第10話 世界で一番優しい、最後の授業
秋が深まり、冬の気配が忍び寄る頃。
俺とエリナは、あの村へ戻ってきた。
道中、季節が移り変わっていくのを見てきた。
木々の葉が赤く染まり、やがて散っていく。朝晩の空気が冷たくなる。畑では収穫が終わり、次の春に備えて土が耕されている。
世界は回っている。止まることなく、ただ回っている。
エリナの歩き方も変わった。
以前は俺の後ろを追いかけるように歩いていたが、今は並んで歩く。背も少し伸びた気がする。顔つきも、どこか大人びてきた。
「先生、もうすぐですね」
「ああ」
「どんな顔して迎えてくれるでしょうか」
「さあな」
会話が途切れる。でも気まずくない。沈黙が心地いい。
風の音、鳥の声、自分たちの足音。それだけで十分だった。
村の入口に立つと、見慣れた風景が広がった。
だが、何かが変わっていた。畑が増えている。家々の壁が塗り直されている。子供たちの笑い声が、以前より明るい気がした。
生きている。この村は、生きている。と、俺は何気なく一人で呟いた。
「先生、あれ」
エリナが指差す先に、一人の男がいた。
鍬を持ち、泥にまみれ、黙々と土を掘り返している。
フェリクスだ。
近づいても、彼は気づかない。作業に没頭している。
額に汗が光り、鍬を振るうたびに息を吐く。その使い方はまだ少しぎこちない。力任せに振り下ろして、刃が土に深く刺さりすぎている。
その様子を見て、隣の畑で作業していた老人が呆れたように首を振った。
「フェリクス、そんなに力を入れるな。土が固まるだろうが」
「すみません」
フェリクスが頭を下げる。
「何度言っても覚えん。本当に王様だったのか、お前は」
「昔の話です」
「まあいい。とにかく休憩しろ。見てるこっちが疲れる」
老人はそう言って、井戸へ向かう。フェリクスは鍬を地面に立てかけて、自分の手のひらを見つめる。
マメができている。
潰れて、血が滲んでいる。
それでも彼は顔をしかめるだけで、手当てをしようとしない。ただ、じっと見つめている。
俺は声をかける。
「いい手になったな」
フェリクスが顔を上げる。目を見開く。一瞬、信じられないという表情。それから、鍬を置いて駆け寄ってきた。
「師匠」
息を切らせて、立ち止まる。
「本当に、師匠なんですか」
「他に誰がいる」
彼は自分の手を見る。泥だらけで、傷だらけの手。それから俺を見る。
「見てください、この手を。剣ダコとは違う、痛くて醜いマメです」
彼は苦笑する。
「でも、悪くないんです。この痛みは」
「そうか」
「はい。これが、生きているということなんですよね」
フェリクスは笑った。顔中泥だらけなのに、その笑みは清々しかった。
「老けましたね、師匠」
「お前は逞しくなった」
「そうですか。でも村の人たちには敵わないんです。土の扱い方も、種の蒔き方も、何もかも」
「当たり前だ」
「はい。当たり前なんですよね」
フェリクスは空を見上げる。青い空。白い雲。風が吹いて、畑の土が少し舞う。
「毎日、マルクの墓に謝りに行ってます」
「そうか」
「でも、まだ言葉が見つからなくて。ただ、頭を下げることしかできない」
「それでいい」
やがて、老人が水を汲んで戻ってきた。器をフェリクスに渡す。
「ほら、飲め」
「ありがとうございます」
フェリクスは両手で器を受け取り、一気に飲み干す。それから深く頭を下げた。老人は何も言わずに、また自分の畑に戻っていく。その背中には、もう敵意はなかった。
ただ、日常があった。
エリナが小さく息を吐く。
「変わりましたね」
「ああ」
「村の人たちも」
「そうだな」
フェリクスは俺を見る。
「師匠は、どこへ行っていたんですか」
「色々だ」
「また旅を?」
「ああ」
彼は少し寂しそうに笑う。でも、それ以上は聞かなかった。問い詰めない。縋りつかない。ただ、そこにいる。
成長した証だ。
「リアは?」
俺が聞くと、フェリクスの顔が明るくなる。
「目覚めました。二ヶ月前です」
俺は「そうか」とだけ呟いた。
「今は村で、子供たちに読み書きを教えています。師匠に会いたがってましたよ。毎日のように『まだ帰ってこないのか』って」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「案内します」
フェリクスが先導し、俺とエリナが続く。すれ違う村人たちは驚くことなく、軽く会釈をして通り過ぎていく。この村にはもう、穏やかな日常が根付いているようだった。
村の広場にある小さな建物。以前は物置だった場所から、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「リア先生、これ分かんない」
「どれ?ああ、これはね」
懐かしい声だ。二十年前と変わらない、鈴を転がすような響き。
俺たちは扉の外で足を止めた。
窓越しに中の様子が見える。リアが黒板の前に立ち、白いチョークで文字を書いている。子供たちの視線は真剣だ。
「今日は歴史の勉強です。この国には、昔、悪い王様がいました」
リアの言葉に、子供の一人が手を挙げる。
「悪い王様って、どんなことしたの?」
「戦争をしました。たくさんの人が死にました」
「怖い……」
「ええ、とても怖いことです」
リアは少し間を置いて、窓の外へと視線を向けた。その先には、泥まみれで働くフェリクスの姿がある。
「でもね、その王様は本当は悪い人じゃなかったのかもしれません。とても悲しい王様だったのよ。誰も助けてくれなくて、一人ぼっちで。だから、間違った道を選んでしまった」
子供たちは静まり返り、リアの話に聞き入っている。
「その王様は今、この村で畑を耕しています。毎日、一生懸命に」
「許してあげたの?」
「許すかどうかは、簡単には決められないわ。でも、その人が変わろうとしているなら、私たちも見守ってあげることはできるでしょう?」
子供たちが頷くのを見て、リアは優しく微笑んだ。
扉の外で、フェリクスが壁に背中を預けていた。
目は閉じられ、肩が小刻みに震えている。溢れそうになる涙を、必死にこらえているのだ。
エリナが、俺の袖を引いた。
「先生、リアさん、強いですね」
「ああ」
「優しくて、強い」
「そうだな」
フェリクスが目を開ける。涙を拭う。それから、深呼吸をする。
「行きましょう、師匠」
彼が扉を叩く。
「リア、客だ」
「客?誰――」
リアが顔を出す。
そこで、彼女の動きが止まった。
チョークを持ったままの手が、力なく下ろされる。
大きく見開かれた瞳が、瞬きもせずに俺を捉えていた。
まるで、幻でも見ているかのような顔。
やがて、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「師匠」
震える声だった。
彼女は子供たちに背を向け、外に出てきた。俺たちの前に立つと、深く頭を下げた。
「お帰りなさい」
その言葉を聞いて、俺は初めて気づく。
ああ、そうか。俺は帰ってきたのか。
帰るべき場所に。
「ただいま」
リアは泣き崩れた。声を殺して、ただ涙を流し続ける。細い肩が震えている。
エリナが心配そうに見守り、フェリクスは静かに目を伏せた。
俺は、懐に手を入れた。
指先に触れる、硬くて温かい木の感触。
二十年前から彫り続け、旅の途中でようやく完成させたもの。
俺はそれを取り出し、彼女の前に差し出した。
手のひらサイズの人形。
その顔は、優しく微笑んでいた。
「これを」
俺は人形を差し出した。
リアが顔を上げる。涙で濡れた顔で、目を見開いてそれを見つめる。
「これは……」
「お前のだ」
「私の?」
「二十年前に作り始めた。……遅くなった」
リアは震える手で人形を受け取った。
掌の上で、小さな木彫りの少女が微笑んでいる。
「顔が、ある」
「ああ」
「完成したんですね」
「そうだ」
リアは人形を胸に抱きしめた。まるで壊れ物を扱うように、大切に、優しく。
「ありがとうございます」
その声は、小さくて、でもはっきりしていた。
「やっと、私を見てくれたんですね」
俺は何も言えなかった。
言葉が出ない。ただ、深く頷くことしかできなかった。
リアは微笑んだ。涙を流しながら、この世で一番美しい笑顔を見せた。
「私、嬉しいです。本当に」
「そうか」
「これからも、ずっと大切にします。師匠の分身として」
彼女は人形を抱いたまま、建物の中に戻っていった。
中から子供たちが「リア先生、泣いてる?」と騒ぐ声が聞こえる。
「大丈夫よ、嬉しい涙なの」
リアの明るい声が、さらに続いて聞こえた。
「さあ、みんな、授業を続けましょう」
エリナが俺を見上げた。
「先生、良かったですね」
「ああ」
「本当に、良かった」
彼女も少し泣いていた。袖で目を拭うその姿を見て、俺はようやく肩の力を抜いた。
フェリクスが静かに笑っている。
「師匠、一つお願いがあります」
「なんだ」
「マルクの墓に、一緒に来てください」
俺は短く肯定した。
三人で墓地へ向かう。村外れの、静かな場所だ。木立に囲まれて、日の光が優しく差し込む。
マルクの墓は、花で飾られていた。誰かが毎日手入れをしているのだろう。草一本生えていない。墓石も丁寧に磨かれている。
フェリクスが墓の前に膝をつく。
額を地面につける。
しばらく、そのままだ。
「マルク」
やがて、彼は顔を上げる。
「俺は、まだ償い切れていない。お前に何をしたか、忘れたことは一日もない」
風が吹く。
木の葉が揺れる。
「でも、生きていく。お前が愛したこの村で。泥にまみれて、汗を流して」
フェリクスは立ち上がる。目を赤くしている。
俺の方を見る。
「師匠の番です」
俺は墓の前に立つ。
しゃがみ込む。
墓石に手を置く。
冷たい。
でも、嫌な冷たさじゃない。
「マルク」
何を言えばいいのか。
何を言えば、お前に届くのか。
「お前は、正しかった」
それだけだ。
それしか言えない。
「強さとは何か。お前が最後に教えてくれた。俺は、それをようやく理解し始めている」
墓石の前に、小さな花が咲いていた。白い花だ。マルクが好きだった花。
「ありがとう」
俺は立ち上がる。
エリナが墓の前に進み出る。彼女は深く頭を下げる。
「マルクさん、私はあなたに会ったことがありません。でも、あなたのことは師匠から聞きました」
彼女は顔を上げる。それから、腰に差していた短剣を抜く。村を出る時、フェリクスがマルクの形見として渡してくれたものだ。刃には小さな傷があるが、よく手入れされている。
エリナは短剣を墓石の前に置く。
「これを、しばらくお借りします。あなたの守りたかったものを、私が引き継ぎます」
彼女は真剣な顔で言う。
「先生のことも、任せてください。私が守ります」
それから短剣を拾い上げ、鞘に収める。
深く一礼する。
俺は何も言わない。
言葉にできない。
ただ、エリナの背中を見る。
大きくなった。
本当に、大きくなった。
三人で、しばらく黙祷する。
鳥の声が聞こえる。
遠くで、子供たちの笑い声。
生きている音。
墓地を出ると、リアが待っていた。人形を抱いて、微笑んでいる。
「師匠、今夜は村に泊まっていってください」
「いや」
「お願いします。せめて、一晩だけでも」
俺はエリナを見る。彼女は小さく首を縦に振る。
「じゃあ、一晩だけ」
その夜、村人たちが集まって小さな宴を開いてくれた。質素だが、温かい食事。笑い声。子供たちが走り回る。
フェリクスは隅の方で静かに食事をしている。誰かが酒を勧めると、彼は丁寧に断る。
「俺には、まだその資格がない」
村長が立ち上がり、俺に杯を差し出す。
「旅の人よ。感謝する」
「何をだ」
「あの男を、連れてきてくれて」
村長はフェリクスを見る。
「最初は、殺してやりたいと思った。今でも、許したわけじゃない」
「ああ」
「だが、あいつは逃げなかった。それだけは認める」
村人たちが静かに頷く。
その時、一人の男が立ち上がった。中年の男だ。顔には深い皺が刻まれている。彼は
酒の入った器を持って、フェリクスに近づく。
場が静まる。
男はフェリクスの前に膝をつく。器を差し出す。
「飲め」
フェリクスは戸惑った顔をする。
「でも、俺は」
「飲めと言っている」
フェリクスは震える手で器を受け取る。
男は自分の器を掲げる。
「俺の息子は、お前の戦争で死んだ」
フェリクスの手が止まる。
「許したわけじゃない。一生、許さないだろう」
男は続ける。
「だが、お前が作った野菜は、うまかった」
フェリクスは目を見開く。
「この村で生きるなら、ちゃんと生きろ。半端な覚悟で、俺たちの前に立つな」
「……すみません」
「謝るな。ただ、生きろ」
男は器を一気に飲み干すと、乱暴に自分の席に戻った。
残されたフェリクスは、器を両手で握りしめていた。
涙が零れている。だが声は出さない。震える手で器を口に運び、一口、また一口と、噛み締めるように酒を飲む。
村人たちは誰一人言葉を発さず、ただその背中を見守っていた。
それは、許しではないかもしれない。だが、拒絶でもなかった。
夜が更け、宴が終わる頃には、月が高く昇っていた。
人々が三々五々と家路につき、俺とエリナも用意された部屋へと向かう。リアとフェリクスが、外まで見送りに来てくれた。
「師匠、明日も村にいてくれますか」
リアが尋ねる。その瞳には、名残惜しさが滲んでいた。
俺は首を横に振り、「朝には出る」と短く告げる。
「そうですか……」
彼女は寂しそうに微笑んだ。引き止めたい気持ちを飲み込んで、「じゃあ、良い旅を」とだけ言う。
その横で、フェリクスが一歩前に出た。
「師匠、一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「俺は……いつか、許されるんでしょうか」
切実な問いだった。俺は夜空を見上げ、少し考え込んでから答えた。
「分からない」
「分からない?」
「ああ。でも、それでいい」
フェリクスは戸惑った顔をする。俺は彼の目を見て、言葉を続けた。
「許されるために生きるな。ただ、生きろ。それだけでいい」
俺の言葉に、フェリクスは目を見開いた。
やがて、彼は深く頭を下げ、「はい」と短く、けれど力強く応えた。
二人は去っていった。
人形を抱くリアと、その隣を歩くフェリクス。
月明かりの下、二つの影が寄り添うように重なり、夜の闇へと溶けていく。
俺はそれが見えなくなるまで、窓辺に立ち尽くしていた。
部屋に戻ると、エリナがすでに床に入っていた。
「先生」
「どうした?」
「私、ずっと考えてたんです」
「何を」
「強さって、何かなって」
俺は窓際に座って月を見げた。
「分かったか?」
「少しだけは、わかった気がします」
エリナが体を起こし、膝を抱えた。
「強いっていうのは、諦めないことなんですよね。フェリクスさんも、リアさんも、マルクさんも、みんな一度は逃げても最後まで諦めなかった」
彼女は俺の背中を見つめ、言った。
「先生も」
俺は月を見上げたまま、動かなかった。
本当は、俺は何度も逃げた。今も逃げているのかもしれない。
だが、それを否定する言葉は出てこなかった。
「でも、私にはまだ分からないことがあります」
「なんだ」
「先生は、これからどうするんですか」
どうする。
どうするんだろう。
俺にも分からない。確かな目的も、帰る場所もない。
「……歩く」
「それだけですか」
「それだけだ」
エリナは少し考えてから、ふふ、と笑って横になった。
「じゃあ、私もついていきます」
「好きにしろ」
「はい。おやすみなさい、先生」
やがて、彼女の穏やかな寝息が聞こえ始めた。
俺は窓枠に肘をつき、月を見続けた。
欠けた月だ。でも、また満ちる。そういうものだ。
翌朝、俺は村を出ることにした。
リアとフェリクスが入口まで見送りに来てくれた。畑仕事の手を止めた村人たちも、何人か手を振っている。
エリナが大きく手を振り返した。俺も、村が見えなくなるまで小さく手を上げ続けた。
しばらく黙って歩いていたが、村が完全に見えなくなった頃、俺とエリナは街道を外れ、誰も通らない獣道を選んで歩いていた。理由は単純だ。王都から追っ手が来る可能性があるからだ。フェリクスが王位を捨てたとはいえ、あの国は今、大きな混乱の渦中にあるはずだ。誰かが責任を取らされる。そして、その矛先が俺たちに向かないとは限らない。
道を歩きながら、俺はエリナの横顔を見た。
いつもなら何か文句を言うか、質問を投げかけてくるのだが、今日は違う。眉間に小さな皺が寄り、視線は地面に落ちている。
「なあ、エリナ」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「な、何ですか」
「お前、実はあの村に残りたかったんじゃないか」
エリナは足を止めた。俺も立ち止まる。風が木々の葉を揺らし、ざわざわと音を立てた。彼女は俺を見ず、拳を握りしめている。
「……そんなこと、ないです」
「嘘つくな」
俺は彼女の肩に手を置いた。エリナは身体を硬くする。
「先日マルクの墓の前で泣いてただろう。俺は見てたぞ」
「見てたなら、声かけてくださいよ」
エリナは唇を噛んだ。目に涙が滲んでいる。
「あの村には、マルクさんがいて、リアさんがいて……フェリクスも、これから畑を耕して生きていくんでしょう? あそこには『家族』があるじゃないですか。でも、私たちは……」
彼女の声が震えた。
「私たちは、また歩き出す。また、どこかに行く。いつまで? どこまで? 先生、あなたは何を探してるんですか」
俺は答えられなかった。
何を探しているのか、俺にも分からない。ただ、立ち止まることが怖いだけだ。止まれば、また過去が追いついてくる。リアの死が、マルクの死が、フェリクスの叫びが、全部まとめて俺の背中に覆いかぶさってくる。
「……分からない」
俺は正直に答えた。
「俺は、ただ歩いてるだけだ。答えなんてない」
エリナは俺を見上げた。涙が頬を伝っている。
「じゃあ、一緒にいる私は? 私は何のために、先生に一緒にいると思いますか?」
「正直に言うと、分からない。でも感謝はしている」
エリナは拳を握りしめ、俺の胸を叩いた。力は弱い。怒りではなく、悲しみの拳だ。
「その言い方……ずるいですよ、先生」
彼女はそのまま俺の胸にしがみつき、声を上げて泣いた。俺は彼女の頭に手を置き、ただ黙って立っていた。風が吹く。木々が揺れる。遠くで鳥が鳴いている。世界は、俺たちの感情など気にも留めず、ただ淡々と回り続けている。
しばらくして、エリナは顔を上げた。目が赤い。鼻をすすり、袖で涙を拭う。その姿はまた昨日見た姿とは違う決意が籠っているように映った。
「……すみません。変なこと言いました」
「いや、一度は聞くべき話だった」
俺は首を横に振った。
「お前の言う通り、俺は逃げているだけだ。ずっと、逃げ続けてきた。立ち止まるのが怖くて、答えを出すのが怖くて」
エリナは黙って俺を見ている。何も言わない。ただ、待っている。
「俺が教えた弟子たちは……」
俺は空を見上げた。青い空が広がっている。雲が流れている。
「同じ道を歩んでもそう簡単には諦めなかった。マルクは最後まで『師匠なら、できます』って言いながら俺を信じて倉田。リアも待っていてくれた。フェリクスも、泥にまみれて生き直そうとしてる」
エリナの目が、少し見開かれる。
「師匠と言う地位を得た人間として、恥ずかしいながらも。俺はまだ、俺の人生に対する答えを持ってない。これからどこへ行くのか、何を探してるのかも分からない」
俺は彼女を見た。
「でも、歩くことはできる。逃げても諦めようとは思っていない。探しているんだ。答えを。自分の居場所を」
エリナは息を呑んだ。涙の跡が残る顔で、でも目は輝いている。
「じゃあ……」
彼女は小さく笑った。
「私も先生と一緒に、探します」
「いいのか?」
「はい。だって、先生一人じゃ迷子になりそうですから」
俺は彼女の頭を撫でた。
「そうだな。お前がいてくれて、助かる」
エリナは嬉しそうに笑った。さっきまでの涙が嘘のように、明るい笑顔だ。
俺たちは、再び歩き出した。
しばらく黙って歩いていると、エリナが口を開いた。
「先生、次はどこへ行くんですか」
「さあな」
俺は遠くを見た。獣道が、どこまでも続いている。
「歩いていれば、分かるだろう」
エリナは呆れたように肩をすくめた。
「本当に最後の最後まで適当ですね」
「そうだな」
風が吹き抜ける。木々が揺れ、鳥が鳴き、雲が流れる。
世界は広い。まだ見ぬ景色が、まだ知らぬ物語が、俺たちを待っている。
「先生」
エリナが隣で笑った。
「私、先生と旅ができて幸せです。これからも、ずっと一生にいてもいいですか」
俺は無口で、歩調を緩めた。答える必要はない。
エリナもそれを察したのか、嬉しそうに鼻歌を歌い始めた。知らない歌だが、悪くない。
俺たちは歩く。
振り返れば村はもう見えず、前を向けば道だけが続いている。
空は青く、雲は白く、風は優しい。
人生は何度でも、やり直せる。俺も。お前たちも。誰もが。
――良い旅を、最強の師匠。
遠くから、そんな声が聞こえた気がした。
マルクの声だろうか。それとも、リアの声か。
俺は振り返らない。ただ、片手を上げて応える。
さよならじゃない。また会おう。そういう別れだ。
陽が高く昇る。新しい一日が、もう始まっている。
俺たちは、その眩しい光の中を、並んで歩いていく。
逃げてるんじゃない。探してるんだ。
答えを持たないまま、でも止まらずに。
それでいい。
今は、俺の物語は、それでいいんだ。




