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第9章「呼ばれた名は、もうない」

 最近、声が出づらい気がする。

 喉が痛いわけでも、風邪をひいているわけでもない。ただ、言葉が――舌の上でうまく形にならない。

 学校でも、家でも、自分が何を言っているのか分からなくなる瞬間がある。目の前の人間が話していることは聞こえる。けれど、その意味がまるで脳に入ってこないのだ。


 「天音、聞いてる? さっきから返事ないけど……」


 紗英の声。何度か呼びかけられ、天音はようやく顔を上げた。


 「あ……ごめん、ちょっと、ぼーっとしてて」


 「ぼーっとしすぎだって。今さ、部活の集合時間のこと話してたの。明日は朝練、七時集合ね。遅刻したら先生また怒鳴るよー」


 「……うん、わかった。ありがと」


 笑顔をつくって返す。

 その瞬間だけは、いつもの“雨宮 天音”を装えていたと思う。


 けれど、胸の奥が妙に空っぽだった。言葉を交わしているのに、何かがズレている。自分の“輪郭”が曖昧になっていく感覚が、もう数日続いていた。


 昨日の出来事。

 教室で見た“濡れ女”の姿。あの空間。あの声。

 それが夢なのか、現実だったのか――未だに判別がつかない。


 (でも……)


 右手の甲に、まだ濡れた感触が残っている気がする。ノートに残された「ありがとう」の筆跡が、目の奥に焼きついて離れない。


 あれは、きっと“彼女”の最後の声だった。

 少なくとも、あの瞬間だけは。


 ――それでも終わらなかった。


 天音は、自分の机に戻っても手が動かなかった。ノートを開いても、文字が浮かばない。頭の中は言葉で満ちているはずなのに、書こうとするとそれらが音にならない。

 “わたし”の思っていることと、口から出る言葉が、少しずつ食い違っていく。


 (今日が、何曜日かも……一瞬、わからなかった)


 焦るような感情さえ、湧いてこなかった。まるで自分自身が、ゆるやかに水の中へ沈んでいくような、そんな静かな無感覚。


 隣の席では、誰かが笑っていた。背後では椅子を引く音。

 自分を取り巻く世界は、確かに存在しているのに、そこに自分が“存在していない”ような錯覚。


 (ねぇ、だれか……)


 心の中でそう呼びかけたつもりだった。けれど――


 「………………」


 声が、出なかった。


 舌が動いていないわけじゃない。喉も、呼吸もある。でも、確かに何かが抜け落ちている。まるで“声を出す”という行為そのものが、自分から切り離されてしまったようだった。


 不意に、誰かが自分の名前を呼んだ気がして顔を上げる。


 「……アマ……ネ……?」


 小さな声。廊下の方から。教室の外――音楽室の方向。


 聞き間違いかもしれない。けれど、天音は立ち上がっていた。


 足音を立てないように廊下へ出る。誰もいないはずの放課後、校舎の奥。太陽はすでに傾きかけ、窓から差す光も赤みを帯びていた。


 音楽室のドアは、わずかに開いていた。


 「……いるの?」


 小さく声をかけた。が――返事は、なかった。


 静寂に包まれた音楽室。

 普段は生徒の誰もが敬遠する古びた部屋。使われていない楽器がずらりと並び、壁には古い楽譜が黄ばんだまま掲示されている。


 誰も、いない。


 それでも天音は、そこに“何か”がいるような気がして、足を踏み入れた。


 ――ギィ。


 ドアが軋む音とともに、部屋の奥にあるグランドピアノの蓋が、ひとりでに開いていた。


 その蓋の隙間から、何かが――こちらを覗いている気配がする。


 呼吸が止まった。天音は一歩も動けず、冷たい汗が背中を伝った。


 「……あまね」


 今度は、はっきり聞こえた。


 それは誰かの声ではなかった。まるで、自分自身の中から聞こえてくるような、不気味で不自然な声。声帯を通さず、直接脳に囁きかけられる感覚。


 「……アマネ、アマネ、アマネ……」


 繰り返される名前。けれど、その声の主が誰なのか、思い出せない。


 天音は、自分の“名前”さえ一瞬見失いかけていた。


 (わたしの名前……って、ほんとに……天音?)


 それに答えるように、ピアノの蓋がパタンと閉まった。


 静寂が戻る。


 天音はその場にしゃがみ込み、膝を抱えた。視界が揺れる。誰もいないはずの部屋で、自分だけが“見えない何か”に話しかけられている――その状況が、もう限界だった。


 「……誰か、わたしを……見て」


 その声は、小さすぎて、自分の耳にも届かなかった。


 しばらくその場に蹲っていた天音は、何とか立ち上がり、よろよろと音楽室を出た。

 廊下の空気は変わっていなかった。けれど、何かが確実に、自分の中で変わってしまったという予感だけが、じっとりと身体に貼りついていた。


 教室に戻る途中、すれ違った後輩に軽く会釈したが――返ってきたのは、無反応だった。


 (あれ……?)


 目が合っていた。たしかに、視線は交わした。

 それなのに、まるで“そこにいないかのように”通り過ぎていった。


 「ねえ……いま、挨拶したんだけど……」


 声をかけた。だが、返事はない。

 まるで、自分の声だけが空間に溶けていく。


 (どうして、聞こえてないの……?)


 教室に戻っても、周囲の空気は変わっていた。


 紗英がクラスメイトと話している。笑っている。

 その輪の中に、自分の名前が呼ばれることはなかった。


 天音は、自分の席に座り、そっと頬杖をついた。


 (声が、出ないんじゃない。……聞こえてないんだ)


 自分が、周囲から見えなくなりつつある。

 “名前を失う”ということが、こんなにも静かで、残酷なものだとは――想像していなかった。


 再び、胸元でスマホが震えた。


 画面には、叔父・大地からのメッセージがひとつだけ届いていた。


『今日も無事? 既読ついてるけど、返信ねーと心配すんぞ。』


 それを読んだ瞬間、天音の目から涙が零れた。


 “まだ見えている人がいる”ということが、これほどまでに心を支えてくれるとは――。


 けれどその通知の下、知らない差出人からのメッセージが並んでいた。


『――あまね』

『――かえして』

『――なまえ』


 何も登録していない、文字化けしたような送り主名。


 既読も、未読も表示されていない。まるで、“それ”は誰かの名前の形をして、ゆっくりと天音を覆ってきている。


その夜、天音は久々に金縛りにあった。


 目を閉じていたはずなのに、視界がある。

 けれどその視界は、自分のものではない。

 まるで“他人の目”を通して、この部屋を見下ろしているような――そんな異常な感覚があった。


 天井。壁。机。床。

 そこに横たわる、ひとりの少女――雨宮 天音。

 布団の上で横たわる彼女の顔には、生気がなかった。


 (わたし、これ……)


 動かせない体。叫べない声。夢か現実か分からない空間で、天音はただ“見られている”ことを感じていた。


 じわ、じわ、と。


 胸のあたりが重くなる。

 湿った空気が、喉を塞ぐ。

 水のような“何か”が、少しずつ身体に入り込んでくる感覚。

 息が苦しい。冷たい。息を吸うたびに、肺の奥まで冷水が注ぎ込まれるような恐怖が、内側から満ちてくる。


 「かえして……」


 囁き。


 最初は耳元。

 次に、後頭部の内側。

 そして、脳全体に響き渡るように。


 「わたしの、名前を……」


 それは、もうひとりの“自分”の声だった。


 いつの間にか、天音の身体は“ふたつ”に分かれていた。


 ひとつは、横たわっている“今の天音”。

 もうひとつは、鏡の中でこちらを見つめている“水に濡れた少女”。


 どちらも、“わたし”なのに。

 どちらも、“わたし”ではない。


鏡の中の少女――その瞳が、ぐにゃりと揺れた。

 水面のように波打ち、瞳孔の奥から黒い靄がゆらめいている。

 “そこにあるはずの顔”が、見えない。


 ただ一つ、確かにあるのは――自分と、まったく同じ形の唇。

 その唇が、ゆっくりとこう動いた。


 「アマネ、アナタハ、ワタシ」


 否定しようとした。そんなわけがない、と。

 けれどその言葉が喉まで出かかった瞬間、頭の中が真っ白になった。


 思い出せない。

 自分の名前。自分の家族。自分の好きだったもの。

 それらが、泥水に沈むようにぼんやりと薄れていく。


 (わたし……って、だれ……?)


 声が震えた。意識の端で、かすかに叔父・大地の顔がよぎる。

 けれどその記憶すら、もう手の届かない遠くにある気がした。


 「ワタシガ アマネ――」


 鏡の中の“わたし”が、にやりと口角を上げる。


 「アナタハ ワタシノ カワリ」


 ――入れ替わる。

 そう、本当に、入れ替えられてしまうのだ。

 このまま、何もせずに呑まれてしまえば、“天音”という名前だけが、あの少女の顔と一緒に“続いて”いってしまう。


 今、ここで、自分を取り戻さなければ――


 「やだ……やだ……っ」


 金縛りの中で、喉が軋むように叫びを漏らした。


 「かえしてよ……! それは……わたしの、名前なんだから……!!」


 その瞬間、鏡の中の水面が、爆ぜた。


水面が砕けたのと同時に、視界が真っ白になった。


 意識が戻る。

 金縛りは解けていた。

 けれど、胸の奥にはまだ“誰かの残滓”がへばりついていた。


 天音は飛び起きると、すぐにスマホを手に取った。

 画面は、午前3時47分を示している。

 不意にブルッと震え、通知がひとつ届いた。


 差出人:不明

 件名:かえして


 添付ファイル。画像のようだった。


 開くと、そこには――

 “水に濡れた校舎の廊下”の画像が映っていた。


 どこかで見覚えのある、教室前の廊下。

 そしてその奥。写真の中央、黒く濡れた人影がぼやけて写っている。


 顔は見えない。

 けれど、それが“自分自身”であると、天音には直感できた。


 (これ……あたし、なの……?)


 自分の知らない時間。知らない場所。知らない動き。


 まるで、もう一人の“わたし”が、天音の知らぬ間にどこかで動いているような――そんな不気味な感覚。


 再び、メッセージが届いた。


 件名:アマネ

 本文:もう、すぐ、かわる


 震える指先でスマホを閉じ、天音は部屋の隅に追いやった。


 このままでは、“自分という存在”が誰かに奪われてしまう。


 そしてその“誰か”とは、確実にあの――濡れ女だった。


(もう、逃げていられない)


 天音はゆっくりと立ち上がり、鏡台の前へ歩いた。

 小さな卓上鏡に映った自分の顔。

 ――なのに、それが“自分”であると信じられなかった。


 「わたし……わたしは、誰?」


 唇がそう動いた瞬間、鏡の中の“自分”がぴくりと笑った。

 わずかに、ほんのわずかに、頬の端が吊り上がる。


 天音の顔は、動いていないのに。


 「……っ!」


 思わず後ずさった。足がもつれ、ベッドの角に倒れ込む。


 しかし視線は、鏡から離せなかった。

 その中の“天音”は、にたりと笑ったまま動かない。


 “自分の顔をした、誰か”。

 それが鏡の中から、こちらを見ていた。


 スマホがまた震える。

 今度のメッセージには、本文がなかった。


 添付された動画。再生してしまったのは、衝動だった。


 映っていたのは、体育館の裏。

 雨の音。暗い画面。

 ゆっくりと画角が揺れ、“撮影者”が移動していることがわかる。


 そして、カメラがふと止まり――そこにいたのは。


 制服を着た天音自身。濡れた髪で、無表情に空を見上げていた。


 動画の最後、“それ”が、カメラに気づいたように振り返る。

 目が、合った。


 その瞬間、画面が真っ黒になった。


 スマホの電源が切れていた。


 天音は、自分の心臓が凍りつく音を聞いた気がした。


 ――もう、時間がない。


放課後。

 誰もいない教室で、天音はぼんやりと黒板を見つめていた。


 その黒板の左端、誰が書いたのかもわからないチョークの走り書き。

 白くかすれた、その文字は――


 「記してはならぬ」


 何度目かの読み返しで、ようやくその意味が身体に染みてきた。


 (記してはいけない。なのに、誰かが“記した”から、わたしは見てしまった……)


 それは、まるで呪文のように、読み上げた者の記憶に染み込む言葉。

 その言葉を見た瞬間から、天音の中の何かが確かに壊れはじめていた。


 放課後の校舎は、いつもより早く、静まり返っていた。

 部活動の掛け声も、下校のざわめきも聞こえない。

 耳に届くのは、自分の呼吸と、制服の裾が擦れる音だけ。


 そして、その背後――


 ぴちゃり、ぴちゃり、と濡れた足音。


 誰かが、床を濡らしながら歩いてくる音。


 「……来てる……」


 呟いた自分の声が、まるで他人のもののように感じられた。


 教室の窓の外は、どこまでも灰色。

 曇り空の向こうに、ひそやかな雨の気配が漂っていた。


 その瞬間、廊下のドアのガラスに――人影が映った。


 濡れた髪。白く濁った瞳。

 窓越しのその顔が、ゆっくりとこちらを見ている。


 目が、合った。


 その瞬間、天音の身体が硬直した。

 凍りついたように動けない。

 目だけが、その姿を捉えたまま逸らせない。


 ――廊下の向こう側、ドアのすりガラス越しに立つ“それ”は、確かにこちらを見ていた。


 輪郭は曖昧。

 けれど、形は間違いなく“人間”だった。


 ぴちゃ、ぴちゃ――


 足音が、教室の前で止まった。


 呼吸が止まりそうになる。

 耳鳴りがして、心臓の鼓動だけが大きく響く。


 ――ガラリ。


 ドアが、開いた。


 湿った風が、教室の中に吹き込む。

 その風には、雨の匂いと、泥と、鉄のような生臭さが混ざっていた。


 何かが、入ってくる。


 (来ないで――)


 心の中で叫んでも、声にはならなかった。


 自分の足が勝手に後ずさる。

 机と机の間をすり抜けるように、教室の隅へ追いやられる。


 “それ”は、教室の中央に立っていた。


 髪は濡れていた。

 顔は、見えなかった。

 でも、制服が――自分と、同じだった。


 「……アマネ……」


 声がした。


 口が動いていないのに、頭の中に直接響いてくるような声。


 濡れた“自分”が、そこに立っていた。


 「アマネ……アマネ、アマネ」


 その“影”は、口元を動かさず、ただ名前だけを繰り返す。


 まるで“天音”という音を擦り減らすように、壊れたテープレコーダーのように、何度も、何度も。


 (それ……わたし……?)


 そう思った瞬間、教室の壁に掛けられた鏡――美術の授業で使う全身鏡の中、“もうひとりの自分”が映っていた。


 そこにいたのは、確かに天音自身。

 けれど、その目は死んでいた。

 瞳孔が開ききり、感情の欠片もなく、ただ“そこにあるだけ”の顔。


 「かえして……」


 “それ”の唇が、かすかに動いた。


 「アマネ、かえして。わたしの名前、わたしの顔……あなたのは、もう、いらない……」


 その声を聞いたとき、天音はようやく理解した。


 それは、“自分の中にある”誰かではなかった。

 かつて、“誰かだったもの”が、“自分という形を借りて”この世界に戻ってきているのだと。


 (このままじゃ……わたしが、わたしじゃなくなる)


 心の底から、恐怖が湧いた。

 思わず立ち上がると、“それ”が一歩踏み出した。


 ぴちゃり。

 ぴちゃり。


 床に残された濡れた足跡。

 そのすべてが、“天音自身の足跡”と同じ形だった。


 「に……げなきゃ……!」


 天音は教室を飛び出した。

 廊下を駆け抜け、階段を下る。

 だが背後から、ぴちゃ、ぴちゃ、と確実に“それ”の足音が追ってくる。


誰もいない校舎。

 夕暮れが沈みきった放課後の廊下は、もう照明も落ちていた。


 暗がりの中、天音は全速力で階段を駆け降りる。

 だが、その背後から“ぴちゃり、ぴちゃり”という音だけが、一定の間隔で、まるで影のように追いかけてくる。


 「やだ、やだ、やだっ……!」


 息が苦しい。足がもつれる。

 けれど、止まったら終わりだという直感が全身を支配していた。


 このまま“それ”に追いつかれたら、自分は――“自分じゃなくなる”。


 (消える。消される……!)


 その瞬間、校舎の出口に誰かの影が見えた。


 「天音っ!」


 誰かの声。――紗英?


 いや、違う。

 その声は、もっと落ち着いた、少し低めの――


 「だい……ち、叔父さん……っ!」


 校門の外、パトカーの赤色灯がちらりと回る。

 夜勤帰りの通報で、たまたま立ち寄ったのか。天音の姿を見つけた大地が駆け寄ってくる。


 だが、その瞬間。


 背後から――“それ”の手が、天音の肩に触れた。


 ひやりとした感触。

 水に濡れたような、冷たい指。


 「かえして……」


 最後に聞こえたその囁きとともに、天音の意識は――暗転した。


まぶたの裏で、水音が揺れていた。

 ゆらゆらと、浅い波紋が脳の奥を撫でる。

 眠っているような、目覚めているような、どちらとも言えない中途半端な感覚。


 ――ふと、誰かの声が聞こえた。


 「……ちゃん……雨宮……聞こえますか……?」


 男の声。穏やかで、少しかすれている。

 耳の奥で反響するそれは、どこか懐かしいようで、遠くぼやけていた。


 瞼が重く、開けようとしてもまるで水中に沈んでいるようだった。


 「だい、ち……おじさん……?」


 その名を呟いたのか、それともただ思っただけなのか。

 でも、返事はあった。ほっとしたような吐息。


 「よかった……天音、意識戻ったか」


 ゆっくりと、視界が戻ってくる。

 白い天井。病室のような無機質な光。

 窓の外では、細かい雨がまだ降り続いていた。


 天音はベッドの上に横たわっていた。

 制服は乾いたパジャマに替えられており、点滴が腕に刺さっている。


 その傍らに、大地の姿があった。


 「あたし……なに、が……」


 口を開いた瞬間、喉の奥がざらついて声がかすれた。

 大地が小さく苦笑しながら、ペットボトルの水を差し出してくれる。


 「脱水と過呼吸。あと、極度のストレス状態だってさ。……急に学校で倒れたらしいな。部活の子が保健室に運んだって」


 「そっか……」


 ベッドの背を少し起こしながら、水を一口。

 喉を潤したことで、少しだけ実感が戻ってきた。


 けれど――


 (わたしは……なにから、逃げてたんだっけ?)


 そう思った途端、胸がずきりと疼いた。


(……追いかけられてた。確かに、“それ”が、いた)


 あの濡れた足音。

 名前を繰り返す声。

 鏡の中の、もう一人の自分。


 どれもこれも、夢のようにぼやけていて、けれど現実の痛みだけが身体に残っている。


 「天音、何か……見たのか?」


 不意に、叔父の声が優しく問いかける。

 だが天音は、小さく首を横に振った。


 「わかんない……でも、怖かった。すごく……怖かった……」


 震える声で答えると、大地はそれ以上は何も言わなかった。

 代わりにそっと天音の頭に手を置いて、撫でるように髪を整えた。


 「無理に思い出さなくていい。今は、ちゃんと休め」


 「うん……」


 返事をしたその声が、少しだけ“他人事”に聞こえた。

 自分の声のようで、自分じゃない気がする。

 名前を呼ばれても、返事をする自信がなくなるほどに。


 (わたし……ほんとに、雨宮天音、だよね……?)


 それは、確信ではなく“願い”だった。


 けれど、ベッド脇のテーブルに置かれたスマホがまた震えた。


 表示された通知は――


 差出人:非表示

 本文:アマネハ、ワタシ。


 天音は思わずスマホを伏せて、毛布を引き寄せた。


 消えない。

 まだ“それ”は、自分の中にいる。


 その夜、天音は何度も目を覚ました。


 病室の明かりは落とされていたが、ナースステーションの照明が廊下越しに微かに差し込んでいる。


 しかし、眠りの底から這い上がるたびに、誰かが耳元で名を呼ぶ声がした。


 「アマネ」

 「アマネ」

 「アマネ――」


 枕元には誰もいない。

 けれど、声だけははっきりと、耳の奥に刻まれていた。


 思わず身体を起こそうとしたそのとき。


 ――ベッドの足元で、水音が鳴った。


 ぴちゃ。


 びくりと肩が跳ねる。

 声にならない悲鳴が喉で詰まった。


 (……いない……よね……?)


 恐る恐る足元を見る。

 カーテンの隙間から、病室の床が薄く見える。


 そこに、濡れた足跡が一つ――残っていた。


 「……っ……!」


 再び毛布を頭まで引き寄せる。

 震える指がスマホを握りしめる。


 画面は真っ暗。

 だけど、ほんの一瞬だけ“自撮りカメラ”のインカメラが反射して――


 天音の背後に、誰かが立っていた。


 画面の向こう。うっすらと、水に濡れた黒髪。


 その顔は、鏡のように“天音と同じ形”をしていた。


その夜、眠ることはできなかった。

 目を閉じても、浮かぶのはあの“もうひとりの天音”の顔。

 気配。呼吸。まばたき。すべてが自分と同じでありながら、自分ではない“何か”。


 (奪われていく……)


 そんな確信だけが、天音の胸を冷たく満たしていた。


 翌朝、カーテン越しに差し込む光は曇天の白さを帯びていた。

 窓の外では、まだ雨が降り続いている。


 「朝だよ、天音ちゃん」


 看護師が声をかける。

 だが、天音はすぐに返事をしなかった。


 「……わたし……ですか?」


 その一言に、看護師が少しだけ首を傾げる。


 「……そうだよ? 雨宮天音ちゃん。ね?」


 ああ――そうか。

 そう呼ばれたから、わたしは“天音”なんだ。


 でも、その名前が本当に“わたしのもの”かどうか、もう分からない。


 スマホを見た。

 通知はなかった。

 けれど、ロック画面に映る自分の顔が――誰かの顔に見えた。


 “わたしは、本当に雨宮天音なのか?”


 病室の鏡に目をやる。

 映るのは自分。けれど、瞳の奥に揺れるのは――もう一人の意志。


 かすかに、笑ったような気がした。


病院の敷地から学校までは、歩いて二十分ほど。


 回復したとはいえ、本調子ではない身体にその距離は少しこたえる。

 だが天音はどうしても――“自分がまだここにいる”という確かな実感がほしくて、病院を抜け出した。


 リュックには、制服を入れていた。

 まだ誰にも許可を取っていない登校。

 けれど、あの白い天井の下にいるより、よほど現実味がある気がした。


 足元で水たまりが揺れる。

 雨はあがっていたが、地面は濡れていた。


 (わたしは……ちゃんと、自分を思い出せてる……よね?)


 そう自分に言い聞かせながら歩いていると、校舎の裏手、体育館の陰に人影が見えた。


 スカート。制服。

 髪の長い女子生徒。

 背を向けているが、どこか見覚えがあるような――


 「……紗英……?」


 その名を口にした瞬間。

 少女がこちらを振り返る。


 でも、違った。


 顔が、見えない。

 髪が濡れて張り付いて、輪郭がまるで水墨画のように滲んでいた。


 (……まただ)


 背筋に冷たい汗が流れる。


 振り返った“それ”は、ゆっくりと片腕を上げた。


 まるで、天音に向かって“指を差す”ように。


 そして――口が動いた。


 「アマネ」


指を差された瞬間、天音の全身がびくりと硬直する。


 呼吸が止まる。

 鼓動が、喉の奥で跳ね上がった。


 (また……来た……)


 あの声。あの呼び方。

 同じ名前を、同じ声で、何度も繰り返す。


 「アマネ」

 「アマネ」

 「アマネ――」


 “それ”は動かない。ただ声だけが、頭の中で反響する。


 音量は変わらないのに、鼓膜を内側から叩きつけるような圧迫感。

 “呼ばれる”たびに、身体の内側が少しずつ削られていくような感覚。


 (返しちゃダメ……)


 そう思っても、口が勝手に動きそうになる。

 “アマネ”という音が、自分の意志とは関係なく唇を形作ろうとする。


 「っ……!」


 天音は自分の口元を手で押さえ、思い切って後ずさった。


 “それ”は追ってこない。

 ただ、ずっとこちらを指さしたまま、じっと立ち尽くしている。


 (なんで……わたしを、呼ぶの……?)


 “名を呼ばれる”ことが、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。


 名前とは、自分を形作る“輪郭”。

 それを誰かに繰り返しなぞられるたびに、自分の存在が誰かに“上書き”されていくような気がした。


 「わたしは……わたし、だもん……!」


 そう叫んだ瞬間、“それ”の口元が微かに笑ったように見えた。


“それ”の口元が動く。


 だが、今度は何も聞こえなかった。

 音が、まるごと消えていた。

 まるで映像だけが残り、音声が切り離されたビデオのように。


 口の動きだけが、ゆっくりと反復されている。

 それは、何度も何度も――


 アマネ。


 天音はその唇の動きを、読み取ってしまった瞬間、全身に鳥肌が走った。


 (あれは……わたしの声じゃない。なのに、あれは“わたし”の名を使ってる……)


 “奪われてる”。

 そんな直感が、はっきりと胸に芽生える。


 名前を繰り返されるたび、自分という枠組みが少しずつ壊れていく。

 もうすぐ、“自分”が“自分”でなくなるという感覚。


 (このままだと、“天音”が“わたし”じゃなくなる――)


 天音は叫んだ。


 「やめてッ! ……呼ばないで……っ!!」


 その声に、空気が割れた。


 “それ”の姿が、わずかにぶれた。

 霧のように輪郭が揺らぎ、一瞬、顔がぐしゃりと崩れる。


 けれど、すぐに戻った。


 今度は、足音とともに、一歩。

 また一歩。こちらへと近づいてくる。


 “それ”の足跡が、ぴちゃり、と音を立てて濡れた地面に刻まれる。


 「かえして――」


 声が戻ってきた。


 「かえして……アマネ。わたしの、名前。わたしの、顔。わたしの、記憶……」


 「……かえして」


 “それ”はもう、目前にまで来ていた。

 手を伸ばせば触れられそうな距離。

 けれど、天音は一歩も動けなかった。


 雨に濡れたその顔。

 その髪。その制服。


 全部が“自分”とそっくりで――でも、絶対に“わたし”ではなかった。


 「やだ……わたしは、わたしのままでいたい……!」


 震える声で吐き出すように叫ぶ。

 目の前の“それ”が、ぴたりと動きを止めた。


 まるで、その言葉に何かを思い出したように。

 いや、たぶん――“何かを失った”ように。


 そして、“それ”の瞳が、ふと揺れた。

 水面に落ちた雫のように。

 わずかに、震えた。


 「……アマ……ネ……?」


 声が、ほんの少しだけ変わった。

 憎しみでも、怨念でもない。

 それは、まるで“迷子の子ども”が自分の名前を思い出そうとするような、弱々しい音。


 天音は、ふらりと後ずさった。

 そして、振り返って全力で走り出した。


 逃げなきゃ。

 戻らなきゃ。

 “わたし”を取り戻すために。


 後ろから、“それ”の足音はしなかった。

 けれど、空に浮かんだ雲の向こうで、誰かが小さく囁いたような気がした。


 「……わたし、だれだった?」


次に足を踏み入れた瞬間、天音は教室の空気が“変わっている”ことに気づいた。


 黒板には、何も書かれていなかった。

 日直の名前も、授業の予定も。

 クラスの掲示物や進捗表も、いつの間にか外されている。


 窓際の机に近づくと、そこに座っていたはずの生徒の名前が消えていた。

 席札の裏には、何も書かれていない。


 (どうして……)


 ふと、周囲を見渡す。

 教室には誰もいない。

 昼休みのはずなのに、人気のない空間。


 いや、“人気”がないというより、“存在が消されている”ような違和感。


 自分がここにいることすら、まるで許されていないような――そんな孤立感。


 教室の隅。

 自分の席に近づくと、そこに貼られていた名札も、文字がにじんでいた。


 “雨宮天音”という名前が、滲んで、剥がれかけている。


 (わたし……ここに、いたはずだよね)


 誰にともなく呟いた。


 すると――


 後ろの席から、声がした。


 「そこ、もう空席だよ。誰も座ってないし、前からずっとそうだったじゃん」


 天音は、振り返った。


 そこにいたのは、紗英だった。

 けれど、どこか表情がぼやけていた。

 親しい友達だったはずの彼女の顔が、まるで知っているようで知らない他人のように、遠かった。


 「紗英……? なに、言って……。ここ、わたしの席……だよね?」


 問いかけると、紗英はきょとんとした顔で首を傾げた。

 まるで“天音”という名前を聞いたことがないかのように。


 「……えっと、ごめん。誰、だったっけ?」


 その言葉に、心臓がぎゅっと縮こまる。

 寒気が背中を這い上がり、口元が勝手に震え出す。


 「うそ……でしょ。あたし、天音だよ。雨宮天音。わたしたち、一緒に帰ったり――練習も……」


 「うーん、ごめんね。わたし、その名前知らないなぁ……」


 紗英はにこりと笑った。

 その笑顔に、温度がなかった。

 皮膚の上にだけ浮かぶ、表情だけの“作り物”みたいな笑顔。


 (わたしのこと、忘れてる……?)


 いや、“忘れている”というより――**“最初から存在しなかった”**とでも言いたげな態度。


 (違う……違う……)


 天音は席の前に立ち尽くしたまま、名札をじっと見つめた。


 そこには、もう名前は残っていなかった。

 紙がふやけて剥がれ、乾いた跡が机に染みついているだけ。


 (このままだと、ほんとうに――わたしが消える)


 膝が震える。

 視界がにじむ。

 天音は自分の手をぎゅっと握りしめた。


 「わたしは、いる。ここにいる。忘れられてなんか、ない――!」


 でも、誰も振り返らなかった。

 クラスメイトたちは皆、天音がいないかのように会話を続けていた。


 そして――その中のひとりが、ぽつりと呟いた。


 「……そういえば、あの席……前に誰かいたっけ?」


 「いや、たしか……いなかったと思うけど」


 「え、でもなんか……誰か、いたような……気が……?」


 クラスメイトたちの会話が、ざわざわと空中に浮かぶ。

 その声のどれもが、曖昧で、靄がかかったように輪郭を持たない。


 天音は、教室の隅に逃げるように移動した。

 誰とも視線を合わせたくなかった。


 (わたしが、ここにいた記憶すら……消されてる……)


 自分が、世界から剥がされていく感覚。


 名前を呼ばれ、顔を奪われ、居場所を失い――今は、存在そのものが薄れていく。


 (これが……“濡れ女”になるってこと……?)


 心の奥底で、そう理解してしまった。


 かつて誰かがなった“それ”。

 存在を塗りつぶされ、名を奪われ、孤独の中で形を失っていったもの。


 その末路に、自分がなぞられていく。


 「わたしは……雨宮天音、だよ……」


 呟いても、それは自分の耳にしか届かない。


 そのとき。

 教室の窓の外――空に差し込む光の中に、もうひとつの影が浮かんでいた。


 濡れた制服。水に垂れた髪。

 教室の外の廊下を、音もなく通り過ぎていく“影”。


 (また、来た――)


 でも、違った。


 その“影”は、天音を指ささなかった。

 ただ、すれ違いざまに、顔をこちらへ向け――にやりと笑った。


 その笑顔に、“天音自身”の顔が重なった瞬間。


 天音の膝が崩れ、がくりと床に座り込んだ。


机の脚の冷たさが、制服越しにじわりと肌へ染みた。

 視界は滲み、耳鳴りがして、世界から音が抜け落ちていく。


 ただ、心臓の鼓動だけが、自分が“まだいる”ことを必死に訴えていた。


 「わたし……、わたしは……」


 震える声は、もう誰にも届かない。

 名を呼ぶ者も、応える者もいない。


 足元に、しずくが落ちる。


 それが涙か、天井からの水滴か、自分の内側から漏れ出した何かか――もう分からない。


 「アマネ」


 その声が、教室のどこからか聞こえた。


 ぴたりと、天音は動きを止めた。


 「アマネ、アマネ、アマネ……」


 黒板に。

 机に。

 窓ガラスに。

 天井に。

 ――そして、教室中の壁に、“その名前”が浮かび上がる。


 雨に滲んだような字で、何度も、何度も。


 「アマネ」


 そのとき天音は、はっきりと感じた。


 これは、誰かが“自分を取り戻そうとしている”のではない。

 誰かが、自分の名を奪い取ろうとしている。


 名前が消える。

 居場所が消える。

 記憶が塗りつぶされる。


 そして――“わたしじゃない誰か”が、“わたしになろうとしている”。


 「……来ないで」


 天音は、両手で耳を塞ぎ、膝を抱えた。


 「やめて……わたしは、わたしなの……お願い……やめて……っ」


 だが、空気は止まず、雨は静かに――教室の天井から降っていた。


教室の天井から降る雨は、誰にも気づかれなかった。


 天音の頭上だけに、静かに、絶え間なく。

 まるで、彼女という存在を“水の中”に閉じ込めようとしているかのように。


 (このままだと、わたし――)


 言葉にするのが、怖かった。

 “消える”とか、“終わる”とか、そんな生やさしいものじゃない。

 もっと根深く、もっと静かで、もっと残酷な――


 “誰かに、自分を上書きされていく”という感覚。


 誰にも気づかれず、知らぬ間に“わたし”が他人の中にすり替えられる。

 それがどれほど恐ろしいことか、ようやく実感として理解できた。


 (わたしの名前、顔、声……全部、もう一人の“わたし”が奪おうとしてる)


 膝を抱えて縮こまる。

 心の奥底が、じわじわと凍っていくような感覚。


 「……助けてよ……だれか……」


 その声に応えるものはなかった。

 窓の外には、灰色の空と、滲んだ校庭が広がっている。


 そのとき――ふと、ポケットの中のスマホが震えた。


 天音は反射的に取り出した。

 画面には、またしても“非表示”の通知。


 【差出人不明】

 本文:――わたし、だよ。


 (もう、やめて……)


 そう思った瞬間、画面が勝手に切り替わった。


 フロントカメラの映像。

 そこに映っていたのは、天音の顔――ではなかった。


 自分と“同じ顔”の、誰か。


 濡れた髪。濁った瞳。

 表情はなく、ただ、こちらをじっと見ている。


 そして――その“顔”が、笑った。


笑った“それ”の顔に、天音は反射的にスマホを落とした。


 床にぶつかった画面はひび割れ、カメラの像は歪んで消える。

 けれど、その直後――


 「アマネ……」


 耳元で、声がした。

 すぐそばで。すぐ背後で。


 首筋にぬるりとした感触を感じ。天音の意識はそこで終わった。


 雨の降る夕方。何をしようとしていたのか、自分は誰だったか、ぼんやりと考えながら佇む。

 少し離れたところで声がした。

 「なぁ、あの人・・・なんかおかしくね?」






 キヅイタ



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