運命の輪の外で
『お姉さん。泣いてるの?』
『---駄目…あなたは。ーーー忘れなさい。2度目は。』
とあるマンションの一室。
「どうなってるんだ!」
無精髭を生やし、何日も着替えていないであろうくたびれたシャツを着た男はウィスキーグラスを机に叩きつける様に置くと怒鳴る様に独り言ちる。
雨宮大地。警視庁捜査一課に在籍していた事もある優秀な刑事「だった」。彼は現在心身網弱と言う診断が下り「自宅療養」という名の「軟禁状態」であった。
「有り得ない…天音が居なかっただと?確かにアイツは居た!存在したんだ…!なのに姉さんまで…」
雨宮天音。大地の姪であった筈の彼女の痕跡は公的書類。関係者の記憶。その全てから消えていた。…と大地は考えている。
ありもしない記憶を声高に叫びながら「あまね」と言う少女の存在を説く彼の姿は「異常」でしか無かった。
結果周りが下した判断は仕事のストレスによる記憶の混濁。
彼の話を真面目に聞く人間は誰も居なかった…実の姉、天音の母親でさえ。
しかし、大地は納得しなかった。彼には確信があった。記憶が確かにあるのだ。生まれた時から兄の様に慕ってくれたあどけない笑顔の少女と過ごした記憶。最後に見た縋るような不安な顔。どうしてあの時もっと真剣に話を聞かなかったのか。後悔と自責が津波の様に押し寄せる。
「くそっ…!」
時間が巻き戻せたら。絶対に守ってやるのに。
そんな事を思いながら飲み過ぎた酒の微睡みに呑まれ崩れる様に眠りに堕ちる。
携帯の通知案にハッと目が覚める。
(ここは…俺のデスク?)
目覚めた大地は机に座って手には資料を持っていた。
(夢…か)
「自宅療養」中の自分が仕事場に居るわけ無い。と理解した大地。通知のなった携帯に目を向けて全身の毛が総毛立つ。
画面に表示されていたのはSNSのメッセージ通知。
差出人は…「天音」
大地は手に持っていた資料を投げ捨て慌てて携帯を拾い上げる。通知を開くとそこには確かに今はもう消えてしまったあの時のメッセージ。
「ねぇ、おじさん。幽霊って…信じる?」
----溢れそうな涙をグッと堪えて画面を凝視する。
間違い無い。「あの時」のメッセージだ。あの時、俺は学生特有の怪談話だとまともに取り合わなかった。しかし、次に会った時、あの子は何と言っていた?「お祓い」をして貰う約束をしていた。とそう言った筈だ。つまり、この時天音は何らかの怪異現象に見舞われていたのだろう。つまり、これは彼女からのSOSだったのだ。
普段の自分で有れば馬鹿馬鹿しい。と一笑に伏していただろう。しかし、人が存在した形跡すら残さず消えると言う状況を目の当たりにした今ならどんな有り得ない事でも信じられる。どんな手段を使っても。たとえこれがただの夢で現実は何も変わらなかったとしても。---今度こそ。守ってみせる。大地は携帯を強く握り締める。
----(落ち着け…「今度」は絶対に失敗しない)
大地は携帯を凝視しながら一字一字丁寧に打ち込む。
「何かあったのか?何かあるなら遠慮なく言えよ?」
「何か」がある事など既に分かっている。しかし敢えて知らない体を装う。根拠は無かった。言うならば刑事としての「勘」だった。天音は最後まで確信を突いた相談をしなかった。それは何故か、勿論この最初の遣り取りで相手にされなかった諦めもあっただろう。しかし、それ以外にも理由がある気がした。この手の怪談話でよくある、「話したら伝染する」と言った類のものであれば天音が何も言わずに消えた理由にも説明はつく。故に今はまだ全てを聞き出すべきでは無いかも知れない。そう感じたのだ。
携帯を握りしめ、祈る様に目を閉じる。
(---頼む!俺を…信じてくれ…!)
再び携帯の通知音。
大地は通知を開く。
「ちょっと…気のせいかも知れないし。…笑わない?」
大地は心の中で大きくガッツポーズを挙げた。
(知らない!「こんなメッセージ」は俺の記憶には無い!)
それは確かに大地の知らない未来へと進んだ事を示すメッセージだった。つまり、天音を救える世界かも知れない可能性だった。
数日後。喫茶店でコーヒーを飲みながら落ち着かない様子で時計を何度も見る大地が居た。
--カラン。
ドアベルが鳴って入り口に目線を移す。そこに居たのは制服姿の少女。あの日消えた少女。自分が救えなかった少女。
雨宮天音だった。
「ごめんね。待った?」
少しやつれた顔に精一杯の笑みを浮かべて天音がやって来る。大地はただただ首を振ることしか出来なかった。何か言葉を発したら言葉と一緒に涙が溢れそうだったから。
必死に涙を押し込んで言葉を捻り出す。あくまで平静を装って。
「それで?雨の日の女…だったか?…その、まだ居るのか?」
天音の注文が届き、彼女が一口飲み終えたタイミングで大地が問いかける。この数日間で少しずつではあるが話しを聞き出す事が出来た。雨の日の翌日、変な女を見た事。それ以来不審な事が続いてる事。聞けば聞くほど良くある怪談話でしか無いがそれを気のせいとは思わなかった。
「…うん。いつもじゃないけど…ふとした時に有り得ない所に水があったり、何かが濡れてたり。」
そう語る彼女は自分と居る今でさえその「ふとしたタイミング」に怯えている様だった。
「…そうか。それ以外に周りで何か変わった事は?」
彼女自身はこの数日で大きな変化は無いようだった。しかしこの数日後には彼女は消えてしまった。何か、ある筈なのだ。彼女自身に何も無いなら周囲に何か変化がある筈だ。大地は真っ直ぐ天音を見据える。
天音は一瞬大地から目線を逸らして下を見る。その後おずおずと目線を上げながらポツリと呟く。
「…澪。が」
「澪?」
大地が即座に聞き返す。聞いた事の無い名前だ。
その大地の表情を読み取った天音は何かを察して顔を伏せる。
「天音。頼む、教えてくれ。『澪』っていうのは?」
大地は天音を見据えて問いかける。
天音は目線を少し上げ、静かに
「…おじさんも、会った事ある子だよ。『早川澪』やっぱり…おじさんも覚えていないんだね…」
そう言って天音は再び目を伏せてしまう。
「消えたのか…」
その言葉に天音が目を見開き顔を上げる。
「おじさん!?まさか…覚えてるの!?澪を!!」
天音の目に僅かばかりの光が灯った様に見えた。その目に安堵するとともに今から残酷な言葉を告げなければいけない事実に唇を噛み締める。
「いや、…俺の記憶にはその子は居ない。」
天音の顔がみるみるうちに曇るのが分かった。
「でも、居たんだな。」
天音が再び大地を信じられないような顔で見つめる。
「…信じて…くれるの?」
縋る様な顔。「あの時」見せた顔。今度は間違えない。
「ああ。天音が居たと言うなら、俺は役所の書類より、自分の記憶より、お前を信じる。」
天音の目に涙が滲んだかと思うとそれは瞬く間に滝の様な涙となりテーブルに滴り落ちる。その後、天音が落ち着くまで大地はただ黙って天音の頭を撫でていた。
喫茶店を出た瞬間、雨の匂いが鼻腔を刺した。
空を見上げる。
雲は低く垂れ込めているが、雨粒は落ちていない。にもかかわらず、アスファルトは妙に黒々と湿っていた。
「……さっき、降ったのか?」
独り言のように呟くと、隣を歩く天音が小さく首を振った。
「ううん。来る時も降ってなかった」
大地は足を止め、店の窓を振り返る。
ガラスに張り付いていた水滴はすでに消え、照明の揺らぎもない。先ほどまで確かに存在していた“異常”は、何事もなかったかのように姿を消していた。
だが――床に残った水の感触。引き寄せた天音の体の、氷のような冷たさ。
そして、確かに見た“女の影”。
(夢じゃない)
その確信だけが、胸の奥で重く沈んでいる。
「天音」
歩き出しながら、大地は低く声をかけた。
「今日のこと……誰かに話したか?」
天音は一瞬考え込み、ゆっくりと首を振る。
「……ううん。お母さんにも、友達にも。だって、信じてもらえないし」
言葉の端が、かすかに震えていた。
「そうか」
大地はそれ以上追及しなかった。
代わりに、ポケットの中で携帯を握りしめる。
(信じてもらえない、か)
その言葉は、まるで自分自身に向けられたもののようだった。
その夜、大地は眠れなかった。
自宅のマンション。
カーテンを閉め切った暗い部屋で、デスクライトだけを点け、古い資料を机に広げている。
「……あった」
低く呟き、一冊のファイルを引き寄せた。
警視庁在籍時代に扱った未解決案件のコピー。
正式な捜査資料ではなく、あくまで“個人的に引っかかったもの”を集めた雑多な束だ。
失踪。原因不明。事故でも事件でもない。
共通点は少ない。だが――
「雨……」
メモ欄に書かれた走り書きが、視界に引っかかる。
《失踪前日:雨》
《現場に水痕あり》
《関係者、被害者の存在を徐々に忘却》
ページを捲る指が、自然と早くなる。
いつ。誰が残したのかも分からない走り書き。
恐らくこの著者も既に「消えて」しまっているだろう。
「……同じだ」
天音の話。澪という少女。
そして、雨の日の女。
刑事としての経験が告げていた。これは偶然の一致ではない。
(だが、決定的な証拠がない)
怪異。超常現象。それらは捜査報告書に書けない。
だが――
書類に残らないからといって、存在しないわけではない。
大地は椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「……今度こそ、だ」
誰に向けた言葉でもない。それでも、確かに誓いだった。
翌日。
学校帰りの天音を迎えに行き、そのまま澪の家へ向かった。
住宅街の一角。年季の入った二階建ての家は、外見だけ見ればごく普通だった。
「ここ……」
天音の足が、門の前で止まる。
「……澪の家」
大地はインターホンを押した。少し間を置いて、中年の女性が顔を出す。
「はい?」
柔らかな声。疲労の色も、異常な様子もない。
「突然すみません。雨宮と申します。少し、お話を――」
「……?」
女性は一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
「どちら様でしょう?」
「え?」
天音が、はっと息を呑む。
大地は言葉を選びながら続けた。
「早川澪さんの件で……」
「……?」
沈黙。
女性の表情から、徐々に困惑が滲み出てくる。
「……うちに、そのような名前の者はいませんが……」
天音の体が、目に見えて強張った。
「おばさん……澪は……!」
「天音」
大地は即座に制した。
今、踏み込みすぎるのは危険だ。
「失礼しました。勘違いだったようです」
頭を下げ、その場を辞した。
家を離れて数メートル。天音は唇を噛み締め、声を震わせる。
「……ね? やっぱり……」
「違う」
大地は、はっきりと言った。
「“いない”のと、“忘れている”のは違う」
天音が顔を上げる。
「……え?」
大地は家を振り返った。
軒先。排水溝。そこだけ、異様に濡れている。
「ここには、確かに“何か”があった」
刑事の目だった。数日間、大地は徹底的に調べた。
澪のクラス。
座っていたはずの席。提出されていないはずの作文。
すべてが“最初から存在しなかった”かのように扱われている。
だが、完全ではない。
倉庫の奥。古い段ボール箱の中。
「……あった」
湿った紙の束。水に滲み、ところどころ文字が読めない。
だが、確かにそこには名前があった。
《早川 澪》
(消えきっていない)
それが、希望だった。
同時に、天音の周囲でも異変は進行していた。
教科書が濡れる。誰も触れていない机に、水たまりができる。
そして――
「……聞こえる?」
夜、電話越しに天音が囁く。
「水の……音が」
大地は窓の外を見る。雨は、降っていない。
「天音。よく聞け」
携帯を握り、静かに言う。
「それが聞こえた時、絶対に一人でいろ。誰かに言うな。俺以外には」
「……うん」
沈黙の向こうで、確かに水音がした。
ちゃぷ……ちゃぷ……
(来ている)
だが、まだ遅くない。大地は確信していた。
(奪われる前に、“信じる者”を増やせばいい)
怪異は、孤立を好む。ならば――孤立させなければいい。
最初の異変は、あまりにも些細なものだった。
朝。
スーツに袖を通した大地は、違和感に眉をひそめた。
「……濡れてる?」
左の袖口が、わずかに湿っている。昨夜、洗濯などしていない。
部屋に水をこぼした覚えもない。
窓を見る。雨は降っていない。
(気のせい、か)
そう思おうとして、やめた。
この数日、「気のせい」で片付けていいことなど、一つもなかった。
警視庁。
かつて自分が所属していた建物に足を踏み入れるのは、久しぶりだった。
正式な復帰ではない。あくまで、元同僚に“相談”するためだ。
「……雨宮?」
廊下で声をかけられ、振り返る。
「やっぱり雨宮だよな?」
声の主は、捜査一課時代の同僚――藤崎だった。
「久しぶりだな」
「生きてたんだな、お前」
軽口のようで、どこか探るような視線。
「ちょっと、調べたいことがあってな」
大地はそう言い、曖昧に笑った。
「未解決案件の件で……」
藤崎は一瞬、首を傾げる。
「未解決?」
「ああ。数年前の、失踪――」
「……あれ?」
藤崎の表情が、わずかに歪んだ。
「そんな案件、あったか?」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「お前、資料も見てただろ」
「いや……」
藤崎は頭を掻き、困ったように笑う。
「悪い。最近、記憶力落ちててさ」
冗談めかした口調。だが、大地は見逃さなかった。
藤崎の机の端。コーヒーカップの底に、輪染みが残っている。
まるで――雨の跡のように。
その日の夕方、天音からメッセージが届いた。
『今日ね、先生に名前呼び間違えられた』
大地は、すぐに電話をかける。
「どういうことだ」
『天音、じゃなくて……“早川”って』
息が詰まった。
「それで?」
『すぐ訂正してくれたけど……周り、誰も変だと思ってなかった』
(始まっている)
澪が消える前と、同じ兆候。
「天音。放課後、誰かと一緒にいたか?」
『……ううん』
沈黙。
『おじさん……私……』
「大丈夫だ」
即座に遮る。
「一人じゃない。俺がいる」
電話越しに、安堵の息が漏れる。
だが――その直後、耳元で微かな音がした。
ちゃぷ。
大地は思わず携帯を離す。
(今のは……)
自分の足元。床に、小さな水たまりができていた。
夜。
資料を広げながら、大地は仮説を書き連ねていた。
・怪異は「孤立」を条件にする
・直接的な殺害ではない
・存在の“共有”が断たれることで、対象は消える
「……なら」
ペンを止める。
「共有を、増やせばいい」
天音一人が澪を覚えていたから、澪は消えた。
ならば――
(もっと多くの人間が、澪を“知っていれば”)
単純だが、希望のある仮説だった。
翌日。
大地は天音の担任教師を訪ねた。
「早川澪という生徒について、覚えはありませんか?」
教師は困惑した顔で首を振る。
「いえ……その名前は……」
「この作文を見てください」
倉庫で見つけた、滲んだ紙。教師はそれを受け取り、目を走らせる。
「……」
沈黙。
「……変ですね」
「何がですか」
「読んだ“感じ”は、あります。でも……誰が書いたのか、思い出せない」
大地の胸が高鳴る。
(ゼロじゃない)
「もし、この作文の内容を、生徒に読ませたら?」
教師は首を傾げる。
「……教材としてなら、問題ないですが」
「お願いします」
それは、賭けだった。
放課後の教室。教師が作文を読み上げる。
「――『雨の日、私は水の中に立っている気がする』」
ざわめき。数人の生徒が、顔をしかめる。
「……なんか、怖くない?」
「水の音、聞こえた気がする……」
その瞬間。窓の外が、暗くなった。
「……え?」
雲が、急速に広がっている。
ぽつ。
一粒の雨。教師が言葉を止めた。
次の瞬間――教室の床に、水が溢れ出した。
「きゃあ!」
悲鳴。
だが、誰も溺れない。水は足首までで止まり、すぐに引いていく。
そして――
「……今の、何?」
生徒たちは、ざわめきながらも、確かに“覚えていた”。
(共有された)
大地は、拳を握り締めた。
その夜。大地は、夢を見た。
雨の中。誰かが、こちらを見ている。女だ。
顔はぼやけているが、確かに――“見ている”。
「……お前か」
声に出すと、女はゆっくりと首を傾げる。
そして、囁いた。
『あなたも……知ってしまった』
目が覚める。全身が、濡れていた。
翌日から、異変は明確になった。
・同僚が、大地の名前を一瞬思い出せなくなる
・自分のデスクが、なぜか空席扱いされる
・書類の署名が、滲んで読めなくなる
(俺が……代替になっている?)
天音を救うために踏み込んだ結果、
怪異は“次の媒介”として、大地を認識し始めていた。
それでも。
「引き返す気はない」
大地は、鏡の中の自分に言い聞かせる。
(俺が消えるなら、それでいい)
――そう思いかけて、止まる。
(違う)
それでは、澪と同じだ。
誰か一人が背負えば、また繰り返す。
夜の公園。天音と並んで、ベンチに座る。
「……おじさん、最近……」
天音が不安げに見上げる。
「私のせい、だよね」
「違う」
即答だった。
「俺が選んだことだ」
天音は俯き、震える声で言う。
「……私、怖い。でも……」
顔を上げる。
「一人になるのは、もっと怖い」
その言葉に、大地は気づく。
(そうだ)
怪異が恐れるもの。
それは――“信じる者が、一人じゃなくなること”。
大地は、静かに決意する。
(俺一人じゃ足りない)
必要なのは――関係者全員。
澪を知る者。天音を信じる者。そして――怪異すら、否定しない者。
「……準備しよう」
雨は、いつもより遅れて降り始めた。
天気予報では「曇り」。降水確率は三十パーセントにも満たない。
それでも、夜の街路灯の下に立つ雨宮大地は、確信していた。
(――来る)
理由はない。
あるのは、刑事として長年培ってきた直感と、
そして――すでに一度、この“結末”を見てしまった者の感覚だけだった。
アスファルトは、まだ乾いている。だが、空気が違う。
湿度ではない。もっと、粘つくような何かが、空間そのものに混じっている。
ちゃぷ。
足元で、確かに水音がした。
大地は視線を落とす。そこには水たまりなど存在しない。
それでも、音はあった。
(……完全に、境界が薄くなってるな)
怪異が“こちら側”に近づいている証拠だった。
携帯が震えた。画面に表示された名前は――天音。
『おじさん……』
声は、いつもより落ち着いている。それが逆に、不安を煽った。
「どうした」
『今ね……雨、降ってないよね?』
「ああ」
『でも……窓、濡れてる』
大地は、息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「一人か?」
『……ううん。お母さんもいる』
(よし)
辿り着いた結論。孤立させないこと。
それだけが、今この瞬間の正解だった。
「いいか、天音。今から言うことを、落ち着いて聞け」
『うん』
「今夜、集まる。全員で」
『……全員?』
「澪を“知っている”人間だ」
一瞬の沈黙。
そして、天音ははっきりと言った。
『……澪、今ね……夢に出てきた』
大地の喉が、わずかに鳴った。
「何て言ってた」
『……“大丈夫”って』
その言葉は、希望であり、同時に――
最後の警告のようにも聞こえた。
旧校舎を選んだのは、偶然ではない。
澪が最後に“存在していた”場所。
天音が最初に“違和感”を覚えた場所。
そして――怪異が、もっとも強く残留している場所。
大地は、関係者全員に連絡を入れていた。
・天音の母
・担任教師
・作文を聞いたクラスメイト数名
全員に、同じ言い方はしていない。
「説明できないが、危険だ」
「信じなくていい。ただ、来てほしい」
「澪のことを、覚えているなら」
それで、十分だった。
“覚えている”者は、全員来る。
“覚えていない”者は、最初から選択肢にない。
それが、この夜の条件だった。
旧校舎の門は、軋む音を立てて開いた。
「……こんな時間に来るの、久しぶりね」
天音の母が、傘を握りしめながら呟く。
「雨、降ってないのに……濡れてる」
靴底を見下ろし、不安げに眉を寄せる。
「気のせいじゃありません」
大地は言った。
「でも、怖がらなくていい」
それは、命令ではなく――共有のための宣言だった。
次々と、人が集まる。教師。生徒たち。
全員の表情に共通しているのは、
「理由は分からないが、来なければならない」という感覚。
それ自体が、すでに異常だった。
校舎に足を踏み入れた瞬間。
空気が、変わった。
ひんやりとしているのに、なぜか息苦しい。
「……聞こえる」
誰かが、小さく呟いた。
ちゃぷ……ちゃぷ……
今度は、はっきりしている。
全員が、同じ音を聞いていた。
「否定しないでください」
大地は、ゆっくりと振り返り、全員を見渡した。
「これは、錯覚じゃありません」
ざわめき。
恐怖。
だが、逃げる者はいない。
「“聞こえた”という事実を、そのまま受け止めてください」
「分からなくていい。信じきれなくてもいい」
「ただ――一人で抱えないでください」
その言葉に、空気がわずかに緩む。
怪異は、否定されることで牙を剥く。
だが――分からないまま共有されることには、弱い。
廊下の奥。かつて澪の教室だった場所。天音が、立ち止まる。
「……いる」
断言だった。
誰も、否定しなかった。
「中に」
大地が言う。
「全員で、入る」
教師が躊躇う。
「危険では……」
「一人で入る方が、危険です」
その言葉に、全員が理解する。
ここから先は、誰も単独になってはいけない。
ドアノブに手をかけた瞬間。冷気が、掌にまとわりつく。
まるで、長い間、誰かが“外に出られなかった”場所のような冷たさ。
大地は、深く息を吸う。
(ここからだ)
時間逆行の果てに辿り着いた、唯一の分岐点。
扉を、開ける。
教室の中は――雨だった。
天井から降っているわけではない。窓も閉まっている。
それでも、そこは確かに「雨の中」だった。
水位は、くるぶしほど。誰も溺れない。だが、確実に濡れる。
「……っ」
誰かが息を呑む。
中央に――立っている。
女が。長い髪。
顔は影に沈み、輪郭だけが揺らいでいる。逃げ場はない。
だが、逃げる必要もない。
女が、こちらを見る。
視線は、一直線に――大地へ。
『……あなた』
直接、頭に響く声。
『また、来たの』
大地は一歩、前に出た。
水音が、強くなる。
「来た」
静かな声だった。
「今度は、一人じゃない」
女の雨が、わずかに揺らぐ。
それは――これまでに一度もなかった反応だった。
大地は、確信する。
(効いている)
ここまでは、間違っていない。
だが――本当の試練は、これからだ。
怪異は、まだ“奪う側”でいることをやめていない。
ここから先で、それを“救われる側”へと転じさせなければならない。
雨は、静かに降り続いている。
教室の中央に立つ女は、雨そのものだった。
輪郭はある。だが、確かな「身体感覚」がない。
人の形を借りているだけの、感情の残骸。
『……あなたたち』
声は、誰の耳にも同時に届いていた。
『どうして、こんなに……多いの』
天音が、ぎゅっと母の袖を掴む。
「……怖い?」
天音は、首を横に振った。
「……悲しい、気がする」
その一言で、教室の空気がわずかに変わる。
雨の日の女は、はっとしたように天音を見る。
『……あなた』
声が、震えた。
『……見えるの?』
天音は、少しだけ考えてから答えた。
「うん。……でも、顔が、はっきりしない」
女は、ゆっくりと両手を見下ろす。
そこには、指の形をした“水の流れ”しかない。
『……そう』
その声音には、怒りも、威圧もない。
ただ――長い時間、誰にも見られなかった者の諦めが滲んでいた。
大地は、一歩踏み込む。
「君は、“澪を奪った存在”じゃない」
教室が、ざわめく。
教師が思わず声を上げかけるが、大地は視線で制した。
「正確には――“澪に、触れてしまった存在”だ」
雨の日の女が、ゆっくりと首を傾げる。
『……同じでしょう』
「違う」
大地は、はっきりと言った。
「君は、最初から奪うつもりじゃなかった」
『……』
「君は、助けを求めていた」
その瞬間。
雨の粒が、一斉に逆流した。
天井へ、ではない。女の胸元へと、吸い込まれるように。
『……やめて』
女が、初めて明確な拒絶を示す。
『それ以上……触れないで』
「触れない」
大地は立ち止まる。
「ただ、事実を言うだけだ」
深く、息を吸う。
「澪は、君を“怪異”として認識していなかった」
『……』
「彼女にとって君は――“泣いている、大人の人”だった」
天音が、はっと息を呑む。
「……作文」
教師が、思い出したように呟く。
「澪の作文に……そんな表現が……」
大地は、頷く。
「『雨の日に、泣いているお姉さん』」
『……やめて……』
女の声が、細くなる。
『……思い出したくない』
だが、思い出させなければならない。
それが、救済の条件だった。
雨の日の女は、かつて――人間だった。
名前もあった。家族もいた。そして、子どもがいた。
――雨の日に、失った。
事故か。災害か。詳細は、もう残っていない。
残っているのは、「助けられなかった」という感情だけ。
『……私は……』
女の姿が、わずかに揺らぐ。
『名前を……忘れたの』
それは、怪異化の最終段階。
“自分が誰だったか”を失った存在。
『……でも』
女は、天音を見る。
『あの子は……』
「澪」
天音が、代わりに名を口にする。
女は、目を見開く。
『……そう……』
水の頬を、一筋、雨が伝う。
『……澪』
名を呼ぶことで、確かに“何か”が戻った。
「澪は、君を救おうとした」
大地の声は、静かだった。
「君を、否定しなかった」
「怖がらなかった」
「そして――。一人にしなかった」
雨の日の女は、教室の床を見る。
そこに映る水面には、
澪と向き合っていた日の光景が、かすかに揺れていた。
『……あの子は……』
『……私に、話しかけた』
『“大丈夫ですか”って……』
それは、誰にも向けられなかった言葉。
『……それだけで……』
『……嬉しかった……』
雨量が、減る。
くるぶしまであった水位が、ゆっくりと引いていく。
「でも、君は耐えられなかった」
大地は、核心を突く。
「澪の“優しさ”を、“失う恐怖”に変えてしまった」
女の肩が、震える。
『……違う……』
「違わない」
「君は、澪をここに留めてしまった」
『……』
「自分と同じように、“一人にしてしまった”」
沈黙。
誰も、口を挟めない。
これは、裁きではない。
事実の共有だ。
天音が、一歩前に出る。
「……でも」
全員が、天音を見る。
「澪は……“助けたい”って言ってた」
雨の日の女が、顔を上げる。
「最後まで」
天音の声は、震えている。
「怖かったはずなのに……」
「それでも……“お姉さんは、悪くない”って」
女の身体が、崩れかける。
『……そんな……』
『……そんなこと……』
大地は、静かに言った。
「澪は、君を恨んでいない」
「だから――君も、自分を罰し続ける必要はない」
その瞬間。
教室の奥、誰もいなかったはずの場所に――
小さな影が、現れる。
「……澪……?」
天音が、呟く。
それは、完全な姿ではない。
だが、確かに――“澪だった”。
雨の日の女が、息を呑む。
『……あ……』
『……あの子……』
澪は、微笑んでいた。
声は、ない。
だが、伝わってくる。
――だいじょうぶだよ。
怪異は、憎しみではなく、未完の感情から生まれる。
そして――
完了させるには、“赦し”だけでは足りない。
必要なのは、選び直しだ。
大地は、雨の日の女を見据える。
「君は、選べる」
「このまま、奪い続ける存在でいるか」
「それとも――見送る存在になるか」
女は、澪を見る。
そして、天音を見る。
『……怖い……』
『……また、一人になる……』
「一人じゃない」
天音が、言った。
「……覚えてる」
その一言が、決定打だった。
雨の日の女は、ゆっくりと、膝を折る。
水が、床に溶ける。
『……お願い……』
『……今度こそ……』
『……“行っていい”って……』
澪は、頷いた。
小さく。
確かに。
その瞬間――雨が、止んだ。
雨が止んだ――
それは、確かだった。
だが。
教室の空気は、むしろ張り詰めていく。
「……おじさん」
天音が、小さく呼ぶ。
「何か……変」
大地も、同じ違和感を感じていた。
怪異は“鎮まった”。
だが――消えてはいない。
むしろ、世界そのものが、軋み始めている。
窓の外。校庭が、歪んでいた。
アスファルトが水面のように揺れ、時間が“流れ直そう”としている。
(まずい……)
大地の背中に、冷たい汗が伝う。
これは、怪異の暴走ではない。
――時間逆行そのものの反動だ。
『……おかしい……』
雨の日の女が、周囲を見回す。
『……私……終わったはず……』
「終わってない」
大地は、即座に言った。
「君の“役目”は終わった」
「だが――この世界の歪みは、まだ閉じていない」
女は、はっとする。
『……私が……原因……?』
「半分は、そうだ」
大地は、正直に答える。
「だが、もう半分は――俺だ」
天音が、大地を見る。
「……おじさん?」
「俺は、本来いないはずの“未来の意識”だ」
「それが、この時代に深く干渉しすぎた」
事実だった。
彼は刑事だ。事件を“解決”する人間だ。
だが、時間そのものを相手にする資格はない。
校舎全体が、揺れる。
黒板の文字が、一文字ずつ消えていく。教師が、悲鳴を上げる。
「き、消えて……!」
だが、誰もいなくならない。
――まだ、だ。
「……時間が……」
天音が、震える声で言う。
「巻き戻ろうとしてる……」
雨の日の女が、理解したように呟く。
『……“帳尻”……』
『……合わないものを……消そうとしている……』
大地は、歯を食いしばる。
「そうだ」
「このままじゃ――もう一度、“誰か”が消える」
沈黙。
その“誰か”が、誰なのか。
全員が、無意識に理解していた。
「……私?」
天音が、自分を指差す。
大地は、即座に否定する。
「違う」
だが――本当は、分からない。
澪は、もう“戻るべき存在”ではない。
雨の日の女も、本来は消える側の存在だ。
では、誰が――“余剰”なのか。
答えは、一つしかない。
「……おじさん」
天音の声が、震える。
「まさか……」
大地は、視線を逸らす。
「可能性の話だ」
「俺が、この時代に干渉しすぎた」
「なら――俺の“記憶”か“存在”が、削られる」
それは、刑事としての勘ではない。代償の法則だ。
「ダメ!」
天音が、叫ぶ。
「そんなの……!」
「天音」
大地は、静かに言う。
「俺は、元の世界で――もう、救えなかった」
「ここは、“やり直し”の世界だ」
「なら、正しい代償を払うのは、俺だ」
雨の日の女が、首を振る。
『……違う……』
『……それは……違う……』
彼女の身体が、再び水に揺らぐ。
『……私が……奪った……』
「奪ったのは、結果だ」
大地は、女を見る。
「だが――歪みを“維持”していたのは、俺だ」
そのとき。澪が、一歩前に出た。
完全ではない、薄い存在。
だが、確かに――意思を持っている。
天音が、息を呑む。
「……澪……」
澪は、天音を見る。
そして、大地を見る。ゆっくりと、首を振った。
――ちがう。
声はない。だが、意味は明確だった。
――なくすひとは、
――もう、いらない。
大地は、目を見開く。
「……澪?」
雨の日の女が、はっとする。
『……そう……』
『……まだ……方法が……』
女は、自分の胸に手を当てる。
『……私は……“留める存在”だった……』
『……なら……』
『……“還す存在”にも……なれる……』
大地の心臓が、強く脈打つ。
「……君が?」
『……時間に……溶ける……』
それは、完全な消滅を意味していた。
怪異としても、人としても、どこにも残らない。
「待て」
大地は、声を荒げる。
「それは――救いじゃない」
『……いいえ……』
女は、微笑んだ。初めて見る、穏やかな表情。
『……“選べる”ことが……救いなの……』
『……私は……ずっと……選べなかった……』
澪が、頷く。
天音は、涙を流しながら首を振る。
「そんなの……」
『……天音……』
女は、天音を見る。
『……あなたが……覚えてくれた……』
『……それで……十分……』
校舎の歪みが、加速する。天井が、光に包まれる。
時間が、
“正しい流れ”に戻ろうとしている。
雨の日の女の輪郭が、少しずつ薄れていく。
『……ありがとう……』
『……もう……雨は……怖くない……』
最後に、
彼女は澪を見た。澪は、笑った。
そして――手を振った。
光が、弾ける。視界が、白に塗り潰される。
大地は、天音を抱き寄せた。
「目を閉じろ!」
次の瞬間――世界が、落ちた。
目を覚ましたとき、世界は――静かすぎた。
「……」
白い天井。規則正しい電子音。
病室だ。
大地は、ゆっくりと瞬きをする。
(……生きてる)
だが、その安堵は、すぐに違和感へと変わった。
「……誰か……」
声が、かすれる。喉が、痛い。
身体を起こそうとして、自分の右手に気づく。
――誰かに、握られている。
「……」
視線を向ける。
そこには、制服姿の少女がいた。
「……天音……?」
名前は、自然に出た。
少女は、はっと顔を上げる。
「……おじさん?」
その声は――確かに、天音だった。
「……よかった……」
天音は、涙を溜めたまま笑う。
「……目、覚めた……」
大地は、胸の奥にじんわりと温かいものを感じた。
(助かった……)
だが。
「……澪は?」
天音の表情が、固まる。
「……澪?」
その一言で、嫌な予感が確信に変わる。
「……覚えてないのか?」
天音は、首を横に振る。
「……誰?」
その瞬間、大地の中で、何かが――欠けた。
医師の説明は、簡潔だった。
・豪雨による一時的な校舎トラブル
・生徒数名が軽度の低体温症
・大地は、過労による意識障害
「……以上です」
「質問は?」
大地は、手を挙げた。
「……一人、行方不明の生徒はいませんか」
医師は、即答した。
「いません」
「名簿通り、全員確認されています」
――名簿通り。
それが、答えだった。
病室を出た廊下。
天音が、ぽつりと言う。
「……ねぇ、おじさん」
「なんだ」
「……私、”怖い夢”を見てた気がする」
大地は、足を止める。
「どんな夢だ」
「……雨の中で……誰かが、泣いてて……」
胸が、締め付けられる。
「……でも」
天音は、首を傾げる。
「……顔、思い出せないの」
「……変だよね」
「……すごく、大事だった気がするのに」
大地は、答えられなかった。
数日後。
世界は、“何事もなかったかのように”進んでいた。
天音は、元気だ。
学校も、問題なく通っている。
姉も、普通に笑っている。
だが――大地だけが、違った。
(……忘れられている)
澪という存在は、
世界から完全に消えている。
書類にも。記憶にも。
だが――自分の中だけには、残っている。
(……これが、代償か)
“存在”は、削られなかった。
だが――共有されるはずだった記憶が、奪われた。
夜。
マンションの一室。
大地は、机に向かっていた。
一冊の、ノート。
そこには、びっしりと文字が書き込まれている。
・雨の日の女
・澪
・時間逆行
・消える条件
(……忘れる前に、残す)
それは、刑事としての記録であり、人間としての抵抗だった。
ページをめくる。最後のページ。
そこには――
自分でも覚えのない文字があった。
『――“忘れるな”』
筆跡は、自分のものだった。
だが、いつ書いたのかは、思い出せない。
その夜。
夢を見た。
雨は、降っていない。静かな場所。
どこかで、水の音がする。
「……」
振り返ると、
そこに――誰かが立っていた。
輪郭は、曖昧。だが。
「……ありがとう」
その声で、全てが分かった。
「……もう、いい」
「……ちゃんと、行ける」
大地は、何も言えなかった。
ただ、頷いた。
目覚めたとき、
胸の重さが、少しだけ軽くなっていた。
だが。完全には、消えていない。
(……これで、終わりじゃない)
それが、刑事としての勘だった。
時間は、まだ――完全には、閉じていない。
――すべての名前が、ここに還る
朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。
大地は、ゆっくりと目を開ける。
「……」
久しぶりに、よく眠れたと思った。
胸の奥に巣食っていた重石のような違和感が、
ほんの少し、軽くなっている。
(……何かが、終わった?)
だが、何が終わったのかは分からない。いつもの朝。いつもの部屋。
それでも――確かに、空気が違った。
キッチンで、湯を沸かす。コーヒーを淹れながら、
大地はふと、カレンダーに目をやった。
「……?」
日付に、赤い丸がついている。
だが、何の予定だったのかが、思い出せない。
(……俺が、忘れるはずない)
刑事だった頃から、予定管理は徹底していた。
違和感。
それは、以前に感じていたものと、質が違った。
“欠けている”のではない。
――埋まっている。そんな感覚だった。
スマートフォンが、鳴る。
着信表示。
「……姉さん?」
珍しい。
「もしもし」
『大地?今日、時間ある?』
「ああ、特に用事は……」
『じゃあ、天音と一緒にちょっと寄っていい?』
一瞬、胸がざわついた。
「……分かった」
理由は分からない。
だが――会うべきだと思った。
数十分後。
玄関のチャイムが鳴る。
ドアを開けると、
姉と――天音が立っていた。
「おじゃましまーす!」
天音は、元気だ。
その姿を見て、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……守れた)
理由は分からない。だが、確信だけはあった。
リビングで、他愛もない会話。学校の話。友達の話。
そして――天音が、ふと口を開く。
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「……私、最近、変な夢を見なくなった」
大地の指が、止まる。
「……どんな夢だ?」
天音は、少し考える。
「……前はね、雨の音が、怖かった」
「誰かが、呼んでる気がして……」
姉が、驚いた顔をする。
「そんな話、初めて聞いたわ」
天音は、首を傾げる。
「……あれ?」
「……言ってなかったっけ?」
大地は、静かに息を吐いた。
(……修復が、進んでる)
そのとき。
天音が、テーブルの上に置かれたノートに目を留める。
「あ、これ……」
大地のノート。澪のことを書き留めた、あの記録。
「……名前、書いてある」
大地は、はっとする。
「……読めるのか?」
天音は、当然のように頷く。
「うん」
「……“早川澪”」
その名を聞いた瞬間――世界が、静止した。
7
姉が、眉をひそめる。
「……誰?」
天音は、きょとんとする。
「え?」
「……え?」
二人の間に、温度差が生まれる。
大地は、確信した。――最後の歪みが、ここにある。
澪は、“完全には戻っていない”。
だが――完全に消えてもいない。
その夜。
大地は、夢を見た。
雨は、降っていない。静かな場所。水面のような空間。
そこに――三つの影があった。
一つは、泣いていた女。
一つは、小さな少女。
そして――自分。
『……もう、ここまででいい』
雨の日の女が、微笑む。
『……あなたが……覚えていてくれた』
澪が、頷く。
――だいじょうぶ。
――もう、つながった。
大地は、理解した。
(……そうか)
(“救い”は、消えることじゃない)
(……語り継がれることだ)
翌日。
大地は、姉と天音を呼び出した。
「……話がある」
真剣な声に、二人は姿勢を正す。
「……俺は、昔、ある事件に関わった」
「……記録にも、書類にも残ってない」
「だが――確かに、存在した事件だ」
天音が、
じっと大地を見る。
「……その中心にいたのが、“早川澪”だ」
姉は、困惑した顔をする。
「……そんな子、知らないわ」
「それでいい」
大地は、はっきり言った。
「だが――天音」
天音は、息を呑む。
「お前は、覚えていていい」
天音の目に、
何かが灯る。
「……私……知ってる」
「……澪、優しい子だった」
姉が、驚愕する。
「天音……?」
だが――それ以上、姉は否定しなかった。
理由は分からなくても、娘の言葉を信じたからだ。
それから。
世界は、静かに進んだ。澪は、
“実在した人物”としては戻らない。
だが――
完全に消えた存在でもない。
天音の中に。大地の記憶に。
そして――語られる物語の中に。
雨の日の女は、もう現れない。
雨は、ただの雨になった。
ある雨の日。
天音が、ぽつりと言う。
「……ねぇ、おじさん」
「ん?」
「雨、嫌いじゃなくなった」
大地は、微笑む。
「そうか」
「……だって」
天音は、空を見上げる。
「誰かが、
ちゃんと見送られた気がするから」
その言葉に、大地は答えなかった。
ただ――胸の奥で、静かに頷いた。
天音と大地が歩いて行くその後姿を一人の少女が見つめていた。
そして柔らかく微笑み
『---私も。』
そう呟くと二人とは反対方向へ歩みだす。
新しい世界で新しい自分として生きていく為に。
記録に残らない事件がある。
名前を失う人がいる。
だが――
救われなかったわけじゃない。
誰かが、覚えている限り。
語り続ける限り。
存在は、
確かに――ここにある。
雨宮大地は、
もう刑事ではない。
だが。
“失われるはずだった命を、
記憶の中で守る者”として――
今日も、雨の音に耳を澄ませている。
雨はもう。誰も連れて行かない。
―――完




