第3章:水音の先に
第3章:水音の先に
朝の昇降口は、いつもより静かだった。
梅雨明け前の湿った空気が校舎内にも染みついている。体育館から微かに聞こえるバスケ部のボールの跳ねる音と、窓から差し込む薄い光。そんな中、雨宮天音は教室の扉を開けた。
澪の机は――空のままだった。
「……今日も休み、なんだ」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。席に着いた天音は、鞄を机の横に掛ける動作をしながら、澪の机に目をやった。
そこには昨日と変わらぬ、何もない空間が広がっていた。筆箱も、教科書も、水筒もない。
そして、昨日まで確かにあった“澪の匂い”すら、どこかへ消えてしまったような気がした。
「なぁなぁ、聞いた? 澪ちゃん、なんか休み続いてるって」
近くの女子たちがひそひそと囁き合っているのが耳に入った。
「うん、先生が『家庭の事情』って言ってたけど、どうなんだろうね」
「……もともと、そんなに喋るタイプじゃなかったし、いなくても違和感ないよね」
ひどい言い方。でも、誰も悪気はなかった。そう、きっと。
“喋るタイプじゃなかった”。それは確かに、そうだった。だけど、あの子は――。
記憶を手繰ろうとする。天音は机に頬杖をついたまま、ふと目を伏せた。
澪と最後にまともに話したのは……いつだっただろう。
雨の日。部活の帰り道。あの道路沿いの車止めに腰掛けていた、髪の長い女の人。
あの時、天音は確かに見た。見てしまった。けれど、他のみんなには見えていなかった。
その日の夜。澪からメッセージが来て。次の日にはもう――いなかった。
「……うそ、でしょ」
記憶が、ふわりと浮かんではすり抜けていく。まるで、濡れた紙に書いた文字が滲んで読めなくなるように。
澪の声。話し方。笑い方。全部、ほんの数日前まではちゃんと覚えていたはずなのに。
教室のざわめきが遠のいていく。天音は背中を伸ばして、窓の外を見た。
空は曇りがちで、いつ降り出してもおかしくない重たい気配を孕んでいる。
「雨、降るかな」
誰にも聞かせるつもりのない独り言。だけど、そんなつぶやきに、答えるように。
――ぱちん。
窓ガラスに、ひと粒の水滴が跳ねた。
そのあとを追うように、無数の小さな点が降りはじめる。
雨だ。
天音はゆっくりと目を閉じた。
耳の奥で、水音が広がっていく。まるで、それが合図だったかのように。
――ねぇ。わたしのこと、忘れてないよね?
「っ……!」
思わず立ち上がりそうになったが、ぐっと足に力を込めて留まった。
“声”ではない。“記憶”でもない。けれど、確かに脳に直接流れ込んできたような感覚。
誰も気づかないまま、授業のチャイムが鳴った。
日常がまた始まる。
ただし、それは天音だけが感じる“何か”を孕んだ、少しだけ異常な日常だった。
放課後の教室は、誰かの笑い声と椅子の引きずる音で満ちていた。
天音はその喧騒の中に身を置きながらも、ずっと遠くを見ているような顔をしていた。頬杖をついたまま、ぼんやりと廊下に続く窓を見つめている。
「天音? 行こうよー、着替え早くしないとグラウンド閉まっちゃうって」
紗英が笑いながら背中を叩いた。
「……あ、うん、ごめん」
返事をしてから、天音は鞄を持って立ち上がった。今日の部活は雨で中止だと、さっき放送があったばかりなのに、無意識に習慣で動こうとしていた。
更衣室で上履きからスニーカーに履き替え、玄関へ向かう。その途中、ふと校内放送のスピーカーの下を通りかかったとき、耳の奥で微かな水音がした気がして立ち止まった。
ポタ……ポタ……。
――雨漏り? いや、そんな場所じゃない。
気のせいだろうと無理やり納得して、外へ出る。
傘を広げた瞬間、空から冷たい粒が降り落ちてきた。昼間は曇っていた空が、いつの間にか鈍く光を失っている。
校門を出て、紗英と別れる。今日は紗英が塾の日だった。
「気をつけてねー」
「うん、天音も帰ったらあったかいの飲みなよ」
言葉を交わして、手を振る。
雨音の中で、その声がやけに遠く感じられた。
ひとりになった瞬間、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。まるで何かを忘れてしまったような、あるいは、思い出してはいけない何かが胸の内に染み込んでくるような。
澪の家に行ってみよう。
そう思い立ったのは、半ば衝動だった。何の理由もなかった。ただ、“確かめなければならない”という感情だけが、彼女を動かした。
歩いて十分ほどの場所にある住宅街。家と家の間に植えられた木々が雨に濡れ、葉の先からしずくを滴らせている。
澪の家の前に立った瞬間、天音は息を呑んだ。
ポストには、数日分の新聞が溜まっている。門扉の鍵は閉まったままで、誰かが出入りした形跡は見当たらなかった。
それよりも、もっと気味が悪かったのは――
アプローチのコンクリートに残っていた、水の足跡。
裸足の、それも小さな少女のような足跡が、雨で濡れた地面に確かに残されていた。
天音は震える手でスマホを取り出し、足跡を写真に撮ろうとした。
だが画面には、何も映らなかった。
レンズ越しには、ただの濡れた地面が広がっているだけ。なのに、自分の目には確かに見える。
足跡は玄関の前で途切れていた。
誰かが、入ったのか――それとも、出ていったのか。
ゾワッと首筋を這うような寒気に、思わず体をすくめた。傘の先からしたたる雫の音が、いつの間にか耳障りになっていた。
帰ろう。長居は、良くない。
そう思って踵を返したときだった。
視界の端に、動くものが見えた。
道の向こう。小さな公園のベンチ。雨の中、傘も差さずに誰かが座っている。
長い黒髪が肩から垂れていて、顔は見えない。けれど、その姿にはどこか既視感があった。
天音は、足を止めた。
その人影が、ゆっくりと立ち上がったように見えた。振り返るのではなく、ただ、立ち上がって……そのまま、にじむように薄れていった。
見間違い? それとも……。
呼吸がうまくできない。胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、足の先まで冷たくなっていく。
――見てはいけない。見たら、きっと“そこ”に引き込まれる。
全身がそう警告している。だが、目を逸らせない。
ようやく身体が動いたのは、心臓がひときわ強く鼓動を打った瞬間だった。
走る。何も考えずに。傘を傾けながら、ただ無我夢中で。
帰り道の曲がり角で、ようやく足を止めた天音は、肩で息をしながら振り返った。
……誰も、いなかった。
けれど、あの足跡の濡れた感触と、誰かが自分の後ろに“立っていた”気配だけは、まだ背中に残っていた。
家に帰ると、いつもより少し強めの煮物の匂いが玄関に満ちていた。
天音はゆっくりと靴を脱ぎ、玄関マットに水が滴らないよう傘の先を壁に立て掛ける。ふと、視線が足元のフローリングに落ちた。
――足跡は、ついてない。
玄関の床はきちんと乾いていた。自分の靴裏は確かに濡れていたはずなのに、濡れた形跡がどこにもない。それがどうにも落ち着かない。
「……ただの、気のせい」
小さくつぶやいて、リビングに向かう。
ダイニングキッチンでは、母・雨宮沙知子がエプロン姿で味噌汁をかき混ぜていた。すっきりとしたショートボブに、小柄な背中。無駄なく動くその手つきには、長年の習慣と日常がにじんでいる。
「ただいま」
「おかえり。濡れなかった?」
鍋から顔を上げて、母が優しく微笑んだ。
その笑顔に少しだけ救われた気がして、天音は曖昧に頷いた。
「うん、大丈夫」
けれど、本当は大丈夫なんかじゃなかった。
喉の奥まで込み上げてくる違和感を、天音は無理やり飲み込んだ。
「手、洗ってきて。すぐご飯できるから」
「……うん」
洗面所に向かう途中、ふとスマホが震えた。叔父――雨宮大地からの返信だった。
「おっ、ホラーか?
この時期流行るよな~女子はそういうの好きだな笑
なんかイヤな夢でも見た?」
文面は軽い。
悪意のない、普通の返信だった。けれど、今の天音にはその軽さが刺さった。
――叔父さんには、わかんないよね。
だって、実際に“見た”こと、ないんだもん。
画面を閉じて、深く息をついた。
洗面台の鏡に映る自分の顔。どこかぼんやりしていて、他人のようにも見えた。頬をペチンと軽く叩き、気合いを入れる。
食卓に着くと、母は煮物と味噌汁、焼き魚を並べていた。栄養バランスは完璧。いつもと変わらない、母の手料理。
それでも、天音の箸はなかなか進まなかった。
「今日さ……」
口を開きかけた。けれど、母が味噌汁の具を箸で押さえながらぽつりと言った。
「今日、仕事ちょっとトラブルがあって。取引先と揉めちゃってさー……もうほんと疲れた」
その言葉と、続くため息が、天音の口から言葉を奪った。
母の横顔。眉間に小さな皺が寄っていて、目の下には隠しきれないクマがある。
仕事で無理をしていることは、なんとなく分かっていた。だから、心配なんてかけられなかった。
「……そっか。お疲れさま」
笑って、そう言うのが精一杯だった。
母は「ありがと」と微笑んだあと、「天音は学校どうだった?」と聞いてきた。
天音は少し迷ってから、何でもないように「うん、普通」と答えた。
本当は、普通じゃなかった。全然。
でも、母に言ったところでどうなる? 信じてもらえる保証なんてどこにもない。
食後、片付けを手伝いながら母は言った。
「もうすぐ夏休みだし、何かしたいこととかある?」
「え……そうだな。うーん……」
何も思い浮かばなかった。怖くて、何も考えられなかった。
ただ、この“違和感”を――
“誰かがいなくなっていく”この恐怖を、誰にも伝えられないまま、また一日が終わっていくことだけは、間違いなかった。
風呂上がり。
髪をタオルで拭きながら、自室に戻った天音は、机の上に置いたスマホを見つめていた。
画面には、さっき既読がついたままのメッセージ。叔父――雨宮大地とのトーク履歴が表示されている。
「なんかイヤな夢でも見た?」
それだけ。
別に悪気はないのは分かってる。叔父は昔からちょっと軽くて、お調子者みたいなところがあるけど、根はすごく優しい。
夏休みの自由研究で困っていたとき、深夜まで付き合ってくれたこともあった。正月は必ず一緒に初詣に行ったし、誕生日にはプレゼントだって欠かさなかった。
“兄みたいな叔父さん”。
そんなふうに思っていた。つい最近まで。
でも、今は。
「なんで……ちゃんと聞いてくれないの……」
ポツリとこぼれたその声は、誰にも届かない。
壁に貼ったポスターが、エアコンの風でわずかに揺れた。
――本当に、ただの夢だったらよかったのに。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取った。
既読のついたまま動かないトーク画面を閉じて、新しくメッセージを打ち始める。
「夢じゃない。わたし、本当に“見た”んだよ。
最初は女の人で、次は澪。
今は、誰にも話してないのに、足音とか、気配とか、してくる。
叔父さん、刑事でしょ? 変な事件とか、なかった?
最近、女の子がいなくなったとか、家族ごといなくなったとか――」
そこまで打ったところで、親指が止まった。
送れなかった。
“これを送ったら、終わってしまう”気がした。何かを、越えてしまう。
そんな漠然とした恐怖に、指先が震えていた。
代わりに、削除キーを何度も押して、全部消した。
代わりに打ったのは、ただ一言。
「なんでもない。ごめん。変なこと言って」
送信ボタンを押すと、画面を伏せた。
もう、何も見たくなかった。
窓の外は、相変わらず雨。
ぴちゃ、ぴちゃ、と優しい水音が屋根を叩く。リズムは穏やかで、少し眠気を誘う。
ベッドに仰向けになると、天井のシミがふと目に入った。
――こんなところに、あったっけ?
目を細めて見る。確かに、茶色い水染み。何かがしみ出したような輪郭。
ただ、それは今まで見覚えのない、形だった。
まるで……誰かの、手のひらみたいに。
「……やめて、よ」
ポツリとこぼれた声が、部屋の空気に吸い込まれる。
冷房が利いた空間のはずなのに、背筋にじっとりとした汗が浮かんだ。
この違和感、誰にも届かない。
母にも話せない。叔父にも信じてもらえない。
だったら――わたし、一人で何とかするしかないんだ。
目を閉じる。耳をふさぐ。けれど、あの“気配”はどこまでもまとわりついてくる。
澪の名前も、姿も、クラスから消えていくのに、あの“何か”だけは確かに残っている。
“あの日”、車止めに座っていた女。
髪の先から、ぽたぽたと雨を落としていた、あの女の後ろ姿。
もし、あのとき――見なければ。
もし、あのとき――無視していれば。
違っていたのだろうか。
次に、いなくなるのは、誰?
それとも――
次に、見つかるのは、自分?
翌朝。
教室の空気は、どこか浮ついていた。
そんな声が、教室のあちこちでささやかれていた。
天音は、自分の机に座りながら、澪の席を見つめていた。
そこには誰の荷物もなく、まるで最初から誰もいなかったかのように整然としていた。
けれど、つい昨日までそこに座っていた。笑っていた。何気ない話をしていた。間違いなく、天音と一緒に“ここにいた”。
「……ねえ、澪のことなんだけど」
隣の席の紗英に声をかけると、彼女は不思議そうな顔で首をかしげた。
「え? 澪って……誰?」
その瞬間、心臓が大きく脈打った。
澪を知らない? 同じクラスで、ずっと隣の列に座ってたのに?
一緒に部活して、放課後にプリンを分けあったことだってあるのに?
「……冗談、だよね」
「え、なに? あはは、なんか怖いこと言ってない?」
紗英は軽く笑ってごまかした。けれど、その目は本気だった。
冗談なんて言っていない。ただ、本当に――“知らない”のだ。
信じられない気持ちでスマホを取り出し、写真フォルダを開いた。
部活の帰りに撮った集合写真。プリクラの画像。動画。何でもいい。証拠になるものを。
だが、どこにも――いなかった。
写っているはずの位置に、ぽっかりと空白がある。
数日前に撮った、四人での帰り道の動画。
天音の隣で笑っていたはずの少女は、画面の中にはいない。代わりに映っているのは、少し広すぎる歩道と、傘を差した天音と紗英だけ。
「……どういうこと……?」
思わず呟いた言葉は、誰にも届かない。
クラスメイトも、先生も、まるで“最初から存在していなかった”かのように、澪のことを誰も話題に出さない。名簿にも、出席簿にも、名前はなかった。
消された――そうとしか思えなかった。
まるで最初から、世界が“整合性”を保つために、澪という存在そのものをなかったことにしたように。
ガラッ、と教室のドアが開いた。
担任の三浦が入ってくる。
「おはようございまーす」
「「おはようございます」」
三浦は何事もなかったように出席を取り始めた。
天音は一縷の望みを込めて、澪の名前が呼ばれるのを待っていた。けれど――その声は最後まで呼ばれなかった。
授業が始まっても、天音はノートに文字を書きながら、思考をぐるぐると巡らせていた。
昨日、澪の家の前で見た足跡。
公園のベンチにいた、長い髪の女の人影。
そして今朝、誰の記憶からも“いなくなった”澪。
何かが、確実に起きている。
でも、それは“見た者”にしか認識できない。
他の誰にも、感じることも、記録することもできない。
教室の外では、また雨が降り始めていた。
静かに、ひたすら、絶え間なく。
その音が妙に大きく聞こえるのは、自分の耳がおかしくなったせいだろうか。
それとも――
次は、自分の番?
そんな思考に、ぐらりと足元が揺れたような錯覚を覚える。
目の端に、水が垂れたような黒い染みが見えた。
見ると、教室の天井角。
蛍光灯の端から、ぽたぽたと……水が落ちていた。
それに気づいているのは、天音だけだった。
放課後。
教室を出た天音は、まっすぐに廊下を歩いていた。
今日は部活を休んだ。休むと決めていた。
理由はうまく言葉にできなかったけれど、体が自然とそう判断したのだと思う。これ以上、“普通のふり”を続けるのが限界だった。
廊下の窓の外は、夕暮れに染まりながらも、しとしとと降り続く雨に滲んでいた。校庭の水たまりは、まるで鏡のように空を映している。
――誰も、見ていない。誰も、気づいていない。
でも、わたしだけは、“何か”がそこにあるって、知ってしまった。
足取りは、知らず知らずのうちに裏門のほうへ向かっていた。
グラウンドの脇を抜け、体育倉庫の裏手を回る。その先には、小さな非常口の扉がある。ふだんはほとんど使われない通路。だけど、何故か“そこ”に、惹かれていた。
――ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。
水音が聞こえた。
雨が落ちる音とは、少し違う。何かが、水を踏んでいるような。そう、裸足の足音のような……
非常口の先、小さな中庭のようなスペース。そこに、いた。
女の子――のように見えた。
背中を向けて、地面に座っている。
濡れた制服。長い黒髪が、肩から垂れて、ぽたぽたと水を滴らせている。
まるで、その髪が“水の根”のように地面へ広がっていた。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
身体が動かない。凍りついたように、その場から一歩も踏み出せなかった。
その少女は、ゆっくりと、首を傾ける。
カクン……と、骨が軋むような角度で。音はしないのに、頭の中に“重さ”だけが響くような感覚。
見えていないはずなのに、確かに“こっちを見た”と分かった。
その瞬間、全身を走る悪寒。
目の奥が熱くなり、手足がしびれる。何もしていないのに、汗がにじむ。
「……だめ、だ。これ……近づいたら、戻れない」
そう思った。理屈ではない。感覚が、直感が、全力で叫んでいた。
その時、また――
少女が、立ち上がった。
ゆっくりと、だが確かに、ぬるりと地面から剥がれるように。
そして、振り返ることなく、非常口の向こうへ、ふらふらと歩き出した。裸足の足音が、また“ぴちゃ、ぴちゃ”と響く。
足跡は、水たまりの中に残っていく――
だけど、次の瞬間には、跡形もなく消えていた。
その場には、もう誰もいなかった。
残されたのは、雨音と、水の匂いと、心臓の鼓動だけだった。
「……なんで……見せるの?」
誰に言ったわけでもなく、天音はそう呟いた。
見なければよかった。
けれど、もう遅い。気づいてしまった以上、目を背けることなどできない。
その夜。
部屋に戻った天音は、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。
罫線の上に、ボールペンで書き込む。
「澪は“消えた”。でも、私は覚えてる。
その証拠はどこにも残ってない。
スマホの写真からも、ノートからも、全部消えてる。
でも、私は忘れてない。忘れちゃいけない。
今、わたしのそばにいる“それ”は……
澪と、同じものなんだ。」
最後の一文を書き終えたとき、不意に背後で“コツン”と音がした。
振り返ると、机の後ろの窓ガラスに――
水滴が、内側から垂れていた。
……ありえない。窓は閉めてある。部屋には誰もいない。
でも確かに、内側から、水が垂れていた。
その水は、ひとしずく、ふたしずくと、音もなく机の上のノートに落ちた。
黒いインクが、じわりと滲む。
最後の一文が、まるで“消される”ように、にじんで、溶けていった。
翌日、天音は放課後の図書室にいた。
自分でも、なぜここへ来たのかはっきりとは分からなかった。けれど、体が自然とこの場所を選んでいた。なにか、見落としている。そんな気がしてならなかった。
図書室の隅、新聞の縮刷版や地域史などが置かれた閲覧棚。
重たい引き出しを開けて、手に取ったのは十数年前の地域新聞のバックナンバーだった。
“あれ”の正体に、少しでも手がかりが欲しかった。
誰にも話せない。
叔父にも、母にも、友達にも。
だったら自分で、調べるしかない。
「……これって……」
めくっていたページで、ふと指が止まった。
《山中の廃小屋で一家三人の白骨遺体発見》
――そんな見出し。
記事は短かった。
森の奥深く、人里離れた廃屋で、身元不明の白骨遺体が三体発見された。
警察は心中の可能性も視野に入れ、慎重に調査を進めている。
現場には、不審な文様が描かれた痕跡や焦げた古文書のような紙片があったが、意味は解明されていない――。
「……これって……澪の……」
天音はそう口にしたものの、確信はなかった。
でも、妙に胸の奥が冷たくなる。脳のどこかが、この情報を“関連付けている”と告げていた。
さらに記事の隅に、こうあった。
《近隣で少女の失踪事件も。関連は不明》
それが決定的だった。
時期も合っている。地名も、なんとなく見覚えがある。
けれど、それ以上の詳細は、どこにも載っていなかった。
失踪した少女の名前も、年齢も、写真もない。
「……消されてる……」
ページをめくる。関連しそうな記事はどれも、ぼんやりとした記述ばかりだった。
当時の報道が不自然に抑えられていたようにも感じられる。まるで“見せたくない何か”があったかのように。
「天音ちゃん?」
不意に、背後から声をかけられて振り返ると、司書の女性が立っていた。
「あ、ご、ごめんなさい、長くいて……」
「ううん、大丈夫よ。何か調べもの?」
天音は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。
「昔……失踪した女の子のこと。あと、変な噂とか……」
司書は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに笑って言った。
「……そうね。昔はね、この辺りで“濡れ女”って呼ばれてる話があったのよ」
「……えっ?」
「道端に座ってる女の人がいてね。雨の日に限って現れるの。でも、気づいた人しか“見えない”んですって。見てしまうと――夢に出てくる、って」
「夢に……?」
「そう。で、夢の中で、その人に“見られた”ら……もう戻ってこれない、ってね」
背筋が凍った。
それは、天音がここ数日体験してきたこと、そのままだった。
「そんな話、記録に残ってないんですか?」
「残ってないのよ。不思議なくらい。誰かが“消してる”のかもしれないわね」
冗談めかした口調だったが、その目は冗談ではなかった。
「もし、怖くなったら、ちゃんと誰かに相談してね」
天音は、小さく笑って頷いた。
だけど本当は、誰にも言えないことが、胸に溜まっていた。
“夢に出てくる”なんて、もうとうに過ぎてる。
“見られたら戻れない”なら、わたしはとっくに……
図書室を出て、階段を下りると、靴箱の前に水たまりができていた。
誰かが濡れたまま歩いたような痕が、廊下に――校舎の外へと、続いていた。
ただし、そこには――誰もいなかった。