4話目
村長との交渉が終わると、ロイはさっそく沢居を小屋に案内してくれた。村の外れに位置するその小屋は、他の家よりもかなり小さく、少し離れた場所に建っていた。
「昔、偏屈な婆さんが一人で暮らしていたんだ」
ロイが説明しながら、小屋の扉を開けた。
(一人暮らしのお婆さんか…)
沢居は複雑な気持ちになった。現代日本でも、一人で亡くなる高齢者の話をよく聞く。48年間生きてきて、自分もいずれはそうなるのだろうと思っていた。まさか、異世界でそんな人の後を継ぐことになるとは。
辺りはすっかり夕暮れに染まっていた。オレンジ色の光が小屋の中を薄っすらと照らしている。ベッドやタンスなどの基本的な家具は残っているものの、中は煤や埃まみれで、すぐには住めそうにない状況だった。
(掃除が大変そうだな)
SEとして長年働いてきた沢居は、効率的な作業の段取りを考える癖がついている。まず埃を払って、床を掃いて、家具を拭いて…と頭の中で手順を組み立てていた。
「これは…今晩は無理そうだな」
ロイが苦笑いを浮かべた。
「今晩だけは俺の家に泊まれ」
「え、でも…」
(さらに迷惑をかけることになる)
沢居は恐縮した。既に十分すぎるほど世話になっているのに、宿まで提供してもらうなんて。48年間、人に頼らず生きてきた自分にとって、これほど人の好意に甘えるのは初めての経験だった。
「ありがとうございます。本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げる沢居を見て、ロイは困ったような表情を浮かべた。
「そんなに気にするな。困ったときはお互い様だ」
(お互い様…俺がこの人に何をしてあげられるんだろう)
今の沢居には、ロイに返せるものが何もない。記憶喪失の15歳という設定では、特別な技能があることも示せない。もどかしい気持ちでいっぱいだった。
ロイの家に戻ると、ブンブンと何か空気を裂くような音が聞こえてきた。裏手からのようだ。
(この音…聞いたことがある)
沢居は記憶を辿った。子供の頃、近所の空き地で棒切れを振り回して遊んだときの音に似ている。まるで素振りをする音のようだった。
裏手へ回るロイについて行くと、そこではシエロが木刀のようなものを勢いよく振り回していた。剣を踏み込みと同時に右斜めから振り下ろし、下がりながら振り上げ、再び踏み込みと同時に左斜めから振り下ろす。それをひたすら繰り返している。
(剣道の素振りに似てるな)
高校生の頃、剣道部の稽古を何回か見かけたことがあった。あの時と似たような動きだ。ただし、シエロの動きはより実戦的で、剣道のような型にはまった美しさよりも、実際に敵を倒すための効率性を重視しているように見えた。
(この世界では、剣術は生死に関わる技術なんだな)
現代日本の武道とは根本的に目的が違う。スポーツや精神修養ではなく、本当に命をかけた戦いのための技術。15歳の少年が、これほど真剣に練習する理由も理解できる。
シエロは気づいて素振りをやめ、汗を拭った。
「なんだよ、まだ陰気そうなそいつ連れてんのかよ」
(陰気そう…)
沢居の口元が引きつった。確かに、現代日本にいた頃の自分は、職場でも陰気で暗い人間だと思われていただろう。SEという職業柄、一人でコードに向き合う時間が多く、コミュニケーションも苦手だった。48年間かけて染み付いた雰囲気は、若返った外見でも隠せないのかもしれない。
子供の発言とはいえ、好きにはなれそうになかった。しかし、シエロの立場も理解できる。いきなり現れた正体不明の少年が、父親の注意を奪っていく。警戒するのは当然だ。
ロイはシエロのボヤキを無視し、基本がなっていない部分を軽い調子で二つほど指摘した。
「足の位置がずれてる。それと、剣を振り下ろす時の角度が甘い」
沢居は感心した。ロイの指摘は簡潔で具体的。きっと剣術の達人なのだろう。先ほどの魔獣との戦いを思い出すと、その実力は疑いようがない。
「そんなことより、早く魔獣と戦いてえ」
シエロがぼやいた。
「まだお前には早い」
ロイがいさめる。
「あれのことかよ。達人になってから戦えってのか」
シエロは無言で汗を拭いながら、不満そうにつぶやいた。
(あれってなんだ?)
沢居の興味が惹かれた。シエロが言う「あれ」とは何のことだろう。今日のフォレストウルフよりも危険な魔獣がいるのだろうか。それとも、別の何かを指しているのか。
ロイはシエロのボヤキを無視し、話題を変えた。
「狼は吊るせたのか?」
「やっといた」
シエロが答える。
「父さんの血抜き。また甘かったぜ」
(血抜き?)
沢居には馴染みのない言葉だった。現代日本では、食肉処理は専門業者が行う。一般人が動物を解体することなど、ほとんどない。この世界では、狩った獲物を自分で処理するのが当たり前なのだろう。
「首と手を切ったから大丈夫だと思ったんだが…」
ロイが頭を掻いた。
「まあ、明日の朝解体しよう」
(解体…見学させてもらえるだろうか)
SEとして働いていた沢居には、食肉処理の知識はない。でも、この世界で生きていくなら、そういった基本的な技術も覚える必要があるかもしれない。記憶喪失の設定なら、知らないことがあっても不自然ではない。
裏手から正面へ回る一同。シエロは再び沢居を指差した。
「まだこいつ居んのかよ」
ロイがサラッと答える。
「泊まることになった」
沢居はペコリとシエロへ会釈した。せめて礼儀正しく振る舞おうと思ったのだ。
「はぁ!?」
シエロが騒ぎ出そうとしたその時、夕日の中に一人の女性が家の前に現れた。
「あら、お客様ですか?」
鈴の音のような清らかな声が響いた。
沢居が目線を向けると、夕日に照らされた赤い髪を持つ美しい女性がいた。ロイやシエロと同じ赤い髪だが、女性らしい柔らかさがあり、夕日に輝いて見える。整った顔立ちに優しい表情を浮かべ、まるで絵画から抜け出してきたような美しさだった。
(す…すごい美人だ…)
沢居は思わず見惚れてポカンとしてしまった。48年間生きてきて、これほど美しい女性を間近で見たことがない。現代日本でも、雑誌やテレビで美人を見ることはあったが、実際に目の前にいるとこれほど圧倒されるものなのか。
「まあな、今晩は泊めることになった」
ロイが答える。
「よろしくお願いします」
沢居は慌てて会釈した。見惚れていたことを隠そうとしたが、うまくいかない。48年間、女性との交流が少なかった自分には、こういう状況での振る舞い方がわからない。
「姉ちゃんはモテるから、お前なんか相手にされないぜ」
シエロが意地悪そうに言った。
(見透かされてる…)
沢居は恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じた。15歳の外見なら、美しい女性に見惚れるのは自然なことかもしれない。でも、中身は48歳。こんな風に動揺している自分が情けなかった。
(姉ちゃん…ということは、この人がラーソという教会に行っていたシエロの姉か)
家族構成が少し見えてきた。ロイ、その息子のシエロ、そして姉のラーソ。となると、ロイの妻はどうしたのだろうか。亡くなったのか、それとも別の理由があるのか。
ラーソは困ったように微笑みながら、弟の失礼を沢居に詫びた。
「ごめんなさいね。弟が失礼なことを言って。でも、根は良い子なの。仲良くしてあげて」
(優しい人だ…)
その気遣いに、沢居の心は温かくなった。シエロの意地悪な発言を咎めるでもなく、かといって沢居を傷つけるでもなく、上手に場を収めようとしている。
だが、それを聞いたシエロは後ろで「コイツなんかと仲良くするわけないだろ」とぼやいていた。
「つまらないものしか作れませんが、お夕飯の準備をします」
「新しいのを狩ってきた。前の肉を沢山使ってくれ」
「ええ」
ソーラは3人の前を横切り、家へ入っていった。
(この家族は…)
沢居は複雑な気持ちになった。ロイの親切、シエロの警戒、ラーソの優しさ。それぞれが自然で、温かい家族の雰囲気がある。48年間、ほとんど家族らしい家族を持たなかった沢居にとって、これは新鮮な体験だった。
同時に、自分がこの温かい輪に割り込んでいることへの申し訳なさも感じる。シエロの警戒は理解できるし、ソーラの優しさも彼女の人柄であって、自分に特別な感情があるわけではない。
たった一晩でも、こんな温かい家庭の雰囲気を味わえるなんて。異世界に来たことの、数少ない良い面なのかもしれない。
夕日が地平線に沈みかけ、空がオレンジ色から紫色に変わっていく。この異世界での最初の夜が、まもなく始まろうとしていた。