1章「雨の帰り道」
注意事項:この作品はホラー作品であり、物語の進行上倫理的に忌避すべき描写や残酷な表現が含まれる可能性がございます。留意の上読んで頂くようお願い致します。
1章「雨の帰り道」
「……っし、今日も終わりー!」
スタートの笛が鳴ってからどれくらい走っただろう。息を切らしてフィニッシュラインを駆け抜けた私は、グラウンドの端にしゃがみこんで呼吸を整えた。湿った夏の空気が喉にまとわりついて重い。雲はぶ厚く、日差しもなくなっていた。
「はぁ〜……しんど。もう無理。マジで今日は死ぬわ」
「はいはい、おつかれ〜。なんか天音、今日めっちゃ飛ばしてなかった?」
となりで同じように息を切らすのは紗英。全力で走った後は、二人して地面にぺたんと座り込み、タオルを頭からかぶってぐったり。
「大会近いし、ね。先生もめっちゃ張り切ってるし、こっちもやるしかないじゃん」
「ねー。でもあたしもう足パンパンなんだけど? 明日たぶん立てない」
「澪〜、大丈夫〜? 死んでない〜?」
少し離れた場所でストレッチをしていた澪が、無言で手を振る。
「先生さー、明日坂ダッシュ入れるって言ってたよ。聞いた?」
「うわ、マジ? え、それホントの話? 聞いてないし……」
「ほんとほんと。ガチだから覚悟しといて?」
「地獄……明日、学校来れないかも……」
三人でぼやきながらも笑いがこぼれる。
疲れてるのに、なんでこんな楽しいんだろ。
部活って、そういうところが好き。走ってる時はきついけど、終わったあとのこの空気が一番落ち着く。
練習が終わって部室で着替えを済ませた頃には、外はすっかり夕暮れ。空の色はどんよりと灰色で、いつの間にか細かい雨が降り始めていた。
部室の窓から見えるグラウンドには、まだポツポツとランニングをしている男子たちの姿。女子組はひと足先に荷物をまとめ、昇降口へと向かう。
「ほら、傘。持ってきてよかったね〜」
「うわ、マジ降ってるじゃん。あたし今日、天気予報外れたと思って油断してた〜」
「どんまい〜、紗英、私の傘入る?」
「入る入る〜! 天音、ありがと!」
傘を差し、三人で並んで校門を出る。
雨粒の音がコンクリートを叩く小さな音と、街灯の下で淡く揺れていた。
帰り道は、いつもと変わらない。坂を下って、コンビニをかすめて、川沿いの歩道へ。
話題はクラスの男子のこととか、先生の口癖のモノマネとか、しょうもないことばっかり。
でもその“しょうもなさ”が、今の私にはちょうどいい。
「ねぇさー、あのクラスの男子、絶対天音のこと好きだってば〜」
「は? なんでそうなんの。絶対ないし!」
「でもさ、前の廊下で声かけられてたじゃん? あれ絶対脈アリのやつ!」
「や、あれはただの筆箱貸してってだけだし……! ほんっとに紗英ってば〜!」
「ふふふ、天音照れてる〜」
わいわい笑い合いながら、スニーカーが濡れたアスファルトを踏みしめていく音がリズムを刻んでいく。
雨はやむ気配もなく、むしろ少しずつ強まっている気がした。
ちょっとだけ――ちょっとだけ、風が冷たいなって思った。
それはまだ、何も始まっていなかった。
でも、私の中のどこかがもう知っていた。
“この帰り道で、私の時間が変わってしまう”ことを。
坂を下りきった先にある交差点で、信号が赤に変わる。私たちは小さな屋根の下で雨を避けながら、スマホをいじったり、ペットボトルの水を回し飲みしたりして時間をつぶしてた。
「でさ、結局さ〜、誰がアンカーやるかでモメるより、タイム順で決める方がフェアじゃん?」
「それを言ったら、あたし予選落ちなんだけど……あ、わかったわかった、黙ります黙ります」
「ふふ、澪はタイムいいから余裕だよね〜」
紗英のからかいに、澪が小さく笑う。みんな濡れた前髪を気にしながら、でもどこか楽しそうだった。
ふと、私は首をすくめるようにして傘の中から顔を上げた。
なにか……気配。いや、視界の端になにか。
青信号に変わって、三人で横断歩道を渡る。渡り終えた先の歩道、道路沿いのガードレールと歩道のあいだ――
車止め用の丸い石のブロックに、誰かが座っていた。
女の人だった。
背を丸めて、ぴたりと動かない。
制服……だったような気がしたけど、傘も差さずにずぶ濡れで、長い髪が顔を覆っていた。
顔は……こっちを向いていなかった。後ろ姿しか見えない。でも、なにかがおかしい。
「……あれ?」
思わず立ち止まり、声がこぼれた。
紗英と澪が、私の視線を追って止まる。
「どした? 天音」
「……あそこ。あの人……なんか、変じゃない?」
私は道路の端にある、濡れた石に腰かけるその“人”を、傘越しに指さした。
「……え? どこに?」
紗英が首をかしげて、目を細める。
「そこ……ほら、あの、石のとこ……」
「いや、誰もいないけど」
「は?」
思わず声が上ずる。私はもう一度、傘を持つ手を握り直して、視線を固定する。
そこに、いる。
いるのに。確かに、あそこに女の人が――
「ほんとに見間違いじゃないの? なんか工事の看板とか?」
紗英の声が笑い混じりだったから、余計に私の心臓は冷たくなる。
「……そっか。そだね。……看板かも」
そう口にしながら、自分でもなにを言ってるかわからなかった。
指を差すことさえ、怖かった。なにか、越えちゃいけない一線を超えてしまいそうで。
私の言葉にふたりが納得してくれている間も、
雨の音の向こうで、“彼女”はまだ――そこに、座っていた。
背中を向けたまま。動かずに。まるで、こちらを見ていないふりをして。
いや、違う。
見えている。わかる。あの距離でも、あの姿勢でも。
“彼女”は、私のことだけを――見ている。
足は歩いているのに、意識がついてこない。
紗英の笑い声も、澪の歩幅も、いつもと同じなのに――どこか現実じゃないような、膜の中を歩いているみたいな、そんな感覚がずっと抜けない。
ガードレール沿いの歩道に打ちつける雨の音。濡れたアスファルトのにおい。肩に乗る水の重さ。
全部、肌には確かに触れているはずなのに、なぜか“地に足がついてない”感じがする。
私の目だけ、耳だけ、感覚だけがズレてる――そんな気がしてならなかった。
「……やっぱ、おかしかったよね、あれ」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた声は、すぐ雨に飲まれて消えていく。
「ん? なんか言った?」
「……ううん、なんでもない」
自分でもわかってる。
さっきの“女の人”の話を続けたくないのは、怖いからじゃない。
何かを“はっきりさせてしまう”のが怖いのだ。
いるはずのないものが、いた。
それを誰も見てないのに、自分だけが見てしまった。
その時点で、もうおかしい。間違ってる。逸れてる。
「ねぇさ、ほんとに見えなかったの? あそこにいた人」
気づけばまた、口にしていた。後悔しながらも、確かめたかった。
私はただの見間違いじゃないって、思ってしまったから。
「……天音、マジで? いなかったよ? あたしら、ふたりとも見てないし……」
「うん、でもさ……あそこに、誰かが――」
「……天音?」
澪の声が、すっと静まった。私の言葉が濁った理由を、敏感に察したような、そんな声音。
気づくと私は、口を噤んでいた。
言ってはいけない。わかってたのに、言いかけてしまった。
その瞬間、背筋に冷たいものが這いのぼった。
ぞくり、と寒気が走る。
背中に、誰かの視線を感じた。
振り向いてはいけない。
絶対に。
足を止めたくなる。確認したくなる。
でも、振り向いた瞬間に“見てしまう”気がした。
見てしまったら、もう戻れない。そう、確信していた。
「見間違いだったと思う。多分、なんか変な影とかだったんだよ、うん」
「天音……?」
「ほんとに、なんでもないってば。気にしないで」
できるだけ明るく笑った。顔が引きつってるのが自分でもわかった。
でも、ここで笑ってごまかさないと――本当に“おかしくなってしまいそう”だった。
遠ざかるその場。
視線は振り向けないのに、私の“背中”は、ずっと冷えたままだった。
歩道の脇、水たまりにうっすらと反射する自分たちの傘。
その傍に、もう一つ、“映ってはいけない影”が、確かにあった気がした。
動かなかった“女”の、後ろ姿が。
誰にも気づかれないまま、そこに、ずっと――。
話題はいつの間にか明日の練習メニューに戻っていた。
紗英が「明日寝坊したら天音のせいだから!」なんて笑ってて、澪もそれに乗っかって軽口を叩いてくれる。
でも、私は曖昧に笑うことしかできなかった。
目の前の二人は、いつもと変わらない。
だけど私は、もう戻れないところまで来てしまった気がしていた。
ガードレールに沿って歩道を進む。雨は細かく、風も強くない。ただ静かに降り続けている。
傘に当たる音と、靴裏が水たまりを踏む音。
それらに混じって、耳の奥の方でずっと、何かがざわついていた。
背中の感覚がずっと変だ。
あそこにいた“何か”が、まだそこにいて、私のことを――ずっと、見てるような。
振り返ってはいけない、って思った。
もう一度見たら、なにかが決まってしまう。
そんな気がして、怖くて、足が早まる。
「天音、ちょっと速くない? 何、トレーニング中?」
「えっ、あ……ごめん」
紗英に肩を叩かれて、やっと自分が歩調を崩していたことに気づく。
無理やり笑ってみせたけど、自分の中で何かがぎゅうっと締めつけられる感じがした。
後ろに、確かに“いる”。
でも見えないし、見たくない。
だけど――もしかしたら、もういないかもしれない。
そんなわけないのに、そんな風に思いたくなる。
一度だけ、確認したら、消えてるかもしれない。
そんな甘い希望が、頭の中にわいてきた。
――ダメ。
足が止まりそうになる。でも止まれない。止まったら、振り向いてしまいそうだから。
振り向いた瞬間に、あの背中が、こっちを向いている気がしてならなかった。
それだけは、絶対に見ちゃいけない。
ふと、横のアスファルトに目を落とす。
濡れた歩道に、三人分の影が薄く映っている。
……いや、四つ?
視界の端に、傘の外側――少し離れたところに、別の影が、にじむように滲んでいた。
おかしい。あんなところに誰もいなかった。
でも、そこに確かに“人の形”があった。
次の瞬間、車が通りすぎて、水たまりを派手に跳ね上げた。
その音に驚いたふりをして、私は影から目を逸らす。
「びっくりした〜! 最悪、足びしょびしょなんだけど!」
「っていうか天音、今日なんか様子おかしくない? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
自分でもわかってる。声が上ずって、嘘くさい。
でも、これ以上ふたりを巻き込みたくなかった。
この違和感は、私の中にだけあるべきで、
それを他人に渡したら、もっと怖いことが起きる気がして――
「……じゃ、あたしこっちだから。バイバイまた明日!」
紗英が手を振って、角を曲がっていった。
澪も別の方向へ。最後に「ちゃんと寝なよ」と笑って、遠ざかっていく。
一人になった。
急に雨の音が大きくなった気がした。傘を叩く水音が耳に刺さる。
もう誰もいない道の真ん中で、私はそっと立ち止まる。
背中――あたたかさの残っていた背中に、
ひやりとした、濡れた空気がぴたりと張りついた。
まだ、そこに“いる”。
私は、早足で歩き出した。走る寸前の速度で。
水たまりを踏む音だけが、ずっと、耳の奥で響いていた。
家のドアを開けた瞬間、むわっとした湿気が体にまとわりついた。
雨の日特有の、濡れたタオルみたいな空気。靴を脱いで上がりながら、「ただいま」と小さく呟いた。
返事はない。予想通りだった。
母は今日、夜勤。たしか明け方まで帰ってこない予定だったはず。
リビングの明かりはつけっぱなしになっていたけど、テレビも冷蔵庫も静かだった。
誰もいない部屋。なのに、誰かがいたような空気だけが残ってる感じがして、私はなんとなくリビングの端をちらりと見る。
――もちろん、何もない。
濡れた服が肌にまとわりついて気持ち悪い。
早くシャワーを浴びたくて、洗面所に向かう。脱衣所のドアを開けると、ふわりと湿った匂いが広がった。
ああ、換気扇つけっぱなしにするの忘れてたかな、なんて思いながら、タオルを取ろうとして――
ふと、足元に目がいった。
床に、水の跡。
それも、小さな“足跡”だった。
ちいさくて、細い。裸足の足跡。
洗面台の前から、まっすぐ脱衣所の隅に向かって、三歩、四歩……そこから先は、乾いて消えていた。
私は一瞬、そのまま固まった。
動こうとしても、足がまるで床に縫いとめられたみたいに動かなかった。
……いやいや、そんなバカな。
自分で入ってきた時に、濡れた足で踏んじゃったのかもしれない。靴下が少し濡れてたとか。
そう思って、無理やり自分を納得させようとする。
けれど、私はさっき――ちゃんとスリッパを履いて上がったはずだった。
しかも、その足跡の大きさは、どう見ても私のじゃない。
小さすぎる。……まるで、小学校低学年くらいの子どもの足のような。
「……やだ、なにそれ」
思わず呟いた声が震えてた。
でも、もう一度見ようとは思えなかった。
私はその場でタオルだけ掴んで、シャワーも浴びずに寝室に戻った。
部屋に入ってドアを閉めたとき、やっと心臓の音が自分の耳に戻ってきた。
ベッドに飛び込んで毛布をかぶる。スマホを手にして、とりあえずLINEを開いて、誰かと繋がっていたくて仕方がなかった。
でも、紗英にも澪にも、何を言えばいいのかわからない。
「足跡があった」って送ってどうなる。
「疲れてるんじゃない?」って、笑われて終わるだけ。
笑われたくないわけじゃない。
そう言われたら、私も笑って「そーだよね!」って返せる気がする。
でも、もし――もし本当に“笑って済ませられないこと”だったら?
スマホの画面がにじんで見えた。
あれ? なんで……濡れてる?
涙……じゃない。
画面の表面に、小さな水滴がぽつん、とついていた。
ぽたり。もう一つ、落ちた。
天井から? いや、天井にはそんなシミもない。雨漏りなんて聞いたことない。
ぞくっと、背中が冷えた。
もう一度、画面を見た。
ロック画面の反射に、私の顔がぼんやり映っていた。
その背後に――もうひとつ、“黒い影”のようなものが。
反射だったのか、目の錯覚だったのか。
私にはわからない。確認する勇気もなかった。
私はただ、毛布をかぶって目を閉じた。
耳をふさいでも、雨の音だけは、ずっと止まらなかった。
雨の音が、壁を越えて部屋に染み込んでくる。
毛布をかぶったまま、スマホを握りしめて何度も時計を確認する。
23時58分。たった数分のはずなのに、時間が溶けていくみたいに長く感じる。
暗い部屋の中、唯一の光源はスマホの画面。
SNSをなんとなくスクロールしてるけど、内容なんて頭に入ってこない。友達の投稿も、芸能人の写真も、今は全部うすぼんやりとしか見えなかった。
天井を見上げる。
さっき、水滴が落ちてきたあたりに目を凝らしてみるけど、当然なにもない。
天井はただの白。静かで、冷たくて、異常のない普通の天井。
……本当にそうだったっけ?
そんな疑念が頭に浮かびかけて、慌ててスマホに視線を戻す。
ポン、という小さな通知音が鳴った。
LINE。澪からだった。
『明日、雨やむといいね』
たったそれだけのメッセージ。でも、不思議と少し心がほぐれる。
“普通”がまだ続いていることを、誰かが証明してくれる気がして。
私は毛布から顔を出して、「うん、ほんとにね」と打ち返す。
既読がすぐに返ってきて、それだけで少し安心する。
目を閉じた。スマホは手元に置いたまま。
いつの間にかまぶたが重くなっていて、雨音が心地よい子守唄のように聞こえてきた。
まどろみの中、ふと――何か、遠くから呼ばれた気がした。
――あ……ま……
……今、なにか、言った?
うとうとしかけた意識が、一瞬で覚醒する。
目を開ける。部屋は真っ暗。カーテンは閉めてある。
耳を澄ます。聞こえるのは、雨の音だけ。
テレビもエアコンもつけていない。
……いや、ちがう。
さっきのは、声だった。はっきり、誰かの声が、耳元で――
――みつけて、くれたね……
心臓が一拍、止まった。
息が詰まって、喉が締めつけられる。
体が凍りついて動かない。
誰かの声。女の子の声。
ささやくような、でも、耳の奥に直接流れ込んでくるような。
静かなのに、鮮明すぎて、否定できない声だった。
「……う、そ、でしょ……」
声にならない声がこぼれる。
思わず手探りでスマホを握りしめて、画面をつける。
でもLINEも、SNSも、通知は何も来ていない。
画面に映るのは、さっきと変わらないホーム画面。
けれどその光が――
画面の奥に、もう一つ“影”のようなものを、ほんの一瞬だけ映し出した。
女の、後ろ姿。
私は反射的に、スマホを手から滑らせた。
ごつん、と床に落ちる軽い音。
それがやけに大きく響いた気がして、耳がキーンとなる。
スマホはベッドの端に転がった。画面が勝手に消えた。
私はそのまま、毛布を頭までかぶって、目を閉じた。
声も出せず、ただ、必死に何も聞こえないふりをするしかなかった。
背中にじっとりと冷たい汗がにじんでいた。
外の雨は、まだ止まなかった。
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