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2話目

 沢居は木の陰に身を寄せ、息を殺していた。鳴き声の主がついに姿を現した時、彼は自分の目を疑った。

 それは狼だった。しかし、普通の狼ではない。沢居は小学校の遠足で動物園のホッキョクグマを見たことがある。その狼の体長は優に3メートルを超え、肩の高さは、まさにホッキョクグマに匹敵するほどだった。漆黒の毛に覆われた巨体は、太古の時代に存在したというダイアウルフを彷彿とさせた。


 巨大な狼は、何かを探すように鼻を鳴らしながら辺りを見回していた。獲物の匂いを見失ったのだろうか。その動きには知性が感じられ、単なる野獣以上の何かを思わせた。


 沢居は身体を木にぴったりと付け、動くことすらできなかった。心臓の鼓動が激しく、相手に聞こえてしまうのではないかと不安になる。冷たい汗が背中を流れ落ちた。

 その時、狼が突然動きを止めた。そして、ゆっくりと沢居が隠れている方向に顔を向ける。

 金色に光る瞳と目が合った瞬間、沢居の全身に恐怖が走った。見つかった。


 しかし、狼が動き出そうとしたその時、別の木陰から人影が飛び出した。


「はっ!」


 鋭い気合いと共に、その人物は狼の右前足に向かって剣を振り下ろした。信じられないほどの速度だった。沢居の目には、剣の軌跡すら見えなかった。


「ガオォォォ!」


 狼の叫び声が森に響く。切り落とされた前足から血が噴き出し、狼はよろめいた。痛みで反射的に口を大きく開け、何かを吐き出した。それは風のような、刃のような、見えない何かだった。鎌鼬という言葉が沢居の頭に浮かんだ。


 既に剣士は離脱していたため、狼の攻撃は空を切った。見えない刃は剣士の背後の木々を襲い、太い幹が何本もなぎ倒されていく音が響いた。

 剣士は西洋人風の顔立ちをした男だった。彫りの深い顔に無精ひげを生やした30代前半ほで、赤い髪と瞳。くすんだ茶色の皮製胸当てを身につけている。下半身は軽装で、動きやすさを重視した格好だった。


「バキバキバキ!」


 木が倒れる轟音の中、狼は切られた前足を持ち上げ、剣士を睨みつけた。剣士も構えを取り直し、両者はしばらく睨み合った。

 森が静寂に包まれる。聞こえるのは、狼の傷口から「タパタパタパ...」と滴り落ちる血の音だけだった。


「タパタパタパ...」


 張り詰めた弦のような時間。やがて狼が先に動いた。残った3本の足で地面を蹴り、剣士に向かって突進する。しかし剣士は冷静だった。狼の攻撃を最小限の動きで避け、同時に剣を狼の首筋に向かって振り上げた。


 一瞬の出来事だった。


 狼の首が宙に舞い、巨体が地面に崩れ落ちる。血しぶきが辺りの草木を染めた。

 沢居は呆然としてその光景を見つめていた。現実離れした戦いに、言葉も出なかった。


「そこにいるのは分かってる。出てきな」


 剣士の声が響いた。沢居に向かって話しかけているのは明らかだった。

 沢居は恐る恐る草陰から立ち上がった。剣士の目は鋭く、まだ戦いの興奮が残っているようだった。


「すまない、まだ殺気立ってる。戦ったばかりでな」


 剣士は血振りをし、剣を鞘に納めながら言った。先ほどまでの鋭い雰囲気が少し和らいだ。


「あんた、こんな森の奥でどうしてる?この辺りは危険な魔獣が多いんだぞ」


 沢居が口を開こうとした時、自分の声に違和感を覚えた。声が高い。まるで若い頃の声のようだった。


「魔獣...?」


 首をかしげる沢居を見て、剣士は眉をひそめた。


「随分と若いな。いくつだ? 見た目は15、6歳といったところか」


「え...?」


 沢居は困惑した。自分は48歳のはずだ。しかし確かに、声は若返っているように感じられる。


「記憶が...よく覚えていないんです。気がついたらここにいて」


 とっさに記憶喪失を装うことにした。この状況を正直に説明しても、信じてもらえるとは思えなかった。


「記憶喪失か。災難だな。それにしても珍しい顔立ちだ。黒い髪に黒い瞳...どこか東の方の血が混じってるのかもしれん」


 剣士は沢居を興味深そうに見つめた。


「俺はロイだ。元傭兵で、今は狩人をやってる」


「サワイ・コウジです」


「サァーイ・コージ...?変わった名前だな。やはり東の方の出身か?」


 ロイは沢居の名前を上手く発音できないようだった。この世界では日本語の音が珍しいのかもしれない。


「それも...覚えていないんです」


「そうか。とりあえず、こんな場所にいても危険だ。俺の村まで案内してやる。そこで記憶が戻るかもしれない」


 ロイは親切にも案内を申し出てくれた。そして、倒れた巨大な狼に向かって歩いて行く。


「ちょっと待ってろ。こいつを持って帰らないと」


 ロイは狼の巨体を軽々と肩に担ぎ上げた。3メートルを超える狼を一人で持ち上げる光景は、あまりにもシュールだった。


「え...それ、持って帰るんですか?」


 沢居は目を丸くした。


「当然だ。こいつの毛皮も肉も、村にとっては貴重な資源だからな。魔獣の素材は高く売れる」


 ロイは狼を担いだまま、まるで軽い荷物でも持っているかのように歩き始めた。その異常な光景に、沢居はさらに混乱した。


「すごい力ですね...」


「ん?ああ、狩人は力がないと務まらないからな」


 二人は森の中を歩き始めた。ロイが巨大な狼を担いで先頭を歩き、沢居がその後を追う。

 歩きながら、沢居は様々なことを考えていた。まず、自分の身体に何かが起きている。声が若返り、ロイには15、6歳に見えると言われた。鏡がないので確認できないが、もしかすると本当に若返っているのかもしれない。

 そして、ここは確実に日本ではない。ロイの西洋人風の顔立ちや装備、そして先ほどの巨大な狼、いや魔獣と呼ばれた生き物。どれも現代日本には存在しないものばかりだった。

 言葉が通じるということも不思議だった。ロイは明らかに日本語以外の言語を話しているはずなのに、沢居には完璧に理解できる。まるで自動翻訳でもされているかのようだった。


「なあ、サァーイ」


ロイが振り返った。巨大な狼を担いだまま振り返る姿は、なんとも言えない絵面だった。


「はい」


「記憶がないって言ったが、俺の言葉は分かるんだな?」


「ええ、不思議ですが...」


「ふむ。頭を打ったりしたか?」


「それも覚えていません」


 ロイは納得したように頷いた。沢居は内心ほっとした。


「村はまだ遠いんですか?」


「そうだな、このペースだと昼過ぎには着くだろう」


 ロイは太陽の位置を確認しながら答えた。巨大な狼を担いでいるにも関わらず、その歩みは軽やかだった。

 沢居は、この新しい世界での生活に一歩を踏み出した。若返った身体で始まる第二の人生。それがどんなものになるのか、まだ想像もつかなかった。

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