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第6章:ミエタ

 カーテンの隙間から差し込む陽射しが、天音のまぶたを照らした。


「……ん……もう朝……?」


 寝ぼけ眼を擦りながら、スマホのアラームを止める。

 日付を確認して、思わず息を吸い込んだ。


「やば、あと二週間か……大会」


 慌てて制服に着替え、台所で温められていた朝ごはんをかき込む。

 母のメモが冷蔵庫に貼られていた。《今夜も夜勤。気をつけて。》


「いってきまーす」


 誰もいない玄関に、いつも通りの声を投げて靴を履いた。


 駅までの道。自転車を漕ぎながら、天音は胸の中に何かが引っかかっているのを感じていた。

 はっきりとした形にはならない。ただ、心のどこかで、“何か”を忘れている気がした。


 学校に着くと、部室にはすでに数人の部員がいた。


「おはよう!」


「あまね、おはよー。なんか今日やる気すごくない?」


「だって本番もうすぐだし。練習あるのみ、でしょ!」


 笑いながらロッカーの前に立った瞬間、ふと手が止まった。


 ……一番端のロッカー。誰かの名前があったはずの場所が、空いていた。


 鍵のかかっていないロッカー。タグの剥がされたネームプレート。


「あれ、ここ……誰が使ってたっけ?」


 思い出せない。だけど、空っぽのロッカーが妙に寂しい。


 練習が始まり、ストップウォッチの音と、スパイクが鳴る音に集中する。


 でも心の片隅には、ずっとささやかな違和感が残っていた。


 ――なんか、ひとり足りない気がする。


 そう思った瞬間、鼓動がひとつだけ、跳ねた。


あなた:

1で今後はテキストファイルでは無く本文表示でお願いします



ChatGPT:

承知しました。それでは以下に、**第6章 Scene2「教室の空席」**の本文を直接表示いたします。

本シーンでは、天音が澪の“不在”を現実的に感じ始めるきっかけとなる教室での違和感を描写します。


■第6章 Scene2:教室の空席(本文)

 チャイムが鳴る少し前、天音は教室に入った。


 席に座って、筆箱を取り出しながら、ふと教室を見渡す。


 ――おかしい。何か、違う。


 教室の一番後ろ、窓際の席。

 そこに座っていた誰かが……いない?


「ねえ、あそこって空席だったっけ?」


 天音は隣の紗英に小声で尋ねた。


「どこ?」


「あの、一番後ろの窓のとこ……」


 紗英は首を傾げたまま視線を送る。


「あそこって、最初から空いてたんじゃない?」


「……え? でも……」


 声がすっと小さくなった。はっきりとした記憶は出てこないのに、胸の奥がざわついている。


 そこに誰かが座っていたような気がする。朝の挨拶を交わして、給食の時間に牛乳を飲まなかった、静かな――誰か。


「名前……なんだっけ」


 口に出しかけた瞬間、喉の奥がきゅっと締まったように声が出なかった。


 まるで、その名前を発すること自体が“許されていない”かのように。


 担任が教室に入ってきて、出席を取り始める。いつもの順番。いつもの声。


「高橋」「はい!」


「藤井」「はい」


「……」


 その間に、何かが飛ばされた気がした。


 天音の視線が再び教室の隅に向く。

 空席には誰の荷物もない。机には名札も貼られていない。ただ、日差しだけがそこに落ちていた。


 ひとつ、深呼吸をする。

 でも、それは不思議なほどうまくいかない。


 誰かがいた。そんな気がする。


 でも、誰だったかが思い出せない。


 教科書を開きながら、天音はふと、机の角に刻まれた落書きに目を止めた。

 そこには、消しかけたような筆跡で、何かの名前が彫られていた――ような気がした。


給食の時間、配膳台の上に見慣れたメニューが並んでいた。


 鶏の照り焼き、ほうれん草のごまあえ、わかめスープ。


「あ、今日これなんだ。やったぁ!」


 紗英が嬉しそうに声を上げたのを横目に、天音はトレイを持ったまま立ち尽くしていた。


 ――このメニュー、誰かが苦手って言ってた。


 そう、思い出した。

 食べるとき、ほうれん草をそっと端に寄せてた。

 「味は嫌いじゃないけど、喉にひっかかる感じが苦手で……」って、微笑みながら。


 でも、それが誰だったのか思い出せない。


 どのクラスメイトでもない。名前も顔も、輪郭すら出てこない。


 けれど、その言葉だけは、やけに鮮明に思い出せる。


 トレイを持ったまま立ち尽くす天音に、給食当番の男子が声をかけた。


「雨宮? 進まないと後ろつかえてるよ」


「……あ、ご、ごめん!」


 慌てて席に戻る。

 箸を持ったけれど、手が止まった。


 胸の奥に、何かが引っかかっている。

 涙が出そうになる。何に対してか分からないまま。


「……どうして……こんなに、悲しいの……?」


 ぽつりと呟いた声は、誰にも届かずに空気に溶けた。


 向かいの紗英が不思議そうに天音を見つめる。


「なに? ほうれん草嫌いだったっけ?」


「……ううん、ちがう……けど、」


 けど――なにが?


 言葉にならない想いが、のど元でかすれて、また消えた。


午後の授業が終わったあと、天音はなぜか図書室へ足が向いていた。


 読みたい本があったわけじゃない。ただ、胸の奥にひっかかった“名前の思い出せない誰か”を探すように、本棚の隙間を覗き込む。


 窓から差し込む西陽が棚の端に落ち、埃がきらきらと舞っていた。


 静かな空間。


 机の上には、誰かが読みかけたような資料集。開かれたままのページに、かすかに鉛筆の跡。


「……これ……誰が……?」


 ページの隅に、小さく書き込まれていたメモが目に入る。


『この呪いは悲しみの形。

 どうか、誰かが気づいて。

 わたしがいたことを忘れてもいい。

 でも、あの子の涙だけは、忘れないで。』


 震える手で、その紙片を摘み取った。メモはノートの切れ端で、まるで何かを遺すように、そこだけが綺麗にちぎられていた。


「……これ……私、知らないはずの……」


 けれど、胸の奥がざわりと反応する。


 懐かしさ。悲しさ。置いていかれたような、冷たい空気。


 どこかで、誰かが泣いているような気がした。


 天音はふと、本棚の隙間に指を伸ばす。そこにはもう、何もなかった。ただ、乾いた木の感触と、ほのかに湿った匂いだけが残っていた。


 その瞬間――図書室の奥から、微かに“水音”が聞こえた。


 ぽたり。

 ぽたり。


 天音は振り返った。けれど、そこには誰もいない。


 ただ、閉じられたはずの窓の隙間から、夕立の音が混ざっていた。


 耳鳴りがする。胸が騒ぐ。


 “忘れてはいけない”――そんな声が、自分の中に渦を巻いた。


夜。部屋の灯りを消し、布団に入っても、天音の目は冴えたままだった。


 ノートの切れ端に綴られていた言葉が、ずっと頭から離れない。


 “この呪いは悲しみの形”


 “わたしがいたことを忘れてもいい”


 その“誰か”は、誰なんだろう。どうして自分だけが、その悲しみに触れているのだろう。


 答えは出ないまま、まぶたが重くなっていった。


 * * *


 気づくと、廊下に立っていた。


 うっすらと湿った空気。薄暗い蛍光灯。冷たい水の匂い。


 夢だ、と直感する。けれど、夢にしては妙に肌寒く、現実感があった。


 足元には小さな水たまり。スニーカーがしとりと濡れていた。


「……また、ここ……」


 前にも見た光景。あの日の雨のあと、あの女の人を見つけた夜と、どこか似ている。


 視線を上げると、廊下の先、鏡があった。学校のトイレの前にある、壁に埋め込まれた大きな鏡。


 近づくごとに、胸が苦しくなっていく。


 鏡の前に立つと、そこに映っていたのは――


 自分、ではなかった。


 濡れた黒髪。びしょびしょに濡れた制服。頬に貼りつく髪と、真っ直ぐにこちらを見つめる無表情な目。


 “あの時の、女の人”。


 いや、それよりも、もっとずっと近い。


 口が動いた。だが声はない。


 鏡の中の“彼女”が、ゆっくりと口を開く。


 何かを言っている。けれど、音は聞こえない。ただ唇だけが、はっきりと動く。


 ――みてるよ。


 その瞬間、天音の全身に冷たいものが流れ込んだような感覚が走った。


 目が覚めたとき、額には冷や汗がにじんでいた。


 時計の針は、午前2時13分を指していた。


 静かな部屋の中、窓の外で――雨が降っていた。


翌朝。雨は止んでいたが、地面はまだ濡れていた。


 天音は通学路を歩きながら、眠気の残る頭で昨夜の夢を思い出していた。


 鏡の中の少女。声のない口の動き。“見てるよ”と告げたその目。


 夢だとわかっていても、心臓の鼓動がまだ落ち着かない。


 「……気のせい。きっと、気のせいだよ……」


 呟きながら、水たまりを避けようとした足が、思い切り跳ね返った。


 ばしゃっ、と水が飛び散り、制服の裾が少し濡れた。


「あーあ……」


 舌打ちするほどのことでもないのに、どうしてか、心の奥に冷たい手が這うような感触が残った。


 そのときだった。


 すれ違った二人組の女子生徒の会話が、ふと耳に入る。


「……だから、ほうれん草って喉にひっかかる感じが無理なんだよね」


「えー? 好き嫌い多すぎじゃない?」


 天音の足が止まった。


 今の声……あの言葉。昨日、自分の頭の中にだけ響いたはずの言葉。


 誰かがそう言ってた。確かに、言ってた。

 でも――それは誰だった?


 天音は振り返り、声の主を見つめる。

 短い髪の活発そうな女子生徒。笑っている。でも、その顔はまったく知らない。


「あの……それ、誰かから聞いたこと……あります?」


 思わず話しかけてしまった。女子生徒はきょとんとした顔でこちらを見た。


「え? いや、自分で思っただけだけど?」


「……そっか。ごめん、変なこと聞いて」


 その子は首を傾げたあと、友達と笑いながら去っていった。


 天音はその場に立ち尽くしたまま、自分の胸に手を当てた。


 ――記憶じゃない。

 誰かの“残響”だ。


 まるで、その子の中に、知らない誰かの言葉が宿っていたみたいだった。


 それが――誰かを忘れてしまった自分への、無言の返事のようで、背筋がひやりと凍った。


放課後の教室。陽が落ちかけ、窓の外は鈍色の雲に覆われていた。


 天音はカバンを閉じようとしたとき、机の上に何かが滑り落ちたのに気づいた。


 小さな紙片。


 折りたたまれていて、端がほんのり湿っている。


「……え?」


 誰かの忘れ物? そう思いながら、恐る恐る紙を広げた。


 そこに書かれていたのは、たった一行の、見覚えのある言葉。


 《記してはならぬ》


 その文字を見た瞬間、背筋にぞくりとした感覚が走った。指先が勝手に震える。


 その言葉は、図書室の本の中で見た。澪のノートにも似た言葉があった。

 ……澪?


「……澪……!」


 名前が口から零れた。


 ――あれほど思い出せなかったはずの名前が、今、自然に出てきた。


 その瞬間、窓を打つ音が変わった。


 コツ――

 コツン……コツ……


 ただの雨音じゃない。何かが、そこに“いる”。


 天音はゆっくりと顔を上げ、教室の窓の外を見た。


 そして、見てしまった。


 雨の中。ぼんやりと浮かぶ、ひとつの影。


 白い顔。濡れた髪。全身ずぶ濡れの少女が、教室の外に立っていた。


 窓に手をつき、こちらをじっと見ている。


 表情はない。ただ、瞳だけがはっきりと“認識している”。


 天音は椅子から転げ落ちるように立ち上がった。息が苦しい。鼓動が耳を打つ。


 そのとき――影が、口を動かした。


 音は届かない。けれど、その唇の動きだけは、はっきりと読めた。


 ――「みえたね」


 その言葉のあと、影はゆっくりと笑った。

 ほんのわずか、歪んだ笑み。

 悲しみと、喜びと、諦めがないまぜになったような……そんな微笑み。


 天音は、ただ震える唇を噛みしめながら、立ち尽くすしかなかった。


 ついに、視えてしまったのだ。


 忘れたはずの“あの女”が。

 そして――澪のいた痕跡が。


 因果は、確かに彼女に継がれた。

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