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第2章「濡れた気配」

第2章「濡れた気配」



 朝、目を覚ました瞬間、なんとなく体が重たかった。

 気怠さと一緒に、寝汗とも違う、肌にまとわりつくような湿気が全身に広がっている。


「……やば、寝坊」


 天音は慌てて布団から飛び起き、ベッドの脇に置いていたスマホを確認する。

 時間は7時22分。家を出るまで、あと15分しかない。


「最悪……昨日、髪乾かさずに寝たから……」


 枕の片側がわずかに濡れていた。湿った髪の感触が首筋に張りついていて気持ち悪い。

 急いで洗面所に駆け込み、寝癖と湿気まじりの髪をぐしぐしと水で濡らして整える。


 


 けれど――


 いつまでたっても髪が乾かなかった。


 タオルで何度も拭いたのに、先端から水滴が落ちる。

 ドライヤーを最大出力にしても、風が肌に当たる感覚だけで、湿り気は取れない。

 むしろ――吹きつける風が、なぜかぬるい。


「なんで……?」


 バスタオルを肩にかけたまま、天音は鏡越しに自分を見つめた。

 頬には寝起き特有のむくみ。目の下には少しクマができていて、昨日の疲れがそのまま残っている。

 けれどそれ以上に、鏡の中の“自分”に、どこか違和感を覚えた。


 なんだろう……すこし、影が濃い? 表情が、重たい?

 いや、そんなわけない。ただの寝起きだ。頭がぼんやりしてるせい。


 


 制服に袖を通す。

 スカートを履いた瞬間――太ももに、ひやっとする感触。


「えっ?」


 思わずスカートをめくる。中の太ももに、水滴が伝っていた。

 触れた感触は濡れていて、明らかに“水”だった。


 洗面所で濡れた? いや、そんな場所に触れた記憶はない。

 立ち上がって鏡の前に戻り、スカートの裾をよく見てみると……

 生地の一部が、まるで“誰かの手”で掴まれていたかのように、湿ってしわが寄っていた。


 ぐしゃり、と指先で握られた跡。


 今にも、そこから“冷たい何か”が這い上がってくるような錯覚に、天音はぞくりと背筋を震わせた。


 


「……気のせい。気のせいだってば……」


 そう言いながら、もう一度ドライヤーを髪に向ける。

 けれど、やっぱり髪は乾かない。むしろ、前よりも濡れていく気がした。


 


 “あの夜”から、まだ二日しか経っていない。

 けれど――あの夜から、“何か”がおかしい。


 昨日まではまだ、かすかな違和感だった。

 でも今日は、それが“身体”にまで染みてきている。


 


 時間がない。登校しなきゃ。


 濡れたままの髪。ひんやりとしたスカートの裾。

 制服の下に残る、冷たい湿気を振り払うように、天音は玄関の扉を開けた。


 


 外は、晴れていた。

 けれど、どこか遠くの空で、かすかに雷鳴が鳴っていた。


 

 学校へ向かう道は、昨日と同じだった。

 舗装された歩道に、規則正しく並ぶ街路樹。

 通学中の自転車が何台もすれ違い、白いカーディガンを羽織った女子生徒たちが楽しそうに笑いながら前を歩いている。


 けれど――天音は、一人だった。


 


 昨日から、なんとなく周囲と会話する気になれない。

 澪にも紗英にも、今朝はLINEを送らなかった。いや、送れなかった。

 昨夜の“気味の悪さ”が尾を引いて、誰かと普通に会話をする自信がなかったのだ。


 そのせいか、道の景色がやけに静かに見えた。

 遠くに響く蝉の声も、今日はどこか湿っぽい。


 


 交差点を渡った先、ふと、歩道の向こうに立つ一本の電柱が視界に入る。

 その根元。ポストの影。


 ……誰か、立ってる?


 


 天音の足が、わずかに止まった。


 女の子のように見えた。いや、女の人かもしれない。

 白い何かを身にまとい、髪は肩より長く、俯くようにして立っている。

 姿は曖昧で、濡れているのかどうかもよくわからない。


 ただ、そこに“いる”としか、言いようがなかった。


 


 通り過ぎる車が、その姿を一瞬隠す。

 再び視界が晴れたとき――そこには、もう誰もいなかった。


「……っ」


 心臓が、どくんと跳ねた。


 


 見間違い?

 けれど、見た気がする。確かに、見えたのだ。

 ほんの一瞬でも、確かに“そこに”いた。


 なんとなく足早になった天音は、数歩歩いてからふと足元を見る。


 ――歩道の端に、水たまりができていた。

 そして、その水たまりの中央に、ぽつんと“足跡”がある。


 靴ではない。素足の形。濡れた足の裏が残した、明確な跡。

 片足だけ。もう片方は、見当たらない。


「……なんで?」


 あの日以降、雨は降っていない。朝も晴れていた。

 それなのに、誰が、いつ、ここに足を踏み入れたのだろうか?


 


 通学路の向こうで、ベルの音が鳴る。

 誰かの自転車が風を切って通りすぎた。その風に押されたのか、木の葉がぱらぱらと落ちる。


 その葉の影――地面に映った自分の影の“後ろ”に、もうひとつ影が揺れた気がして、天音は振り向いた。


 誰もいない。


 ただの木の影。風のせいだ。きっとそうだ。


 


 天音は、ぎゅっと鞄の紐を握り直す。

 わずかに指先が震えていた。


 ――昨日から、変だ。

 でも、誰にも言えない。言ったところで、信じてもらえるわけがない。


 こんなこと、笑われて終わる。


 だから言わない。言わないけど……でも、やっぱり――


 なにか、おかしい。


 


 足を早める天音の背に、今日もまた、かすかな風がついてきた。

 それは風にしてはぬるく、まるで――濡れた肌が、服の下からついてくるような、不気味な温度だった。


 


 その違和感に気づいたのは、教室へ入る直前だった。


 職員室の近く、廊下の突き当たりにある掲示板――

 部活動の写真や、学校行事のスナップ、各部の成績表などが、所狭しと掲示されているその一角。


 普段なら、わざわざ目を留めることもない場所だ。

 けれど、今日だけは、天音の足がふと止まった。


「……え?」


 


 目に入ったのは、去年の文化祭の集合写真だった。

 クラスごとに分かれて、笑顔でピースする生徒たち。

 天音もそこに写っている。三列目の右端、やや気まずそうな笑顔で――


 ――その、すぐ後ろに。


 いた。


 


 一段低くなった段差の陰。

 誰かが、しゃがむように座っている。


 いや、座っているというより、“うずくまって”いる。

 髪は長く、肩よりも下まで垂れている。制服のようなものを着てはいるが、その姿勢のせいで顔はまったく見えない。


「……誰?」


 天音の声は、ごく小さなものでしかなかった。

 けれど確かに、その写真の中の“誰か”は、そこに存在していた。


 なにより――


 その人物だけ、びしょ濡れだった。


 髪の先から水が滴り、地面に黒い染みを広げているように見える。

 他の生徒は乾いた制服で笑っているのに、その人だけが、ただ一人、ぐっしょりと濡れていた。


 


「……こんなの、あったっけ……?」


 天音は小さく首をかしげながら、掲示板に顔を近づける。

 その時、後ろからやってきたクラスメイトが声をかけた。


「あれ、天音? どしたの?」


「……あ、ううん。なんでもない」


 とっさに誤魔化して笑ってみせる。

 だけど、目の端に写っている“それ”から、視線を外せない。


 


 別の子が、天音の隣に並んで同じ写真を見る。


「えー、これ懐かしいー! 去年のやつだよね?」


「……うん」


「私、これの左のとこにいる! あ、天音も写ってるじゃん!」


 笑いながら指をさして、そう言った。

 でも――誰も、“それ”には触れない。


 


 まるで、見えていないかのように。


 


 そんなはずはない。こんなに目立つのに。

 こんなに……こんなに“気持ち悪い”のに。


 天音は写真から目をそらし、ふと横を見る。

 すると、誰かが掲示板の横に立っているような気配がして、思わず首をすくめた。


 ……いない。気のせいだ。


 


「天音、行こー」


「……うん」


 


 その場を離れたあと、もう一度だけ振り返ってみた。

 掲示板のガラスは反射して、窓の光を映していた。

 けれど――ほんの一瞬だけ、“そのガラスの向こうから”誰かがこっちを見ていたような気がして。


 天音は、足早に教室へと向かった。


 


 心臓がまだ、じわじわと熱を持っていた。

 だけど手のひらは冷たくて、ほんの少し――濡れていた。


 

 放課後の教室は、思ったより静かだった。


 部活に向かう生徒たちが次々に教室を後にしていくなかで、天音はひとり、自分の机の中を何度も探っていた。


 ――いつ入れたんだろう?

 そんな覚えはまったくなかった。


 だが、確かにあったのだ。机の中に、折りたたまれた紙が。

 白い便箋に、細い線の青いペンで綴られた、短い文章。


 


 《わたしのこと、わすれたの?》


 


 たったそれだけ。

 差出人も、名前も、書かれていない。

 でも……その文字は、どこか“濡れて”いた。

 インクが滲んでいて、文字の輪郭が少し歪んでいる。


 


 最初は、誰かのいたずらかと思った。

 けれど、何度も見直しても、書かれた筆跡に見覚えがない。


 それに――この教室で、青いペンを使っている人を、天音は知らなかった。


 


「……気のせい。気のせい……」


 天音は手紙を畳んで、鞄の中にしまい込んだ。

 だけど、しまった後も、掌には紙の“冷たさ”が残っていた。


 


 部活が始まる時間だ。

 制服からジャージに着替えなきゃいけない。

 天音は席を立ち、更衣室へと向かう。


 


 更衣室の扉を開けた瞬間――むわっとした湿気が肌にまとわりついて、思わず眉をしかめた。


「うわ、なんか湿っぽ……?」


 天音は中に入り、自分のロッカーを開けた。

 そして、息を呑む。


 


 中が、濡れていた。


 


 鞄の底、畳んでいたジャージ、タオル――すべてがびしょ濡れだった。

 しかも、それは“ただの水”ではない。

 なんとも言えない、ぬるくて、どこか粘り気を帯びた液体だった。


「なにこれ……誰が……」


 誰かがイタズラをしたのか?

 でも、そんなことをするような人は、この部にはいないはず。

 澪も、紗英も――むしろ、最近はちょっと距離を取られてる気がするくらいで。


 犯人なんて、思い当たらない。


 


 びしょびしょになったタオルを取り出そうと手を伸ばした瞬間、

 ロッカーの奥に、なにかが貼りついていた。


 ――手形だった。


 ぺたり、と貼られた“水の手形”。

 五本の指が、しっかりと濡れた跡を残している。

 そして、何より――その手のサイズが、異様に小さかった。


「っ……」


 ぞわり、と背筋が粟立った。

 小さな子どものような手の跡。

 けれど、この学校にそんな子はいない。

 誰が、いつ、こんなものを――


 


「……うそでしょ……」


 そうつぶやいた声は、かすれていた。


 天音は思わずロッカーを閉め、後ずさった。

 他の生徒たちはすでに更衣を終えて、廊下に出ていたようで、室内には誰もいない。


 自分ひとりきり。

 ぬるい湿気と、重たい沈黙。

 どこかで、水の滴る音がした。


 ぽた、ぽた、ぽた……と。

 どこからか、見えない水が垂れている。

 でも、天音の目には、何も映っていなかった。


 


 そして――なにかが、背中のほうで“ぬるり”と動いたような気がした。


 即座に振り返る。

 だが、誰もいない。

 ただ、自分の足元だけが、濡れていた。


 


 もう着替える気力もなかった。


 天音はジャージを鞄に詰めこむと、そのまま部活を休むことにした。

 誰かに理由を聞かれても、答えようがなかった。

 説明できることなんて、なにもない。なにも、ないはずなのに。


 


 ただ、“濡れた手紙”と“濡れたロッカー”が、確かにそこにあった。


 

 翌日、天音は昼休みに一人で屋上へ向かっていた。


 教室にいるのが、息苦しかった。


 いつもなら、澪や紗英と一緒に弁当を広げて、部活の話やくだらない動画のことを笑い合っていたのに――

 ここ数日は、三人の会話に妙な距離がある。


 原因は、天音自身が一番よく分かっていた。


 話していても、上の空。

 返事をしそびれたり、つい怖い顔になったり。

 自分だけ、違う場所に取り残されたような気がして、笑うことができなかった。


 結果、周囲もまた、天音を「そっとしておく」ようになった。


 


 屋上の扉を開けると、風が吹き抜けた。

 秋の匂いが混じり始めた風は気持ちよく、ほんの少しだけ心が落ち着く。


 手すりにもたれ、空を見上げる。


 けれど、ふと気づいた。

 遠くに見える空の一角だけ、妙に霞んでいた。


 ……靄?


 その部分だけ、雲でもないのに白っぽくて、輪郭が曖昧。

 その中心に、何か黒いものが――


 


 「天音」


 


 誰かが、自分の名前を呼んだ。


「――っ!」


 びくりと肩が跳ねた。

 振り返っても、誰もいない。

 ただ、さっきまで風が吹いていたのに、いつの間にか止んでいた。


 まるで、時間だけが閉じ込められたような静けさ。


 


「……今の、声……」


 確かに聞こえた。自分の名前を、誰かが呼んだ。

 耳元で囁くように、濡れた吐息をまとった声で。


 


 「わたしのこと、わすれたの?」


 


 それは、昨日の手紙とまったく同じ言葉だった。

 声なのか、心の中に響いたのか――分からない。

 でも、確かに“そこ”にいた。


 


 天音は、唇を噛みしめた。


「知らない……知らないってば……!」


 叫びにも似た声は、風に吸い込まれていった。

 空は、どこまでも静かだった。


 ――なのに。


 


 足元のコンクリートに、ひとつ“水滴”が落ちた。


 ぴたりと、黒い染みが広がる。

 その周囲に、次々と――ぽつ、ぽつ、と水滴が落ちていく。


 まるで誰かが、天音の頭上から涙を垂らしているように。


 


「いや……っ、やめて……!」


 天音は逃げるように屋上から駆け下りた。

 扉を開けた瞬間、風が一気に吹き抜け、背中を押すように襲ってくる。


 水の匂い。土の匂い。何かが腐ったような――生臭い、ぬめりのある臭気。


 


 階段を降りる途中、見覚えのある生徒とすれ違った。

 けれど、彼女は天音に気づかない様子で通り過ぎていく。


「……あれ? あたし、ここに……いるよね?」


 声をかけようとした。でも、やめた。


 彼女の制服の背に、うっすらと“濡れた手形”が浮かんでいるのを見てしまったから。


 右の肩甲骨のあたりに、べったりと貼りついたような手の跡。

 それを彼女は気づいていない。誰も気づかない。

 けれど、天音にははっきりと見えた。


 


 もしかして――あれも、わたしと同じ“何か”に、気づいてしまった人なのか。


 


 もし、あの子も気づいているのなら。

 もし、あの子が“次”になったとしたら。


 わたしは――どうなる?


 


 階段を降りた踊り場で、ふと、ポケットの中に冷たい紙の感触を覚えた。

 手探りで取り出してみると、昨日しまったはずの“あの手紙”が、ぐしょぐしょに濡れていた。


 もう読めないほど、滲んでいるのに――


 


 その中央に、爪でひっかいたような細い文字で、こう書かれていた。


 


 《つぎは、あなた》


 

 その日は放課後になっても雨は降らなかった。


 なのに、空は妙に重たい色をしていて、まるでいつかの雨を引きずっているかのようだった。

 グラウンドに吹く風も湿っていて、吸い込んだ空気は喉に張りつく。


 天音は部活を休んで、校舎の裏手にある自転車置き場で荷物を整えていた。

 人気のない時間帯を狙っての帰宅。誰にも、何も聞かれたくなかった。


 けれど、タイヤに鍵をかけていた手が、ふと止まる。


 


 カツン――コツン――


 


 ――ヒールの音。

 アスファルトに硬い音を刻む、乾いた足音。


 耳に届いた瞬間、喉の奥がひゅっと冷たくなった。


 この場所にヒールで来る教師はいない。

 女子生徒の誰もがスニーカーかローファーで登下校している。


 それでも、背中にじわじわと迫ってくるようなあの“音”が、確かに存在していた。


 ゆっくりと、ふり返る。


 


 ――誰も、いない。


 


 自転車置き場の入り口。植え込みの間。水道栓の奥。

 どこにも、誰の姿もなかった。

 だけど耳には、まだ音の残響が焼きついていた。


 


 「……気のせい、だよね……」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいて、急いで荷物を背負い、ペダルを蹴った。

 でも、いつもと同じはずの帰り道が、どこか“違って”感じた。


 


 道を曲がった先。

 コンビニ横のブロック塀に、見覚えのある後ろ姿があった。


 制服。長い髪。濡れたままのスカートの裾が、風に揺れている。


 腰掛けている。こちらに背を向けて。


 そう――あの日と、まったく同じ姿で。


 


 「……うそ……」


 息が詰まる。


 確かに、誰も見えなかったはずだ。

 あの時、仲間たちが「いない」と言った。

 でも、今――また、そこに“いる”。


 


 声をかけてはいけない。

 目を合わせてはいけない。

 気づいたことを、“向こうに知られて”はいけない。


 分かっているのに。


 


 「……あのっ……!」


 


 口が勝手に動いた。


 その瞬間、後ろ姿の女が“びくり”と肩を揺らす。


 ゆっくりと、首が、こちらに向けて回っていく。

 だが、完全に顔が見える前に、天音は無意識に目を閉じていた。


 見てはいけない。

 “見る”ことは、もう引き返せなくなるということ。


 


 まぶたの裏に、あの声が響いた。


 


 《やっと、見てくれたね》


 


 耳元で囁く、濡れた吐息混じりの声。

 それは、まるで懐かしさを滲ませたような、ねっとりと甘い音色だった。


 


 天音の足は震え、自転車ごとふらついた。

 気がつけば、その場を走って離れていた。

 ペダルを漕ぐ力も入らず、自転車を引きずるようにして角を曲がる。


 風が吹いた。

 冷たい、雨の匂いを含んだ風。


 


 ――ざぁああっ。


 


 突如、空が泣き出した。


 夕立のような雨が、天音を包んだ。

 荷物も服もずぶ濡れになるのを構わず、ただ走った。


 


 誰かに、助けて欲しかった。

 けれど、誰にも言えなかった。


 口にしたら、すべてが“本物”になってしまう気がして。

 ただの幻では済まなくなってしまう気がして。


 


 その夜。

 天音のスマートフォンに、1件の未保存番号からの着信履歴が残っていた。


 発信元不明。時間は、天音が自転車を押して走っていた、まさにその瞬間。


 通話は、0秒で切れている。


 


 だが、画面の下に、メモのような通知があった。


 


 《つぎは、ちゃんと、こたえてね》


 


 濡れた画面に、その文字が浮かんでいた。


 


 翌朝、天音は夢の中にいた。


 いや、それが“夢”であることすら、途中まで気づかなかった。


 雨が降っていた。

 空は重たく、世界は灰色に沈んでいた。

 傘もささずに立ち尽くす自分の身体を、雨粒が容赦なく叩く。


 だが、濡れる感覚がない。

 服が冷たくも重たくもならない。

 ただ、音だけが耳を満たしていた。


 ――ぽたん、ぽたん。


 目の前に、小さな水たまりがあった。

 誰のものかも分からない、濡れた足跡がそこへ向かって、一直線に並んでいる。


 小さな、裸足の足跡。


 


 ふと視線を上げると、足跡の先に少女が立っていた。

 長い髪、ぐっしょりと濡れた制服。

 顔は見えない。首をかしげるようにして、こちらを――“横目で”見ている。


 見えているのか、見られているのか。

 判然としないまま、天音は一歩踏み出した。


 


 その瞬間、少女が口を開いた。


 水音と雨音の中で、かすれたような声が響く。


 


 《あのね――、わたし、》

 《ずっと、ここにいたの》

 《誰も、気づいてくれなかった》


 


 言葉の端々が、雨に溶けていく。

 でも、不思議と意味だけは、胸の奥に直接染み込んできた。


 


 《……見つけてくれて、ありがとう》


 


 その言葉に、天音の足が止まった。


 違う――違う、わたしはそんなつもりじゃない。

 ただ、気づいてしまっただけ。見えてしまっただけ。


 


 けれど、“それ”はゆっくりと、天音に歩み寄ってくる。


 足音はない。

 だが水たまりに波紋が広がり、足跡が天音の方へと伸びていく。


 


 天音は後ずさろうとした。

 しかし背後に何かがある。

 いや、“誰か”がいる。


 背中にぴたりと感じる気配。

 肩口に、濡れた髪が触れたような感触。


 


 声が、すぐ耳元で囁いた。


 


 《ねぇ――わたしのかわりに、いてくれる?》


 


「……や、だ……!」


 


 叫ぶと同時に、目が覚めた。


 


 部屋の天井が視界に飛び込んできた。

 息が荒く、Tシャツは汗でぐっしょり濡れていた。

 心臓が、あり得ない速さで打っている。


 


 ……夢だった。夢だ。

 そう自分に言い聞かせる。

 けれど、夢の中の“感触”が、どうしても身体から剥がれ落ちてくれなかった。


 


 ピピピッ――


 目覚まし時計が鳴る。

 いつもの朝のはずなのに、世界がほんの少し“違って”見えた。


 


 制服に袖を通しながら、ふと視線が止まる。

 窓の外。曇った空。


 ……今日も、雨の予報だった。


 


 学校に着くと、廊下に違和感を覚えた。

 何かが足りない。何かが、いつもと違う。


 


 「――あれ? 澪、今日休み?」


 誰かが呟いた。

 教室の隅で、ひそひそと交わされる声。


 澪の席は空っぽだった。

 机の上には教科書もプリントも置かれていない。


 天音の胸がざわついた。


 


 放課後、スマホを見ても、澪からの連絡は来ていなかった。

 SNSにもログイン記録がない。


 


 ――まさか。


 そう思いたくなかった。


 


 でも、思い出してしまう。

 あの階段で見た、澪の背中に浮かんだ“濡れた手形”。


 あれは――ただの水の跡だったのだろうか?

 あれを、わたしが“見てしまった”ということは?


 


 ぽつり、と雨が降り始めた。


 天音の制服の袖に、最初の一滴が落ちる。

 やがて世界が水に滲み、すべての音が雨に変わっていった。


 


 耳の奥に、声がする。


 


 《次は、誰が――気づくかな》


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