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第4章:沈む月、濡れた声

第4章:沈む月、濡れた声


 その日も、放課後の教室には運動部特有のざわめきと汗の匂いが漂っていた。

 夏の大会が近づいているせいか、みんな少しずつピリピリしている。だけど――


 「……最近、なんか元気ないね、天音」


 わたしはポツリと呟いた。誰に聞かせるでもない、ひとりごとみたいに。


 天音は、わたしのすぐ隣の席に座っている。なのに、返事はなかった。

 それどころか、彼女はじっと前だけを見ていた。窓の外に視線をやっているようで、その実どこにも焦点が合っていないような、そんな空虚な目だった。


 「……ねぇ、天音?」


 今度はちゃんと声をかけてみる。だけど、やっぱり返ってこない。

 まるで、耳までどこか遠くに行っちゃったみたい。


 ほんの少し前まで、私たちはほとんど毎日一緒にいた。

 部活のあと、コンビニに寄ってお菓子買ったり、くだらないことで笑ったり。

 話題も尽きなかったし、同じドラマの推しで盛り上がったりしてたのに。


 「……何か、あったの?」


 その問いに、ようやく天音が小さく反応した。

 けれど、動きは鈍く、視線だけがこちらを向いた。その目の奥には、うっすらとした――恐怖?


 「ううん、なんでもない。……澪は、気にしないで」


 声が震えていた。笑ってるように見せようとしてたけど、全然笑えてなかった。

 むしろ、泣き出しそうな表情だった。


 「なにそれ……気になるに決まってるじゃん。ねぇ、ちゃんと話しなよ」


 立ち上がって机を回り込もうとしたとき、天音がピクリと肩をすくめた。

 次の瞬間、机の下で、わずかに足が後ずさるのが見えた。


 「……来ないで」


 その言葉は小さくて、でもはっきりとした拒絶だった。


 私は立ち止まった。息が止まったみたいに動けなくなった。


 まるで、わたしが“何か”であるかのように――彼女は怯えていた。


 雨が降っていたわけでもない。怪我してる様子も、誰かに何かされた様子もない。

 それでも天音は、まるで見えない何かを、ずっと引きずっているみたいだった。


 その日以来、彼女はますますわたしを避けるようになった。

 LINEの返事は素っ気なく、部活が終わっても「先に帰るね」と足早に姿を消す。

 会話も、視線も、触れることすら、少しずつ少しずつ――遠ざかっていった。


 でも、わたしは知ってる。


 天音は、なにかに怯えてる。

 それが誰でもなく、**“見えないなにか”**だということを。


 そして、それがもし……わたしの知らない恐怖だとしたら。

 わたしがそれを知ろうとすることすら、間違いなのだとしたら。


 ……それでも。


 彼女が、あんな顔でひとりきりで震えているのを、見過ごすことなんてできなかった。


 その日も、天音は一言も喋らなかった。


 部活が終わって、みんなで片付けをしているときも、着替えのロッカー室でも。

 視線はどこかに置き去りにされたようで、返事はうわの空。

 声をかけても、笑っても、手を振っても――まるで、わたしが存在していないみたいだった。


 だけどそれは、わたしだけが感じているのかもしれない。

 他の子たちは特に気にしていない様子で、いつものように大会のことで盛り上がっていた。


 「……澪、今日も天音ちゃんと帰らないの?」


 後ろから声をかけてきたのは、美和だった。いつもニコニコしてて、ちょっとお節介なところのある子。

 だけど、今のわたしにはその優しさが妙に重く感じられた。


 「うん……なんか、最近あんまり話してなくて」


 「ふぅん……ケンカでもしたの?」


 「してないよ。わたしは、ね」


 言い終えてから、自分の言葉に引っかかった。

 “わたしは”って――それって、天音が何かを避けてるってことを、もう無意識に受け入れてるってことじゃない?


 自分の言葉が、自分の心を暴く。なんだか情けなくて、唇を噛んだ。


 「……ま、あの子最近ちょっと変だもんね。元気ないし、目が合ってもすぐ逸らすし。何かあったのかなぁ」


 美和が言った“変”という言葉が、やけに鋭く心に刺さった。


 そう。変なんだよ、あの子。


 あんなに笑ってたのに。

 あんなに、毎日くだらない話で笑い合ってたのに。


 たとえば、あの日――

 急に降り出した雨の帰り道、わたしたちはびしょ濡れになりながらも「最悪~!」って笑ってた。

 コンビニで買ったタピオカを一口だけ交換して飲んで、「そっちの味のほうが美味しいじゃん」とか言い合ってた。


 ……それが、ほんの数日前の出来事だったなんて、今では信じられない。


 まるで、別人みたい。


 「じゃ、先帰るね!」


 わたしがシューズを履き終える前に、天音はロッカー室を出ていった。

 部活仲間にも手を振らず、視線を落としたまま、音を立てないようにすり足で。


 それを見ていた子が一人、ぽつりと呟いた。


 「……なんか、幽霊みたいじゃん」


 誰が言ったのかはわからなかったけど、その言葉にみんなが少しだけ、空気を飲み込んだ。

 すぐに話題は別の方向に逸れていったけれど、わたしの胸の奥では、その一言がずっと残っていた。


 まるで、天音はこの世界からすこしずつ、透明になっていっているような。


 家の方向は同じはずなのに、最近は別々に帰るのが当たり前になった。


 今日も、わたしが昇降口を出たときには、天音の姿はもうなかった。

 雨も降っていないのに傘を差して、まるで見えないものから逃げるように――一人きりで。


 「……どうして、そんなに避けるの……?」


 声に出すと、泣きたくなるから言えなかった。


 スマホを取り出して、天音とのLINEを開く。

 一週間前のスタンプ付きのやり取りが最後だった。それ以降は、わたしのメッセージに“既読”すらついていない。


 ――ねえ、何があったの?


 ――話してよ。なんでも聞くからさ。


 ――怖いなら、わたしが一緒にいるよ。


 どのメッセージにも、返事はない。

 あの日を境に、何もかもが変わってしまった。

 そして、わたしはただ一人、取り残されていく。


 そう感じるたびに、胸の奥がズキズキと痛んだ。


 ――今日こそ、確かめる。


 わたしは、静かに昇降口の影に身を潜めていた。

 下校時刻を過ぎても、昇降口にはちらほらと人が出入りしていて、部活を終えた生徒たちの声が響いている。

 でも、わたしの視線はただひとり――天音の姿だけを追っていた。


 やがて、見慣れたシルエットが現れた。

 濃紺のスクールバッグを肩にかけ、足早に歩く姿はまるで誰かに追われているみたい。

 傘はさしていない。晴れている日だったから当然だけど、それでもどこか不自然に、彼女は空を見上げるような素振りを繰り返していた。


 その背中を、わたしは一定の距離を保って追いかけた。

 ドキドキと脈打つ鼓動が耳の奥でうるさく鳴っていたけれど、それでも止まらなかった。止まれなかった。


 放課後の街はまだ明るい。

 コンビニの明かりや車の音、人の気配が安心感を与えてくれるはずなのに――

 天音のまとう空気だけが、まるでひとつの夜みたいに、冷たくて沈んでいた。


 歩道橋を渡り、住宅街の方へ抜ける細道へと入ったところで、彼女の足がピタリと止まった。


 何かを感じたように、ゆっくりと視線を横へ向ける。


 ……ただの水たまりだった。

 前日の雨でできた、少し大きめの水たまりが、アスファルトのくぼみに広がっているだけ。


 でも天音は、そこから目を逸らせずにいた。

 まるで、その水の中に“何か”がいるとでもいうように。

 目を見開き、口を震わせ、全身を強張らせながら――音も立てず、息すら殺して。


 わたしはごくりと唾を飲んだ。


 何も、見えない。


 水面はただ、夕陽を淡く映しているだけ。

 そこには女も影も、得体の知れない何かの気配も――なにも、なかった。


 けれど天音は、まるでそれが“そこにある”かのように、後ずさりを始めた。

 怯えて、怯えて、呼吸すらままならない様子で。


 「……やだ……やめて……っ……」


 震える声が、かすかに聞こえた。


 わたしはとっさに飛び出そうとした。けれど、足がすくんだ。

 その水たまりのすぐ脇に近づくのが、どうしようもなく怖かった。


 それがただの水じゃない。

 天音のこの異常な反応が、明らかに“水”に関連している――

 そのことに、わたしはこの瞬間、確信した。


 “見えていない”のに、わかった。


 天音の恐怖は、きっと――水の中にいる“何か”に向けられている。


 やがて彼女は、その場から逃げるように走り去った。

 わたしは声をかけることもできず、ただ呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。


 夕陽が沈みかける街の中、ただの水たまりが、まるで底知れぬ深淵のように思えた。


 わたしは図書室の隅の席に、ノートを広げていた。


 放課後。部活をサボったのは、たぶん入学して初めてのことだった。

 先生には「頭が痛くて」と適当な理由で伝えた。罪悪感は少しあるけど、それ以上に、確かめたいことがあった。


 ――天音が怯えていたもの。それは、水に関係している。


 昨日見た彼女の表情が、何度も脳裏によみがえる。

 誰もいない水たまりを前にして、まるで“そこにいる何か”に縛られているみたいだった。


 その異様な怯え方は、ただの幻覚やストレスでは説明できない。

 そう、直感で思った。


 図書室の検索端末で【水 幽霊】とか【雨 怪異】【水辺 伝承】なんて単語を打ち込んで、古い郷土資料の棚を探していく。


 地方伝承、怪談集、都市伝説の本。

 誰も読んでいないのか、ページの隅が茶色く波打っていて、カビ臭い匂いが鼻をくすぐった。


 最初の何冊かは無駄だった。水神信仰とか、井戸の神様の話とか、ちょっと違う。


 だけど、ページをめくる手がふと止まった。


 ――『濡れぬれおんな』。


 その言葉を目にした瞬間、背筋がゾクリと冷たくなった。


 短い段落でまとめられた文章の中に、こんな一文があった。


 > 雨の降る夜、道端に現れる濡れた女。

 > 声をかけた者は病に倒れ、気づいた者は姿を消す。

 > 彼女は“見られる”ことで現世とつながり、徐々に侵食していく。


 わたしは息を止めて、じっとその文字を見つめた。


 雨の夜。道端。濡れた女。


 天音の様子がおかしくなったのは、あの日の雨の翌日からだ。

 帰り道、何かを見たのかもしれない。誰にも言えない“何か”を。


 ――天音は、濡れ女を見てしまったのか?


 “声をかけた者”とか、“気づいた者”って書いてあった。

 もしかしてそれって、ただ通りすがりに見るだけじゃなくて、そこに“関わってしまった”ということ……?


 カリ……ッ


 本のページをめくったわたしの爪が、紙を裂きそうなほど強く当たっていた。

 指先が震えているのに気づいて、そっと膝の上に手を置いた。


 わたし、何してるんだろう。


 都市伝説なんて、バカみたい。

 そう思いたいのに、心のどこかで“違う”と叫んでる。


 天音の恐怖は本物だった。わたしを避けるようになった理由も。

 昨日のあの、空っぽの水たまりに向けたあの怯え方……あんなの、演技でできるわけがない。


 わたしはノートに“濡れ女”と書いた。

 その文字の下に、天音の名前を添えた。


 その瞬間だった。


 ――すぐ後ろの空気が、ヒュ……と冷たく揺れた気がした。


 誰かが立っている?

 でも、振り返ってもそこには誰もいなかった。


 気のせい、かもしれない。


 だけど心臓はドクンと跳ねて、鼓動が耳の奥を突いていた。

 不安が、じわりと背中を這うように広がっていく。


 わたしはノートを閉じ、本を棚に戻した。

 図書室の天井からぶら下がる蛍光灯が、チカチカと小さく瞬いていた。


 なにかが、確かに近づいてきている――

 そんな気配だけが、濡れた靴底のように、胸の奥に張り付いて離れなかった。


 部屋の静けさが、耳を刺すように染みていた。


 机の上にはノートと教科書、そして手元のスマホ。

 画面には「濡れ女」「水の怪異」「見える者」「取り憑かれる」――そんな文字が並んでいる。


 図書室で拾った断片的な資料と、ネットの都市伝説。

 そこにあったのは、曖昧で、どれも根拠に乏しい情報ばかりだったけれど、それでもわたしは目を離せずにいた。


 天音の異変は、明らかに“雨の日”から始まっている。

 そして“水”に対して異常なほどの恐怖を示している。

 それらを結びつけた時、「濡れ女」の伝承は、ただの作り話ではないと確信してしまった。


 「ほんとに……いるのかな。そんなのが」


 ぽつりと、口に出してみた瞬間。


 ――くるナ……。


 耳元で、濡れた囁きが聞こえた。


 体が凍りついた。


 部屋には誰もいない。

 カーテンは閉まっていて、窓も施錠してある。

 なのに、確かに、すぐ横から女の声が――


 ――ジャマ、しナいで……


 重なるように、もう一つの囁き。

 風でも幻聴でもない。声には、怒りと、嫌悪が含まれていた。


 「うそ……」


 口の中がカラカラに乾いていく。


 部屋の空気がじっとりと濡れていた。

 喉を通る呼吸ですら、重く湿っている。

 机の上のコップ――残っていた麦茶の水面が、震えもせず、不気味なまでに“止まって”いた。


 そして、聞こえた。


 ――ワたしノ邪魔……シなイデ……

 ――ナんデ……まタ……?


 囁きは、言葉にならないほど静かなのに、頭の芯に直接染み込んでくるようだった。

 ぞわぞわと、骨の奥を這うような感触。


 わたしはベッドの端へとじりじりと後退しながら、震える声で言葉をこぼす。


 「……天音を、助けたいだけなのに……っ」


 ――ソレ、が一番……ジャマ……。


 空気が低く、湿った呻きに包まれた。

 その瞬間、机の上のノートの端が「ガリッ」と引っかかれるような音を立てた。

 まるで誰かが、長い爪で紙の表面を裂こうとしたみたいに。


 恐怖で心臓が跳ねる。背中が壁にぶつかる。

 逃げ場がない。声も出ない。


 ――ウシロ、ミナイで……


 耳元に落ちてきたその言葉で、わたしは反射的に目を閉じた。


 今、振り向いたら、終わる。


 頭の中のどこかが、そう警鐘を鳴らしていた。

 見てはいけない。知ってはいけない。関わってはいけない――


 わたしは、確かに“見られている”のだと感じた。


 目を閉じたまま、震えながら、わたしはそっと唇を噛みしめた。


 怖い。怖くて仕方がない。

 でも、それでも。


 ――天音を、助けたい。


 わたしの中の想いが、恐怖に押し潰されることはなかった。


 その時、音も気配も――すっと消えた。


 湿気が少しだけ軽くなったような気がして、わたしはようやく、ゆっくりと目を開いた。


 部屋は、変わらずそこにあった。

 ノートも、スマホも、水の入ったコップも。

 ただ一つだけ、机のノートの端に――水滴がひとつ、落ちていた。


 朝の光は眩しいはずなのに、今日はどこか灰色がかって見えた。

 窓から差し込む陽の光が、まるで昨日のあの気配を誤魔化すように、机の上を照らしている。


 ……あれは、夢じゃなかった。


 耳元で囁くような声。誰もいないのに聞こえた気配。

 ノートの上に残った、濡れた水滴。


 どんなに現実味がないように思えても、わたしの中の“感覚”が、それを現実だと訴えていた。


 制服の胸元を握りしめる。

 昨日のことが頭から離れない。怖くてたまらなかった。でも、それ以上に、どうして自分が“あれ”に気づかれてしまったのか――それがわからなかった。


 わたしは、ただ、天音のことを心配して、調べていただけなのに。


 「……なんでわたしに……?」


 登校の途中、道路脇の水たまりを見つめる。

 小さなその輪郭が、何かの“目”みたいにこちらを見返しているような気がして、慌てて目を逸らした。


 “関わるな”

 “邪魔するな”


 あの声が、頭の奥にこびりついて離れない。

 何を“邪魔”したの? どうして“来るな”なんて言われたの?

 わからない。何一つ、はっきりとしたことはない。


 だけど、天音の様子がおかしくなったのは、あの雨の日から。

 そして今度は、わたしが声を聞いた。


 ひょっとして、“天音とわたしが一緒にいたから”?

 あるいは、“天音の異変に気づいて、調べていたから”?

 ……それとも、何か別の理由が?


 どんな理由であっても、ひとつだけ確かなことがあった。


 わたしは、“見つかった”。


 あれは、わたしを知っている。

 夜の部屋で囁いたあの声は、明確に“わたしに向けられた敵意”だった。


 「……もう、知らないふりはできない、よね」


 口に出した言葉が、やけに空しく響いた。


 本当は怖い。

 これ以上深入りしたら、わたしも“天音みたいに”なってしまうかもしれない。

 それでも、あの怯えた彼女の背中が、どうしても頭から離れなかった。


 ――わたしは、知ってしまった。

 そして、知らなければ良かったなんて、もう思えない。


 もし、わたしが目を逸らしたら――

 天音は、このまま壊れてしまうかもしれない。


 「絶対、助けるから……」


 誰に言うでもなく、小さく、強く、呟いた。


 それが、わたしの決意だった。


 放課後の図書室は、すっかり静まり返っていた。


 教室の喧騒も、部活の声もここまでは届かない。

 わたしは人の気配のない書架の奥、郷土資料の棚を前に膝をついていた。


 昨日の夜の出来事が嘘じゃないなら、もう少し突っ込んだ情報が必要だった。

 “視えた”わけじゃない。だけど、“聞こえた”。

 あれは、確かに存在している。


 わたしが手に取ったのは、年代も曖昧な手製の綴じ本。

 劣化した表紙には墨で「村伝」とだけ書かれている。

 検索にも引っかからなかった資料で、図書委員すら存在を知らないような古いもの。


 ――誰にも読まれない、忘れられた言葉の中に、何かがある気がしていた。


 ページをめくる指に、紙のざらつきが伝わる。

 文字は旧仮名遣いが混じっていて、正確には読みにくい。でも、ある言葉が目に止まった。


 「濡れたる女、雨夜に現れ、目を合わすなかれ」


 息を飲んだ。


 続けて、文はこう記されていた。


「其ノ者、もとより人にあらず。

無念を抱き、屍より戻る。

見つめられし時、つぎなる『器』を欲するなり」


 “つぎなる器”――

 意味はわからなかったけれど、その言葉がやけに重く胸にのしかかった。


 ページの端に、墨で書かれた丸い印が目に入る。

 それは何かの「封印」のようにも見えた。

 幾何学模様のような、祭壇の上に描かれたもののような、そんな図。


 最後のページにはこう記されていた。


「ソノ女、弔わることなきまま忘れられしとき、

過去より現れ、魂を喰らい、雨と共に在り続けん。

触れてはならぬ。

記してはならぬ。

ソレを、知ることすら許されぬ」


 言葉の意味よりも、そこに込められた“恐れ”の気配が、手から紙を遠ざけさせた。


 「……わたし、やっぱり……」


 関わってはいけないものに、触れてしまっている。


 でも、もう遅い。


 わたしは“知って”しまった。

 天音の怯えの正体も、自分が聞いた囁きの意味も、ようやく輪郭が見えてきた。


 もしかしたら、これは……

 天音が今、戦っているものなのかもしれない。


 わたしはページを閉じ、そっと本を棚に戻した。


 その瞬間、耳の奥に――またあの、濡れた気配が落ちた気がした。


 「…………」


 振り向かない。

 見ては、いけない。

 それだけは、昨日の夜に体で学んだ。


 心の奥にざらついた重みを抱えたまま、わたしは図書室を後にした。


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