第3話 背中合わせの誇り
東の村は静かだった。
あまりにも静かすぎた。
街道を抜けて丘を越えた先に広がるはずだった村の風景は、どこか生気を失っていた。畑には作物が植わっているが、手入れが行き届いているとは言えない。家々の窓には布が掛けられ、人の気配が希薄だ。昼過ぎだというのに、子供の声も聞こえない。
俺はそこで足を止めた。
エリナが俺の横に並ぶ。
「……変ですね」
彼女の声は小さかった。恐れているわけではない。ただ、この村の空気が何かを語りかけている。それを感じ取っているのだ。
「ああ」
俺は短く答えた。
村に入る前に、俺は一度だけ深呼吸をする。
二十年前、マルクは貴族の三男坊だった。剣を学びたいと言って俺のもとにやってきた少年は、他の弟子たちと違って静かな子だった。フェリクスのように野心を燃やすでもなく、リアのように純粋に強さを求めるでもなく、ただ黙々と型を繰り返していた。
なぜ剣を学ぶのか、と訊いたことがある。
マルクは少し困ったように笑って、こう答えた。
「誰かを守れる人間になりたいんです」
その言葉を、俺は今でも覚えている。
村の入口に、小さな井戸があった。
その脇に腰を下ろして、ひとりの老婆が糸を紡いでいる。俺たちの姿を見ても、顔を上げようともしない。エリナが不安げに俺を見る。
俺は老婆の前に立ち、静かに声をかけた。
「失礼します。この村に、マルクという男が住んでいると聞いたのですが」
老婆の手が止まった。
それから彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
その目には、疲労と諦めが滲んでいた。
「……あんたら、あの子を捕まえに来たのかい」
声には棘がある。だが、それは敵意というよりも、悲しみに近い何かだった。
「違います」
俺は首を横に振る。
「ただ、話がしたいだけです」
老婆はしばらく俺を見つめていた。それから、小さく息を吐いた。
「村の外れ、東の畑にいるよ。あの子は毎日、畑を耕してる」
彼女はそう言って、再び糸を紡ぎ始めた。
「……でもね」
老婆が呟いた。
「あの子はもう、誰も信じられないんだ。近づくときは気をつけな」
その言葉が胸に引っかかった。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
エリナも慌てて頭を下げる。
俺たちが歩き出そうとしたとき、老婆が背中に向かって言った。
「あの子は、いい子だよ」
その言葉は、祈りのようだった。
村を抜けて東の畑に向かう道は、泥濘んでいた。昨夜の雨の名残だろう。エリナが何度か足を滑らせながらも、黙ってついてくる。俺は自分の足音だけを聞きながら歩いた。
畑が見えてきた。
そこに、ひとりの男が鍬を振るっていた。
背中を丸めて土を掘る姿は、どこにでもいる農夫のそれだった。だが、その肩の張り方、腰の据え方には、かつて剣を握っていた者の名残があった。
俺は畑の縁で立ち止まった。
エリナも息を呑んで、その男を見つめている。
「マルク」
俺は名を呼んだ。
男の動きが止まった。
だが、振り向かない。
「……それ以上近づくな」
低い声だった。鍬を握る手に、力が籠る。
「ここには何もない。帰ってくれ」
俺は一歩踏み出した。
次の瞬間、男が振り向いた。
鍬が弧を描いて俺に向かってくる。その軌道は完璧だった。農具ではない。完全に武器として扱っている。重心の移動、腰の回転、刃の角度——全てが研ぎ澄まされた動きだった。
俺は半歩引いて、鍬の柄を掴んだ。
男の目が見開かれた。
やつれた顔だった。頬はこけ、目の下には隈ができている。だが、その瞳には、かつて俺が知っていた少年の面影が残っていた。
「……先生?」
掠れた声だった。
鍬が手から滑り落ちた。乾いた音が響く。
マルクは顔を歪めた。笑おうとして、引きつって、それから崩れ落ちた。
両手で顔を覆い、肩を震わせる。
「先生……先生……」
何度も繰り返す声は、子供のようだった。
俺は黙ってその場に立ち尽くした。
エリナが俺を見る。どうすればいいのか、と訊ねるような目だった。だが、俺にも分からなかった。こういうとき、何を言えばいいのか。何をすればいいのか。
ただ、俺は前に歩いた。
マルクの前に立ち、俺は膝をついた。
「……久しぶりだな、マルク」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
マルクは顔を上げた。涙で濡れた顔で、彼は笑った。
「先生……」
その声は震えていた。
「先生、僕は……」
言葉が続かない。彼は再び顔を覆った。
俺は何も言わなかった。ただ、そこに座って、彼の涙が止まるのを待った。
風が吹いた。麦の穂が揺れる音がした。
どれくらい時間が経っただろうか。
マルクはようやく顔を上げた。
「……すみません。みっともないところを」
彼はそう言って、袖で涙を拭った。それから、エリナに気づいて、小さく会釈をする。
「初めまして。マルクです」
エリナは戸惑いながらも、頭を下げた。
「エリナです」
マルクは立ち上がり、俺も立ち上がった。彼は畑の脇にある小屋を指差した。
「あそこで話しましょう。立ち話もなんですから」
小屋は簡素なものだった。藁が敷かれた床と、壊れかけた椅子がふたつ。窓からは畑が見える。
マルクは水を汲んできて、俺たちに差し出した。エリナは遠慮がちに受け取り、俺は黙って飲んだ。水は冷たく、喉を潤した。
マルクは壁に背を預けて座った。俺も床に座る。エリナは入口に近いところに腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いた。
マルクが口を開いた。
「先生が来るとは思っていました」
彼の声は静かだった。
「でも、こんなに早く来るとは思わなかった」
「……そうか」
俺は短く答えた。
「フェリクスのことは聞いています」
マルクはそう言って、小さく笑った。
「彼が僕を殺そうとしていること」
「なぜだ」
俺は訊いた。
「なぜ、お前は追われている」
マルクは天井を見上げた。
「……僕が、命令に従わなかったからです」
彼の声には、諦めが滲んでいた。
「フェリクスは、隣国との戦争を始めようとしていました。僕は反対しました。でも、彼は聞かなかった」
マルクは目を閉じた。
「それで、僕は逃げたんです。臆病者だと笑ってください」
俺は何も言わなかった。
「僕は……先生の教えを守りたかった」
マルクは目を開けた。
「先生は言いましたよね。『剣は人を守るためにある』って」
その言葉を聞いて、俺の胸が締め付けられた。
「でも……」
マルクの声が震えた。
「僕は、その前に、たくさんの人を殺してしまった」
彼は両手で顔を覆った。
「フェリクスの命令で、反乱を起こしたとされる村を焼きました。そこには、武器を持たない人たちもいた。子供もいた」
マルクの肩が震える。
「僕は……先生の教えで、人を殺したんです」
その言葉が、俺の心臓を貫いた。
エリナが息を呑む音が聞こえた。
俺は何も言えなかった。ただ、マルクを見つめていた。
「許されますか、先生」
マルクは俺を見た。
「僕は……もう一度、やり直せますか」
その目には、かつて少年だった彼の面影があった。
俺は口を開いた。
「……俺もだ」
マルクが目を見開く。
「俺も、お前と同じだ」
俺は自分の手を見た。
「俺は、リアを死なせた」
その名前を口にするのは、何年ぶりだろうか。
「強くなれと言って、彼女を戦場に送り出した。そして、彼女は死んだ」
俺の声は震えていた。
「俺の教えが、彼女を殺したんだ」
マルクは何も言わなかった。ただ、俺を見つめていた。
「だから、俺にはお前を許す資格はない」
俺は顔を上げた。
「でも……」
言葉が続かない。
「でも、お前がやり直したいと思うなら、俺はそれを止めない」
マルクの目から、また涙が溢れた。
「ありがとうございます……」
彼はそう言って、頭を下げた。
そのとき、外から馬のいななきが聞こえた。
俺は立ち上がった。
マルクも顔を上げる。
「……来たか」
彼の顔が蒼白になった。
俺は窓から外を覗いた。
村の入口に、黒い馬が並んでいる。騎士たちだった。フェリクスの紋章を掲げた騎士たちが、十人ほど村に入ってくる。村人たちが家から出てきて、怯えた表情で彼らを見ている。
先頭の騎士が馬から降りた。兜を外すと、若い男の顔が現れた。傷だらけの顔で、目には冷たい光が宿っている。
「マルク!」
男が叫んだ。
「出てこい! 国王陛下の命により、貴様を捕縛する!」
村人たちがざわめく。
マルクは立ち上がった。
「僕が行きます」
「待て」
俺が彼の腕を掴んだ。
「先生……」
マルクは俺を見た。
「これ以上、村の人たちを巻き込めません」
「だからといって、お前が捕まる理由はない」
俺はそう言って、腰の剣に手をかけた。
「ここは俺が行く」
「先生、危険です!」
「お前は下がってろ」
俺は静かに言った。
マルクは唇を噛んだ。だが、頷いた。
「……気をつけてください」
俺は小屋を出た。
エリナがついてくる。
「先生、私も」
「お前も下がってろ」
「でも……」
「これは、俺の問題だ」
エリナは立ち止まった。だが、その目には不安が滲んでいた。
俺は騎士たちの前に立った。
先頭の騎士が俺を見下ろした。
「貴様は何者だ」
俺は答えなかった。ただ、彼を見つめた。
「マルクを渡すわけにはいかない」
騎士が鼻で笑った。
「たかが農夫が一人、国王陛下の命に逆らうつもりか」
「……フェリクスに伝えろ」
俺は静かに言った。
「優師が、お前に会いたがっている」
騎士の顔が強張った。
周りの騎士たちもざわめく。
「優師……?」
騎士が呟いた。
「お前が、あの……」
俺は黙って頷いた。
騎士は剣を抜いた。
「ならば尚更だ! 陛下は、貴様も排除せよと仰っていた!」
他の騎士たちも剣を抜く。
そのとき、後方の騎士のひとりが井戸の脇にいた老婆に近づいた。剣を首筋に突きつける。
「動くな! 動けばこの婆を殺すぞ!」
老婆が小さく悲鳴を上げた。
村人たちが怯える。
俺は動こうとした。
だが、俺より速く動いた者がいた。
マルクだった。
彼は小屋から飛び出し、騎士との距離を一瞬で詰めた。素手で剣の峰を掴み、捻り上げる。骨が軋む音がして、騎士が悲鳴を上げた。剣が地面に落ちる。
「この人たちは……」
マルクが低い声で言った。
「僕が守る!」
その姿は、完全に戦士のものだった。農夫の面影はどこにもない。
老婆を背に庇い、両手を構える。その構えは《蛇尾の型》だった。防御に特化した、だが反撃の隙を決して与えない構え。
俺はマルクの背中を見た。
ああ、と思った。
こいつはまだ、勇者だ。
騎士たちが一斉に襲いかかってきた。
「マルク、下がれ!」
俺は叫んだ。
「いえ!」
マルクが答えた。
「先生、背中をお願いします!」
その言葉を聞いて、俺は小さく笑った。
「……頼んだぞ」
俺は剣を抜こうとして、止めた。
いや、抜かない。
殺さない。
俺は素手のまま、騎士たちに向かった。
最初の騎士の剣を避け、顎を打つ。二人目の剣を掴み、関節を極めて地面に叩きつける。三人目が襲いかかってくるが、マルクが横から飛び込んで足を払った。
完璧な連携だった。
俺とマルクは背中を合わせて立った。
「……昔を思い出すな」
俺は呟いた。
「はい」
マルクが小さく笑った。
「先生はいつも、背中を預けられる相手になれ、と言っていました」
そうだったか、と思った。
そんなことを言った記憶はない。だが、マルクがそう受け取ってくれたなら、それでいい。
俺たちは動いた。
剣を抜かず、だが容赦なく。骨を折らず、だが完全に制圧する。
騎士たちが次々と倒れていった。
最後の騎士が馬に飛び乗り、逃げ出そうとした。俺は小石を拾い、投げた。石は騎士の兜を叩き、彼は馬から落ちた。
静寂が戻った。
俺は荒い息をつきながら、倒れた騎士たちを見下ろした。
誰も動かない。だが、胸は上下している。生きている。
俺は安堵した。
マルクが俺の隣に立った。
「……先生」
彼の声は穏やかだった。
「僕、まだ戦えますね」
「ああ」
俺は頷いた。
「お前の剣は、何も失っていない」
マルクは微笑んだ。
村人たちが集まってくる。老婆が俺とマルクを見て、小さく頷いた。
「ありがとう。二人とも」
その言葉に、マルクの目に涙が浮かんだ。
エリナが俺のもとに駆け寄ってきた。
「先生! マルクさん! 怪我は……」
「ない」
俺は短く答えた。
マルクも首を横に振った。
「大丈夫です」
だが、彼の顔には疲労の色が濃かった。
夜になった。
村人たちが俺たちを家に招いてくれた。
暖炉の前で、マルクと俺は向かい合って座っていた。エリナは隣の部屋で眠っている。
「先生」
マルクが口を開いた。
「一つ、お願いがあります」
俺は炎を見つめていた。
「手合わせを、していただけませんか」
顔を上げると、マルクが真剣な目で俺を見ていた。
「……なぜだ」
「確かめたいんです」
マルクは立ち上がった。
「僕の剣が、まだ先生に届くのか」
俺は黙って立ち上がった。
外に出ると、月明かりが村を照らしていた。
マルクが薪置き場から二本の木の棒を持ってきた。一本を俺に渡す。
「これで」
俺は棒を受け取った。
「始めるぞ」
マルクが構えた。
その構えは、かつて俺が教えた基本の型だった。だが、そこに彼独自の変化が加わっている。防御を重視しながら、相手の懐に飛び込む隙を常に窺う構え。
俺も構えた。
次の瞬間、マルクが動いた。
速い。
だが、俺はそれを見切っていた。棒で受け流し、反撃する。マルクが後ろに跳んで避ける。
打ち合いが始まった。
木と木がぶつかる音が、静かな夜に響く。
マルクの動きは洗練されていた。無駄がない。だが、どこか迷いがあった。攻撃の瞬間、ほんの少しだけ躊躇する。
「迷うな」
俺は言った。
「迷えば、守れるものも守れなくなる」
マルクが動きを止めた。
それから、もう一度構え直した。
今度の攻撃には、迷いがなかった。
俺は棒で受けた。その衝撃が手に伝わってくる。
強い。
本当に強くなった。
俺たちは何度も打ち合った。月明かりの下、二つの影が交錯する。
最後に、俺が棒を振り下ろした。
マルクはそれを受け止めようとして、膝をついた。
そこで俺は止めた。
「……いい剣だ」
俺は棒を下ろした。
「昔より、ずっと強くなったな」
マルクは顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
彼は泣き笑いしながら言った。
「僕は……まだ、先生の弟子でいられますか」
俺は彼の頭に手を置いた。
「ああ。お前はずっと、俺の誇りだった」
マルクは声を上げて泣いた。
俺はただ、彼の頭に手を置いたまま、空を見上げた。
月が、静かに輝いていた。
翌朝、俺は目を覚ました。
外はまだ薄暗い。
マルクの姿がなかった。
俺は飛び起きて、外に出た。
畑に、マルクがいた。
ひとりで、鍬を振るっている。
俺はその背中を見つめた。
彼は気づいていないのか、黙々と土を掘っている。
その姿が、どこか儚く見えた。
俺は小屋に戻り、荷物をまとめた。エリナも目を覚まし、黙って準備を始める。
朝食を食べ終えた後、俺はマルクに別れを告げた。
「もう行くのですか」
マルクが訊いた。
「ああ」
俺は頷いた。
「フェリクスに会わなければならない」
マルクは小さく頷いた。
「先生」
彼が呼び止めた。
「もし……もし僕が死んだら」
俺は彼を見た。
「この村を、守ってもらえますか」
俺は何も言わなかった。
「お願いします」
マルクは頭を下げた。
「僕には、もう……時間がないかもしれない」
俺は彼の肩に手を置いた。
「……分かった」
その言葉を聞いて、マルクは顔を上げた。
「ありがとうございます」
彼は微笑んだ。
その笑顔は、どこか安心したようだった。
俺は背を向けた。
エリナも頭を下げて、俺についてくる。
村を出る前に、俺は一度だけ振り返った。
マルクが手を振っていた。
俺も小さく手を振った。
それが、彼との最後の会話になるとは、そのとき俺は知らなかった。
街道を歩きながら、エリナが口を開いた。
「先生」
「なんだ」
「マルクさんは……本当にやり直せるんでしょうか」
俺は空を見上げた。
「……分からない」
それが、俺にできる唯一の答えだった。
「でも、やり直そうとすることは、諦めるよりずっといい」
エリナは黙って頷いた。
「それに」
俺は付け加えた。
「マルクはもう、やり直している」
エリナが俺を見た。
「あいつは村を守った。それが、あいつの答えだ」
エリナは小さく微笑んだ。
「……そうですね」
俺たちは黙々と歩き続けた。
次の目的地は、王都だった。
フェリクスが待つ、場所へ。




