俺は見覚えがあった。


「……まさか」


俺の声が震えた。


エリナが俺の顔を見上げた。


「先生?」


「開けろ」


俺は扉を叩いた。


「開けろ!」


鍵はかかっている。鉄の錠前が、扉を固く閉ざしている。


俺は剣に手をかけた。


だが、抜かなかった。


代わりに、松明を床に置き、扉の蝶番を確認した。古い鉄だ。錆びている。


「エリナ、下がれ」


「先生、何を……」


「いいから、下がれ」


俺は扉から三歩下がった。そして、助走をつけて、肩から扉にぶつかった。


鈍い音がした。


扉は開かなかった。


もう一度。


もう一度。


三度目で、蝶番が外れた。扉が内側に倒れ込む。


重い金属音と共に、視界が開けた。


むっとするような甘い腐臭と、冷たい魔力の風が吹き抜ける。


俺は部屋に入った。


鎖の音がした。


倒れていた女が、ゆっくりと顔を上げた。


長い黒髪が揺れ、その隙間から、二つの瞳が俺を捉えた。


その顔を見た瞬間、俺の息が止まった。


心臓が早鐘を打つのを忘れ、全身の血が凍りついたようだった。


そこにいたのは、二十年前の悪夢。


俺が毎晩夢に見た、あの日の少女そのものだった。


「……リア」


掠れた声が、喉から漏れた。


女の目が、わずかに見開かれた。


濁っていた瞳に、一瞬だけ、かつての色が戻る。


「師匠……」


かすれた声だった。


「お前……」


俺は膝をついた。


リアの顔は、痩せ細っていた。頬は窪み、唇は乾いて血が滲んでいる。目の下には隈がある。だが、その目には、まだ光が残っていた。いや、光だけではない。そこには深い絶望と、諦めと、それでもなお消えない何かがあった。


「師匠……どうして、ここに……」


「お前を、助けに来た」


リアが小さく笑った。苦しそうな、それでいて安堵したような笑みだった。


「助けに……来てくれたんですか」


「ああ」


俺は彼女を抱き起こした。


軽い。


あまりにも軽い。


そして、気づいてしまった。この身体の重さは、二十年前と変わっていない。骨格も、身長も、手足の長さも。フェリクスは、彼女の時間を止めていたのだ。生き地獄の中で、永遠に少女のまま。


背筋が凍った。


「フェリクス……」


俺の声が低く唸った。


「何を、したんだ……」


「師匠」


リアが俺の手を掴んだ。その手は、驚くほど冷たかった。


「私を……殺してください」


「何を言っている」


「もう、疲れました」


リアの目から、涙が零れた。


「ずっと、ずっと……苦しかった」


「リア……」


「フェリクスは、私を生かし続けた。何度も死のうとしたけど、死ねなかった」


リアの声が震えている。


「この装置が……私の魔力と、記憶を吸い取っていくんです」


「記憶?」


「はい」


リアが俯いた。


「私の『楽しかった記憶』を、城の結界の燃料にしていたんです」


俺の拳が震えた。


「最初は、師匠との修行の日々が消えました。次に、村での暮らしが。そして、両親の顔も」


リアの涙が床に落ちる。


「今は、もう……何も思い出せません。ただ、暗闇だけが残っています」


リアは虚ろな目で宙を見つめた。


「師匠、私……自分がどんな顔をして笑っていたのかも、もう思い出せないんです。鏡を見るのが怖い。そこにいるのが、誰なのか分からないから」


「……くそ」


「師匠……お願いです。私を、楽にしてください」


「馬鹿なことを言うな」


俺はリアの肩を掴んだ。


「お前を助けに来たんだ。殺すためじゃない」


「でも……」


「諦めるな」


俺は管を掴んだ。引き千切ろうとする。


「先生、待ってください!」


エリナが叫んだ。


「それ、魔力で繋がってます。無理に外したら……」


エリナの言葉が途切れた。


俺は構わず、管を引き千切った。


ブチブチと、肉が裂けるような生々しい音が響く。


青白い光が弾け、リアの身体が激しく痙攣した。


「ああっ、ああああっ!」


彼女の口から、悲鳴とも呼べない空気が漏れる。それは、20年分の痛みが一気に逆流したような、魂の絶叫だった。


「リア!」


俺はリアを抱きしめた。彼女の身体は熱い。異常な熱だ。


だが、その熱さは、さっきまでの陶器のような冷たさとは違う。生きている人間の、血の通った熱さだった。


「師匠……」


「大丈夫だ」


「嘘……です」


リアが微かに笑った。


「師匠は、昔から……嘘が下手です」


「黙れ」


俺は鎖を掴んだ。鉄の鎖だ。太く、硬い。


剣を抜くしかない。


だが、俺は躊躇した。


「エリナ、松明を持ってこい」


エリナが松明を手渡した。俺は鎖の繋ぎ目を照らした。溶接されている。


「……くそ」


俺は立ち上がった。そして、剣の柄に手をかけた。


その瞬間、背後で声がした。


「感動の再会だな」


俺は振り返った。


廊下の奥から、黒い鎧の男が現れた。


騎士団長だ。


そして、その後ろには十人を超える兵士たちが並んでいる。


「よく来たな、老いぼれ」


騎士団長が剣を抜いた。


「待っていたぞ」


俺は剣に手をかけたまま、動かなかった。


「罠か」


「当然だ」


男は一歩、前に出た。


「お前が来ると分かっていた。陛下は甘い。お前を殺さなかったからな」


「フェリクスは……このことを知っているのか」


「さあな」


男が笑った。


「知っているかもしれないし、知らないかもしれない」


男の目が、リアに向けられた。


「この女は、陛下の宝物だ。だが、陛下は最近、この女のことを忘れているようだった」


「何?」


「陛下にとって、もう過去のものなんだよ。だから、俺が始末してやろうと思っていた」


騎士団長が剣を構えた。


「だが、お前が来た。好都合だ。お前もろとも、ここで消してやる」


「エリナ」


俺は低く言った。


「リアを頼む」


「でも……」


「いいから」


エリナが黙って、リアの傍に膝をついた。


俺は騎士団長と向き合った。


「お前一人で、俺たちを相手にするつもりか」


男が嘲笑った。


「いい度胸だ」


俺は答えなかった。


剣に手をかけたまま、構えた。だが、抜かない。


「抜かないのか?」


「必要ない」


「舐めるな!」


騎士団長が斬りかかってきた。速い。


俺は横に飛び退いた。刃が壁を削り、石の破片が飛び散る。


「動きは悪くないな」


男が舌打ちした。


「だが、いつまで持つかな」


背後から、兵士たちが迫ってくる。


俺は後退りながら、彼らの攻撃を躱した。槍が俺の頬を掠める。服が裂ける。


「先生!」


エリナの叫び声。


「黙って見ていろ」


俺は兵士の一人の槍を掴み、引き寄せた。


手首を返す。骨が外れる音がして、男が倒れ込んでくる。俺はその身体を盾にして、別の兵士の剣を受け流し、同時に蹴りを放った。


三人が一度に吹き飛ぶ。だが、多勢に無勢だ。息つく暇もなく、次の一撃が迫る。


「やるじゃないか」


騎士団長が再び斬りかかってきた。


俺は腕で受け止めた。刃が皮膚を裂く。血が飛ぶ。


「馬鹿が」


男が笑った。


「剣を抜けば済むものを」


「必要ないと言った」


「強情だな」


男が剣を引いて、再び振り下ろした。


今度は避けきれなかった。


刃が肩を喰らう。肉が裂け、熱い痛みが走る。骨まで届く嫌な感触。


「ぐっ……」


「どうした。もう限界か」


騎士団長が追撃してくる。


俺は後退った。背中が壁にぶつかる。


逃げ場がない。


「終わりだ」


男が剣を振り上げた。


その瞬間、エリナが動いた。


リアを庇うように、身体を張った。


「エリナ!」


「やめて!」


エリナが両手を広げた。


「リアさんには、もう何もしないで!」


「邪魔だ、ガキが!」


騎士団長の剣が、エリナに向かって振り下ろされた。


その軌道が、スローモーションのように見えた。


俺の視界が、真っ赤に染まる……ことはなかった。


逆に、冷えていく。


感情が凍りつき、ただ一つの結論だけが残る。


『こいつは、生かしておけない』


俺の手が、剣の柄を握った。


抜く。


刹那、世界から音が消えた。


キィン、という高い金属音だけが、遅れて鼓膜を叩く。


空気が裂け、衝撃波が走る。


騎士団長の剣が、真ん中から綺麗に両断され、天井に突き刺さった。


男の目が、驚愕に見開かれている。


「な……に……」


俺は、流れるような動作で剣を横に薙いだ。


刃が肉を断つ感触すらない。あまりにも鋭利な一撃。


騎士団長の身体が、上下にずれた。


上半身がゆっくりと滑り落ち、ドサリと床に落ちる。


一拍おいて、血の噴水が上がった。


血が噴き出した。


兵士たちが悲鳴を上げて逃げ出した。


俺は剣を構えたまま、立っていた。


エリナが呆然と俺を見上げている。


「先生……」


「怪我は」


「あ、ありません……」


エリナの声が震えている。


「先生……今の……」


俺は剣を見た。


刃に血が滲んでいる。


「……終わった」


俺は剣を鞘に納めた。


「行くぞ」


「はい……」


エリナがリアを支えた。俺もリアの反対側に回り、肩を貸した。


「師匠……」


「喋るな」


「でも……」


「いいから、黙っていろ」


俺たちは部屋を出た。


階段を上る。


リアの身体は重かった。いや、重いというより、力が入っていない。まるで、生きる気力を失ったように。


エリナが何度も足を滑らせた。その度に、俺がリアごと支えた。


「すみません……」


「謝るな」


階段を上りきったとき、城内は騒然としていた。


兵士たちが走り回り、誰かが鐘を鳴らしている。


「侵入者だ!」


「騎士団長が殺された!」


叫び声が響く。


俺は謁見の間を抜けて、城門へ向かった。


門番が槍を構えたが、俺の顔を見て震え上がった。


「ひ……」


男が槍を落として逃げ出した。


俺は城門をくぐった。


王都の外は、闇に包まれていた。


月が雲に隠れていて、星の光も弱い。


俺は街道を外れて、森の中に入った。


木々の間を縫うように歩く。エリナが後ろで何度も転びそうになったが、俺は止まらなかった。


やがて、小さな泉が見えてきた。


俺はリアを泉の傍に降ろした。そして、水を汲んで彼女の唇を濡らした。


「飲め」


リアが微かに喉を動かした。


「……ありがとう、ございます」


エリナが泉の水で顔を洗った。そして、リアの顔を見た。


「この方が……師匠の、最初の弟子ですか」


「ああ」


俺は頷いた。


「リアだ」


「リア……さん」


エリナがリアの手を握った。


「大丈夫ですか」


「……ええ」


リアが微かに微笑んだ。


「あなたは……?」


「エリナです。先生の、新しい弟子です」


「そう……」


リアの目が、俺を見た。


「師匠……また、弟子を取ったんですね」


「ああ」


「良かった……」


リアが目を閉じた。


「師匠は、もう……独りじゃないんですね」


俺は何も答えられなかった。


ただ、リアの手を握った。


その手は、まだ冷たかった。


夜が明けるまで、俺たちは泉の傍にいた。


リアは眠っている。呼吸は浅いが、少しずつ安定してきている。


エリナは焚火の番をしていた。時折、木の枝をくべて、炎を保っている。


「先生」


エリナが口を開いた。


「あの騎士団長を殺したとき……先生の目、怖かったです」


「……そうか」


「でも」


エリナが俺を見た。


「あれが、先生の本当の強さなんですね」


「違う」


俺は首を振った。


「あれは、弱さだ」


「弱さ?」


「ああ」


俺は焚火を見た。


「俺は、怒りに任せて剣を抜いた」


「でも、私を守るために……」


「それでも、弱さだ」


俺は立ち上がった。


「強さというのは、剣を抜かないことだ」


「でも、先生」


エリナが立ち上がった。


「誰かを守るために剣を抜くのは、間違いじゃないと思います」


「だが……」


「マルクさんも、リアさんを守るために戦ったんです」


エリナの目には、涙が浮かんでいた。


「だから、先生が私を守るために剣を抜いたのは、間違いじゃないです」


俺は黙った。


エリナの言葉が、胸に刺さる。


「……ありがとう」


「え?」


「お前が、いてくれて良かった」


エリナが驚いた顔をした。そして、泣き笑いのような表情になった。


「……先生、それ、ずるいです」


「そうか」


「はい」


エリナが袖で目を拭った。


「私、もっと強くなります」


「ああ」


「だから、先生も……もう、独りで背負わないでください」


俺は頷いた。


空が白み始めていた。


新しい朝が、来ようとしている。


リアが目を覚ましたのは、日が昇ってからだった。


「……ここは」


「森だ」


俺は答えた。


「王都から離れた」


「そう……」


リアが身体を起こそうとした。だが、すぐに力が抜けた。


「無理をするな」


リアは眩しそうに空を見上げた。


「空……青いんですね」


「ああ」


「私……本当に、外に出たんですね」


リアの声が震えた。


「夢じゃ……ないんですね」


「夢じゃない」


俺は彼女の手を握った。


「お前はもう、自由だ」


リアの目から涙が溢れた。


「師匠……ありがとうございます」


「礼を言うのは早い」


俺は言った。


「お前を最初に助けようとしたのは、俺じゃない」


リアが顔を上げた。


「……マルク、ですね」


「覚えているか」


「はい……」


リアが目を閉じた。


「記憶のほとんどは消えました。でも、あの子の涙だけは、消えなかった」


涙が、リアの頬を伝う。


「地下牢で私を見つけた時、泣いていました。『こんなの間違ってる』って」


「マルクは……」


「自分の命よりも、私の尊厳を守ろうとしてくれた」


リアが俺を見た。


「師匠、あの子は……マルクは、どうなったんですか」


俺は黙った。


言わなければならない。


「マルクは……死んだ」


リアが息を呑んだ。


「フェリクスに追われ、最後まで戦って……死んだ」


リアが顔を覆った。


「私の、せいで……」


「違う」


俺は彼女の手を取った。


「マルクは自分の意志で、お前を救おうとした」


「でも……」


「誰のせいでもない」


俺は言った。


「悪いのは、フェリクスだ」


リアが俯いた。


「師匠……私、ずっと……師匠を、恨んでいました」


「……」


「あの日、師匠が来なかったら、私は死ななくて済んだ」


リアの声が震えている。


「でも、師匠は私を見捨てた」


「そうだ」


俺は頷いた。


「俺は、お前を見捨てた」


「だから、恨んでました」


リアが涙を流した。


「でも……今、師匠が私を助けに来てくれた」


「……」


「だから、もう……恨めません」


リアが俺の手を握り返した。


「師匠、ありがとうございます」


俺は何も言えなかった。


ただ、リアの手を握り返した。


昼過ぎ、俺たちは森を出た。


街道に戻る。王都からは遠く離れていたが、まだ油断はできない。


「どこへ行くんですか」


エリナが聞いた。


「マルクの村だ」


「でも、あそこは……」


「フェリクスが襲ってくる」


俺は頷いた。


「だが、俺は約束した。あの村を守ると」


「先生一人で、どうやって」


「分からない」


俺は答えた。


「だが、やるしかない」


エリナが黙った。


リアが俺の背中で呟いた。


「師匠……本当に、変わりましたね」


「そうか」


「昔の師匠なら、フェリクスと戦っていました」


「……」


「でも、今の師匠は……守ろうとしている」


リアが微かに笑った。


「私、嬉しいです」


俺は答えなかった。


ただ、前を向いて歩き続けた。


空は青く、風は冷たかった。


まだ、終わりではない。


これから、本当の戦いが始まる。


ふと、俺は振り返った。


遠く、王都の方角から、黒い鳥の群れが飛び立っていた。


いや、鳥ではない。


飛竜ワイバーンだ。


十、二十……いや、もっとか。


フェリクスは本気だ。


騎士団長を殺された報復として、あるいはリアを奪還するために、国中の戦力を向けてくるだろう。


「急ぐぞ」


俺は足を速めた。


もう、時間は残されていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ