零章
早川澪は、三歳だった。
三歳という年齢は、世界を理解するにはまだ足りず、しかし世界を感じ取るには十分すぎるほどだった。
澪の視界は低く、常に大人たちの腰や肘のあたりを漂っている。話される言葉の半分は意味を持たず、残りの半分は音として胸に落ちてくるだけだ。
それでも澪は知っていた。
この町には、やさしいところと、こわいところがある。
やさしいところは、昼間の路地だ。
アスファルトはあたたかく、白い線の上を歩くと叱られるが、少しだけ楽しい。風が吹くと、洗濯物がぱたぱたと音を立て、澪はそれを見上げる。
こわいところは、夕方だ。
色が薄くなり、音が減り、誰かがいなくなっても気づかれない時間。
澪は、その境目の時間に、いつもその人を待っていた。
「……きた」
門の前で、澪は小さく声を出す。
遠くから、足音が近づいてくる。少し早足で、けれど急いでいるほどではない歩き方。
「澪ちゃん」
呼ばれる。
それだけで、澪の胸はふわりと軽くなった。
その人は、制服を着ていた。
紺色のスカートに、白いシャツ。肩から提げた鞄は少し擦れていて、歩くたびに金具が小さく鳴る。
澪の前に来ると、その人は必ず立ち止まり、しゃがんだ。
膝が地面につくのを、澪はよく見ていた。制服の布が汚れることもあったが、その人は気にしなかった。
「今日もお迎えしてくれてるの?」
澪はうなずく。
言葉にするには、まだ世界は大きすぎた。
その人は、澪の頭を撫でる。
指先は少し冷たくて、けれど嫌な冷たさではない。澄んだ湖みたいな、安心する冷たさだ。
この人が笑うと、世界は丸くなる。
澪はそう感じていた。
名前を呼ばれるのが、澪は好きだった。
「澪ちゃん」と呼ばれるたび、自分がここにいることが、ちゃんと世界に通じている気がした。
母が家の中から声をかける。
「すみません、いつも」
「いえ」
その人は立ち上がり、軽く頭を下げる。
大人の会話は、澪には川の音のようにしか聞こえない。ただ、その人の声だけは、澪のところまで届く。
「じゃあ、またね」
その人は手を振る。
澪も、真似をして振る。小さな手が、空気を切る。
角を曲がるまで、澪は見送る。
見えなくなる直前、その人は一度だけ振り返ることがあった。
その時の顔を、澪はなぜかよく覚えている。
笑っているのに、少しだけ、遠い目をしていた。
雨の日も、あった。
空が暗くなり、ぽつぽつと音が落ちてくると、大人たちは洗濯物を慌てて取り込む。
澪は縁側に座り、雨が地面に落ちるのを見ていた。
そこへ、その人は現れた。
髪が少し濡れて、制服の肩に小さな点が増えている。
それでも、その人は足を止めた。
「雨だね」
澪は、地面を指さす。
水たまりができていた。
その人は澪の横に座り、同じように見た。
「ほら、空が映ってる」
澪は、水たまりを覗き込む。
そこには、逆さまの世界があった。
雲が揺れ、建物が歪み、自分の顔が小さく映る。
「……いる」
「いるね」
その人は、澪の言葉を否定しなかった。
それが、どれほど特別なことかを、澪はまだ知らない。
ただ、その瞬間、世界は確かにそこにあった。
その人は、雨が強くなると、澪の家の軒下まで来た。
「濡れちゃうから、ここまでね」
そう言って、澪の前にしゃがむ。
スカートの裾はすでに濡れていて、色が少し濃くなっていた。
澪はその変化が不思議で、指を伸ばしかけた。
だが、触れていいのか分からず、途中で止める。
その人はそれに気づき、何も言わずに澪の手を取った。
小さな指を、自分の袖にそっと当てる。
「冷たいでしょ」
澪は、こくりとうなずく。
冷たい。けれど、嫌ではない。
雨の音が、二人の間を満たす。
遠くで車が水をはね、近くで雨粒が跳ねる。
「雨はね」
その人は、ぽつりと言った。
「いろんな音を消してくれるんだよ」
澪は、耳を澄ます。
確かに、町の音はぼやけていた。人の声も、遠くなっている。
「だから、ちょっとだけ、楽になる」
澪には意味が分からない。
けれど、その人の声が、少し軽くなったのは分かった。
澪は、その人の顔を見る。
濡れた髪が頬に張りつき、まつ毛に水滴が残っている。
「……だいじょうぶ?」
澪は、覚えたばかりの言葉を使った。
その人は、少し驚いたように目を見開き、それから笑った。
「うん。澪ちゃんがいるから」
澪は、それがとても大切な言葉だと思った。
胸の奥が、ぽっと温かくなる。
雨が弱まると、その人は立ち上がった。
「じゃあ、行くね」
歩き出す背中を、澪は見送る。
制服の背中には、小さな水の跡が残っていた。
その背中は、少しだけ、重たそうに見えた。
次の日も、その次の日も、その人は来た。
晴れた日は、影が長く伸びる時間だった。
澪は影を踏み、踏まれるたびに笑った。
「それ、捕まえられる?」
その人は楽しそうに言う。
澪は走る。
短い足で、必死に影を追いかける。
捕まらない。けれど、それが楽しい。
ある日、その人は澪に石をくれた。
白くて、丸い石だった。表面は滑らかで、少し冷たい。
「お守り」
澪は、それを握る。手のひらに、石の重さが残る。
「なくさないでね」
その人は、そう言った。
澪はうなずいた。
理由は分からないが、なくしてはいけない気がした。
その頃から、その人は、少しずつ変わっていった。
笑う回数は変わらない。澪に向ける声も、同じだ。
けれど、立ち止まる時間が短くなった。
時々、足を止めても、遠くを見たまま黙り込むことがあった。
澪が呼ぶと、はっとして、笑う。
「どうしたの?」
澪は、首を振る。
ただ、呼びたかっただけだ。
ある日、澪の母が言った。
「今日はお姉さん、来ないかもね」
澪は門の前に立った。いつもの時間。いつもの風。
来なかった。
夕方の色が、少しずつ濃くなる。影が消え、音が減る。
澪は、石を握った。白い石は、まだそこにあった。
その日、初めて、澪は泣いた。
理由は分からない。
ただ、世界のどこかが、欠けた気がした。
次の日、その人は来た。
少し遅れて、息を切らして。
「ごめんね」
澪は、何も言わずに抱きついた。
その人の体は、少しだけ震えていた。
澪は気づかなかったふりをした。
気づかないことが、やさしさだと知らないまま。
それでも、その時間は続くと思っていた。
――雨が降る前までは。
その人が澪の前に立つとき、いつも同じ距離を保っていた。
近すぎず、遠すぎず。
大人が子どもを見るときの距離ではなく、かといって友達とも違う、曖昧な距離。
澪は、その距離を気にしたことがなかった。
そこにその人がいる。それだけで、十分だった。
けれど、澪以外の前では、その人は少し違った。
通りすがりの大人に会うと、背筋を伸ばし、声の高さを変える。「こんにちは」と言う声は、澪に向けるそれよりも、少しだけ硬い。
同じ制服を着た子たちとすれ違うとき、その人は一瞬だけ視線を逸らした。
気づかれないほどの速さで。
澪はそれを見ていた。
理由は分からない。ただ、違う、と感じていた。
澪の前では、その人は視線を逸らさない。
名前を呼び、返事を待ち、澪の言葉を途中で遮らない。
「これ、なあに」
澪が道端の草を指さす。
「それはね、名前があるんだよ」
「なまえ?」
「うん。ちゃんと」
澪は、その言葉が好きだった。名前がある、ということ。
澪は、自分の名前を呼ばれるのが好きだ。
呼ばれると、そこに自分がある気がする。
その人は、澪に何かを教えるとき、決して急がなかった。
分からなくても、いい。言葉にならなくても、いい。
ただ、そこにいることを、否定しない。
ある日、澪が何の前触れもなく泣き出した。
転んだわけでも、叱られたわけでもない。
胸の奥が、急に苦しくなっただけだ。
その人は驚かなかった。
「どうしたの」
責める声ではなかった。
理由を求める声でもなかった。
澪は答えられない。言葉が、まだ足りない。
それでも、その人は待った。
澪が泣き止むまで、何も言わず、ただ背中を撫でる。
澪は、その手を信じた。
大人たちは、理由を欲しがる。
どうして泣いたのか、何があったのか。
けれど、その人は聞かない。
澪が泣くこと自体を、許している。
澪は、それが「無条件」だということを知らない。
ただ、ここでは、何も頑張らなくていいと知っている。
その人は、時々、澪にだけ弱いところを見せた。
門の前に立ったまま、しばらく動かないことがある。
澪が見上げると、その人は遠くを見ている。
「……ねえ」
澪が呼ぶ。
その人は、はっとして、澪を見る。
「ごめん」
誰に向けた言葉なのか、澪には分からない。
それでも、その人は笑う。
その笑顔は、少しだけ疲れていた。
澪は、白い石を差し出した。
あの日もらった、お守り。
「これ」
その人は驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと首を振った。
「澪ちゃんのだから」
澪は、首をかしげる。
その人は、少し考えてから言った。
「澪ちゃんが持っててくれると、安心する」
澪は、石を握り直した。
それが役に立つなら、持っていようと思った。
その頃から、その人は、澪の前でだけ、少し泣くようになった。
声を上げることはない。ただ、目が赤くなるだけだ。
澪は、何も言わない。泣いていることを、指摘しない。
その人は、それを許されたと思った。
世界のどこにも居場所がなくなっていく中で、
澪の前だけが、まだ、自分でいられる場所だった。
澪は、それを知らない。
知らないまま、受け入れている。
それが、唯一だった。
そして、その唯一の場所さえ、
やがて、雨に濡れていく。
その日は、風がなかった。
洗濯物は揺れず、空の雲もほとんど動かない。
音が少なく、町は息を潜めているようだった。
澪は門の前に座り、地面に指で線を引いていた。
昨日降った雨の跡が、まだ少しだけ残っている。
来る。
澪は、そう思っていた。
足音は、いつもより遅かった。
澪が顔を上げると、その人は道の向こうに立っていた。
制服は着ているが、鞄を持っていない。
「……おねえちゃん」
澪が呼ぶと、その人は小さく手を振った。
けれど、すぐには近づいてこない。
少し迷ってから、ようやく歩き出す。
澪の前に来ると、いつものようにしゃがんだ。
だが、今日は地面に膝をつけなかった。
「今日はね」
その人は、言葉を選ぶように、間を置いた。
「ちょっとだけ」
それ以上は、続かなかった。
澪は気にしない。言葉の途中でも、その人がここにいることの方が大切だった。
澪は立ち上がり、白い石を取り出した。
手のひらに乗せて、見せる。
「まだ、ある」
その人は、石を見る。一瞬だけ、目を伏せた。
「……うん」
声が、少し震えた。
澪は、その人の顔をじっと見た。今日は、笑っていなかった。
「いたい?」
澪は、知っている言葉を使った。痛いとき、大人は顔を歪める。
その人は、首を横に振った。
「ちがう」
でも、それも、どこか違っていた。
澪は、考えた。そして、いつもの答えを出した。
その人の手を引く。
強くは引けない。
小さな力だ。
それでも、その人は逆らわなかった。
二人は、門の横に座った。縁側の端。影になる場所。
澪は、何も話さない。ただ、隣にいる。
その人は、しばらく空を見ていた。
雲のない、色の薄い空。
「……澪ちゃん」
初めて、その人の方から名前を呼んだ。
「もしね」
言葉は、途中で止まった。
澪は、振り向く。続きを待つ。
その人は、何も言わず、澪の頭に手を置いた。
撫でるのではなく、確かめるように。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、澪には分からない。
澪は、うなずいた。
分からなくても、受け取ることはできた。
遠くで、学校のチャイムが鳴った。
澪は、その音を聞いたことがなかったが、その人はぴくりと反応した。
立ち上がる。
「行かなきゃ」
澪は、その言葉の意味を知っている。
行く、は、いなくなる、だ。
澪は、服の裾を掴んだ。
その人は、一瞬だけ、動けなくなった。
それから、澪の手を外し、目線を合わせた。
「澪ちゃんは」
声が、ひどく静かだった。
「ここにいて」
澪は、首をかしげる。
その人は、笑おうとした。
うまくいかなかった。
「ここにいて」
もう一度言う。
それは、お願いだった。
澪は、よく分からないまま、うなずいた。
いつも、ここにいる。それだけだ。
その人は、背を向けた。
歩き出す。今日は、振り返らなかった。
澪は、見送る。角を曲がるまで。
見えなくなっても、しばらく立っていた。
風は、まだ吹かない。雨の匂いも、しない。
それでも、澪は感じていた。
――もう、前と同じには戻らない。
理由は分からない。言葉も、ない。
ただ、白い石を強く握る。
その日、夕方になっても、その人は戻らなかった。
大人たちは、いつも通りだった。世界は、壊れていないふりをしている。
澪だけが、欠けたものを知っていた。
そして、それが、最後の「雨が降る前の日」だった。
学校は、音が多い場所だった。
チャイムの音。椅子を引く音。誰かの笑い声。
それらはすべて、同じ空間に詰め込まれているはずなのに、ある場所だけ、ひどく静かだった。
少女の席のまわりだ。
そこでは、音が届く前に消える。
声は向けられず、視線は滑る。
まるで、最初から空席であるかのように。
少女は、それに慣れていた。
朝、教室に入るとき、深く息を吸う。
それから、何も感じない顔を作る。
笑う必要はない。話しかける必要もない。
ただ、そこにいる。
それが、この場所で生きるための、最低限の作法だった。
黒板の前に立つ教師は、出席を取る。名前が呼ばれる。
「……」
返事は、小さい。けれど、確かにあった。
教師は一瞬だけ視線を落とし、次の名前へ進む。
聞こえなかったわけではない。ただ、拾わなかった。
授業が始まる。
ノートを取る音が、周囲から聞こえる。
少女も、同じようにペンを動かす。
文字はきれいだった。行間も揃っている。
それが、誰かに評価されることはない。
休み時間になると、空気が変わる。
教室は一気にざわめき、誰かの机が寄せられる。
笑い声が、少女の背後を通り過ぎる。
誰も、こちらを見ない。
――見ない、という選択。
少女はそれを知っていた。見ないことは、攻撃よりも、ずっと簡単だ。
机の中に入れていた教科書を取り出そうとしたとき、指先に違和感があった。
湿っている。紙が、重い。
少女は、何も言わずに教科書を引き抜いた。
ページの端が、波打っている。
水
どこかで、くすっと笑う声がした。
少女は、顔を上げない。上げても、意味がない。
次の授業までに乾けばいい。そう思う。
そう思わなければ、ここにはいられない。
昼休み、少女は一人で弁当を食べる。
窓際の席。澪とよく見た空と、同じ色のはずの空。
けれど、ここから見るそれは、低く、遠い。
「ねえ」
声がした。
少女は、ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、数人の女子生徒だった。
笑っている。楽しそうに。
中心にいる一人は、髪がきれいに整っていて、制服も新しい。この町では、誰もが知っている家の娘だった。
「それさ」
彼女は、少女の弁当箱を指さす。
「臭くない?」
周囲が、笑う。少女は、何も言わない。
「なんかさ、じめっとしてるよね」
「分かる。湿っぽい」
少女は、箸を置いた。
視線を上げると、彼女と目が合った。
その瞬間、彼女は笑顔を消した。
「見ないで」
静かな声だった。 命令だった。
少女は、すぐに視線を落とす。
それで、場は終わる。
彼女たちは去っていく。何事もなかったように。
少女は、残った弁当を見る。もう、味は分からなかった。
午後の授業が始まる前、机が少しだけ動いていた。
誰かが、足で押したのだろう。机の脚が、微かに歪んでいる。少女は、直そうとしなかった。
直しても、また動かされる。それを知っている。
放課後、掃除の時間。雑巾が配られる。
「そこ、水多めでいいよ」
誰かが言う。
少女の担当区域だけ、床が異様に濡れていた。
水を吸った雑巾は重い。手が、冷たくなる。
床に映る自分の影が、歪んで揺れる。
――澪ちゃん。
一瞬、名前が浮かぶ。少女は、手を止めた。
ここには、澪はいない。
だから、泣いてはいけない。
少女は、雑巾を絞る。水が、床に落ちる。
その音が、やけに大きく響いた。
掃除が終わる頃には、空はもう暗くなり始めていた。
少女は、雑巾を返却箱に入れる。
水を吸った布は、他のものより重く、箱の底に沈んだ。
「ちゃんと絞った?」
教師が、形式的に声をかける。
「はい」
少女は即座に答えた。嘘ではない。
教師はそれ以上見なかった。見る必要がない、と判断したからだ。
下校のチャイムが鳴る。
生徒たちは一斉に立ち上がり、鞄を手に取る。
少女も立ち上がる。
その瞬間、背中に衝撃があった。
軽い。けれど、確かに、押された。
「ごめん、見えなくて」
背後から聞こえた声は、笑いを含んでいた。
少女は何も言わない。机に手をつき、体勢を立て直す。
鞄の中で、水の音がした。
嫌な予感がして、歩きながら中を覗く。
水筒の蓋が、緩められていた。
教科書が濡れている。ノートも、石のように重い。
少女は、歩く速度を変えない。
止まったら、見られる。見られたら、次が来る。
校門を出ると、風が少しだけ冷たかった。
制服の袖口が、まだ湿っている。肌に張りつく感触が、気持ち悪い。
少女は、遠回りの道を選んだ。人の少ない道。
そこなら、何も起きない。
――そう、信じたかった。
「ねえ」
後ろから、声がした。足音が、複数。
少女は、立ち止まらなかった。歩き続ける。
「待ってって」
声が近づく。腕を、掴まれた。
強くはない。けれど、離そうとすると、指が食い込む。
「なんで無視するの?」
少女は、振り向いた。
そこには、昼に笑っていた顔が並んでいる。
中心には、あの少女。地元の有力者の娘。
この町では、彼女の家の名前は、「問題を起こさない理由」だった。
「無視してない」
少女は、小さく言った。
「声、聞こえなかっただけ」
彼女は、首を傾げる。
「聞こえなかった?」
周囲が、くすくすと笑う。
「じゃあさ」
彼女は、少女の鞄を指で突いた。
「これも、見えなかった?」
少女は、反射的に鞄を引いた。
その動作が、決定的だった。
「あ」
彼女は、わざとらしく声を上げた。
「触られたくなかったんだ」
少女の手首が、別の誰かに掴まれる。
今度は、逃げられない。
「濡れてるしさ」
「きったな」
言葉が、刺さる。
少女は、歯を食いしばった。
泣いたら、終わりだ。泣けば、もっと続く。
――澪ちゃん。
名前が、また浮かぶ。
澪の前では、泣いてもよかった。
理由がなくても、抱きしめてもらえた。
ここでは、違う。
「放して」
声が、震えた。彼女は、満足そうに笑った。
「やっぱり、聞こえてるじゃん」
少女の手を放し、距離を取る。
「ねえ」
彼女は、周囲に言う。
「この子さ、自分が可哀想だって思ってるよね」
誰かが、うなずく。
「被害者ぶってる」
「そうそう」
少女は、何も言えなくなった。
言葉を重ねれば、
それ自体が「反論」として扱われる。反論は、許されない。
「じゃあさ」
彼女は、楽しそうに言った。
「証拠、見せてあげよっか」
誰かが、バケツを持ってきていた。
いつから、用意されていたのか。
少女は、後ずさる。背中が、フェンスに当たる。
逃げ場が、ない。
水が、かけられた。一気に。
冷たい水が、頭から肩、背中へと流れ落ちる。
視界が、一瞬、白くなる。
制服が、肌に貼りつく。息が、詰まる。
笑い声。
「うわ、びしょびしょ」
「やば」
少女は、立っていられなかった。
膝をつき、手を地面につく。
水たまりに、自分の顔が映る。
歪んで、揺れて、誰だか分からない。
そのとき、彼女は言った。
「ほら」
静かな声。
「これ、事故ね」
少女は、顔を上げた。
「転んだだけ」
「そうだよね?」
周囲が、うなずく。同意が、完成する。
少女は、何も言わなかった。
言えなかった。
その沈黙が、「了承」として処理された。
彼女たちは、去っていく。
水の音だけが、残る。
少女は、しばらく動けなかった。
体が、冷える。心も、同じように。
立ち上がったとき、制服は重く、
一歩踏み出すたび、水が落ちた。
家に帰る道。門の前。
――澪ちゃんはいない。
少女は、初めて思った。
ここにも、もう、戻れないかもしれない。
空を見上げる。雲が、集まり始めていた。
雨の匂いが、した。
早川澪は、門の前に立っていた。
いつもの時間。影が長くなるころ。
けれど、音が来ない。
足音。鞄の金具の音。
それらが、来ない。
澪は、門の内側と外側を、何度も見た。
どちらにも、その人はいない。
「……こない」
澪は、小さく言った。
母が、家の中から声をかける。
「今日はね、お姉さん、遅いのかも」
遅い、という言葉の意味を、澪は正確には知らない。
ただ、「今はいない」ということだけは分かる。
澪は、白い石を握った。ひんやりしている。
少女の手のひらのように。それが、少しだけ安心だった。
次の日も、来なかった。
澪は、門の前に座った。座る位置は、いつもと同じ。
地面に線を引く。昨日の線は、もう消えている。
消える、ということがある。澪は、それを知った。
三日目。
風が強かった。洗濯物が、大きな音を立てる。
澪は、何度も振り返った。誰かが来た気がして。
でも、誰もいない。
その日は、雨が降った。ぽつぽつと、地面を打つ音。
水たまりが、少しずつ広がる。澪は、縁側に座り、雨を見る。
――あめ、すき。
その人が、そう言っていた。
澪は、水たまりを覗いた。逆さまの空が、揺れている。
「……いない」
水たまりの中にも、映らない。
澪は、指を伸ばした。水に触れる。
波紋が広がり、空が壊れる。
その瞬間、胸が、きゅっとした。
理由は分からない。
でも、何かが、遠くに行ってしまった気がした。
母が、傘を持ってくる。
「中に入ろう」
澪は、首を振った。
「まつ」
母は、困ったように笑った。
「誰を?」
澪は、答えない。答えられない。
名前を言うと、いなくなってしまう気がした。
夜。
澪は、布団の中で、石を握っていた。
冷たいはずの石が、今日は少し温かい。
自分の体温が、移っている。澪は、石を額に当てた。
「……おねえちゃん」
声は、布団に吸い込まれた。
返事は、ない。それでも、澪は呼んだ。
呼べば、そこにいる。澪は、そう信じていた。
翌日、母が電話をしている声が聞こえた。
「ええ、わかっています。ーはい。そのように。」
声が、少し低い。
澪は、部屋の隅で、積み木を積んでいた。
積み木は、すぐに崩れる。
崩れても、積み直す。何度でも。
それが、澪のやり方だった。
電話を切ったあと、母は何も言わなかった。
澪は、聞かなかった。
聞かなくても、分かってしまうことがある。
門の前に立つ時間が、少しずつ短くなった。
母に引かれて、中に入る。
それでも、澪は毎日、外を見る。
来ない。
けれど、いなくなったとは、思わなかった。いない、は、違う。
――まだ、見えていないだけ。澪は、そう思った。
そして、その考えは、やがて、別の形で、正しくなる。
少女は、朝が来るのを待たなくなった。
目が覚めても、すぐに起き上がらない。
布団の中で、天井の染みを数える。
数え間違えても、戻らない。戻る理由が、なくなったからだ。
制服に袖を通すとき、湿った感触が残っている気がした。
実際には乾いている。それでも、皮膚がそれを覚えている。
家族は、何も言わない。
「行ってきます」と言えば、「行ってらっしゃい」と返ってくる。
それ以上は、ない。
玄関を出る前、少女は一瞬だけ立ち止まった。
澪の家の方向を見る。
門の前に、小さな影はない。
――今日は、仕方ない。
理由のない諦めが、胸に落ちる。学校では、もう誰も隠さなかった。
机は、意図的にずらされる。椅子は、座る前に引かれる。
「また転んだの?」
誰かが言う。
笑い声が、続く。
少女は、立ち上がらない。立ち上がると、また何かが起きる。
床は、なぜかいつも濡れていた。掃除の当番でなくても、雑巾を渡される。
「ほら、拭いて」
命令は、簡潔だった。
少女は、従う。逆らわない。
逆らわなければ、これ以上は来ない。
――そう、思っていた。
昼休み。
少女は、弁当を開けなかった。
開けると、何か言われる。言われなくても、見られる。
視線は、水より重い。
「食べないの?」
有力者の娘が、声をかける。
少女は、首を振る。
「具合悪い?」
心配するふりをした声。少女は、答えない。
「ふーん」
彼女は、つまらなさそうに言った。
「じゃあさ」
机の上に、ペットボトルが置かれる。
蓋が、開いている。
「飲めば?」
少女は、見た。
透明な水。少しだけ、揺れている。
あの日の水が、よみがえる。
「……いらない」
小さな拒否。それだけで、空気が変わった。
「え?」
彼女は、眉を上げる。
「選んでる?」
周囲が、静かになる。拒否は、規則違反だった。
「飲めって言ってるだけじゃん」
誰かが言う。少女は、視線を落とした。
口を開けば、もっと悪くなる。
開かなければ、ここで終わる。
――澪ちゃん。
名前が、浮かぶ。
澪の前では、拒否してもよかった。
嫌なものは、嫌だと言っても、受け入れられた。
実際に澪と過ごす時間に拒否するようなものは無かったが。
あの子はきっと受け入れてくれる。そう信じていた。
ここでは、違う。少女は、ペットボトルを取った。
一口。
水は、冷たかった。味は、なかった。
それでも、喉を通る感覚が、ひどく生々しかった。
笑い声。
「やっぱ、従順だよね」
その言葉が、決定的だった。
少女は、その日から、何も言わなくなった。
言わないことが、最善だと学んだ。
教師は、気づいていた。だが、気づかない方が、楽だった。
「問題は起きていません」
そう報告すれば、問題は、存在しないことになる。
町は、そうやって回っている。
放課後。
少女は、呼び止められた。
「ちょっと、来て」
場所は、旧校舎の裏。使われなくなった倉庫。
人気は、ない。
選ばれた理由を、少女は理解していた。
ここなら、音が外に漏れない。
「大丈夫だよ」
彼女は、優しく言った。
「ちょっと話すだけ」
少女は、頷いた。
断る選択肢は、もうなかった。倉庫の中は、湿っていた。
床に、水が溜まっている。
誰かが、事前に撒いたのだろう。計画は、もう即興ではなかった。
「ね」
彼女は、少女の前に立つ。
「最近さ」
言葉を切る。
「調子乗ってない?」
少女は、首を振る。
「だって」
彼女は、笑った。
「まだ、ここにいるでしょ」
その言葉が、少女の中の何かを、完全に折った。
――ここにいてはいけない。
そう、理解した。そのとき、扉が閉まった。
鍵の音。外から。
少女は、初めて、声を出した。
「やめて」
その声は、倉庫の壁に吸われて消えた。
水の匂いが、強くなる。足元が、滑る。
世界が、冷たく、重くなっていく。
その瞬間、少女は思った。
――澪ちゃんだけは、覚えていて。
それだけで、この世界にいた意味が、残る。
水は、音を立てなかった。
倉庫の床に溜まっていたそれは、
倒れた拍子に大きく広がり、少女の制服を、確実に重くした。
転んだ瞬間、後頭部が床に当たった。鈍い衝撃。
視界が、白く弾ける。
誰かが、笑った気がした。
だが、それはもう、はっきりとは聞こえない。
水が、口に入る。咳き込もうとして、息がうまく吸えない。
――おかしい。
身体が、言うことをきかない。
少女は、もがいた。床に手をつく。
だが、指先が滑る。水が、逃げ道を塞いでいく。
音が、遠のく。倉庫の天井が、歪んで見えた。
最後に浮かんだのは、小さな門の前に立つ、幼い影だった。
澪。
名前だけが、はっきりしている。
――見つけて。
その願いは、声にならなかった。
水が、すべてを覆った。
*
発見は、翌朝だった。清掃員が、倉庫の異変に気づいた。
雨も降っていないのに水が漏れていた。
鍵は、外からかかっている。
通報。警察。救急。
「手続き」は、滞りなく進んだ。
「事故でしょう」
誰かが言った。
「足を滑らせたんだろう」
誰も、反論しなかった。
制服が濡れていた理由も、床に水が溜まっていた理由も、
深くは調べられなかった。
調べる必要が、なかった。
名前が出なければ、問題は存在しない。
教師は、口を閉ざした。生徒たちは、揃って言った。
「知らない」
「仲良くなかった」
「そんな子、いたっけ?」
その中で、有力者の娘だけが、淡々としていた。
「かわいそうですよね」
それは、完成された態度だった。
*
葬儀は、静かに行われた。だが、人は少なかった。
知らせが、届かなかったのだ。学校からの連絡は、なかった。
町内会の回覧も、回らなかった。
家族は、不思議に思った。
なぜ、誰も来ないのか。
その疑問に、答えは与えられなかった。
数日後。
父の職場が、なくなった。理由は、「業績不振」。
母の勤め先も、同じだった。近所の人の態度が、変わった。
視線が、合わない。挨拶が、返ってこない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
家族は、理解した。
――これは、そういう町だ。
抗議は、意味を持たない。
声を上げれば、さらに深く、消される。
数週間後。
一家は、消えていた。
新聞には、小さく載った。
「一家心中か」
そう、まとめられた。それ以上は、書かれなかった。
そして、彼女の名前は、完全に消えた。
*
だが、すべてが消えたわけではなかった。
町外れの用水路で、奇妙な噂が立ち始めた。
「女の人が、立っている」
「濡れている」
「声をかけると、いなくなる」
見た人は、しばらくすると、町から姿を消した。
共通点は、誰もその人を覚えていないこと。
存在した痕跡が、きれいに消えていること。
不自然に増える空き家を気にする住人は居なかった。
彼女は、水の中から、世界を見ていた。
自分を、認識した者。名前を与えた者。
――消す。
それが、自然になった。
恨みではない。怒りでもない。
ただ、そうなった。
世界が、自分にしたことを、返しているだけ。
*
ただ一人。例外が、あった。
門の前で、小さな女の子が、立ち尽くしている。
白い石を、握っている。彼女は、知っている。
あの子は、無条件で、受け入れてくれた。
理由を求めず、価値を量らず、ただ、「好き」と言った。
水の中で、彼女は、初めて躊躇した。
――澪ちゃん。
名前を、呼ぶ。水面が、揺れる。
この子を、消せば、完全になる。
だが、それだけは、できなかった。
彼女は、姿を現さなかった。
ただ、冷たい気配だけを、残した。
そして、小さな声で、告げた。
「……次は、ないよ」
それは、警告であり、別れだった。
澪は、うなずいた。意味は、分からない。
でも、約束だということだけは、分かった。
水は、静かに引いた。怪異は、完成した。
そして、唯一の例外も、確定した。
最初に消えたのは、倉庫の鍵を閉めた生徒だった。
夜道で、雨に降られた。それだけの話だった。
傘を忘れ、用水路のそばで、立ち止まった。
そこに、女がいた。制服姿ではない。
だが、濡れている。髪から、水が滴っている。
「……誰?」
声をかけた瞬間、女は、顔を上げた。
目が、合った。
その翌日、その生徒は登校しなかった。
欠席理由は、「不明」。
担任は、名簿に二重線を引いた。
理由を問う者は、いなかった。
次に消えたのは、笑っていた生徒。
主犯格ではない。ただ、見ていた。
見て、止めなかった。
部活帰り、橋の上で、立ち止まった。
下を覗いた。水面に、女が映っていた。
振り返ったとき、もう、声は出なかった。
彼女の家族は、娘がいたことを、説明できなくなった。
写真が、ない。部屋が、ない。記憶の中に、空白だけが残った。
*
消失は、連鎖した。
順序は、あった。
直接手を下した者。止めなかった者。
面白がった者。
そして、それを庇った者。
有力者の娘は、最後まで、消えなかった。
彼女は、用心深かった。夜道を避け、
雨の日は、外に出ない。水のある場所に、近づかない。
なぜそうしたのかは彼女自身分かっていなかった。
対策としては、正しかった。
だが、水は、外にだけあるわけではない。
彼女の家は、広かった。庭に、池がある。
人工のものだが、水は水だった。
ある夜。
彼女は、池の前に立っていた。
理由は、ない。気づいたら、そこにいた。
水面が、揺れる。自分の顔が、歪む。
背後に、気配。振り返る。女が、立っている。濡れている。
「……あなた」
声が、震えた。
女は、何も言わない。
ただ、“見ている”。
その視線で、理解してしまった。
――覚えられている。
彼女は、初めて、謝った。
「ごめんなさい」
言葉は、遅すぎた。女が、近づく。
足音は、しない。水の匂いが、強くなる。
「やめて」
懇願。
だが、水は、止まらない。
彼女の家族は、翌朝、異変に気づいた。
娘の部屋が、空だった。
家具は、ある。
だが、使われた形跡が、ない。
最初から、誰もいなかったように。
有力者は、動いた。金を使い、
人を使い、情報を抑えた。
だが、抑える対象が、消えていく。
妻が、消えた。
運転中、ワイパーの向こうに、女を見た。
次は、息子。風呂場で、水が止まらなくなった。
最後に、有力者自身が、消えた。
書斎で、コップの水を飲んだ、その直後だった。
*
町は、静かだった。誰も、異常だと言わない。
言えない。言葉にすれば、自分も、認識者になる。
怪異は、完成した。
自分を、見た者。自分を、知った者。
それらを、世界から、回収する存在。
水は、境界。境界を越えた瞬間、戻れない。
彼女は、淡々としていた。
満たされたわけではない。
救われたわけでもない。
ただ、世界が、均された。
*
それでも、一つだけ、引っかかる。
門の前。小さな影。
近づけば、消せる。
だが、あの子だけは、違う。認識している。
知っている。それでも、抹消できない。
それは、規則の破れではない。
最初から、例外として、刻まれている。
――澪ちゃん。
水の底で、彼女は、そっと名前を呼んだ。
返事は、ない。それで、いい。
約束は、守られている。
「二度目は、ない」
それだけが、境界だった。
澪は、覚えていた。
誰に言われたわけでもない。
教えられたわけでもない。
ただ、忘れなかった。
幼いころ、門の前で待っていたこと。
白い石を握っていたこと。
雨の日に、胸が苦しくなったこと。
名前は、思い出せなかった。
それでも、「お姉さん」という輪郭だけが、残っている。
*
澪が小学校に上がるころ、町には、奇妙な空白が増えていた。
転校生の話題が、途中で途切れる。誰かの家が、いつの間にか空き家になる。
「前から空いてたよね」
そう言われると、澪は、違和感を覚えた。
――違う。
でも、何が違うのかは、言葉にできない。
澪は、水が苦手だった。泳げないわけではない。
ただ、水の中に長くいると、誰かに見られている気がする。
視線は、冷たい。
悪意ではない。
だが、拒絶でもない。
――待っている。
そんな感じがした。
*
中学生になると、怪談話を聞く機会が増えた。
「濡れ女、知ってる?」
友人が言う。
「夜、用水路とかに出るんだって」
澪の胸が、ひくり、と動いた。
「見たら、消えるんでしょ」
「そうそう」
笑い声。
澪は、笑えなかった。
その話は、怖いというより、
悲しさと懐かしさを伴っていた。
澪は、家に帰って、昔の箱を探した。
中から、白い石が出てくる。
まだ、持っていた。理由は、分からない。
捨てられなかった。
石を握ると、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
*
3年生になるころ、或る日を境に友人の様子がおかしくなった。
彼女は何も言わなかったが、澪は、確信に近いものを持っていた。
天音は出会ったのだと。
もう。親しい人を失くしたくない。そう思った。ーーもう?
不思議な感覚だった。知らないのに知っている。
――あの怪談は、知っている人だ。
知っている、というより、知っていた。
澪は、夜道を避けなかった。雨の日も、わざと遠回りした。
水のある場所へ、自分から近づいた。
呼ばれている気がしたからだ。
ある夜、用水路のそばで、立ち止まる。
水面が、揺れる。濡れた髪。沈んだ目。
女が、そこにいた。
澪は、逃げなかった。
「……お姉さん?」
声が、震える。
女は、動かなかった。
世界が、止まる。
規則は、成立している。
認識した者は、抹消される。
だが、澪は、例外だった。
はずだった。
女の顔に、初めて、感情が浮かぶ。
迷い。
葛藤。
水が、足元まで迫る。
「……大きくなったね」
声は、低く、水を含んでいた。
澪は、泣いた。
理由は、分からない。
でも、会えた気がした。
女は、一歩、下がった。
水が、引く。
「……もう、だめ」
女は、言った。
「ここまで」
澪は、首を振る。
「どうすればお姉さんと天音を助けられるの?」
女は、答えなかった。
ただ、かつてと同じ言葉を、繰り返す。
「二度目は、ない」
それは、警告だった。例外は、永遠ではない。
澪は、理解した。成長するということは、境界に近づくことだ。
子どもだったから、見逃された。
理解してしまったから、もう、守られない。
その夜以降、澪は、怪談の中心に立つ存在になる。
濡れ女を、見てしまった人。知ってしまった人。




