5話目
ロイの家に足を踏み入れると、そこは思っていたよりも温かみのある空間だった。居間の中央には、長年の使い込みで表面が滑らかになった木製のテーブルが据えられ、その周りには手作りらしい椅子が四脚並んでいる。壁際には素朴な本棚があり、革装丁の書物が数冊と、狩猟か解体に使うらしい道具類が整然と置かれていた。暖炉の煉瓦は煤で黒ずんでいるが、そこから伝わってくる温もりが部屋全体を包み込んでいる。
「剣の手入れをしてくる」
ロイはそう言い残すと、腰に下げた剣とは別に壁に掛けられた愛用の剣を手に取り、奥の部屋へと消えていった。残されたのは沢居とシエロ、そして台所で夕食の支度をするラーソの立てる心地よい音だけだった。
シエロは椅子に座ったまま、じっと沢居を見つめている。その赤い瞳には明らかな警戒心が宿っていた。気まずい沈黙が部屋を支配する。
「......で、お前は何者なんだ?」
ついにシエロが口を開いた。声には生意気さが滲んでいるが、それ以上に純粋な疑問も感じられる。
「沢居幸二。分かるのは名前だけ。記憶を失ってしまって、それしか覚えていないんだ。気がついたら森の中にいて、そこでロイさんに助けられた」
「サァーイ......変わった名前だな」
沢居の名前を口にしたシエロが、少し首をかしげる。やはり「沢居幸二」という音は、この世界の人間には発音しづらいらしい。相変わらず言葉自体は通じているようだが。
「それに記憶がない?そんなことが本当にあるんだな。どんな感覚なのか、想像もつかない」
シエロの声に疑問が混じる。この世界にはネットも義務教育もなさそうだから、記憶喪失という概念自体が馴染みのないものなのかもしれない。彼が奇妙に感じるのも無理はない。
「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったな。俺はシエロだ」
「沢居です。よろしく」
「......変な名前だけど、まあいいか」
そう言ってシエロは少し笑った。警戒心が和らいできたようだ。
最初は生意気な少年だと思っていたが、意外にも純朴そうだ。
話の流れを変えようと、沢居は今日見た光景を思い出した。
「さっき、とても勢いのある素振りをしていたね。剣士なのか?俺にはとても真似できそうにない」
素直に褒めると、シエロの表情がぱっと明るくなった。
「あぁ!父さんから教わってるんだ。まだまだだけど、いつかは父さんみたいな剣士になりたいんだ!」
警戒心はほとんど消え失せ、代わりに少年らしい輝きが瞳に宿る。印象通り、単純で素直な性格をしているようだった。
この時には沢居のシエロに対する好きになれそうにないという大人げない気持ちも、ほとんど薄れていた。
「でも、狩りには連れて行ってもらえないんだ。【流覇気】が少ししか使えないから」
シエロの声に悔しさが滲む。
「【流覇気】?」
「うーん......俺にも上手く説明できないけど、剣士として魔獣を狩ったりするには必須の力だよ。切れ味や力を底上げできる不思議な力で、父さんは使いこなしてる」
(ようやくファンタジーらしい設定が出てきた。この世界独特の力があるということか。)
沢居はロイが巨大な狼と戦った時や、その後に軽々と狼を肩に担いだことを思い出した。
「それって、魔法とは違うものなのか?」
「魔法?ああ、魔法もあるよ。火を出したり風を起こしたりできるんだ」
そのまま「まぁ、俺も一回しか見たことないけど。」とシエロ。
火を出す......本当にファンタジー世界なんだな。沢居は心の中で驚いた。
「魔法を使う人は魔法士って呼ぶんだけど、この辺りにはあまりいないんだ」
「そうなのか」
「あ、でもロンギンの奴も魔法が使えるとか…」
ロンギン…あの村長の息子、魔法が使えるのか。今日目をつけられてしまったようだが、大丈夫だろうか。少し不安になる。
台所からは相変わらずラーソが料理を作る音が聞こえてくる。鍋が火にかけられる音、野菜を刻む音、調味料を混ぜる音。そんな日常的な音に包まれながら、沢居たちは話を続けた。
時間が経つにつれ、台所からはより一層豊かな香りが漂ってきた。何かを炒める音、煮込む音、そして香辛料の香ばしい匂い。沢居の腹が小さく鳴る。
「あ......」
思わず腹を押さえると、シエロがクスッと笑った。
「腹空いてんだな。姉さんの料理は美味いから、楽しみにしてろよ」
それからさらにしばらく待った後、ようやくラーソの声が聞こえた。
「お待たせ」
振り返ると、彼女が湯気の立つ大きな皿を両手に持って現れた。香ばしい肉の匂いが鼻腔をくすぐり、思わず唾を飲み込む。そういえば、今日一日何も食べていなかった。
「お腹空いてたでしょう?」
シエロが得意げに言う。どうやら沢居の腹の音を聞いていたらしい。
ラーソは皿をテーブルに並べながら、優しく微笑みかけた。
「お待たせしてしまってごめんね。遠慮なく食べてね」
その美しい笑顔に、沢居は思わず顔を赤らめそうになる。それにしても、ラーソ一人に食事を作らせてしまった。手伝うことを申し出るべきだったかもしれない。手伝って何ができるかわからないが、今更ながら後悔する。
「すみません、手伝えばよかったのに......」
「大丈夫よ。あなたは今日初めてここに来たばかりだから」
肉の焼ける香ばしい匂いに誘われたのか、ロイが居間に戻ってきた。
「うまそうな匂いだな」
「お疲れさま、お父さん」
家族三人と沢居がテーブルを囲む。シエロは待ちきれないといった様子で、すでに料理に手を伸ばし始めていた。
一口目を口に含んだ瞬間、その美味しさに驚いた。肉は外側がパリッと香ばしく焼かれているのに、中はジューシーで柔らか。野草らしき香辛料の風味が絶妙に効いて、素朴ながらも深い味わいを醸し出している。付け合わせの野菜も甘みがあって、肉の旨味を引き立てている。きっと丁寧に時間をかけて調理されたのだろう。
これが異世界で初めて食べる料理だった。なんの肉なのだろう。日本で食べていたコンビニ弁当や冷凍食品とは全く違う、手作りの温かさが伝わってくる。こんなに美味しい家庭料理を食べるのは、一体いつ以来だろうか。
「美味しいです」
思わず声に出すと、ラーソが嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。この辺りで取れる食材ばかりなんだけど」
「記憶は戻りそうか?」
食事の途中で、ロイが静かに尋ねた。
「すみません、戻りそうにありません」
嘘をついていることに申し訳なさを感じる。もう別の世界から来たことを正直に話してもいいのかもしれない。だが、ここまで嘘をついてきたことを今更言うのも気が引ける。
「そうか。焦らなくて良い」
ロイは沢居の様子を見て勘違いしたのか、優しく頷いた。
「記憶がないって、本当に大変なことなのね」
ラーソが心配そうに声をかけてくる。沢居はこれまでの経緯を改めて説明した。
「大変ね......私にできることがあったら、何でも言って」
ラーソの申し出に、沢居は慌てて首を振った。
「こんなに美味しい食事を作っていただいているだけで十分です」
ラーソは嬉しそうに微笑む。その笑顔に、沢居は再び顔が熱くなるのを感じた。
「そうだ、ここがどこなのかもわからないのか?」
ロイが思い出したように尋ねる。
「はい、全然......」
「ここはカルンの村だ」
「カルン......」
聞いたことのない地名に、沢居は首をかしげた。まだヨーロッパのどこかの村という可能性もある。
沢居が考え込んでいると、ロイが続けて説明した。
「エルドラント王国の最西端にある開拓村だ。周りを囲んでいるのはヴェルドラ樹海という大きな森でな」
「エルドラント王国......。ヴェルドラ樹海......。」
全く聞いたことのない地名だ。異世界に来たということは確定したと言って良い。
「ああ。この森は王国の最西端に位置する未開拓領域だ。どこまで続いているかわからない」
続くロイの説明に、沢居は驚いた。未開拓領域がそんなに広大にあるなんて。
人工衛星の打ち上げに成功した人類文明に漬かりきった身からすると、途方もない話だった。
「森を横断して帰ってきた人は居ないんだぜ」と食事に夢中だったシエロが口を挟む。
「ああ。先がどうなっているかわからない未知の領域だ」
飛行機などが発明され、よく世界は狭くなった。と表現される。
まさしくそれだ。この世界は広そうだ。
「奥地には強力な魔獣が数多く生息している」
ロイが続けて説明する。
「魔獣......」
狼を沢居を思い出す。たしかフォレストウルフと呼ばれていた。
「ああ。サァ―イも見ただろう。普通の動物とは違う、危険な生き物だ。この村は森の浅い部分を切り開くための開拓村の一つでな」
開拓村。つまりここは辺境の最前線ということか。
「俺は時々、森の浅瀬にやってくる強力な魔獣を先回りして狩り、村の安全を守っている。まだフォレストウルフは甘い相手だ」
フォレストウルフが甘い相手という言葉に沢居は驚愕する。あの迫力…目があった時は死を覚悟した。
(それ以上のものを狩っているなんて…)
だからロイは村の人たちから尊敬されているのか。納得がいく。
そうこう話しているうちに食事を終え、夜が更けていく。沢居はロイやシエロと同じ寝室で眠ることになった。
簡素なベッドに横になると、窓から柔らかい月光が差し込んでくる。今日一日の出来事を振り返りながら、この異世界での新しい生活について思いを巡らせる。やがて疲労に包まれ、沢居は深い眠りについた。