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第8章「忘れ物は、だれのもの」

放課後の昇降口には、すでに人の気配がほとんどなかった。


 外は静かに雨が降り始めていた。さほど強くはないが、傘がなければすぐに濡れてしまう程度のしとしととした雨。まるで、音もなく人を包み込むような、優しげでいてどこか不気味な湿り気を纏っている。


 「……また雨か」


 天音はぼそりと呟いた。


 下校しようと靴を履こうとしたそのとき、ふと、視界の端に“違和感”が浮かんだ。


 昇降口の端。陸上部専用のシューズロッカー。整然と並ぶ扉のうち、ひとつだけが半開きになっていた。


 (閉め忘れ……?)


 いや、そうではない。


 天音は知っている。ロッカーの鍵は自動で閉まる構造になっており、一定の角度まで開いたままになることはない。きちんと閉めなければ、ばたんと勢いよく締まるように設計されている。


 (誰かが……わざと?)


 じわりと背中が冷たくなる。湿気のせいじゃない。確かに感じる、“なにかが触れている”感覚。


 見なければいい。そう思うのに、視線は勝手に引き寄せられていく。開いた扉の向こうにある“闇”が、まるでこちらを呼んでいるように見えた。


 (だめだ。こんなの、ただの偶然で……)


 ――いや。


 “もう、偶然だなんて思えない”。


 そんなふうに、心のどこかが呟いていた。


 ゆっくりと歩を進め、ロッカーの前に立つ。扉は開いたまま、かすかに揺れている。誰かが触った直後かのように。


 (中、なにがあるの……?)


 扉の端に手をかけ、そっと開いた。


 ――ぶわり。


 鼻を突いたのは、生乾きのような、濡れた布の匂いだった。


 その中に、見慣れた陸上シューズがあった。だが、それは“天音のもの”ではない。サイズが違う。形も違う。しかも、ぐっしょりと濡れていた。


 水がしたたり落ちている。ぽた、ぽた、と。どこから流れたのかもわからないほどに、靴の内側まで水が溜まり、そこに誰かの“体温”すら残っているようだった。


 (誰の……?)


 見覚えは、ない。


 けれど、どうしてだろう――“懐かしい”とさえ、感じてしまった。


 その靴の濡れ具合に不自然さを感じながらも、天音は目を逸らせなかった。靴の中でたぷたぷと揺れる水音が、耳元に直接響いてくるような気がした。


 (ここ、濡れてないのに……どうしてこんなに……)


 周囲の床は乾いている。なのに、その靴だけが異常なほどに濡れていた。まるで水中から引き上げられたばかりのように。


 「……っ」


 ふいに、靴の下に何かが見えた。白い、紙切れのようなもの。天音は躊躇いながらも指先でそれを引き出す。


 濡れて、にじんだ文字。


 けれど、そこに書かれていた言葉は、ただ一行だけだった。


 『わすれもの、あずかってます』


 (……誰が?)


 天音は一瞬、誰かの悪戯かと思った。けれど、心臓の奥がぬるりと冷たくなる。冗談で済ませてはいけない。直感がそう訴えていた。


 視界の端。反射的に見てしまった――鏡面のように光る窓のガラス。


 そこに、“自分”が映っていた。


 ……いや、“自分じゃない”。


 顔の輪郭も、制服も、自分と同じはずなのに――なぜか、違って見えた。


 “それ”は微笑んでいた。かすかに、ほんのわずかに。

 迎えに来た者のように。


 「……っ!」


 天音はロッカーの扉を一気に閉じた。


 パタン、と響く音。


 その音を合図にしたかのように、校内のどこかで――水を踏む音が鳴った。


 ぴちゃ。


 また、ぴちゃ。


 それは決して遠くなかった。昇降口のすぐ先。階段の向こう、廊下の奥。


 “誰かが、戻ってきた”。


 靴音のようでいて、まるで裸足が濡れた床を歩くような音。


 ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。


 天音の呼吸が速くなる。鼓動が耳を塞ぐ。出口は、目の前。けれど、動けない。足が、凍ったみたいに動かない。


 (こっちに来る……)


 はっきりとそう思った。誰かが、確実にこのロッカーの前まで来ようとしている。


 「だれ……なの……?」


 震える声でそう呟いた。


 だが、返事はなかった。


 あるのは、ただ――静かに、音を刻む濡れた足音だけ。


その夜、天音は夢を見た。


 まるで水の中に沈んだような、静かな世界だった。色がない。音も、匂いも、温度すらも存在しない。ただ、濡れた感触だけが天音の身体を包んでいた。


 暗い。


 でも、何も見えないわけではない。


 ぼんやりとした光が、頭上から差し込んでいる。そこは、水面のようだった。指を伸ばせば届きそうな距離――なのに、届かない。天音の手は重く、動きは緩慢で、自分の体が自分のものではないような感覚だった。


 (ここ……どこ……?)


 言葉は泡のように口から漏れるだけで、音にはならなかった。


 水中にいるという感覚。けれど息苦しくはない。代わりに、胸の奥がじわじわと濡れていくような、不可解な不快感だけが広がっていた。


 ――ぴちゃ。


 微かに、水を踏む音が聞こえた。


 この場所で、音が?

 そう思った瞬間、背筋を冷たい何かが撫でた。


 (誰か、いる……)


 振り返ろうとして、動かない身体に歯がゆさを覚える。動けないのではない。動きたくないのだ。


 何かが、すぐ背後にいる。確信に近い感覚があった。背中を伝ってゆっくりと水が這い登るような、ぞわぞわとした気配。


 「……かえして」


 声がした。


 女の子の声。掠れて、濡れて、淀んでいて、どこか哀しげだった。


 「……わたしの……もの、かえして」


 (……なにを……?)


 天音は声にならないまま、心の中で問いかけた。


 その瞬間、視界が一変した。


 水が引いていく。


 周囲の空間が急速に変化し、目の前に広がったのは――学校の昇降口だった。


 昇降口の光景は、どこか“偽物めいて”いた。


 夕焼けのような色に染まるガラス。けれど窓の外に見える風景は、一面の水――まるで学校ごと、湖の底に沈んだかのような錯覚。ガラス越しに見える外の空間には、空も地面もなかった。ただ、ゆらゆらと揺れる水の色だけがあった。


 (これは……夢?)


 そう思いたかった。だが、目の前に立っている“自分”を見て、息を呑んだ。


 ロッカーの前に、制服姿の少女が立っていた。


 それは間違いなく、自分自身だった。


 髪型も、体格も、身に着けている制服も、自分と全く同じ。


 なのに――その顔が、見えなかった。


 まるで黒い靄のようなものに覆われていて、目も鼻も口も、輪郭すら曖昧なまま、ただの“影”のようにそこに立っていた。


 (わたし……? 違う……なに、これ……)


 “それ”がこちらに気づく。


 顔のない自分が、ゆっくりとロッカーの扉を開ける。


 ギィ、と乾いた音。


 その中にあったのは、ぐっしょりと濡れたシューズ。先ほど天音が見たのと同じものだ。水を吸って重たくなった靴が、ゆっくりと引き出される。


 ――ぽた、ぽた。


 ロッカーの下から水があふれ出し、床を這い始める。


 水はまっすぐに、天音の足元に向かって流れてくる。ぞくり、と背筋が粟立つ。逃げなければと思うのに、足が動かない。


 そして、その“もう一人の自分”が、ぬるりと顔を上げた。


 靄の中に、瞳だけが浮かび上がっていた。


 黒く、深く、空洞のように暗い目。


 その目が、天音を真っ直ぐに見ていた。


 「……かえしてよ」


 “それ”はそう言った。


 その声は、最初に聞いた少女の声と重なっていた。どこかで聞いたことのある、懐かしいような、でも、ひどく冷たい声だった。


 「……かえして」


 その言葉が空間に滲むように響いた瞬間、足元から湧き上がった水が天音の膝まで達した。


 冷たい。


 いや、冷たいだけじゃない。吸い込まれるような感触だった。


 水はただ濡らすだけでなく、身体の内側へ入り込もうとする。皮膚を通り越し、骨の中へ、思考の隙間へ――“わたし”の輪郭を溶かして、別の“なにか”に書き換えようとしてくる。


 (いや……やだ……!)


 天音は叫ぼうとした。けれど、口が開かない。声にならない。代わりに、涙が一筋、頬を伝った。


 “それ”は、微笑んだ。口元がゆっくりと吊り上がる。


 それは歪んでいて、悲しげで、それでもどこか――嬉しそうだった。


 (なんで……わたしにそんな顔を……)


 「ずっと、探してたのに」


 また、声が響く。まるで天音の頭の中で、誰かが直接語りかけているかのようだった。


 「わたしのもの、ぜんぶ、取ったくせに……」


 “それ”が一歩、こちらへとにじり寄る。水が跳ね、波紋が足元から体中へと広がっていく。


 「名前も、制服も、席も、みんな……わたしのだったのに」


 (なに……言ってるの……?)


 わけがわからなかった。けれど、身体は知っているかのように震えていた。


 “これはただの夢なんかじゃない”。


 そう確信できる何かがあった。目の前の“それ”――顔のない自分が、自分でない“誰か”であることを、そしてその“誰か”が、天音に“怒っている”ことを。


 「だから、返して」


 次の瞬間、水面が弾けた。


 “それ”が、腕を伸ばした。


白く細い腕が、まっすぐに天音の胸元へと迫ってくる。


 濡れた袖口からぽたぽたと水が滴り落ち、空間そのものがにじんだ。現実なのか夢なのか、その境界が崩れていく。見えない膜が破れるような音が耳の奥で響いた。


 (逃げなきゃ……!)


 動け。心の中で叫んだ。足に力を込める。重い。水に浸された身体は、思うように動かない。それでも天音は、わずかに体を後ろへ引いた。


 “それ”の指先が、あと少しで触れる。


 だがそのとき。


 ――カタン、と金属の落ちる音が響いた。


 場面が、瞬時に変わる。


 気づくと、天音は見知らぬ場所に立っていた。廃屋のような、ひどく薄暗い和室。雨が染み込んだ障子、朽ちかけた畳、天井からぽつぽつと落ちる水音。


 (ここ……どこ……?)


 足元には、濡れた学生鞄が転がっていた。


 見覚えがある――いや、“あるような気がする”。


 震える手で鞄の留め具に触れると、するりと開いた。中にはノートが入っていた。どこかで見た字。筆跡。表紙に、にじんだ名前。


 『雨宮 天音』


 だが――それは、天音の書いた字ではなかった。


 (……これ……私のじゃ……)


 記憶がぐらりと揺れる。


 誰かが、天音の名前を使っていた?

 あるいは、天音が“誰かの名前を奪っていた”?


 境界線が崩れていく。


 「わたしの、だったのに」


 背後から、ささやく声。


 「かえして、わたしの名前……」


 天音は振り向けなかった。


 怖かったわけじゃない。いや、もちろん怖かった。だけど、それ以上に――


 振り向いたら“自分が崩れてしまう”。そんな予感があった。


 名前を呼ばれるたび、声に触れられるたびに、内側の何かが削がれていくような気がしていた。“天音”という存在が、だんだんと薄くなっていく。


 まるで、自分が“借り物”のような感覚。


 (違う、私は……)


 天音はぎゅっとノートを胸に抱きしめた。その湿った紙束が、自分の体温を奪っていく。けれど、離したくなかった。


 なぜなら、そこに“何か大切な記憶”が眠っている気がしたから。


 ――カラリ。


 襖が勝手に開いた。


 向こうの廊下は、真っ暗だった。湿った木の香り。遠くから、かすかに水音。


 ぴちゃり。


 ぴちゃり。


 (また来る……)


 天音は無意識に後退りした。足元の畳がぐしゃりと音を立て、さらに水が滲み出す。


 「……かえして」


 声がすぐ耳元に届く。


 振り返らずとも、わかった。そこにいる。すぐ後ろに、“濡れ女”が。


 冷たい指先が、天音の肩に触れた。


 その瞬間――


 天音は飛び起きた。


 「――っはあっ!」


 激しく息を吐きながら、天井を仰ぐ。


 見慣れた自室。机、カーテン、ベッドのシーツ。全てが現実の色をしている。


 けれど。


 手に握っていたはずのノートは――


 濡れていた。


 重く、冷たく、しっとりと。


 次の日の朝。


 目覚まし時計のベルが鳴り響く中、天音はしばらく動けなかった。まるで夢の続きをまだどこかで見ているように、体中がずっしりと重い。体温は平熱。だが、手足の先まで水に浸かったような違和感が残っていた。


 (……夢じゃ、なかったんだ)


 握りしめていたノートは、枕元でしっとりとしたままだった。乾いたページと濡れたページがまだらに重なり、昨夜の“あの場所”の匂いが、微かに染み込んでいるように思えた。


 「名前……返して、って……」


 誰が? どうして? どうすればいいの?


 答えはどこにもなかった。


 天音は仕方なく、ノートをタオルで包み、ランドセルの奥に押し込んだ。


 母は今日も早番で既に家を出ていた。食卓にはサンドイッチと冷たい麦茶。そして、いつも通りの「いってらっしゃい」のメモだけが残されていた。


 何もかもが“普段通り”なのに、天音の中ではすでに日常の輪郭が崩れていた。


 学校は相変わらず、うるさいほどに“平和”だった。


 靴を履き替え、教室に向かい、机にカバンを置く。黒板には今日の時間割、窓の外には雨雲の切れ間から差す朝の光。


 でも、どこかおかしい。


 何が? どうして? その感覚の正体に、天音はしばらく気づけなかった。


 1時間目が終わり、2時間目が始まり――教室のざわつきの中で、ふとその“違和感”が名前を持って天音に突き刺さった。


 (澪……が、いない)


 いつもなら静かにノートを取っていた、あの席。早川澪の席。そこが、空っぽだった。


 (……風邪、かな?)


 小さくそう思ったが、どこか納得がいかなかった。澪は無断欠席をするようなタイプじゃない。部活も勉強も律儀にこなす、真面目な子だった。


 それに――昨日、何かを感じていた。夢の中で、“澪”という名前が消えていくような、そんな気配を。


 授業が終わってすぐ、天音は廊下に出て、隣のクラスに駆け寄った。


 「ねぇ、澪ってさ、今日休み?」


 問いかけに、返ってきたのは意外な反応だった。


 「……え、誰?」


 「は?」


 「誰? 澪って」


 「ちょ、ちょっと待って。澪だよ、早川澪!」


 天音は食い下がった。声が思わず強くなる。だが、相手の女子は眉をひそめ、首を傾げるだけだった。


 「えーっと……その名前、聞いたことないなぁ……。転校生?」


 「は……? 違うよ! ずっと前から、うちのクラスに……!」


 そこまで言って、天音の背中に冷たいものが伝った。


 (……なにか、変だ)


 慌てて教室に戻り、澪の席を見つめる。黒板の前から数えて3列目、窓際の後ろから2番目。確かにそこだったはず。ノートを広げて、静かに授業を聞いていた姿が、頭の中にははっきりと残っている。


 けれど――その席には、誰の私物も置かれていなかった。


 机の上は空っぽ。椅子の背に掛けられた体操服も、足元のロッカーも、まるで“最初から誰も使っていなかった”ような静けさ。


 (うそ……そんな、はずない)


 天音は震える手で、自分のノートをめくった。授業の合間に書き込んだ、澪との会話の断片を探す。だが、そこに“澪”の名は一言も出てこなかった。


 「……記録が……消えてる……?」


 その瞬間、ぞわりと背筋に寒気が走った。


 澪のことを知っていたはずの友人たちも、先生も、誰一人として彼女の名前を覚えていない。写真も、名簿も、机の落書きすらも、まるで最初から“存在しなかった”かのように消えていた。


 でも、天音だけは覚えている。


 何度も話して、笑って、一緒に走って。


 (なのに……どうして、わたしだけ……?)


昼休みになっても、天音の胸のざわつきは消えなかった。


 何かがおかしい――では済まされない。

 澪は“いた”。それは確かだった。つい数日前まで、天音の目の前で、ちゃんと生きていた。存在していた。けれど、彼女の足跡だけが、この教室から、世界から――消えている。


 誰かのいた痕跡が、音もなく“拭い去られる”という恐怖。


 それは、天音がいま最も怯えている“あの存在”と同じだった。


 (もしかして……)


 心の奥で何かが繋がった気がした。


 (澪も、あの“濡れ女”に……?)


 そう考えた瞬間、胸が締めつけられた。冷たい水の中に心臓だけ沈められたみたいに、息がしづらくなる。


 (わたしのせい?)


 あの時、澪は何かに気づいていた。天音の異変に気づいて、何かを探ろうとしていた。夢の中で、どこかで、澪は囁いていた気がする。


 ――「返して、って言ってたよね……」


 澪の声だったか、別の誰かの声だったかは、もう曖昧だ。


 「……助けようとしてくれてたんだ、私のこと……」


 震える声でそう呟いたとき、窓の外で雲が切れ、雨が急に降り始めた。


 誰かが気づかぬうちに、昇降口の傘立てに傘を差しに戻る気配があった。ぴしゃり、と廊下の床に跳ねる音。水滴が濡れた靴からぽとぽとと落ちる。


 (……また、始まった)


 そんな気がした。


 天音は、自分の席に座りながら――誰も知らない“澪”の名前を、そっと胸の奥で唱えた。


 「忘れないよ……絶対」


 けれどそれが、どこまで届くのかは、わからなかった。


 午後の授業が始まってしばらく、天音は教室のざわつきの中で、ひときわ強くなっていく“違和感”に気づいていた。


 誰かがいる。


 視線を感じる。呼吸の気配が、背中越しにぬるりと貼りついてくる。だけど振り返っても誰もいない。教室は平然としていた。先生の声、ノートを取る音、紙をめくる音――いつも通りの放課後前。


 だけど。


 (この視線、知ってる……)


 それは澪が消えた日と同じだった。もっと言えば、あのロッカーを見つけた日から、ずっと――


 黒板の前に立つ教師の背後に、不意に何かが映った。


 “影”。


 ただの影ではない。人影のようなもの。黒板の反射に、黒く濁った輪郭が浮かんだのだ。形は人間に近いのに、まるで水の中で滲んだ墨のように境界が曖昧で、揺れていた。


 誰も気づいていない。教師も、生徒たちも。


 黒板の下にあるチョーク置き場に、その“影”は手を伸ばした。


 天音は目を疑った。


 “それ”が、何かをつかみ取るように手を伸ばし、そして――チョークが実際に動いた。


 カラリ、と音がして、一本の白いチョークが床に転がった。


 天音以外、誰も反応しない。


 先生は話し続けている。隣の席の生徒も、まばたきすらしない。


 (見えてないんだ……)


 ただひとり、天音だけがその“輪郭”を見ていた。


 影はチョークで何かを黒板に書き始める。ギィィ、と耳障りな音。けれど実際にはチョークが擦れる音など聞こえず、ただ動きだけが見える。


 書かれたものは――言葉だった。


 「つぎは、だれ?」


 ぞくり、と背筋を凍らせるような冷気が首筋をなぞる。


 天音の心拍が速くなる。


 「つぎは、だれ?」


 その言葉が黒板に書かれているのを、天音ははっきりと見ていた。けれど、教師もクラスメイトも、誰一人としてその異様な文字に反応していない。


 むしろ、黒板には別の内容――授業の板書だけが、いつも通りに並んでいた。


 (……私にしか、見えてない……)


 その事実が、何よりも怖かった。世界の中で、“ひとりだけ違う現実”を見せられているという感覚。誰もその恐怖を共有できないという孤独が、じわじわと喉元を締めつけていく。


 気づけば、影は動いていた。


 黒板の前からふらりと離れ、生徒たちの間を――音もなく、足跡すら残さず、滑るように歩いていく。


 (やめて……こっちに来ないで)


 心の中で何度も叫ぶ。


 けれど、“それ”は確実に、天音の方へ向かっていた。


 隣の席の男子の背後をすり抜け、廊下側の席を無視し、まっすぐに――天音の机の前へ。


 (お願い……見ないで)


 それでも、視線を感じた。黒く滲んだその“輪郭”の中心――顔らしき場所に浮かぶ、暗く濡れた二つの穴。


 まるで深い井戸の底のようなその“目”が、天音を見つめていた。


 「……つぎ、は」


 声は、音ではなかった。


 脳に直接響く、濡れた声。


 「あなた、なの?」


 天音は思わず椅子を軋ませて立ち上がった。教室の全員が、その音に驚いて振り返る。


 教師が眉をひそめる。


 「雨宮? どうかした?」


 「……あ、いえ……」


 天音は俯き、震える声で答えた。黒板に目を戻すと、あの“文字”はもう消えていた。


 影も、跡形なく。


 その後の授業の内容は、まったく頭に入らなかった。


 ノートを取る手が震え、ペン先が紙の上を何度も滑った。文字はかすれ、意味を成さない落書きのようになっていく。


 (つぎは、だれ?)


 黒板に書かれたあの言葉が、頭から離れなかった。


 次とは、誰の次?

 “それ”は、誰を見ていた?

 澪の後を――私が継いでいるということ?


 (私が、“次”……?)


 否定したいのに、どこかでわかっていた。

 澪がいなくなってから、天音だけが“見えてしまっている”。


 記憶も、夢も、現実も、少しずつ滲んできている。

 名前を呼ばれたときの感触。ノートの濡れた紙。夢に出てきた、もう一人の“自分”。


 (あの影……)


 思い返すたび、心のどこかに引っかかる。

 顔のない“自分”のような影。あれは、もしや――


 「雨宮、大丈夫?」


 放課後、気づけば紗英が声をかけてきていた。


 「今日、ずっとぼーっとしてたよ。疲れてる?」


 「……うん、ちょっと、ね」


 答える声もかすれていた。


 「最近、変なことばっかりでさ。……澪のこと、覚えてる?」


 何気なく尋ねてみたその言葉に、紗英は首を傾げた。


 「澪? 誰、それ?」


 まただ。昨日と同じ反応。


 (本当に、消えてる……)


 「……なんでもない」


 それ以上、聞くのが怖くなった。


 自分の記憶だけが、じわじわと孤立していく。

 “忘れられていくこと”と“覚えていること”の両方が、こんなにも恐ろしいなんて。


校門を出たとき、空はまた鈍い色に染まっていた。

 今にも降り出しそうな雲が空一面に広がり、風は湿っていた。


 (澪は、この道を一緒に帰ってた……はずだった)


 けれど、記憶の中の会話が霞んでいく。

 何を話していた? どんな顔をしていた?

 澪の声――思い出そうとすると、波のようなノイズが重なってくる。


 スマートフォンを取り出す。連絡履歴を開く。

 ――そこに「早川澪」という名前はない。


 写真フォルダにも、部活の集合写真にも。


 全てが、上書きされたように“綺麗に消されていた”。


 その夜。


 机の引き出しにしまってあったノートを取り出す。

 夢で見た、あの濡れたノート。まだ紙はしっとりとしたままだった。


 ページの隅に、見覚えのない文字が浮かんでいた。


 「つぎは、あなた――」


 にじんだインク。黒ずんだ、かすれた線。

 書いた覚えはない。でも、そこにあるのは確かだった。


 ――ピチャリ。


 部屋のどこかで、水音がした。


 振り向く。


 床に、濡れた足跡がひとつ、現れていた。


 続けざまに、もうひとつ。


 天音は声を失った。


 もう誰もいないはずの部屋の、窓のカーテンが、ひとりでに揺れた。


 夜の住宅街をひとりで歩くのは、好きじゃなかった。特に、雨上がりの日は尚更だった。濡れたアスファルトに街灯の明かりが反射して、そこかしこに濁った水たまりができる。その水面に、まるで“別の誰か”の姿が映っているような気がして、昔から苦手だった。


 けれど、今日の天音はその夜道を、帰り道を引き返していた。放課後に一度帰宅したあと、ずっと迷っていた。迷って、躊躇って、それでも確かめなければならない気がしたのだ。あの足跡、あのノートの文字、そして“澪がいた痕跡が消えている”という事実。それらの全てが、昨日までの自分の世界を侵食し始めていた。


 (もう一度、学校に行こう)


 理由はそれだけだった。何か確証があるわけでもない。ただ、あの教室に――“まだ何か”が残っている気がした。


 学び舎へと続く坂道は、夜の帳に包まれてしんと静まり返っていた。遠くで犬が鳴いていた。どこかの家の窓からテレビの音が漏れている。けれど、天音の耳には、別の音が――自分の足音の他に、もう一つの足音が、確かに聞こえていた。


 コッ……コッ……


 それは雨に濡れた靴が、アスファルトを叩くような音だった。天音の足取りに呼応するように、ほぼ同じ間隔で響くその音。後ろを振り返れば、誰もいない。誰もいないはずなのに、振り向くたびに、音は止まり、また歩き出すと響き始める。


 (……ついてきてる?)


 怖かった。でも、立ち止まることはできなかった。立ち止まれば“何かに追いつかれる”という直感があった。天音は速足になった。心臓が跳ねるように脈打つ。冷たい風が頬を撫でる。


 学校の門が見えたとき、足音は不意に止んだ。ピタリと、それまでの存在感が、まるで最初から無かったかのように消えていた。


 人気のない校門を押して入る。誰もいない。昇降口の照明は消えていて、自分の懐中電灯の明かりだけが頼りだった。持ってきた鍵を手探りで差し込み、そっと開ける。


 薄暗い校舎内に、しっとりと湿った空気が漂っていた。夜の学校は、まるで別の建物のようだった。人の声も笑い声もない。代わりに、どこかの教室のドアが風に揺れて軋む音、遠くで水が滴る音が響く。


 (なんで、わたし……こんなことしてるんだろ)


 自嘲のような思いがよぎるが、それでも天音は足を止めなかった。階段を上がる。二階の廊下はさらに薄暗く、歩くたびに床がきしんだ。教室棟の奥、突き当たりの部屋――自分たちの教室の前まで来たとき、不意に冷たい風が吹き抜けた。カーテンがゆっくりと揺れ、教室のドアがわずかに開いていた。


 開けた覚えはない。けれど、確かに開いていた。誰かが、つい先ほどまで中にいたような――そんな“生活の痕跡”のようなものが、そこには残されていた。


 天音は意を決して、扉を開いた。


ギィ、とドアの軋む音が夜の静寂に重く響いた。


 教室の中は、まるで時間が止まったように静かだった。窓の外から差し込む街灯の光が床を斜めに照らし、机と椅子の影が長く伸びている。


 だが――何かが違う。


 空気が異常に重い。冷たい水の膜に包まれているような感触。目に見えない“濡れた気配”が、部屋全体に漂っていた。


 (……いる)


 天音は確信した。何かが、ここにいる。


 教室の中央付近、窓側の席。そこに、誰かが座っていた。いや、“座っているように見える”空気の歪みがあった。まるで、そこだけ光が吸い込まれ、空間が沈んでいるような不自然な影。


 そこは――澪の席だった。


 「澪……?」


 小さく名前を呼んだ。返事はなかった。けれど、影はピクリと動いた。


 ゆっくりと立ち上がるような仕草。


 椅子が軋む音はしない。だけど、“そこにいた何か”が、確かに動いたとわかる。黒く、濡れた髪が垂れていた。顔は見えない。顔が“ない”のか、それとも見えてはいけないのか。


 (違う……澪じゃない)


 それは、もっと深く、もっと古い“何か”だった。


 気づいた瞬間、空気がねじれた。


 水の匂いが強くなる。教室の隅々から、ぽたり、ぽたりと音が響き始めた。


 (まただ……)


 夢の中と同じ。


 足元に、ひたひたと水が広がっていく。濡れていく床。揺れる影。“それ”が、こちらへと近づいてくる。


 天音は動けなかった。体が硬直している。逃げようとする本能と、目の前の現象が現実であるという事実が、脳内で衝突している。


 「かえして」


 聞こえた。


 濡れた、低く、乾ききらない声。


 「わたしの、名前を」


 “それ”の顔のない頭部が、わずかに傾いた。


 「あなたのじゃ、ないよね」


 次の瞬間、天音の足元に“影の手”が這い寄った。


 凍えるような感触だった。


 まるで深い湖の底から伸びてきたような、冷たい手が天音の足首をそっと掴んだ。軽く、しかし拒絶できない力で。強く引かれるわけではない。ただ、そこにいるという事実を否応なく突きつけてくるような、湿った存在感。


 「かえして……」


 声はもう一度響いた。けれど、もはや音ではなくなっていた。頭の奥、思考の水面に、染み入るように落ちてくる声。鼓膜を通らずに心臓を締めつける“言葉”。


 その瞬間、天音の脳裏に――また、夢のような映像が流れ込んできた。


 誰かが泣いている。冷たい床の上で、名前を呼ばれず、存在を忘れられた少女が、濡れた髪を振り乱しながら、空虚な夜を漂っていた。


 声にならない声。助けて、気づいて、呼んで、忘れないで――何度も何度も繰り返すその祈りは、やがて呪いに変わり、そして……


 “濡れ女”になった。


 名を呼ばれず、記録からも抹消され、弔われることすらなかった少女の、最期の感情。


 それが、いま――


 「……やめて……!」


 天音は叫んだ。声になったのは、やっとのことだった。


 恐怖に支配されていた身体が、ようやく自分の意志を取り戻す。


 (逃げなきゃ……!)


 天音は咄嗟に足を振り払おうとした。けれど、濡れた床が彼女のバランスを奪った。つるりと滑り、床に倒れ込む。


 背中に冷たさが走る。


 天井が、教室の蛍光灯が、ゆっくりと揺れるように見えた。


 “それ”が、上から覗き込んでいた。


 顔は見えなかった。けれど、確かに“視線”を感じた。


 「かえして」


 さらに近く、さらに深く。


 「わたしの、わたしの――」


 耳元で、濡れた吐息のような囁きが、何度も重ねられていく。


 「わたしの、なまえ……」


 その言葉が囁かれた瞬間――教室の空気が一変した。


 息を呑む暇もなく、天音の視界に“過去の記憶”のような光景が流れ込んでくる。見たこともない教室、知らない制服、けれど間違いなくこの場所。雨が窓を打ちつける中、一人の少女が机にうつ伏せになり、泣いていた。


 髪は長く濡れている。制服は水浸しで、身体が震えている。


 誰もいない教室。誰も助けない。誰も気づかない。


 ただ、泣いていた。


 その背中に、天音は見覚えがあった。夢で何度も見た。記録のどこにも存在しない少女。けれど、確かに“いたはずの誰か”。


 その少女が、ゆっくりと顔を上げる。


 顔は、ない。


 目鼻のない空洞に、黒い水が滲んでいる。口だけが裂けるように歪み、そこから再び、囁きがこぼれた。


 「つぎは……あなた」


 その声が響いた瞬間、天音の意識は真っ白になった。


 次に目を覚ましたとき、彼女は学校の保健室のベッドにいた。


 ――全身、びしょ濡れだった。


 制服は水を吸って重く、髪は額に張りついている。けれど、どこにも怪我はなかった。夢だったのか、それとも現実だったのか――その境界は、もう曖昧だった。


 誰も見舞いには来なかった。


 ただ、ベッド脇の机に置かれていた濡れたノートの最終ページに、ひとつの言葉が書き込まれていた。


 「忘れないで」


 翌朝、天音は夢か現実かも曖昧なまま、制服を着て家を出た。昨夜の出来事――教室で見た“あれ”のことを、どう言葉にすればいいのか分からない。母親はいつも通り忙しそうに支度をしていて、天音の様子に気づいた様子はなかった。


 昨夜のことを思い出すたび、肌のどこかが濡れているような気がして、思わず何度も服の裾を握りしめた。夢ではなかった。保健室で目覚めた自分の全身が濡れていたこと、それが何よりの証拠だった。


 (……ほんとに、何が起きてるの……)


 学校に近づくにつれて、胸の奥がぎゅうと縮まっていく。


 いつも通る裏門を抜け、校舎の裏手から昇降口へ回る。誰もいない時間帯。昇降口を開けると、靴箱の横に立てかけられたモップが、風もないのにわずかに揺れていた。


 何かがすでに“来ている”気配。


 廊下の先――曲がり角の向こうに、立っていた。


 天音は立ち止まる。


 曲がり角の陰から、何かが覗いていた。


 黒い髪。制服のような上着。顔までは見えない。けれど、それは明らかに“人の気配ではない何か”だった。


 近づこうとしてはいけない、と頭のどこかが叫んでいる。けれど目を逸らすこともできない。


 (見えてる……こっちを)


 その気配が、ふいに姿を消した。


 音もなく、風もなく。ただ、そこに“いた”ものが消えた。


 天音は廊下に踏み出す。


 足音だけが、静かな校舎に響いていた。早朝の学校は不自然なほど静まり返っていて、その静けさが余計に恐怖を際立たせる。


 自分の教室の前を通り過ぎようとしたとき、扉のガラス越しに――“何か”が立っていた。


 姿は見えない。ただ、視線を感じる。


 心臓が跳ねた。


ガラス越しの気配は、動かなかった。

 けれど、確かに“中にいる”。それが何か、誰なのか、もう問いただす気力もない。ただ一つわかるのは、それが“普通のものではない”ということ。


 天音はそっと視線を逸らして、何食わぬ顔で廊下を歩き続けた。震える脚を必死で制御しながら、早く、人のいる空間へ戻ろうと心だけが先走る。


 ――バタン。


 背後で、教室のドアが勝手に閉まった。


 振り返れなかった。振り返ってしまえば、見てしまう気がした。昨夜のように、また“何か”が現れる。そう直感していた。


 階段を駆け下りる。早朝で誰もいない一階の廊下。けれど足音が、また二重に響く。


 コッ、コッ、コッ……


 “わたし以外の誰か”の足音が、ついてくる。


 (どうして……どうして、まだ……)


 保健室の前で足を止める。あの部屋なら、昨日の“起点”に戻れるかもしれない。理由はなかった。ただ、“そこに何かある”という予感だけがあった。


 ドアを開けると、誰もいないはずのベッドのひとつが、濡れていた。


 ポタ、ポタ……床に水滴が落ちる音。


 濡れた制服の袖。髪。シーツに残された人の形。


 それは明らかに、誰かが“そこにいた”証。


 ――ピチャ。


 また、水音がする。


 保健室の奥、カーテンで仕切られたベッドのひとつ。

 そのカーテンの下から、濡れた足が、そっと覗いていた。


 「……!」


 天音は息を飲み、無意識に一歩下がった。


 そのとき――


 カーテンが、ゆっくりと開きかけた。


 けれど、そこには何もいなかった。


 ベッドは空っぽ。だが、シーツはびしょ濡れで、毛布には髪の毛が何本も貼りついていた。


それは、確かに“人がそこにいた証拠”だった。


 ただの悪戯で済ますには、湿り気も、痕跡も、あまりに生々しかった。何より、匂いがした。

 雨の匂い。水が染みこんだ制服のような、どこか生臭く、澱んだ臭気。水溜まりに濡れた落ち葉がずっと放置されたような、湿った死の匂い。


 (また来てる……)


 天音は、視線を感じた。


 誰もいないはずの部屋の、背後――扉のすぐ向こう。

 振り返れば、また“あの影”がそこにいる気がした。


 ドアの曇りガラス越しに、何かが映った。


 動かない人影。こちらを見ている“彼女”。


 天音は凍りついた。


 その姿は、昨日夢の中で見た、あの少女の――

 顔のない、“濡れ女”の輪郭だった。


 黒髪がびしょ濡れで垂れている。肩から水が滴っている。顔は影に隠れて見えない。ただ、確かにそこに“誰か”が立っていた。


 もう、逃げられないかもしれない。


 そう思ったそのとき、スマホが震えた。


 画面を見ると、叔父・大地からのLINEが表示されていた。


『この時間に学校か? 何かあったか?』


 その短いメッセージに、天音は思わず涙が滲んだ。

 自分が、まだ“現実”と繋がっていることを思い出した。


 震える指で返信する。


『なにもないよ、ちょっと忘れ物思い出して。すぐ帰る』


 嘘だった。でも、返さずにはいられなかった。

 この“非現実”の中で、誰かと繋がっている実感が、天音の心を支えていた。


 スマホを握りしめ、天音は保健室を出た。


 もう誰もいないはずの廊下を、逃げるように駆けていく。


 誰かが後ろから追いかけてくる気配を、背中に感じながら。


階段を駆け下り、昇降口の扉を開け放つ。


 朝の光が差し込んでいるはずの玄関前は、いつの間にか、薄い霧のような湿気に包まれていた。雨は降っていない。けれど、空気が重い。


 (外に出たい……早く、出ないと)


 靴を履き替える手がもどかしい。何度も靴を履き損ね、ようやく足をねじ込むと、ランドセルを背負った小学生のように、玄関から一気に外へ飛び出した。


 その瞬間――背後で、昇降口のガラス扉がひとりでに閉まった。


 「バンッ!」


 ものすごい音が響いた。振り返ると、そこには。


 ガラス越しに、廊下の奥に立つ“彼女”の姿があった。


 それは動かない。追ってくる気配もない。ただ、じっと、じっと天音を見つめていた。


 その姿に、天音は思わず後ずさる。


 そして、気づいた。


 その“彼女”が立っていた場所――それは、かつて澪がよく使っていた掃除用具入れの隣。


 そうだ、澪は時々あそこで休んでいた。疲れていたから。静かな場所を探して。


 思い出した瞬間、視界が揺れた。


 澪の声が、どこかから聞こえてきた気がした。


 「……アマネ、気をつけて……」


 振り返っても、そこに澪はいなかった。

 ただ、澪の記憶と、彼女が残した気配だけが、確かにそこに存在していた。


 天音は走り出した。逃げるように、風を切って。


 その背後で、再びガラス扉が、静かに音を立てて揺れた。


 それは、まるで――


 まだ終わらない、という“誰か”の意志のようだった。


 その日の放課後、天音はもう一度だけ、あの場所へ足を運んだ。

 忘れ物を探すふりで、誰にも気づかれぬように一人で。

 心のどこかでわかっていた。このまま目を逸らしていれば、いつか“自分ではなくなる”という確信があった。


 だから向き合うと決めた。自分の中にある恐怖と、記憶と、名もなき“何か”に。


 夕暮れの校舎は、朝よりもさらに静かだった。昇降口から教室へ続く廊下に差し込む夕陽が、長い影を落としていた。その影の中に、何かが紛れている気がして、天音は何度も振り返った。


 誰もいない。


 けれど、“誰かがいる気配”は、確かにあった。


 彼女の席のあった教室へ入ると、薄暗い空気が天音を迎えた。

 窓は閉まっているはずなのに、どこからか湿った風が吹き抜け、机の端に積もった埃を揺らす。


 そのとき、突然――ノートが一冊、机の上に“置かれていた”。


 誰のノートかわからない。無地の表紙に、にじんだ水の染み。触れるのもためらわれるそれを、天音はそっと開いた。


 中には、鉛筆の筆跡でこう書かれていた。


 「雨宮 天音」


 自分の名前。それ以外は何も書かれていない。ページをめくっても、裏表紙まですべて真っ白だった。だが、にじみ出た水の跡が、名前の部分だけを滲ませている。


 その瞬間、背後で誰かが囁いた。


 「かえして」


 振り返っても、誰もいない。


 けれど、確かに耳元に声が届いた感覚だけが、そこに残っていた。


 「かえして……わたしの、なまえを……」


 今度は、はっきりと聞こえた。

 教室全体に反響するようなその声は、低く、濡れていて、奥に冷たい怒りを含んでいた。

 天音の手の中のノートが、わずかに震えた。


 (返す……? 名前を?)


 ノートには自分の名前が記されていた。だが、それは“自分のものではない”とでも言いたげな声だった。


 「あなたのじゃ、ない……」


 その言葉は、脳の奥に直接響いてきた。鼓膜ではなく、記憶を刺激するような響き。

 教室の空気が一変する。気温が下がり、息が白くなりそうなほどの寒気が教室を満たす。


 机が、黒板が、壁が、濡れていく。


 どこからともなく、水が滲み出している。水たまりが足元に広がり、濡れた気配が天音の身体を包んでいく。


 ――視界の端で、何かが立ち上がった。


 澪の席の横。窓際。影。


 それは、ぬらりとした髪を垂らした“濡れ女”だった。


 天音は息を呑んだ。


 目の前に、確かに“それ”がいた。今までのように幻ではない。錯覚ではない。濡れた制服、滴る水音、ゆっくりとこちらに向かってくる足取り。

 その全てが現実だった。


 顔は見えない。ただ、黒髪の奥で“何か”がこちらを見つめている。

 視線が合った気がした。いや――合ってしまった。


 その瞬間、“声”が、頭の中に直接流れ込んでくる。


 「あなたの名は、わたしのもの……もう、戻らない……」


 まるで、自分が“誰かと入れ替わっていく”ような感覚。天音は膝をついた。


 頭が痛い。記憶が混ざる。

 いつか見たはずのない放課後の情景。見覚えのない制服。誰かの名前を呼ぶ声。


 (わたし……って、誰だっけ……)


 自分が“天音”であるという輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。


頭の中に、知らない記憶が流れ込んでくる。


 雨の日。放課後の誰もいない教室。自分の机に突っ伏して泣いている少女。

 誰も助けてくれない。呼んでも、声が届かない。

 いじめられていた。蹴られた。押された。ロッカーに閉じ込められた。教科書を破られた。名前を呼ばれなくなった。


 やがて、誰も“その子”を話題にしなくなった。


 存在を消された――そう、“本当に”。


 名前が奪われた。記録も削除された。親も声を上げられず、社会も見て見ぬふりをした。


 少女は消えた。けれど、完全には、消えていなかった。


 名を取り戻すために。自分という証を取り戻すために。

 “誰かの名前”を奪うようになった。


 濡れ女。


 それが、彼女の成れの果てだった。


 天音は、よろけながら机に手をついて立ち上がった。

 視界がぐにゃりと歪む。顔が熱い。身体が濡れている。汗ではない。水だ。

 自分の手から、水がしたたり落ちている。


 「……わたし、じゃない……!」


 そう叫んだ。声になったかどうかもわからなかった。


 影がこちらに手を伸ばす。

 その腕は、まるで天音の“身体に戻ろう”としているように――


 掴まれた。

足首を、何かが掴んだ。


「――だれかっ、たすけ……てっ!」


叫んだ。

でも、もう声は、誰にも届かなかった。


「……あ……」


喉の奥から漏れる声が、まるで他人のもののようだった。

天音はもがきながらも、水――いや、それに似た“なにか”に沈められていく。


黒板は遠ざかり、教卓も歪んで見える。

教室の天井が、波紋のように揺れていた。


掴まれた足から、冷たさではない何かが体内へと染み込んでくる。

それは感情。

記憶。

「天音」として生きてきた、すべての輪郭だった。


――名前を、忘れる。


そんな恐怖が喉元にせり上がった。


(わたしは……、だれ……?)


天音はそう思った瞬間、頭の中に別の“声”が響いた。


(わたしが……天音)


違う。


(ちがう……わたしは……)


(……わたし……)


声が、いくつも、頭の中に重なる。


その中心に、“彼女”がいた。

かつて少女だったもの。

かつて「名前を奪われた」存在。


「……あなた、が……わたしになる、の……」


耳元で囁かれたその瞬間――


教室の水は、完全に天音を呑み込んだ。


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