第5章:水の中に消えた雫
第5章:水の中に消えた雫
陽が落ちかけた街は、灰色の雲に包まれていた。
傘をさして歩く澪の足元を、排水溝の水がちろちろと這っていく。
図書館で見つけた、あの一文が頭から離れない。
――記してはならぬ。
――名を与えてはならぬ。
「……じゃあ、なんで残ってるの?」
小さく呟いた自分の声が、雨音にかき消された。
その言葉を誰に問いかけているのかも、もうわからない。
怖い。確かに怖い。
けれど、それ以上に、引っかかってならなかった。
“記してはならぬ”と書かれているのに、
それをわたしが“読めてしまっている”という、この状況自体が。
――あれは本当に、ただの警告だったんだろうか?
頭の奥で、何かがわずかに繋がりかけている感覚。
脳の表面を指でなぞられるような、ざわついた違和感。
もしかして――誰かが、それでも“伝えたかった”んじゃないのか。
記してはいけないのに、記した。
それはつまり、記すことが“必要だった”という証なんじゃないか。
傘の骨にぶつかる雨粒の音が、少しずつ速さを増していく。
目の端に、通りの向こうのショーウィンドウが映った。
ガラスの向こうに並ぶマネキンの中――一体だけ、顔がない気がして息を止める。
……でも、すぐに見間違いだったと気づく。
それでも、心臓はどくどくとうるさく鳴っていた。
「記してはならぬ、ね……」
澪は、傘の下で呟く。
その声には、ほんの僅かな“逆らうような響き”があった。
家に帰り着いたとき、澪の足元にはいつもより重たい水音がまとわりついていた。
図書館で見つけた文言が、脳裏から離れない。「記してはならぬ」と書かれていたその一文が、むしろ“何かを伝えようとしていた”痕跡に見えて仕方がなかった。
「ただいま」と声をかけても、奥からの返事はない。仕事の時間か。玄関先で靴を脱ぎ、リビングに鞄を置くと、澪は洗面所へと足を運んだ。
蛇口を捻る。
途端に、ぬる、とした嫌な音が響いた。
出てきたのは水ではなかった。透明ではあるが、糸を引くような質感の液体が、ぬらぬらと蛇口から垂れ落ちてくる。粘度が高いわけではない。だが明らかに“水ではない”。視覚だけが、異常を訴えていた。
「……っ、なに、これ」
後ずさりかけたそのとき――
「……キヅクナ……」
排水口の奥から、確かに、女の声が聞こえた。
息を呑み、背筋が凍る。だが洗面所を出たその足で、母のいる部屋に駆け寄った。
「お母さん、今、洗面所で……!」
言葉が出てこない。喉が締めつけられるように、まるで“誰か”に押さえつけられているかのようだった。澪は咳き込みながら黙り込んだ。母はテレビに目を向けたまま、「なあに?」とだけ返した。
何も聞こえていない。
何も見えていない。
――聞こえるのは、わたしだけ。
はっきりした。澪は目を伏せながら、リビングを後にした。
部屋に戻り、机に突っ伏す。
……怖い。けど、引けない。
カバンからノートを取り出し、再び見直す。古文書の内容を写したはずのページの一部が、知らぬ筆跡で書き換えられていた。
くっきりとした筆圧で、こう書かれている。
『かかわるな
かかわるな
かかわるな
──しずめヨ、ミヲ』
ぶるっと肩が震えた。
それでも澪はノートを閉じる。破り捨てようとはしなかった。
「……天音だけでも、守らなきゃ」
呟いたその声は、たしかに震えていた。
でも、目は真っ直ぐ前を見据えていた。
夜。時計の針は日付をまたいでいた。
澪は机の上に広げたノートに目を落としながら、眠気を耐えていた。ページには自分の字で“記してはならぬ”の文言や、祠の石碑に刻まれていた言葉が並ぶ。
けれど、だんだんと文字が滲み、にじんだそれが波紋のように広がっていく。
……気づけば、廊下に立っていた。
濡れていた。廊下も、自分の足も、すでに水に沈んでいた。
制服の裾が重たくまとわりついている。視線の先には、暗くひらけた空間。体育館の裏側、シャワー室。
まっすぐそこに向かって歩いている。わたしじゃない“誰か”が。
けれど視界はその“誰か”のものだ。身体の感覚もある。歩いている足音、水を踏む感触。全部が現実のように、確かだった。
鏡があった。見た。
映っていたのは、自分ではない。
でも、どこかで見たことのある顔だった。
鏡に手を伸ばそうとしたその瞬間――誰かに、後ろから突き飛ばされた。
シャワー室の床が、冷たい。
水が、冷たい。
息が、できない。
ぼやける視界のなかで、誰かの声がした。
「バレなきゃ、ただの遊びでしょ?」
浮かび上がるように、澪の意識が跳ねた。
――はっ、と息を吸って、現実に戻った。
自室の天井。ベッドの軋む音。胸が上下し、冷たい汗が首筋を伝っていた。
枕が濡れていた。涙か、汗か、それとも……
立ち上がって洗面台の鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは――一瞬だけ、自分の顔に重なる“あの顔”だった。
わたしじゃない。けど、確かにわたしだった。
「どうして……どうして知ってるの……?」
手が震えていた。ノートに夢の内容を記録しようとしても、ペンがまともに握れない。
けれど、胸の奥に残っていたものがあった。
苦しさ、悔しさ、そして――“助けて”という、強い願い。
それだけは、確かに自分の中に残っていた。
蛍光灯の白い光の下で、澪はまたノートを開いていた。
水に濡れた夢、誰かの記憶、聞こえた“助けて”という声。それが幻覚でも、自分の妄想でも、構わないと思っていた。けれど。
「……あの子、ほんとうに、苦しかったんだよね……」
震える手で、ページをめくる。
水場の神格、封印儀式、鎮魂の風習。古い図書室の資料棚にあった文献の一部を思い出しながら、走り書きのように書き写していく。
“祓えぬもの、鎮めよ”
“その名を問うなかれ。知られし名は、呼び水なり”
「……誰にも、助けてもらえなかったのかな」
呟いた自分の声が、思っていたよりもずっと小さく響いた。
自分だったら。
誰かに気づいてほしかった。
誰かが、名前を呼んでくれたら――。
わからない。けど、無視はできない。放っておけない。
澪はゆっくりとペンを取った。ノートの余白に、丁寧な字で記す。
『助けるために、知りたい。
この子のことを、ちゃんと。』
文字がにじんで見えたのは、きっと眠気のせいだけじゃなかった。
翌朝、澪はいつもより早く家を出た。昨夜の夢と記録のことが頭から離れなかった。学校へ向かう道すがら、どこか現実感が薄い。
校門をくぐったところで、同じクラスの女子数人とすれ違った。
「おはよう」
そう声をかけたが、誰一人として返事をしなかった。顔を向けた様子すらなかった。
澪は立ち止まり、何かがおかしいと感じる。
――もしかして、聞こえてなかった?
教室に入っても違和感は続いた。机には自分の教科書がある。椅子もある。でも、誰かと目が合っても、その誰かはすぐに視線を外す。まるで最初から存在していなかったかのように。
スマホを取り出し、グループチャットを開いてみる。昨夜まで表示されていた“澪”の名前が、一時的に灰色になっていた。システムエラー? 再起動しても、表示が戻らない。
母からのメッセージ通知が来ていた。
《今日は部活遅いの?ご飯あっためておくね》
澪は小さく息を呑んだ。……もう引退したって言ったはずなのに。
指が震えた。スマホを落としそうになる。
存在が薄れていく。この世界から、少しずつ。
それでも――。
夜、部屋のノートにもう一文、書き加えた。
『私は忘れられてもいい。
でも、あの子を見捨てたままにはしない』
ページのインクがゆっくり滲んでいく。
その滲みの中、ほんの一瞬だけ――
“誰かの手”がノートに触れていたような気がした。
朝の教室には、いつも通りのざわめきが満ちていた。
笑い声、筆箱を開ける音、椅子を引く音。そのどれもが、澪の存在を通り抜けていく。
「……おはよう」
ぽつりと口にした挨拶は、空気に吸い込まれて消えた。
隣の席の紗英が、友達と談笑しながら鞄を机に置く。澪の肩がかすかに触れているはずなのに、彼女はまるで“何もなかった”かのように自然に動いた。
誰も、澪を見ない。声も、届かない。
出席を取る担任の声が響く。
「高橋」「はい!」「早川」――次の名前は呼ばれなかった。
澪の机には、名前のシールが貼られていたはずの場所に、ただの傷跡が残っていた。
その日の放課後、澪は静かに図書室へ向かった。人気のない資料棚を歩きながら、以前読んだはずの本を探す。
“祓えぬもの、鎮めよ”――その文が載っていた本だ。
けれど、何度探しても見つからなかった。タイトルも、著者名も思い出せるのに、書架には存在しなかった。
自分の記憶と現実が、ずれている。
澪は静かに腰を下ろし、鞄からノートを取り出す。
最後のページを破り、手に取ったペンで、ゆっくりと書く。
この呪いは悲しみの形。
どうか、誰かが気づいて。
わたしがいたことを忘れてもいい。
でも、あの子の涙だけは、忘れないで。
書き終えた紙を、棚の隙間に差し込む。誰かが、いつか手に取ってくれることを信じて。
図書室を出て、澪は一度だけ、廊下の鏡の前に立った。
自分の姿を確認したくて。確かに、ここにいるという証明が欲しくて。
けれど――そこに映っていたのは、誰もいない空間だった。
鏡の奥に、立っている少女が一人。
濡れた髪、ずぶ濡れの制服、見開いた無表情の瞳。
澪の姿ではなかった。
でも、その目は、真っ直ぐに澪を見ていた。
「…………」
声は出なかった。ただ、心の中に、濡れた囁きが染み込んでいく。
“……邪魔しないでって、言ったでしょ……”
それが最後の言葉だった。
次の瞬間、誰もいない廊下に、澪の気配はすでに無かった。