第10章:「歪な空の下で」
――カーテンが揺れていた。
窓の外には、橙に染まった夕暮れの空。
赤く染まる教室の床に、長く長く影が伸びていた。
「……う、ぁ……」
机に突っ伏していた額がじわりと熱を帯びていた。
目を開けた天音は、息を呑んだ。
そこは、何の変哲もない放課後の教室だった。
誰もいない静けさ。開いた窓。白いチョークの粉。
“ただそれだけ”の、いつも通りの風景。
――けれど。
「……夢、じゃない……」
掠れた声でそう呟いた瞬間、背筋が冷えた。
違う。
あれは夢なんかじゃなかった。
あれは、生易しい“悪夢”なんかじゃなかった。
何度も捕まった。
何度も沈んだ。
何度も、わたしは……あの“濡れた何か”になっていた。
記憶の底にべっとりと張り付く、生暖かい水の感触。
伸ばした手に絡みついた、見知らぬ誰かの髪。
鏡越しに笑っていた“自分じゃない何か”の顔――。
(……全部、現実だった……)
確かに“あの先”にわたしはいた。
違う姿で、違う名前で、違う日々を生きていた。
何度も、何通りも、幾つも、幾重にも。
継がれた未来。押し寄せる因果。
あれは……この先に待ち受けるわたしの“数ある運命”。
意識だけがそれをなぞり、追体験させられた。
ただの幻ではない。
“逃げられない”という現実を突きつけるための、“宣告”だった。
その確信が、天音の胸に重くのしかかっていた。
(……澪も……こうだったの?)
思わず口に出していた。
誰もいない教室に、声だけが虚しく響く。
彼女は、わたしより先に、それを知っていたのか。
知っていて、誰にも伝えられず、ただ沈んでいったのか。
わたしに届くことなく、跡すら残せなかったのか。
天音は静かに席を立ち、教室の隅――“彼女がいつもいた場所”を見つめた。
そこにあった机だけが、どこか薄く湿っていた。
椅子は引かれたままで、誰の荷物も掛かっていない。
その異常に誰も気づかない。
名前も、記憶も、存在すら――教室の誰の中にも、もう残っていない。
「……ごめんね……」
ぽつりと、声が落ちた。
何もできなかった。
誰も守れなかった。
ただ一緒にいた時間すら、記憶から溶けていくのを止められなかった。
天音の目に、ひとしずくの涙が落ちた。
それが床に落ちたとき、小さな波紋が生まれた。
誰にも気づかれない、小さな、小さな、水音。
それでも彼女は、涙を拭って、前を向いた。
――まだ、終わっていない。
部屋の照明は消していた。
パソコンのモニターだけが、青白い光を放っている。
天音はノートPCに向かい、ブラウザのタブをいくつも開いていた。
検索窓には、すでに何十回も打ち込んだ言葉が並んでいる。
「濡れ女」「都市伝説」「水 呪い」「視た者 継承」「雨 女 霊」
どのサイトも薄っぺらい。
憶測、オカルト、掲示板のまとめ。
誰かがふざけて作ったような安っぽい“怪談風創作”ばかり。
それでも天音は、すがるようにスクロールを続けていた。
(……なにか、なにかヒント……)
けれど、どこにも“答え”はなかった。
ようやく見つけたそれらしい話も、5年以上前に更新が止まっている個人のブログだった。
「雨の夜、名前を呼んではいけない」とか「声をかけた瞬間、呪いが始まる」とか。
決定的な情報は何ひとつ書かれていない。
「……はぁ……」
溜息をついて、背もたれに身体を預けた。
一瞬、画面から目を離した、そのとき――
――ぱちっ。
音もなく、画面が切り替わった。
「……え?」
何の操作もしていない。
動画サイトも開いていないはずだった。
だが、モニターに映っているのは、明らかに――“動画”だった。
揺れる画面。
濡れたアスファルト。
照明の反射。
暗い空と、しとしとと降る雨。
画面の奥では、スマートフォンで撮影しているかのように、視点がゆっくりと歩いている。
(……住宅街……?)
不意に、背筋が冷たくなった。
そこは、知っている場所だった。
(……うちの、近所……?)
目が大きく見開かれた。
何度も何度も歩いた通学路。
角のコンビニ。カーブミラー。白いフェンス。
間違いない。
“それ”は、天音の家の方向へと、進んでいた。
「や、やめて……っ」
再生ボタンなんて押していない。
そもそも、こんな動画を保存した覚えもない。
なのに、画面の中では、ずっとずっと、雨の夜の風景が進んでいく。
じり、じり、じり、と。
まるで誰かが、今この瞬間、スマホで天音の家に向かっているかのように。
(……来てる。来てる、来てる、来てる!!)
直観が、脳を凍らせた。
これは“動画”なんかじゃない。
これは“リアルタイム”だ。
今まさに――あれが、うちに向かって歩いてきてる。
どくん、どくん、どくんと心臓が喉までせり上がる。
(どうすれば、どうすれば、止められる……!?)
天音は息を殺して、モニターを見つめ続けた。
画面の向こうでは、“誰かの視点”が――家の前の通りを曲がったところだった。
次は、うちの門が……映る。
その時、ドアの郵便口から“水音”が、ぴちゃり、と、聞こえた。
画面は止まっていた。
PCモニターの中――天音の家の玄関前で、カメラの視点はぴたりと静止している。
それは、動画のような“過去”ではなく、まるで今この瞬間を写している“窓”のようだった。
カーソルは動かない。
ウィンドウも閉じられない。
電源ボタンすら無反応だった。
「……うそ……っ」
呟いた声は震えていた。
背筋に、粘つくような冷気が這い上がっていく。
――ぴちゃ、ぴちゃ……
そのときだった。
廊下の奥から、水を踏みしめるような足音が聞こえた。
(きてる……!)
咄嗟に天音は立ち上がり、部屋のドアに走る。
カチャリと鍵をかけ、すぐさま照明を消す。
部屋は闇に沈み、唯一の明かりだったPCモニターも、ふとノイズを吐いて消えた。
(隠れなきゃ……っ)
息を殺しながら、天音はベッドの下に滑り込む。
埃っぽくて狭い空間。背中に感じるフレームの冷たさが、かえって安心感すら与える。
――ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……
足音が、近づいてくる。
廊下の先から、まっすぐこの部屋へ。
止まった。
(……まさか……)
ギィ……
軋む音。ドアがゆっくりと開いた。
天音の目は、ベッド下の隙間から外の様子を凝視していた。
部屋の奥から、誰かの“素足”がぬるりと現れる。
水気を含んだような肌。指先がひしゃげたように歪んで見える。
その足は、ぐるぐると室内を回り始めた。
机の前。窓際。本棚のあたり――そして。
ベッドの真横で、ぴたりと止まった。
(……見つかった……)
鼓動が暴れるように鳴る。
呼吸を止めても、胸の震えが止まらない。
静寂の中、何かがゆっくりと下りてくる。
天音の視界に、ひとすじの黒が垂れた。
濡れた髪の毛だった。
それが重力に従い、毛先から、するりと、床へと降りていく。
あと数秒で、顔が覗き込んでくる。
そのとき。
「ただいま~、天音?まだ起きてるー?」
玄関から響く、聞き慣れた母の声。
その瞬間、足音は止んだ。
髪の毛も、するりと消えた。
ベッド下に張りつめていた空気が、まるで嘘のように霧散する。
ゆっくりと這い出す天音。
静かな部屋。明かりはついていない。PCは真っ黒なまま。
ドアに近づいたとき、ドアノブに触れた指が、微かに濡れた。
開けると、廊下には――濡れた素足の足跡が、数歩だけ、残されていた。
「……っ」
息を詰めたまま、天音は廊下を見つめていた。
足跡は数歩分だけ、床に濡れた痕跡を残していたが、そこに“それ”の姿はなかった。
玄関の方から、袋の音やスリッパの擦れる音。
そして、ふと通る石鹸の香り。
(……ほんとに、お母さん……)
身体の奥に張りつめていた糸が、ゆるゆると緩んでいく。
震える足で、階段を下り、リビングへと向かった。
キッチンには、エプロン姿の母がいた。
スーパーの袋から野菜や卵を取り出し、まな板に手を伸ばしている。
「天音?おかえり、今日はご飯すぐできるからね」
何も知らない。
何も変わっていない。
それが、こんなにも心強い。
「……うん」
声はかすれていたけれど、自然と笑顔がこぼれていた。
***
食卓に並ぶのは、ハンバーグとポテトサラダ。
定番で、安心で、子どもの頃からずっと変わらない味。
「部活、最近頑張ってるんでしょ?明日も朝練あるの?」
「うん……まあ、うん」
箸を動かしながら、母は軽い調子で話す。
天音もそれに合わせて、他愛もない言葉を返す。
数時間前の恐怖が、まるで幻のようだった。
こうして話していると、本当に“日常”が戻ってきたような気がした。
「じゃ、ママ先にお風呂入ってくるね~」
食事を終え、母は軽くストレッチをしてからバスルームへと向かう。
リビングにひとり残された天音は、スマホを取り出した。
(……調べなきゃ。あれに勝つ方法……)
今度は“動画”ではなく、“現実”として検索する。
「お祓い」「霊障」「対処法」「水の霊」「濡れ女」「視た者」「助けて」
文字列は支離滅裂だったが、藁にもすがる思いでスクロールを繰り返す。
その中で、ふと目に留まった小さなページ。
《地元の祓所・一夜社 ※要予約》
《除霊・簡易清祓/現場対応可》
「……あった」
地図を開くと、家から歩いて20分ほどの場所にある神社だった。
天音は即座に予約フォームにアクセスし、明日の朝一番の予約を入れた。
(……見せられた未来の中に、“お祓い”してた世界は……なかった)
ひょっとしたら、それが答えなのかもしれない。
この手で選べる、“唯一違う道”なのかもしれない。
思考が落ち着くと、眠気が一気に押し寄せてきた。
スマホを充電器に差し込み、電気を消してベッドに潜り込む。
深呼吸をひとつ、ふたつ。
瞼が閉じる――
――その夜、天音は夢を見なかった。
翌朝、空は薄曇りだった。
昨夜の恐怖が嘘のように静かで、風もなく、雨の気配もない。
天音はカバンにお守り袋とスマホ、そして予約確認の画面を忍ばせて、家を出た。
通学路とは違う道を選んで、小さな神社へ向かう。
地図で見たとおり、住宅地のはずれにその神社はあった。
鬱蒼とした木々に囲まれた、こじんまりとした境内。
鳥居は少し傾きかけていたが、敷地内は掃き清められており、どこか温かさを感じた。
「こんにちは。雨宮天音さん、ですね?」
拝殿の前で出迎えてくれたのは、控えめな笑みを浮かべた中年の男性だった。
黒縁の眼鏡をかけ、清潔感のある作務衣を着ている。
「はい……あの、昨日予約した……」
「ええ、大丈夫ですよ。話は聞いてます。お気軽にどうぞ」
案内された社務所の奥には、和服を着た女性巫女と、奥から出てきた優しそうな女性が控えていた。
ご夫婦と、その娘さんらしい。どうやら家族で神社を支えているようだった。
「私は禰宜の荒木です。普段は会社勤めもしてまして……なにぶん兼業なんですよ、ははは」
そう笑いながらも、彼は天音の話を真剣に聞いてくれた。
どんな霊か、いつから視えるのか、どういう現象が起きているのか――
天音の震える声を遮ることも、否定することもなかった。
「……なるほど。水……濡れた女性……。継承……記憶……」
頷きながら、禰宜はメモを取り、時折真剣な表情で天音の目を見つめた。
「今すぐに完全な対処ができるとは限りません。けれど、こちらでも少し調べてみましょう。きちんと準備して、適切なお祓いができるようにします」
「……はい」
「今日は簡易的ですが、定例のお祓いと、念のためのお守りだけお渡しします。数日後、改めて来ていただけますか?」
――まともに話を、聞いてくれる。
ただ、それだけのことなのに。
天音の目に、自然と涙が滲んだ。
(わかってくれる人がいる……)
胸の奥に張りついていた、重く湿ったものが、少しだけほどけていく気がした。
***
それからの数日間、天音は学校を休んだ。
母には「体調が悪い」「熱っぽい」と嘘をついた。
罪悪感はあったが、それでも学校へ行く気にはなれなかった。
校舎に足を踏み入れるだけで、あの“視線”を感じてしまいそうで――怖かった。
代わりに家でじっと過ごす日々。
カーテンを閉めきり、テレビもつけず、ただ静かに、濡れた気配が現れないことを祈っていた。
不思議と、あの“彼女”は姿を見せなかった。
お祓いの効果なのか。
それとも、何かの猶予なのか。
それは、まだ天音にはわからなかった――。
朝の空は晴れていた。
蝉の声すら心地よく聞こえる――そんな、日常的で穏やかな夏の朝だった。
天音は白いワンピースに身を包み、前回より少しだけ軽やかな足取りで家を出た。
お守りは今日も首から下げ、鞄には神社で受け取った紙袋が入っている。
(あの人たち、また笑ってくれるかな)
濡れ女は、あれ以来一度も現れていない。
もしかしたら――本当に、助かったのかもしれない。
そう思える程度には、心は回復していた。
だが。
遠くに見えた鳥居の周囲に、赤と青の点滅が見えた時。
その希望は音を立てて崩れ落ちた。
「……え?」
近づくにつれて、それははっきりと現実になった。
黄色い規制線。
パトカーが数台。
立ち入り禁止のテープが、神社の鳥居に無遠慮に巻かれていた。
制服姿の警察官たちが、境内を囲むように立っている。
大きなカメラと書類を抱えた刑事らしき人影も数人。
天音の心臓が、跳ねるように脈打った。
(……嘘、でしょ……なんで……)
息を詰めながら、現場前まで歩み寄る。
警備をしていた若い警官に声をかけた。
「あ、あの……今日、この神社の方と約束してて……私、予約してたんです……」
警官は一瞬、戸惑った表情を浮かべた。
それから、「少し待っててくださいね」と言って、無線で何かを伝えた。
数分後。
神社の奥――境内の裏手から出てきたのは、天音にとって見慣れた背中だった。
「……大地、叔父さん……?」
「あまね……? お前、なんで……こんなところに……」
驚いた顔で、警視庁の制服を着た叔父・雨宮大地が歩み寄ってきた。
「なにしてるんだ、こんな現場で。……まさか、何か知ってるのか?」
「……違うの……わたし……先週、この神社で、お祓いをしてもらって……今日も、来るように言われて……」
天音の声はかすれ、震えていた。
語りながら、自然と涙がこぼれる。
大地は言葉を失い、沈黙のまま天音の顔を見つめた。
その瞳の奥が、徐々に冷えていくのがわかった。
しばらく沈黙が続いた後、大地は苦しげに口を開いた。
「……姉さんには、何も言わない。俺からも言わない。お前も言うな。いいな?……今日は、もう帰れ」
***
帰り道。
足元がふらつくのを必死にこらえながら、神社近くの住宅街を歩く。
そのとき、民家の門前で立ち話をしていた主婦たちの声が、風に乗って耳に届いた。
「一家全員だってね……」
「いい人たちだったのに」
「水場でもないのに溺死……不思議よね」
「死に顔が……もう、信じられないくらいだったって」
「ねぇ……あれって……祟り……?」
言葉が、突き刺さるように胸に突き刺さっていく。
天音はうつむいたまま走り出した。
何も聞こえないふりをして。
誰もいないふりをして。
家にたどり着き、靴も脱がずに布団に飛び込む。
息ができないほどに、涙があふれた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
布団の中、誰にも届かない小さな声で、天音はずっと――謝り続けた。
窓から差し込む光は、やけに白く眩しかった。
世界は変わらず回っていて、蝉は鳴き、朝の目覚ましが鳴り響いていた。
だが、その世界の中で、天音だけが――完全に色を失っていた。
「……行ってくる」
「ちょっと、あんた……顔色すっごい悪いわよ? 本当に大丈夫なの?」
台所から母の声が飛んでくる。
それに返す声は、絞り出すように乾いていた。
「……大丈夫。家にいる方が、つらいから」
靴を履き、扉を開けた瞬間、太陽の光に目が眩んだ。
だが、それでも天音は足を止めなかった。
(次は……お母さんかもしれない)
そう思った瞬間、家にとどまることなどできなかった。
自分の“呪い”が誰かを傷つけてしまう――その確信が、彼女を外へと押し出した。
(誰にも……もう、頼れない)
お祓いの神社は潰れた。
母にも言えない。言えば、きっと彼女も殺される。
(私が、誰かに話したり、近づいたりしたら……)
そのときだった。
(……澪……?)
立ち止まった。
記憶の奥から、あの雨の日の帰り道――
最初に“あれ”を見た時、隣にいた澪の顔がよみがえる。
(澪が、消えたのは……もしかして……)
胸の奥が凍りついた。
(……私の、せい?)
次の瞬間、頭を激しく横に振る。
(ちがう。私は……澪に“あの話”はしてない。何も……)
でも――確かに、見せてしまった。
一緒にいた。
あの時、“あの存在”を視界に入れたのは、紗英も同じだった。
(……まさか……!)
頭に浮かんだその名前と同時に、天音は足を踏み出していた。
階段を駆け降り、スニーカーがアスファルトを蹴る。
「紗英っ……!」
必死に走る。汗が背中を伝い、息が乱れる。
その背後――。
誰もいないはずの歩道に、“ぬらり”と広がる黒い液体。
水のようでいて、水ではない。
陰のようでいて、陰ではない。
それは地を這いながら、追いかけるように、静かに蠢いていた。
「っ――!」
扉を勢いよく開けて、教室へと飛び込んだ。
肩で息をしながら、荒く波打つ呼吸を押し殺す。
ざわ、と数人が天音を振り返る。
その中に――
「……紗英……」
窓際の席に、見慣れた横顔があった。
変わらない姿。
変わらない笑顔。
いつもと同じように、クラスメイトと他愛のない会話を交わしていた。
「あっ!おかえりー!」
紗英がこちらに手を振る。
屈託のない、明るい笑顔だった。
「休んでたと思ったら、すっごい元気に飛び込んで来るじゃん。なに、ヒロイン登場ってやつ?」
くすくすと笑い声を漏らす紗英に、思わず胸をなでおろす。
(……よかった……無事……)
張り詰めていた神経が、一気にほどけていく。
切らした息を整え、張りついた前髪を手で押さえながら、天音はもう一度その笑顔を見つめた。
その時だった。
――ぐにゃり。
笑っていた紗英の“顔”が、
まるで溶けた蝋のように、崩れ始めた。
目元が沈み込み、口角がねじれ、頬の皮膚が内側へめり込んでいく。
「……っ――な……に……っ」
声にならなかった。
その“顔”が、にたりと笑った。
元の笑顔を真似るように、筋肉を引き攣らせて。
その瞬間だった。
机が、ぐずぐずと音を立てて沈み始めた。
隣のクラスメイトの制服が、黒く染まり、水のように滴っていく。
床が、壁が、天井が。
教室全体が――黒い水に飲み込まれていく。
(なにこれ……なにこれ……やめて、やめて、やめて……っ)
声は出ない。喉が凍りついたようだった。
いつの間にか、誰もいなくなっていた。
正確には、“誰かだったもの”が、全て、液体のように崩れていた。
椅子も、黒い泥。
鞄も、黒い泥。
制服の袖に触れたものが、指先を濡らしていく。
視界のすべてが、黒く、湿り、重く、這いずっていた。
動けなかった。
もはや、悲鳴すら浮かばなかった。
(……あぁ、私は……もう……)
理解してしまった。
もう逃げられない。
誰も助けてくれない。
ここまでだったんだ、と。
その時。
ぬらり、と。
目の前の泥の海から、**“それ”**が顔を出した。
人間のような顔。
けれど、そうではない。
片目が落ち、口は耳元まで裂けていた。
皮膚は泡立ち、濡れ髪が泥水と共にゆらゆらと漂っている。
歪んだ口が、笑っていた。
音もなく、ただこちらを見て。
にたり、と。
――ぐちゃり。
何かが足元を這った。
ふと視線を落とすと、黒い泥が、足の甲に絡みついていた。
どろりとした温度。
生温かく、ぬめりとしたそれが、足首を、ふくらはぎを、太ももを――ゆっくりと、天音の身体を飲み込んでいく。
(……冷たい……でも、もう、いいや……)
もう、光はなかった。
天音の瞳から、意志が消えていった。
耳元で、“それ”が囁いたような気がした。
――「オまエ……で、終ワらせなイで」
その声が誰のものかさえ、もうわからなかった。
作品をお読み頂きありがとうございます。評価・感想など頂ければ創作の励みになりますのでよろしくお願いします。




