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第7章「その足音は、わたしを知っている」

朝、家を出た瞬間から、空は不機嫌そうに唸っていた。


 雲は分厚く、重く垂れこめていて、いつ降り出してもおかしくない空模様。天音は鞄に折りたたみ傘が入っていることを確認すると、ため息をひとつついて玄関を出た。


 いつも通る通学路。コンビニの前を通り、川沿いの道を抜けて、駅前の交差点に出る。何百回も通った道であり、見慣れた景色。だけど今朝は、何かが少し違って見えた。


 ──誰もいない。


 通学時間のはずなのに、周囲には人の姿がない。道路の向こうに小学生の集団が見えるはずの時間帯なのに、遠くに見える歩道には人影すらなかった。まるで時間がズレてしまったかのような、静かな朝。


 「……なんか、嫌な予感する」


 思わず口から漏れた独り言に、自分で自分を笑い飛ばす。気のせいだ。たまたま人が少ないだけだ。天音はそう自分に言い聞かせながら、歩き続けた。


 そして、角を曲がった瞬間――空が、裂けた。


 バシャアアアアッ、と耳をつんざくような音と共に、豪雨が降り注いできた。雷も鳴っていないのに、いきなり叩きつけるような雨。天音は慌てて傘を広げ、肩をすくめる。


 水しぶきが足元を濡らし、靴下がじんわりと染みていく。駅へ向かう途中にある長い直線の歩道。ガードレールがずっと続いていて、その隙間から雨水が流れ落ちる。


 そしてその時だった。


 ――視界の端、電柱の陰に、“それ”はいた。


 腰をかけるようにして、電柱の根元に座る黒い影。傘も差さず、ただ静かに雨に打たれながら、うつむいている。


 ……いや、違う。頭を垂れているのではない。顔を、伏せている。こちら側からは表情も輪郭も見えない。けれど、その存在が異質であることは、一目で分かった。


 身体がすくんだ。


 脳が、“それ”を見た瞬間、電気が走ったように警告を発した。逃げろ、と。見てはいけない、と。けれど、足が動かない。目を逸らせない。


 ――目が、合った。


 そう、思った。


 その瞬間、心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。


 目が合ったはずなのに、顔は見えなかった。けれど、“合った”という確信だけがあった。言いようのない冷たさが、傘の中にまで入り込んでくる。


 天音は思わず一歩、後ずさる。


 ……その時だった。


 “それ”が、わずかに首を傾けた。


 見えている。こちらを、確かに“見ている”。


頭の芯がぐらりと揺れた。意識が遠のきそうになるのを必死にこらえながら、天音は視線を逸らした。


 見てはいけない。そう本能が叫んでいた。見つめ返してはならない。そんなことをすれば、“それ”は来る。――近づいてくる。


 「……なんなの、あれ……っ」


 震える唇を噛みしめ、傘をぎゅっと握りしめる。膝が震えていた。足元から這い上がるような冷気。雨の冷たさではない、もっと底知れない悪意のようなものが、肌の下に忍び込んでくる。


 天音は震える足で、無理やり身体を反転させた。道を戻る。後ろを見ないように、傘の先だけを見て、ただひたすら歩いた。走り出せば足音が聞こえる気がして、歩くしかなかった。


 数十歩、進んだところで――もう一度、振り返ってしまった。


 視界の端に、何もいなかった。


 電柱の陰。先ほどまで“それ”が腰かけていた場所には、もう誰もいなかった。


 「……え……?」


 目をこすった。見間違い? 本当に?


 だが、その時、遠くのアスファルトに――濡れた足跡が一つ、ぽつりと残っていた。


 天音の視線が足跡に吸い寄せられた次の瞬間、


 ――ザッ。


 すぐ近くで、水を踏む音がした。


 背後、数メートルも離れていない場所で。


 鼓動が爆発しそうだった。息を殺して、その場に立ち尽くす。背中に視線を感じる。傘の外側を、雨が激しく叩いているはずなのに、その中に紛れて確かに何かが立っている“音”が聞こえる。


 それは、足音ではなかった。


 ……濡れた布が、地面を這う音だった。


 「やめて……やめて……やめてよ……っ!」


 震える声が喉から漏れた。誰にも届かない。声にならない声。


 足音は止まった。


 ふと気づくと、周囲の雨音がすべて消えていた。傘に当たる音すら聞こえない。ただ、静寂。世界が水の底に沈んだような、密閉された静けさ。


 ――ふ、と。


 耳元で、女の声がした。


 「……みてたよ、ずっと……」


 次の瞬間、天音は悲鳴を上げて走り出していた。


放課後の部活が始まる頃には、午前の豪雨は嘘のように止んでいた。晴れ間すら見え始めた空の下、校庭ではいつも通りの掛け声が響いている。


 天音はというと、グラウンドの隅で短距離走のウォーミングアップをしているふりをしながら、内心ではまったく別のことを考えていた。


 (あれは……何だったんだろう)


 朝の通学路で見た“それ”。あの黒い影。濡れた布の音。耳元の囁き――「みてたよ、ずっと」。思い出すだけで、背筋がひやりと冷える。


 「……天音?」


 声をかけられ、びくっと肩を跳ねさせる。振り向くと、紗英が小さく首をかしげて立っていた。


 「どうしたの? 顔色悪いよ」


 「え、う、ううん……ちょっと寝不足なだけ」


 天音は慌てて笑顔を作った。紗英はじっとこちらを見つめたあと、小さく息をついてから「無理しないでよね」と言って、再び準備運動に戻っていった。


 (……変に心配かけたくないし)


 自分でも、どこまでが現実だったのか曖昧になっている。怖かったのは確か。でも、それが“実際に起きたこと”かどうかは……。


 「……ロッカー、見に行こ」


 天音は校舎裏にある陸上部の部室棟へと向かった。


 部室の中は薄暗く、午後の日差しが曇った窓からうっすらと差し込んでいる。誰もいない静けさの中で、金属製のロッカーがずらりと並ぶその一角。自分のロッカーへ向かって歩きながら、無意識に呼吸を整える。


 鍵を回し、扉を開けた瞬間――


 ぐしゃっ。


 靴底が水を踏んだような音がした。


 「……え?」


 足元を見ると、ロッカーの前の床が……濡れている。濡れた靴で歩いたような跡が、点々と並んでいる。だが、今日の陸上部員は全員、外でアップしていたはず。


 そして。


 天音の目が、ロッカーの中へと吸い寄せられる。


ロッカーの中。


 そこに置いてあるはずのスパイクシューズが、ぐっしょりと濡れていた。


 汗でも雨でもない、水道水とも違う――そんな“異様な濡れ方”。まるで、それだけが雨の中に置き去りにされていたかのようだった。


 「なにこれ……」


 指で触れるのもためらわれたが、そっと持ち上げる。靴底からしたたり落ちた水が、床にぽとぽとと垂れていく。靴の内側には砂や泥などはまったく付いていない。明らかに“誰かが”水をかけた、そんな不自然な濡れ方だった。


 だけど、こんなこと――誰が、何のために?


 その時、ふと視界の端に何かが映った。


 他のロッカーの隙間。少しだけ開いた扉の、その隙間から……何かが、こちらを覗いていたような気がした。


 天音は反射的にそちらを振り向いた。


 だが、そこには誰もいなかった。


 ただ、わずかに開いたロッカーの内側に、小さな水たまりができているのが見えた。


 「……まさか……」


 ひとつ息を飲み込み、恐る恐る歩を進める。ロッカーの前に立ち、その扉に手をかける。ぬるりと湿った感触が、金属越しに指先を撫でてきた。


 ギィ……と、重たい音を立てて扉を開いた。


 中には――誰もいなかった。


 ただ、濡れた制服の上着が引っかけられており、その下にポタポタと水が滴っている。


 「……誰の……?」


 名前の刺繍はなかった。明らかに、学校指定の制服。だけど、天音はこの制服を“知らない”。クラスの誰のものでも、部活の誰のものでもない。


 誰かがここに“いた”という事実だけが、部室の空気を重たくする。


 天音は視線を動かし、もう一度足元を見た。


 床に残る濡れた足跡――それは、自分の足元で止まっていた。


 (……ここで……立ってたの?)


 胸が苦しくなる。呼吸がうまくできない。足音の終点が、ちょうど自分の真正面。それ以上に進む必要がなかった……つまり“すでにそこにいた”。


 「やだ……やだやだやだっ……!」


 天音は叫ぶようにして、ロッカーの扉を乱暴に閉めた。金属音が部室に反響し、まるで誰かが笑ったような錯覚に陥る。


 足早に部室を出る。振り返らない。誰にも言えない。言ったところで――誰にも、わかってもらえない。


 雨はもう降っていないのに、制服の背中がじっとりと濡れているような気がした。


「……ねえ、本当に大丈夫?」


 紗英の声が、どこか遠くから響くように聞こえた。


 下校途中の夕暮れ。空は茜色に染まり、校門を抜けた先の道には部活帰りの生徒たちが散らばっていた。いつものように他愛もない会話が交わされ、誰かが笑い、誰かが自転車を押している。


 その中で、天音だけが別の時間を歩いているような気分だった。


 「え? あ、うん……なんでもない」


 曖昧な返事をしながら、視線を道路脇の植え込みへと向ける。風もないのに葉がざわついていた。誰かが隠れているような、そんな錯覚。


 「ほんとぉ~? あたし、けっこう勘いいんだからね?」


 紗英はからかうように肩をすくめると、天音の横に並んだ。彼女の持つポニーテールがふわりと揺れて、なんだか“人間らしさ”の象徴のように感じられて、天音は少しだけ安心した。


 (この子は……まだ、視えてない)


 自分にしか視えていない“なにか”。それが確信に変わっていくのを、天音は無視できなかった。


 「紗英……さ、最近、変なこととかって……なかった?」


 何気ないように聞いたつもりだった。けれど、紗英はきょとんとした表情を見せ、それから少しだけ真顔になった。


 「うーん……特には。あ、でもさ……」


 紗英はそこで言葉を切った。


 周囲の音が、ふっと――消えた。


 車の走行音。部活帰りの生徒の話し声。風に揺れる木々の音。すべてが、まるでスイッチを切ったかのように“途絶えた”。


 「……っ?」


 耳鳴りだけが、遠くでチリチリと響いている。天音は息を呑み、すぐに周囲を見渡す。誰も動いていない。まるで時間が止まってしまったかのように、通りの向こうも、歩道橋の上も、すべてが静止していた。


 そして。


 紗英の後ろ、たった数歩の距離に、“それ”が立っていた。


 それは、紗英の背中のすぐ後ろ。夕陽を遮るように、ぬらりと立っていた。


 傘も差さずにずぶ濡れのまま、黒い髪を顔に張りつかせて……立っていた。


 紗英の肩越しに、“それ”の顔が覗いているのが見える。表情は見えない。ただ、びしゃびしゃと水が滴っていた。地面に広がる濡れた輪が、彼女の足元に向かってじわじわと滲み広がっていく。


 天音の喉が、何かを叫ぼうとして閉じた。


 声が出ない。喉が凍ったみたいに動かない。いや、叫んではいけない――そんな確信めいた恐怖が、脊髄から駆け上がってくる。


 「……でも、夢でさ、変な声聞いたの。耳元で――」


 紗英が言いかけたとき。


 天音の目の前で、“それ”の顔がくるりとこちらに向いた。


 ――黒い目。


 何の感情も宿していない、底なしの闇のような目。天音の顔をまっすぐに見ている。……いや、違う。“目を合わせてくる”のではない。“記憶してくる”のだ。視線を、心を、魂の奥底を……記録されていくような、そんな不快感。


 「やめて……」


 かすれた声が漏れた。


 その瞬間、時が動き出した。


 風が吹き、木々が揺れ、遠くの車のクラクションが再び耳に届いた。紗英も、さっきまでのことなどなかったように、ひとつ大きく伸びをして「ふぁ〜、もう帰りたーい!」と笑っている。


 だが、“それ”はもういなかった。


 気配すら、消えていた。


 天音はただその場に立ち尽くしていた。全身から汗がにじんでいた。なのに、指先は冷たく震えていた。


 「……なぁに? また変な顔して」


 紗英が振り返り、笑いながら問いかけてくる。


 その笑顔に、何か言うことはできなかった。


 (今の……夢じゃない。幻でもない。……いた。確かに、いた)


 ひとつ確かなことがある。


 “それ”は、今や天音だけを見ているわけではない。


午後の授業。最後の5時間目。


 教室に立ち込める眠気の気配と、夕方の湿気が混ざった重たい空気。窓の外はどんよりと曇っていて、雨がまた降りそうな気配を漂わせていた。


 先生の声がぼんやりと遠く感じられる中、天音はずっと、窓の外を見ていた。


 風景が歪んでいる。


 そんな気がした。


 隣の校舎の屋上。グラウンドの隅。体育館の端。すべてが“何も起きていない”はずなのに、視線の端がいつも引っかかる。何もないのに“見てしまう”その瞬間が、確実に増えている。


 「雨宮さん?」


 不意に名前を呼ばれ、天音ははっと我に返る。


 教室の皆がこちらを見ていた。先生も手にしたプリントを持ったまま、天音を見ている。


 「え、あ……すみません」


 どっと笑いが起きた。からかい半分の、でも悪意のない笑い。その中で天音は顔を赤くして、前を向いた。


 (集中しなきゃ……)


 だけど、その直後。ふと、教室の窓に目をやった瞬間だった。


 外側に貼りついた雨粒。そのひとつが、人の形をしていた。


 最初は錯覚かと思った。だがその水滴は、他のどれとも違っていた。


 輪郭を持ち、肩があり、髪が流れ、そして――笑っていた。


 水滴の中に、小さな笑顔が浮かんでいた。


それは“笑っていた”。

 確かに、形容すればそう言うしかなかった。


 水滴が垂れ落ちる直前、ぐにゃりとした湾曲の中で、小さな口元がゆるやかに釣り上がる。


 (……え?)


 瞬きをした。


 もう一度見る。そこにはただの雨粒があるだけだった。形は崩れて、もう何も見えない。


 (今の……本当に見た?)


 天音は自分の目を疑った。

 窓に顔を寄せる。内側のガラスには自分のぼんやりした顔が映っている。けれど、その奥に――何かいるような感覚が、拭えなかった。


 「雨宮さん、またボーッとしてるぞ〜?」


 別の席から男子の茶化すような声が飛び、クラス中に笑いが起きる。


 天音は顔を背け、ノートを開いた。クスクス笑う声が耳に痛い。でも、気にしてる余裕なんて、もうなかった。


 (どうして……?)


 ここ最近、見え方が変わってきている。最初は姿を“見る”ことから始まり、やがて音を聞き、そして――何かが入り込んでくる感覚がある。


 記憶の一部が、誰かと混ざっているような。知らない景色が、夢のように差し込んでくる。自分の手の中に、知らない記憶がじっとりと沈んでいる。


 そして何より――


 (あの水滴……あの“笑顔”、見覚えがある)


 思い出せない。でも、知っている。


 胸の奥に針が刺さったような、あの“既視感”。

 天音はノートの端に無意識で線を描いていた。


 くる、くる、くる……と、濡れた髪のような螺旋。


 気づけば、窓の外には雨が降り始めていた。


 再び、ガラスに“誰か”が映る――そんな気配を残して。


 夕方。部活を終えた帰り際、天音は忘れ物に気づいてひとり教室に戻った。


 教室の鍵は開いたままだった。まだ誰かが残っているはずだと、そう思っていた――ほんの少し前までは。


 でも、校舎は……静かすぎた。


 夕暮れの色が消え始めた窓。人工灯が点く前の教室は、昼と夜の間に沈む奇妙な色をしていた。足音が響く。自分のものか、それとも……。


 (早く取って、帰ろう)


 そう思って教室に入った時だった。


 机の上が、濡れていた。


 自分の席の机。その上に、ぽつりぽつりと濡れ跡。水が滴ったような――いや、そうではない。


 “手の跡”。


 水の手形が、天音の机の上に残っていた。まるで誰かが両手をついて、そこからこちらを見下ろしていたかのように。


 「……っ」


 言葉にならない声を喉の奥に押し込んで、天音は身を引いた。背後の廊下へと戻ろうと振り返った、その瞬間――。


 ぴちゃり。


 背後から水音。


 再び振り返る。誰もいない。けれど、水たまりが――増えていた。


 床に、廊下に、黒板の前に、水滴が落ちる音がいくつも鳴る。


 「やだ……やだ……!」


 天音は教室を飛び出した。足音を響かせて廊下を駆ける。夕焼け色の窓の向こうに、何かが並走しているような気配を背中に感じながら。


 振り向けない。立ち止まれない。


 (逃げなきゃ……!)


 しかし、曲がり角を曲がった先――その床が、水だった。


 廊下ではなく、まるで水面。廊下全体が濡れているのではない。**“廊下が水に変わっている”**のだ。


 目の前の廊下が、水面に変わっていた。


 暗がりの中、窓から差す光に照らされ、微かに揺れる。けれど、その水は濁っている。まるで泥水のように、何かを沈めたまま動かない。そこに踏み込めば、足元から呑み込まれてしまうような深さを感じる。


 「行けない……」


 呟いた声が、反響した。


 足元が揺れる。否、それは心の揺らぎではない。水面の先で、“何か”が動いた。波紋が、ぽつりと生まれる。誰かが、そこにいる。水の中で息を潜め、天音の出方をうかがっている。


 「来ないで……来ないで、お願いだから……っ」


 逃げ場を探して、天音は背後を振り返った。だが、そこもすでに――水。

 振り返れば、水たまりがずっと続いていた。音もなく廊下を満たし、天音の立っている唯一の乾いた床すら、じわりと濡らし始めている。


 「どこも……行けない……」


 まるでこの場所が、“逃げること”を拒絶しているかのように、じりじりと追い詰められていく。


 そして。


 遠くで、聞こえた。


 ぴちゃっ、ぴちゃっ、ぴちゃっ……


 水を踏む足音。一定のリズム。濡れた布が床を擦るような音が、だんだん近づいてくる。


 天音は壁に背を押し付けて、目を強く閉じた。呼吸が荒い。涙が浮かぶ。


 (見ない……見ちゃだめ……!)


 けれど――視界の端に、ちらりと黒い髪が揺れた気がした。


 そして、耳元で微かに囁く声がした。


 「みえたでしょ、わたしのこと……」


 天音は、その場で膝をついた。


 そして――


 水面に、映っていた。

 自分ではない、“誰かの笑顔”が、そこに。


 保健室の洗面台に立ち尽くしながら、天音は鏡の前で自分を見ていた。


 頬は青ざめ、目元は腫れていた。泣いた覚えはないのに、まぶたが重い。呼吸を落ち着けようと何度も深呼吸を繰り返しても、胸の奥はじくじくと痛んだ。


 (こんな顔……誰にも見せられない)


 あの水の中で見た“自分ではない自分”。思い出すだけで背中が冷える。笑っていた。水面に映る“それ”は、確かに自分の顔をしていた。けれど――笑っていた。何かを“得た者”のように、満たされたように、にたりと歪んだ笑み。


 「私……おかしくなってきてる……?」


 呟きながら、蛇口に手を伸ばし、水を出す。冷たい水で頬を打つように洗い、深く息を吸った。だが、顔を上げたその瞬間――。


 鏡の中の“自分”が、笑っていた。


 こちらは無表情のまま。それなのに、鏡の中の天音は、わずかに唇を持ち上げて笑みを浮かべていた。


 (え……?)


 息が止まる。


 鏡の中とこちらの動きが、一致していない。


 天音が目を見開くと、鏡の中の“それ”は、まばたきをしなかった。天音が一歩下がると、“それ”は一歩、近づいた。


 「やだ……いや……やめて……!」


 目を逸らすこともできず、叫ぶこともできず、ただ恐怖に囚われる。


 “鏡”の中の“わたしでないわたし”は、静かにこう言った。


 「……もうすぐ、わたしになるの」


 言葉ではなかった。


 けれど、確かに聞こえた。脳の奥底に、直接響いてくるような声。鼓膜を通らずに、心そのものをひび割れさせるような響きだった。


 「……っ……!」


 天音は反射的に鏡を背にして後ずさった。足がもつれ、腰をぶつけて洗面台の縁に手をつく。ひやりとした水が、蛇口から出たままの冷水が指を濡らす。


 再び振り返る。


 鏡の中には、いつも通りの自分――が、いなかった。


 いや、“いなくなった”のではない。**“もう、外に出てきていた”**のだ。


 背後に気配があった。


 見たくない。振り返りたくない。けれど、感じている。背中のすぐそこ、首筋のすぐ後ろに、誰かの“呼吸”がある。熱を帯びていない、濡れた空気。冷たいのに、肌が焼けるような感触。


 目を閉じれば終わりだと思った。だから、天音は無理やり口を開いた。


 「……わたしは……わたしなんだから……っ!」


 その瞬間、空気が爆ぜたように弾けた。


 洗面所の電灯がバチッと点滅し、蛇口から勢いよく水が噴き出した。鏡面がひび割れるように揺れ、その奥で、“誰か”がにたりと笑っていた。


 「わたしのままでいられると思ってるの?」


 確かに、そう聞こえた。


 天音は逃げるように保健室を飛び出した。濡れた足音が、後ろからついてくる。誰もいないはずの夜の校舎に、ぴちゃり、ぴちゃりと、水を踏む音が響き渡る。


 その音は、天音の足音に、ぴたりと寄り添っていた。


 その日は、朝から降っていた雨が、夕方になってさらに強さを増していた。


 放課後。昇降口に立ち尽くしながら、天音は自分の濡れたスニーカーを見下ろしていた。傘は開いていたはずなのに、足元だけがびしょ濡れだった。廊下を走ったせいか、膝まで湿っている。服の内側まで冷たく、じわじわと染み込んでくるようだった。


 (帰らなきゃ)


 でも、足が動かない。誰かと帰るわけでもない。紗英とは今日、部活のあと別れた。何かを感じたような顔をしていたけれど、結局、何も言わなかった。


 (誰か、迎えに来てくれないかな)


 そんなことを思うなんて、小学生みたいだと自分で笑った。


 昇降口のガラス越しに見える、濡れたアスファルト。校門の先には、傘をさした誰かの影が立っているように見えた。遠くてはっきりはしない。けれど――


 (……待ってる? ……私を?)


 心のどこかがそう囁いた。


 ザッ――。


 目を瞬く間に、玄関の自動ドアがゆっくりと開いた。


 誰もいない。けれど、確かに開いた。センサーの誤作動? いや、違う。天音はわかっていた。**“入ってきた”**のだ。


 制服の袖が、濡れる感触。手の甲に、水滴が落ちた気がした。見上げると、屋根があるのに、雨が降っていた。


 内側に。


目に見えない雨粒が、天井のある昇降口の中に、確かに“降っていた”。


 ポタリ。ポタリ。


 冷たい水が髪を濡らし、首筋を伝う。天音は固まったまま、ただ雨に濡れていく。


 “それ”はもう、近くにいた。視界には入っていない。でもわかる。見ている。確実に、自分を“迎えに来た”のだ。


 ガラス戸の向こう。校門の先にいた傘の影は、もういなかった。


 代わりに、すぐ背後で、水を踏む音がした。


 ぴちゃり。


 その音が、はっきりと響いた瞬間――天音の体が勝手に振り返る。


 そこに、いた。


 濡れた制服。髪の先から滴る水。顔は濡れた前髪でほとんど隠れているのに、“笑っている”とわかる。


 (……わたし……?)


 その顔に見覚えがあった。


 ――鏡の中で見た、あの歪んだ笑み。


 口が動いた。声は出ていない。でも、天音には聞こえた。


 「……もう、逃げなくていいよ」


 その瞬間、天音の意識は、ふっと遠のいた。


 暗闇の中、何か温かいものが頬を撫でた。それは涙か、それとも雨か。どちらでもよかった。ただ、何かが“終わった”という確信だけが、胸の奥にぽつんと灯っていた。


そして――数日後。

教室の窓際、別の生徒がぽつりと呟く。


「なぁ……あの人……なんか、おかしくね?」


 視線の先には、長い黒髪を濡らした少女が、静かに立っていた。


 微笑みながら、まるで“呼びかける”ように。


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